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***
「アマリアが、出仕していない…?」
朝から、ギリアンとセルバンテスと面談する為の時間調整に動いていたランドールは、王宮の補佐官執務室で、顔色をなくしたアレクシスから報告を受けて、立ち竦んだ。
「どう言う事だ?」
「正確には、城門は通っております。その後の足取りが、掴めておりません」
「城内で姿を消したと言うのか?」
「アマリアさんは、少々、方向音痴の気がありますから、初めて出仕する補佐官室まで辿り着けないでいるのかと思ったのですが、侍女控室にも顔を出していないそうで」
ランドールは無言で踵を返す。
「殿下、どちらへ」
「城門を封鎖する」
「殿下?!」
「これは、拉致だぞ。アマリアの身を連れ出されては、追えなくなる」
焦燥に駆られたランドールが、厳しい表情で速足に王宮を行く姿を、すれ違う人々が、何事かと伺った。
「…昨夜のうちに、魔法陣を完成させておくべきだった。こう言う時に必要なものだと言うのに…!」
苦く吐き出すランドールに、アレクシスは言葉もない。
そこに、王宮に来る事など滅多にないエイダの姿を確認して、ランドールは足を止める。
「エイダ、何故ここに」
「お兄様に、ご報告がありますの。お兄様の想い人は今、殿方と密会中ですわよ。お兄様に求婚された翌日に殿方に会うなんて、やはり、騙されていらっしゃるのです」
笑みを浮かべ、胸を張って告げ口をするエイダにちらりと視線を遣って、ランドールは激高を表さないように、声を抑えた。
出仕していないアマリア。
得意気なエイダ。
単独犯なのか、チートス絡みなのかは判らないが、エイダの関与を疑わない、と言う選択肢は、今のランドールにはない。
「何処で、見たのだ」
「中庭の温室ですわ」
「…そうか」
そのまま、歩き出すランドールに、エイダが追い縋る。
「どちらにいらっしゃるの?!」
「城門だ」
「城門?温室で、現場を押さえるのではないのですか」
「アマリアを連れ出されてからでは遅いからな。先手を打つ」
「お兄様を裏切っている女ですのよっ」
「…さて、どうだろうな」
いつでも、兄と慕って後をついて歩いていたエイダ。
可愛い妹だった。
自分が教えられる事であれば、何でも教えてやりたいと思っていた。
それは、ユリアスも、四人の従姉妹達も、国王夫妻も、両親も、同じだったと思う。
年の離れた末娘として、少々甘やかした覚えはあるが、それでも、人を思いやる事の大切さは、王族の職務とは関係なく、人として大事だと折に触れて伝えてきたつもりだった。
そう、つもりだった。
一方的に、伝わっていると思い込んで満足していたと言う事なのだろう。
「今から、ここを封鎖する」
城門に辿り着いたランドールが、門衛に告げると、一瞬、ぽかんとした門衛が、慌てて城門を閉め始めた。
ランドールは衛士に指示して、これから城内に入ろうとしている人々への説明を頼むと、改めて門衛を振り返る。
「例え、他国からの来賓であろうと、私の許可が下りるまでは何方も外に出さないように。所在不明の者がいるのだ。城内で拉致された可能性がある」
ランドールの厳しい顔に、門衛達が顔を見合わせて頷くと、直立不動で城内に鋭い視線を向け、城門を守るように姿勢を改めた。
「お任せ下さい、ランドール殿下。何人たりともお通し致しません」
「頼んだ」
ランドールの指示を蒼白な顔で聞いていたエイダが、じりじりと後退るのを、鋭い視線の一瞥で留め置いて、ランドールはエイダの腕を掴む。
「お、お兄様?」
「温室だったか」
そのまま、身長差から半ば引きずるようにぐいぐいと引っ張って、温室へと大股で歩いていく後を、アレクシスが慌てて追った。
気持ちの焦りから駆け出したいのを、辛うじてエイダと言う重しを持つ事で抑え込む。
例え、ランドール個人として叫び出したい程の苛立ちがあったとしても、王族のランドール・クレス・ロイスワルズである事を求められる王宮で、そのような姿を見せるわけにはいかない。
本当ならば、従妹とは言え、女性を引きずるようにしている姿も見せるべきではないが、気を抜くとエイダへの罵声が溢れ出してしまいそうな今は、そこまで冷静に行動する事は出来なかった。
「アマリア?!いるのか?!」
温室の硝子扉を開けると、確かに人の気配がする。
エイダの腕を離し、奥に足を踏み入れようとした所で、壮年の男性の声がランドールを迎えた。
「おや、思ったよりも遅かったな、ランドール殿」
「レナルド陛下…!」
予想通りの姿に、ランドールが息を飲む。
やはり、チートスは、レナルドは、アマリアを狙っていたのか。
「陛下、私の婚約者をご存知ありませんか」
憤りと焦りから震えそうな声を、必死に抑え込んで問うと、レナルドは片眉を上げて答えた。
「婚約者?貴殿に婚約者がいたとは初耳だ」
「アマリア・トゥランジア伯爵令嬢は、私の婚約者です」
「婚約者候補の間違いだな。まだ、婚約は調っておらんだろう?」
「本日、書面が調う所だったのです」
「なるほど。そうであったか。だが、それはまだ、婚約者ではない、と言う事だ」
「…!」
怒りの余り、レナルドの胸倉を掴もうとした、のだと思う。
確かにレナルドの元に駆け寄った筈なのに、先程と二人の距離が変わらずに驚愕すると、レナルドが低く笑った。
「完全に頭に血が上っているな。それでは、魔術を使った戦闘に勝てるわけもない」
「魔術で…何かなさったのですか」
「チートスは魔術大国。王族の男子は皆、守護石を身に着けている。そのように悪意に満ちた拳が、私に届くわけがなかろう」
これが、本来の守護石の使い方なのだ、と、レナルドが何でもない事のように言う。
「攻撃の魔法石にぶつけて威力を相殺させる等、そのような使い方をした者はいなかっただろう。本来、守護石は身に着けた者を護る為のものなのだから。我が身の安全よりも、優先する命が他にあるとは、王族の発想ではない」
「そのお陰で、私はここにいるのです。チートス国民の攻撃を受けた、この私が」
レナルドに当て擦るように言うと、彼は口端を片方上げる。
「アマリアは、優しいな」
想い人の名を呼び捨てられて、ランドールの目に剣呑とした光が浮かぶのを、レナルドは面白そうに見遣った。
「あぁ、先程のような真似は、二度としないように。私の周囲に、悪意を持ったまま、近づく事は出来ない。すなわち、アマリアを取り戻すのは不可能と言う事だ」
「…アマリアは、無事なのですか」
問うと、レナルドは己の背後を振り返る。
「アマリア、ランドール殿がそなたを心配しているようだ」
その声に呼ばれるように、アマリアが顔を覗かせ、ランドールの顔を見て驚いて目を見開いた。
何か話しているように口をぱくぱくと動かしているのだが、その音が届かない。
また、声が聞こえなくなったのか、それもよりによってアマリアの声が、と思った瞬間、ぶわっと汗が吹き出し、じっとりとランドールの背中を濡らす。
「何故…」
声が震えるのは、仕方がないだろう。
アマリアの顔にも、焦燥が浮かぶ。
二人の様子を見ていたレナルドが、思い出したように左手中指にはめた指輪の石に触れると、漸く、アマリアの声が届いた。
「ランドール殿下…っ」
「アマリア、無事だったか」
ホッと息を吐くと、アマリアもまた、安心したように微笑んだ。
「これも、魔術だと言うのですか」
どのような魔術かは不明だが、お互いの声が届かないようにされていたのだと気づいて、ランドールがレナルドを鋭く睨みつける。
だが、悔しい事に、チートス程の魔術大国に対抗する術を、ランドールは持っていない。
全身でレナルドを警戒しているランドールを見て、アマリアが気遣うようにレナルドを見上げた。
「陛下、ランドール殿下とお話する機会を下さいませ」
「アマリア…?」
レナルド側に立つような言葉に聞こえ、ランドールが呆然とアマリアの名を呼ぶ。
後ろで、エイダが動く気配を感じた。
「お、お兄様!わたくしがお話した通りでございましょう?ここで密会していたのですわっ」
アマリアはエイダに視線を遣って、困ったように首を傾げる。
「…ランドール殿下、父とセルバンテス様のお時間を作って頂けますか。全ては誤解から始まっております。誰もが皆、誰かを想って行動していただけなのです」
アマリアの声に、ランドールは次第に平常心を取り戻していった。
彼女の、女性の中では低い落ち着いた声は、全ての音が聞こえる今も、ランドールにとって最も心地良く響く。
嵐のように吹き荒れていた心の中の風が、次第に凪いで来た。
チートスとの繋がりに不安を抱いていたアマリアが、これだけ落ち着いていると言う事は、事態は想定より悪いものではない。
レナルドは少し考えるような顔をしていたが、アマリアの不安そうな顔を見て、鷹揚に頷く。
話し合いに応じる、と言う事だ。
「…判った。直ぐに呼び寄せよう。レナルド陛下、場所はこちらでよろしいですか?」
「ずらずらと移動して、人目を引くのは本意ではないだろう?」
「ご配慮感謝致します。アレクシス、トゥランジア伯とセルバンテスを呼んでくれ」
「承知致しました」
アレクシスが温室を去ると、残されたのはレナルド、ランドール、アマリア、そして、エイダの四人のみ。
レナルドが、冷たい眼差しをエイダに向ける。
「何故、私がここにいるのか、アマリアを攫うのではないかと危惧しているようだが、そんな事よりも、重大な問題がある。ロイスワルズの末姫は、従兄に横恋慕した挙句、その想い人を害そうと考えたようだ。そこの姫は、アマリアをそなたの名で温室に呼び出し、男に襲わせようとしていた」
「な…っ」
驚愕したランドールが、憂いを帯びたアマリアの顔を見た。
続いて、怯えて震えるエイダの顔に確信を抱く。
「ち、違…っ、わたくしは、その女が他の男といる姿を見せたかっただけで…っ」
言い募るエイダを睨みつけ、アマリアにそっと問うた。
「アマリア…大丈夫なのか」
「はい…レナルド陛下に、助けて頂きました」
顔色は青白いが、しっかりとした声に、ランドールは唇を噛む。
まさか、エイダがそこまで思い切った行動を取るとは、想像もしていなかった。
アマリアに直接、手を出そうとするとは。
城門の閉鎖よりも先に、温室に駆け付けるべきだった。
「ランドール殿、この始末はどうつけるのだ?」
「――…返す言葉もございません。エイダの事は、イアン陛下と相談して今後、考えて参ります」
ランドールの言葉に、エイダは、自分が切り捨てられようとしている事に漸く気づいたのだろう。
膝から力が抜けて、呆然と地面に蹲る。
「エイダ殿下」
アマリアが駆け寄ろうとするのを、レナルドが腕を掴んで止め、
「そなたは、判っているのか。この娘は、従兄を手に入れる為に、そなたの排除を目論んだのだぞ」
と、厳しい声で告げた。
「判って、いるつもりでございます。けれど、目の前で苦しんでいる方を放っておく事は出来ません」
アマリアの言葉に、レナルドは、凛々しい眉を下げて困ったように笑う。
「あぁ、そなたは本当に、母親に似ているな」
レナルドの言葉を聞いて、ランドールもまた、レナルドの目的はやはり、エミリアであった事を確信した。
「殿下…!」
慌てたように温室に駆け込んで来たギリアンとセルバンテスが、レナルドの姿を見て、ハッと姿勢を正し、深く礼を取る。
アレクシスが、蹲ったままのエイダの傍についたのを見て、アマリアはホッと安心して息を吐いた。
「アマリア…」
ギリアンの口から娘の名が、思わず、と言ったように零れると、レナルドは、ギリアンの顔を見て、凄絶な笑みを浮かべる。
「そなたが、ギリアン・トゥランジアか」
「仰せの通りにございます、レナルド陛下」
「エミリアの、夫となった男か」
「左様にございます」
レナルドは一瞬、目を閉じて天を見上げ、王の風格そのままに、吠えるように怒鳴りつけた。
「何故、エミリアを護れなかった…!」
「陛下」
慌てたように、アマリアがレナルドに呼び掛ける。
陛下、と尊称で呼んでいても、その様子は身分の高い相手に接するものよりも親し気に見えて、ギリアンが眉を寄せると、アマリアは続けて、レナルドに訴えた。
「母が亡くなったのは、産褥によってです。父は何も悪くありません。悪いのは、わたくしなのです」
「な、何を言うアマリア。赤子だったお前に、何の非があると言うのだ」
目を見開いて否定するギリアンに、アマリアは緩く首を振る。
「私は、随分と大きく育って生まれたと聞きました。ですから、お母様はお産に耐えられなかったと」
「それは違う、アマリア。エミリアは元々、体が弱かった。子供を産むのは命の危険があると判っていた上で、お前を望んだのだ」
その言葉を聞いて、レナルドが眉を吊り上げた後、両手で顔を覆って俯いた。
「だから…だから、早くに見つけてやりたかったのに…っ」
慟哭のような叫びに、ランドールを始め、ギリアンもセルバンテスも、驚いてレナルドを見つめる。
アマリアだけが、事情を判っているように痛ましげな顔をして、そっと彼の背をさすっていた。
「…陛下」
「あぁ…取り乱したな」
一気に十も老け込んだように見えるレナルドは、ふぅ、と深い溜息を吐いて、温室に据えられた錬鉄の卓と椅子を指し示す。
「私の城ではないが、腰を掛けなさい。長い話になりそうだ」
レナルドは言いながら椅子に腰を下ろし、丸い卓を挟んでその正面にギリアン、隣席にセルバンテスが掛ける。
ランドールは、ギリアンとレナルドの間。アマリアを隣に座らせたかったが、レナルドがそれを許さなかった。
「ギリアン・トゥランジア。そなたは今日、アマリアとランドール殿に、エミリアの話をする予定だったのだろう。今ここで、その話をするがいい」
ギリアンは、セルバンテスとちらりと視線を交わし、頷く。
「仰せのままに」
「アマリアが、出仕していない…?」
朝から、ギリアンとセルバンテスと面談する為の時間調整に動いていたランドールは、王宮の補佐官執務室で、顔色をなくしたアレクシスから報告を受けて、立ち竦んだ。
「どう言う事だ?」
「正確には、城門は通っております。その後の足取りが、掴めておりません」
「城内で姿を消したと言うのか?」
「アマリアさんは、少々、方向音痴の気がありますから、初めて出仕する補佐官室まで辿り着けないでいるのかと思ったのですが、侍女控室にも顔を出していないそうで」
ランドールは無言で踵を返す。
「殿下、どちらへ」
「城門を封鎖する」
「殿下?!」
「これは、拉致だぞ。アマリアの身を連れ出されては、追えなくなる」
焦燥に駆られたランドールが、厳しい表情で速足に王宮を行く姿を、すれ違う人々が、何事かと伺った。
「…昨夜のうちに、魔法陣を完成させておくべきだった。こう言う時に必要なものだと言うのに…!」
苦く吐き出すランドールに、アレクシスは言葉もない。
そこに、王宮に来る事など滅多にないエイダの姿を確認して、ランドールは足を止める。
「エイダ、何故ここに」
「お兄様に、ご報告がありますの。お兄様の想い人は今、殿方と密会中ですわよ。お兄様に求婚された翌日に殿方に会うなんて、やはり、騙されていらっしゃるのです」
笑みを浮かべ、胸を張って告げ口をするエイダにちらりと視線を遣って、ランドールは激高を表さないように、声を抑えた。
出仕していないアマリア。
得意気なエイダ。
単独犯なのか、チートス絡みなのかは判らないが、エイダの関与を疑わない、と言う選択肢は、今のランドールにはない。
「何処で、見たのだ」
「中庭の温室ですわ」
「…そうか」
そのまま、歩き出すランドールに、エイダが追い縋る。
「どちらにいらっしゃるの?!」
「城門だ」
「城門?温室で、現場を押さえるのではないのですか」
「アマリアを連れ出されてからでは遅いからな。先手を打つ」
「お兄様を裏切っている女ですのよっ」
「…さて、どうだろうな」
いつでも、兄と慕って後をついて歩いていたエイダ。
可愛い妹だった。
自分が教えられる事であれば、何でも教えてやりたいと思っていた。
それは、ユリアスも、四人の従姉妹達も、国王夫妻も、両親も、同じだったと思う。
年の離れた末娘として、少々甘やかした覚えはあるが、それでも、人を思いやる事の大切さは、王族の職務とは関係なく、人として大事だと折に触れて伝えてきたつもりだった。
そう、つもりだった。
一方的に、伝わっていると思い込んで満足していたと言う事なのだろう。
「今から、ここを封鎖する」
城門に辿り着いたランドールが、門衛に告げると、一瞬、ぽかんとした門衛が、慌てて城門を閉め始めた。
ランドールは衛士に指示して、これから城内に入ろうとしている人々への説明を頼むと、改めて門衛を振り返る。
「例え、他国からの来賓であろうと、私の許可が下りるまでは何方も外に出さないように。所在不明の者がいるのだ。城内で拉致された可能性がある」
ランドールの厳しい顔に、門衛達が顔を見合わせて頷くと、直立不動で城内に鋭い視線を向け、城門を守るように姿勢を改めた。
「お任せ下さい、ランドール殿下。何人たりともお通し致しません」
「頼んだ」
ランドールの指示を蒼白な顔で聞いていたエイダが、じりじりと後退るのを、鋭い視線の一瞥で留め置いて、ランドールはエイダの腕を掴む。
「お、お兄様?」
「温室だったか」
そのまま、身長差から半ば引きずるようにぐいぐいと引っ張って、温室へと大股で歩いていく後を、アレクシスが慌てて追った。
気持ちの焦りから駆け出したいのを、辛うじてエイダと言う重しを持つ事で抑え込む。
例え、ランドール個人として叫び出したい程の苛立ちがあったとしても、王族のランドール・クレス・ロイスワルズである事を求められる王宮で、そのような姿を見せるわけにはいかない。
本当ならば、従妹とは言え、女性を引きずるようにしている姿も見せるべきではないが、気を抜くとエイダへの罵声が溢れ出してしまいそうな今は、そこまで冷静に行動する事は出来なかった。
「アマリア?!いるのか?!」
温室の硝子扉を開けると、確かに人の気配がする。
エイダの腕を離し、奥に足を踏み入れようとした所で、壮年の男性の声がランドールを迎えた。
「おや、思ったよりも遅かったな、ランドール殿」
「レナルド陛下…!」
予想通りの姿に、ランドールが息を飲む。
やはり、チートスは、レナルドは、アマリアを狙っていたのか。
「陛下、私の婚約者をご存知ありませんか」
憤りと焦りから震えそうな声を、必死に抑え込んで問うと、レナルドは片眉を上げて答えた。
「婚約者?貴殿に婚約者がいたとは初耳だ」
「アマリア・トゥランジア伯爵令嬢は、私の婚約者です」
「婚約者候補の間違いだな。まだ、婚約は調っておらんだろう?」
「本日、書面が調う所だったのです」
「なるほど。そうであったか。だが、それはまだ、婚約者ではない、と言う事だ」
「…!」
怒りの余り、レナルドの胸倉を掴もうとした、のだと思う。
確かにレナルドの元に駆け寄った筈なのに、先程と二人の距離が変わらずに驚愕すると、レナルドが低く笑った。
「完全に頭に血が上っているな。それでは、魔術を使った戦闘に勝てるわけもない」
「魔術で…何かなさったのですか」
「チートスは魔術大国。王族の男子は皆、守護石を身に着けている。そのように悪意に満ちた拳が、私に届くわけがなかろう」
これが、本来の守護石の使い方なのだ、と、レナルドが何でもない事のように言う。
「攻撃の魔法石にぶつけて威力を相殺させる等、そのような使い方をした者はいなかっただろう。本来、守護石は身に着けた者を護る為のものなのだから。我が身の安全よりも、優先する命が他にあるとは、王族の発想ではない」
「そのお陰で、私はここにいるのです。チートス国民の攻撃を受けた、この私が」
レナルドに当て擦るように言うと、彼は口端を片方上げる。
「アマリアは、優しいな」
想い人の名を呼び捨てられて、ランドールの目に剣呑とした光が浮かぶのを、レナルドは面白そうに見遣った。
「あぁ、先程のような真似は、二度としないように。私の周囲に、悪意を持ったまま、近づく事は出来ない。すなわち、アマリアを取り戻すのは不可能と言う事だ」
「…アマリアは、無事なのですか」
問うと、レナルドは己の背後を振り返る。
「アマリア、ランドール殿がそなたを心配しているようだ」
その声に呼ばれるように、アマリアが顔を覗かせ、ランドールの顔を見て驚いて目を見開いた。
何か話しているように口をぱくぱくと動かしているのだが、その音が届かない。
また、声が聞こえなくなったのか、それもよりによってアマリアの声が、と思った瞬間、ぶわっと汗が吹き出し、じっとりとランドールの背中を濡らす。
「何故…」
声が震えるのは、仕方がないだろう。
アマリアの顔にも、焦燥が浮かぶ。
二人の様子を見ていたレナルドが、思い出したように左手中指にはめた指輪の石に触れると、漸く、アマリアの声が届いた。
「ランドール殿下…っ」
「アマリア、無事だったか」
ホッと息を吐くと、アマリアもまた、安心したように微笑んだ。
「これも、魔術だと言うのですか」
どのような魔術かは不明だが、お互いの声が届かないようにされていたのだと気づいて、ランドールがレナルドを鋭く睨みつける。
だが、悔しい事に、チートス程の魔術大国に対抗する術を、ランドールは持っていない。
全身でレナルドを警戒しているランドールを見て、アマリアが気遣うようにレナルドを見上げた。
「陛下、ランドール殿下とお話する機会を下さいませ」
「アマリア…?」
レナルド側に立つような言葉に聞こえ、ランドールが呆然とアマリアの名を呼ぶ。
後ろで、エイダが動く気配を感じた。
「お、お兄様!わたくしがお話した通りでございましょう?ここで密会していたのですわっ」
アマリアはエイダに視線を遣って、困ったように首を傾げる。
「…ランドール殿下、父とセルバンテス様のお時間を作って頂けますか。全ては誤解から始まっております。誰もが皆、誰かを想って行動していただけなのです」
アマリアの声に、ランドールは次第に平常心を取り戻していった。
彼女の、女性の中では低い落ち着いた声は、全ての音が聞こえる今も、ランドールにとって最も心地良く響く。
嵐のように吹き荒れていた心の中の風が、次第に凪いで来た。
チートスとの繋がりに不安を抱いていたアマリアが、これだけ落ち着いていると言う事は、事態は想定より悪いものではない。
レナルドは少し考えるような顔をしていたが、アマリアの不安そうな顔を見て、鷹揚に頷く。
話し合いに応じる、と言う事だ。
「…判った。直ぐに呼び寄せよう。レナルド陛下、場所はこちらでよろしいですか?」
「ずらずらと移動して、人目を引くのは本意ではないだろう?」
「ご配慮感謝致します。アレクシス、トゥランジア伯とセルバンテスを呼んでくれ」
「承知致しました」
アレクシスが温室を去ると、残されたのはレナルド、ランドール、アマリア、そして、エイダの四人のみ。
レナルドが、冷たい眼差しをエイダに向ける。
「何故、私がここにいるのか、アマリアを攫うのではないかと危惧しているようだが、そんな事よりも、重大な問題がある。ロイスワルズの末姫は、従兄に横恋慕した挙句、その想い人を害そうと考えたようだ。そこの姫は、アマリアをそなたの名で温室に呼び出し、男に襲わせようとしていた」
「な…っ」
驚愕したランドールが、憂いを帯びたアマリアの顔を見た。
続いて、怯えて震えるエイダの顔に確信を抱く。
「ち、違…っ、わたくしは、その女が他の男といる姿を見せたかっただけで…っ」
言い募るエイダを睨みつけ、アマリアにそっと問うた。
「アマリア…大丈夫なのか」
「はい…レナルド陛下に、助けて頂きました」
顔色は青白いが、しっかりとした声に、ランドールは唇を噛む。
まさか、エイダがそこまで思い切った行動を取るとは、想像もしていなかった。
アマリアに直接、手を出そうとするとは。
城門の閉鎖よりも先に、温室に駆け付けるべきだった。
「ランドール殿、この始末はどうつけるのだ?」
「――…返す言葉もございません。エイダの事は、イアン陛下と相談して今後、考えて参ります」
ランドールの言葉に、エイダは、自分が切り捨てられようとしている事に漸く気づいたのだろう。
膝から力が抜けて、呆然と地面に蹲る。
「エイダ殿下」
アマリアが駆け寄ろうとするのを、レナルドが腕を掴んで止め、
「そなたは、判っているのか。この娘は、従兄を手に入れる為に、そなたの排除を目論んだのだぞ」
と、厳しい声で告げた。
「判って、いるつもりでございます。けれど、目の前で苦しんでいる方を放っておく事は出来ません」
アマリアの言葉に、レナルドは、凛々しい眉を下げて困ったように笑う。
「あぁ、そなたは本当に、母親に似ているな」
レナルドの言葉を聞いて、ランドールもまた、レナルドの目的はやはり、エミリアであった事を確信した。
「殿下…!」
慌てたように温室に駆け込んで来たギリアンとセルバンテスが、レナルドの姿を見て、ハッと姿勢を正し、深く礼を取る。
アレクシスが、蹲ったままのエイダの傍についたのを見て、アマリアはホッと安心して息を吐いた。
「アマリア…」
ギリアンの口から娘の名が、思わず、と言ったように零れると、レナルドは、ギリアンの顔を見て、凄絶な笑みを浮かべる。
「そなたが、ギリアン・トゥランジアか」
「仰せの通りにございます、レナルド陛下」
「エミリアの、夫となった男か」
「左様にございます」
レナルドは一瞬、目を閉じて天を見上げ、王の風格そのままに、吠えるように怒鳴りつけた。
「何故、エミリアを護れなかった…!」
「陛下」
慌てたように、アマリアがレナルドに呼び掛ける。
陛下、と尊称で呼んでいても、その様子は身分の高い相手に接するものよりも親し気に見えて、ギリアンが眉を寄せると、アマリアは続けて、レナルドに訴えた。
「母が亡くなったのは、産褥によってです。父は何も悪くありません。悪いのは、わたくしなのです」
「な、何を言うアマリア。赤子だったお前に、何の非があると言うのだ」
目を見開いて否定するギリアンに、アマリアは緩く首を振る。
「私は、随分と大きく育って生まれたと聞きました。ですから、お母様はお産に耐えられなかったと」
「それは違う、アマリア。エミリアは元々、体が弱かった。子供を産むのは命の危険があると判っていた上で、お前を望んだのだ」
その言葉を聞いて、レナルドが眉を吊り上げた後、両手で顔を覆って俯いた。
「だから…だから、早くに見つけてやりたかったのに…っ」
慟哭のような叫びに、ランドールを始め、ギリアンもセルバンテスも、驚いてレナルドを見つめる。
アマリアだけが、事情を判っているように痛ましげな顔をして、そっと彼の背をさすっていた。
「…陛下」
「あぁ…取り乱したな」
一気に十も老け込んだように見えるレナルドは、ふぅ、と深い溜息を吐いて、温室に据えられた錬鉄の卓と椅子を指し示す。
「私の城ではないが、腰を掛けなさい。長い話になりそうだ」
レナルドは言いながら椅子に腰を下ろし、丸い卓を挟んでその正面にギリアン、隣席にセルバンテスが掛ける。
ランドールは、ギリアンとレナルドの間。アマリアを隣に座らせたかったが、レナルドがそれを許さなかった。
「ギリアン・トゥランジア。そなたは今日、アマリアとランドール殿に、エミリアの話をする予定だったのだろう。今ここで、その話をするがいい」
ギリアンは、セルバンテスとちらりと視線を交わし、頷く。
「仰せのままに」
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