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***
離宮滞在二日目。
朝食を共に終えたランドールとアマリアは、予定通り、中庭に向かっていた。
表玄関を出ると、ぐるりと建物の背後に向かって歩いて行く。
煉瓦敷きの小径沿いに植えられた植物は、そこを歩く者の視線を無意識に前方へと誘導するよう設計されている事に、アマリアは気づいた。
「こちらのお庭を担当されている庭師の方は、素晴らしい腕をお持ちなのですね」
昨日同様、ランドールと腕を組んで、彼に指示されるままに歩くアマリアは、感嘆して声を弾ませた。
「判るのか?」
「一見、自然のままの様子ですけれど、背の高さを変えた植物が、実際は綿密な計算の元に植え込まれているのだと思います。植物を目で追っていくだけで、目的地に辿り着くようになっているのですね」
「貴女向きかな?」
「…えぇ、お恥ずかしながら」
頬を染めて俯くアマリアの今日のドレスは、アザミの花のような紫だ。
鎖骨が僅かに除く襟ぐりに、繊細なレースの襟がついており、薄手の生地は、風が通るように袖口がふわりと広がっている。
身頃はゆったりとしており、汗ばんでも肌に張り付く事はない。
涼しさを優先させた夏のドレスだが、アマリアの痩身を際立たせている。
「薔薇の目印があって、良かったです…」
帽子を忘れたから、と、玄関にランドールを待たせて部屋に取りに戻ったのだが、案の定、迷子になった。
屋敷の右翼に向かったのは確かだし、王城と違い、道は複雑ではないのにも関わらず、だ。
全く同じように見える扉に、どの部屋だったか判らなくなってしまった。
これまで外出する機会が少なかった為か、一度しか辿った事のない道を覚える経験が、まだ不足している。
「役に立てたようで良かった」
微笑むランドールは、濃灰色の目隠しで目元を覆っている。
僅かに薄くなったからか、昨日よりも瞼に明るさを感じた。
白い開襟の飾り気のないシャツと、爽やかな薄荷色のトラウザーズに身を包み、休暇だから髪は上げずにそのまま自然に下ろしている。
『日傘だと、介添えしながら歩くのは難しいですから』
中庭に出る、と聞いて日傘を用意していたアマリアに、帽子に替えるよう声を掛けたのはジェイクだ。
確かに、二人の身長差では、日傘の先でランドールを傷つけかねない。
つばの短い麦わらの日除け帽を被ったアマリアが、首を横に振る。
「申し訳ございません、私の考えが至らずに」
これまで、婚約者とすら、並んで歩いた経験がないのだ。
日傘の影響を受ける範囲など、考えた事もなかった。
「いや、貴女が付き添ってくれるお陰で、私も目的地まで行けるのだから」
「ランドール様は、見えずとも道案内が出来るのですね」
「これから向かう場所は、特に私の気に入りなんだ」
小径の先には、今を盛りとばかりに咲き誇る薔薇のトンネルがあった。
「わぁ…っ」
感嘆の声を上げたアマリアの腕に、興奮の余り、無意識に力が入る。
ぎゅっとランドールの腕を強く抱き締める結果となり、思いの他、柔らかな胸に押し当てられて、ランドールは息を詰まらせた。
アマリアはそれに気づく事なく、うっとりと溜息を吐く。
「素敵…何て素晴らしいんでしょう。少しずつ色の違う薔薇が植えられているのですね」
トンネルの入り口は真っ白の薔薇が咲いているが、目に見える範囲だけで、淡い桃色へと変化していた。
アマリアが気づいた通り、この薔薇のトンネルは、最前が白で、奥に向かうにつれて、濃い色へと変わっていくのだ。
「気に入ったか?」
「はい!」
きっと、目を輝かせているに違いない。
その表情を見られない事が、もどかしい。
トンネルは、長身のランドールよりもなお高さがあるが、秘密の花園への入り口だからか、幅が狭い。
二人が肩を寄せ合わねば、ドレスの裾を薔薇の棘に引っ掛けてしまうだろう。
さり気なく、ランドールはアマリアの肩を抱いて、棘から彼女を遠ざける。
薔薇の香しい芳香に包まれながら歩を進めると、トンネルは淡い桃色から濃い桃色、薄紅色、赤、深紅へと変化していった。
緩く湾曲した小径は、咲き誇る薔薇で、その先が見えない。
美しい景色に見惚れるアマリアの視界に、濃い深紅の薔薇が見えたと思ったら、次の瞬間には、空間が開けていた。
「これは…」
突然、世界から隔絶されたように、アマリアとランドールはぽっかりとした空間に足を踏み入れた。
周囲を、人の背丈よりも高いよく手入れされた生垣に囲まれ、薔薇のトンネル以外に出入口のないその場所には、綺麗に刈り込まれた芝生が広がっている。
芝生の中央に、白い錬鉄で作られた東屋が立っていた。
六本の柱に真っ白な蔦薔薇が絡んで満開に花を咲かせ、段を三段上った先に、同じく白い錬鉄の卓と長椅子が据えられている。
息を飲んだきり、黙り込んだアマリアの腕に、ランドールが気を引く為に触れた。
「ここは、私が生まれる前に亡くなった祖母…先代の王妃が作らせた場所だそうだ。子供の頃から、ここで本を読むのが好きでな」
「こちらで読書ですか…?それは…夢のような時間ですね…」
夢心地なのか、アマリアの声が上ずっている。
ランドールの予想通り、アマリアはここを気に入ったらしい。
「椅子に座らせてくれるか?」
「あ、はい」
慌てて、アマリアはランドールを誘導して段を上った。
ジェイクが用意しておいたのだろう、長椅子には藤の敷物、卓には籐籠が置かれている。
ランドールを長椅子に座らせてから、藤籠の中を確認すると、薄手の綿紗の肌掛けに、昼食用のサンドウィッチ、飲み物の入った瓶とコップ、本が数冊入っていた。
「『ランドールの冒険』…?」
「あぁ、子供の頃の愛読書だ。知っているか?」
「確か、父の世代に人気を博した冒険小説だとか」
「そうだ。自分と同じ名だから、離宮の書庫にあった父の本を読むようになってな。少年向け小説だから、読んだ事がないだろうか?」
「そう、ですね…父の土産にはありませんでした」
「では、丁度いい。久し振りに、その本を読みたくなった。貴女に、読んで貰えるだろうか」
「承知致しました」
ランドールに促されるまま、アマリアはランドールの隣に腰を下ろす。
拳一つ分、開けただけの距離。
これまで、隣の椅子に腰を掛けた事はあっても、長椅子に隣り合わせなどない。
余りに近く、お互いの熱すら伝わりそうな距離にドキドキと鼓動が早まるが、手元の本に無理矢理意識を移して、アマリアは本を開いた。
「『屋根裏に上がってはいけない。そう言われれば、誰だって、いや、冒険心溢れる少年ならば、逆らいたくなるものさ。絶対に』」
背の高い木々に囲まれ、色濃い影の落ちる東屋に、アマリアの声が流れ出す。
頁を繰ろうとして、聞こえてきた寝息に、アマリアは指を止めた。
冒険小説と言うものは初めてだったが、思わず夢中になって読んでいるうちに、ランドールは寝入ってしまったらしい。
「…お疲れなのね」
小さく呟くと、そっと手を伸ばして肌掛けを彼の胸元辺りから掛ける。
「お風邪でも召されたら、大変だわ」
幾ら目隠しで顔が半分隠れているとは言え、それと寝顔は別物だ。
人前ではいつも、気を張っているように見える彼の、無防備な様子に触れるのは罪深い気がして、出来るだけ目を逸らそうと思ったが、
「ん…」
漏れた声に、思わず、そちらを見てしまう。
薄い唇が、小さく開かれている。
そうすると、鋭い頬の輪郭が和らいでいる気がして、目が離せなくなった。
「!」
相当深く寝入っているのか、ランドールの体がゆっくりと傾くのに、慌てて支えようと近づくと、アマリアの肩に重みがかかった。
そのまま、頬を摺り寄せるように据わりのいい位置を探し出し、ランドールはアマリアの肩を枕に、一層深く眠りに落ちる。
「ランドール様…」
お疲れなのだから、寝かせてあげたい。
こんなに無防備に近づかれたら、ドキドキして心臓が破裂しそう…。
相反する気持ちに悩みながら、アマリアは自分の顔の直ぐ近くにあるランドールの顔を眺める。
いつもは後ろに流している髪が下ろされ、秀でた額が隠されている事で、年齢相応に見え、彼が威容を持たせる為に印象操作している事に気づいた。
これまでの黒一色から一段明るくなった目隠しの下からは、真っ直ぐな鼻梁が伸び、艶のある薄い唇が小さく開いて、真珠のような歯が覗いている。
釦を一つ外した開襟シャツの胸元から、しっかりと筋肉のついた胸板が見えて、アマリアは頬を染めて目を伏せた。
日陰とは言え、夏の始め。
うっすらとランドールの顔に汗が浮かんでいるのに気づき、アマリアは彼を起こさないように、手巾でそっと拭う。
続いて、扇子を広げると、ゆったりと風を送り始めた。
優しい風、ランドールの規則正しい寝息、人肌の温もりに、アマリアの瞼も次第に重くなってくる。
(駄目…寝ては…)
抗いつつも、引き込まれるように、いつしかアマリアもまた、眠りに落ちたのだった。
頬に何かが触れ、くすぐったさにランドールの意識が浮上した。
左腕が、夏のじりじりした暑さとは異なる、何処かホッとする温もりに包まれている。
同時に、漂う香りに気が付いた。
この東屋は薔薇に囲まれているが、薔薇の豊潤な香りの中に、控えめで清純な香りを感じて、一つ深く息を吸い込む。
(アマリア…?!)
嗅ぎ慣れた香りに、微睡んでいた意識が一気に覚醒した。
一瞬硬直して、恐る恐る体を起こすと、シャツの釦に何かが絡まる。
「…っ」
小さく漏らされた女性の声に、先程までの事を思い出した。
少年時代の愛読書を、アマリアの、胸の奥の柔らかな場所をそっと撫でるような穏やかな声に読んで貰ううちに、ここ三か月で蓄積された疲れが出たのか、段々と体が重くなってきた事。
どうせ目を閉じているのだから、と、体を休ませようとして、どうやら、本格的に寝入ってしまった事。
瞼に感じる明るさと、お腹の空き具合から想像するに、まだ然程、時間は経っていない筈だ。
「…アマリア嬢」
小さく囁くように声を掛けると、触れている熱がぴくりと動いて、左腕に触れているのが、アマリアなのだと再確認した。
恐らく、寝入ってしまった自分に、肩を貸してくれたのだろう。
そのまま、彼女も眠ってしまったに違いない。
お互いに肩を寄せ合って寝た結果、ランドールのシャツの釦に、アマリアの髪が絡んでしまったのだ。
目の見えないままでは、アマリアの髪をほどく事が出来ないが、折角だから寝かせておいてあげたい。
考えた結果、ランドールはシャツの釦に手を伸ばして、絡んだ長い髪を切ってしまわないよう、慎重に丁寧な手付きで避けて、プツンと釦を留めてある糸を切った。
乱れた髪をそっと撫でて直し、彼女の髪が思っていたよりも長い事を知る。
自分の膝に掛かっていた肌掛けを、冷えてしまわないよう、アマリアの肩にかけ直した。
アマリアを起こさないように、静かに。
それから、彼女の頭を自分の胸に凭せ掛ける。
胸の奥底から湧き出る温かい思いに、抵抗は無駄だと自覚した。
言い訳等、どれだけ重ねても、心は正直だ。
彼女が、愛おしい。
「……ランドール様…?」
寝ぼけたような、少し掠れたアマリアの声。
「起こしてしまったか…?」
小さく問うと、アマリアが身動ぐ。
悪戯心が湧いて、アマリアの頭を撫でてみた。
ランドールの胸に凭れていたアマリアの体が、硬直する。
「ランドール様…?」
「うん?」
「起きて…らしたのですか…」
ランドールはそれには答えず、
「ゆっくり休めたか?」
と尋ねた。
アマリアは跳ねるように起き上がり、頭を下げる。
「も、申し訳ございません、」
「いや、貴女のお陰で、俺もゆっくり出来た」
「おれ…?」
「あぁ、貴女の前では使った事なかったな。『私』なんて、他の者もいないのに、堅苦しいだろう?」
声に笑みを含ませて言うと、アマリアの緊張が解けるのが伝わる。
「何だか…不思議です。ランドール様は、『ランドールの冒険』に夢中になった少年なのだ、と確かに感じます」
「人は皆、その場その場で、求められている仮面を被っているものだ」
「そう、なのですか?」
「そうだ。トゥランジア伯だって、家での父親の顔と、王宮での書記官長の顔は異なるだろう?」
「あぁ…父の執務の様子は見た事がありませんが、家と同じでは少し困った事になりそうです」
「セルバンテスも、『爺や』として俺に見せる顔と、『おじ様』として貴女に見せる顔は違う」
「おじ様は、いつもお優しいです」
「それがいまいち、俺には判らない」
肩を竦めるランドールに、アマリアが笑った。
「俺にも、宰相補佐のランドール・クレス・ロイスワルズとしての顔がある。人々に求められている顔であり、国の為の顔が」
「はい」
「だが…」
ランドールは、躊躇するように言い淀んだ。
彼の言葉を、アマリアはじっと待つ。
「アマリア嬢、貴女の前では、『ただのランドール』でいてもいいだろうか」
いつも、堂々としている彼なのに、その声には少し張りがない。
緊張しているような、アマリアの言葉を恐れているような。
「勿論です、ランドール様」
アマリアは、穏やかに即答する。
「そうか」
嬉しそうなランドールの声に、アマリアは知らず微笑んだ。
最初は、市井の噂の通り、冷徹な宰相補佐なのだと思っていた。
だが、傍で彼の仕事振りを見ていると、人に厳しいが無茶な事を求めているわけではなく、きちんと相手の能力を見極めた上での要求である事に気づいた。
何より、他人よりも自分に厳しい人なのだ。
何でも出来る完璧人間のように言われているし、実際に能力が高いのだろうが、それ以上に努力の人だ。
彼自身が努力をするからこそ、人の努力を認めてくれる。
それが全て、『宰相補佐ランドール・クレス・ロイスワルズ』としての顔を保つ為だと知って、アマリアは彼を尊敬する思いを新たにしていた。
その彼が、自分の前では、飾らぬ姿でいてくれると言う。
これが、喜びではなく、何だろう。
「俺も…貴女が、『ただのアマリア』で居られる場所になれるだろうか?」
少し、小さなランドールの声。
「勿論です。私を、ランドール様がただのランドール様であれる場所の一つに加えて下さって、そのままの私を受け入れて下さって、とても嬉しいです」
心からの喜びを込めて言うと、ランドールが固まる。
「ランドール様…?」
「あぁ、いや…俺も、嬉しい」
日頃の彼からは考えられない位に拙い返事に、アマリアは笑った。
「ランドール様、シャツの釦が」
ランドールの方に顔を向けたアマリアの目に、彼の胸元が寝入る前よりも大きく開いている様子が飛び込んでくる。
一瞬、顔を赤らめた後、釦が取れているせいだと気付いて、慌てたように声を上げる。
「あぁ。貴女の髪が絡んでしまったものだから、釦をちぎり取った」
「まぁ、申し訳ございません!私の髪など、よろしかったのに」
「何を言う。とても綺麗に伸ばしているではないか。釦など、付け直せばよいのだから」
「では、お部屋に戻りましたら、付け直させて下さいませ」
当然のように申し出るアマリアに、ランドールは驚いた。
「貴女が、釦を付け直せるのか?」
「はい」
「そのような事は、侍女にさせているかと」
「ランドール様、私は侍女ですわ」
笑みを含むアマリアの声に、ランドールは、彼我の隔たりを感じる。
離宮に居ると忘れてしまいそうになるが、ランドールは王族で、アマリアの身分は王宮に勤める侍女に過ぎない。
「侍女になる為に、身に着けた事なのか」
「少し違います。王宮に上がる前から、父の意向で、身の回りの事は一通り出来るように仕込まれております。幼年学校で、貴族の子弟が自分の世話を出来るようになるのと同じく、婦女子であっても、自分の事は自分で出来た方がよい、との方針なのです。実際には、領地にいた頃は自分でする事は殆どありませんでしたが」
「なるほど…」
頷きながら、自分の周囲の令嬢の事を思い浮かべる。
彼女達は、美しさを競う刺繍こそ、貴族の嗜みとして身に着けているが、実用的な釦付けはどうなのだろう?
針と糸を使うのだから、当然のようにこなすのだろうか。
そう言った目で見た事がなかった自分に気が付く。
「トゥランジア伯の方針に賛同する。確かに、いざと言う時に従者がいなくとも生活出来る知識と技術は必要だな」
ギリアンが与えたと言う家庭教師達もきっと、アマリアがどのような立場であれ生き抜く為に必要な知識と技術を教えたのだろう。
「貴女と話していると、これまで、自分に欠けていた視点を得られる」
「それは、嬉しいお言葉です」
アマリアの声には、濁りなく好意しか含まれていないように聞こえる。
だが、先程の彼女の言葉に引っ掛かりを覚えて、ランドールは少しだけ、眉を顰めたのだった。
その夜。
宣言していた通り、アマリアは、部屋に戻るなり、ランドールのシャツの釦を付け直した。
手早く正確な針仕事は、確かに彼女が裁縫の技術を身に着けている事を知らしめた。
釦が取れるに至るまでの詳細は聞かなかったものの、二人の様子から何か起きた事を察していたジェイクだが、にこにこと東屋から帰って来たアマリアに対し、浮かない顔だったランドールが気になって、就寝前のひと時に問い質してみる。
「殿下。アマリア様と何かあったんですか?」
「ジェイク…これは、脈がないのだろうか」
「いきなり何です?」
「今日…つい勢いで、アマリアに気持ちを伝えてしまった」
「おや?アマリア様は、そんな様子ではありませんでしたが」
「だから、脈がないのかと聞いているんだろう」
いつになく不安気な主の様子に、恋は人を変えるものだ、と何だかしみじみと感心しながら、ジェイクはランドールに説明を促した。
「それだけじゃ状況が判りませんよ。今日は、殿下のご指示通り、お二人の声が聞こえない所まで下がっておりましたから」
「当たり前だ、俺が見えないのに、お前だけにアマリアの様子を見られたくない」
「…殿下って、独占欲強かったんですね…。薄々、気づいてましたけど。で?アマリア様に何て仰ったんです?」
「『貴女の前では、宰相補佐ランドール・クレス・ロイスワルズではなく、ただのランドールでいてもいいか。貴女がただのアマリアで居られる場所になれるだろうか』と言った」
「おぉ!大胆ですね!で、アマリア様は?」
「『勿論です』と」
「え、いい感じじゃないですか。アマリア様もにこにこされてましたし、順調なのでは?何が問題なんです?」
「アマリアは、『ランドール様がただのランドール様であれる場所の一つに加えて下さって嬉しい』と言ったのだ」
「あ…あぁ…なるほど…」
貴族的婉曲表現であれば、これはお断りと受け取られかねない。
ランドールは、『身分に関係なく素のままの自分で向き合いたい、何のしがらみもないアマリアを受け止めたい』、つまりは、『政略も打算も関係なく、貴女が好きだ』と伝えた。
それに対し、アマリアは、『他にも、貴方がそう仰ってる方がいらっしゃるのは判ってますわ』と答えた事になるのだ。
しかも、その後に、殊更に侍女の立場を強調された。
脈なしか、とランドールが落ち込むのも判るけれど、アマリアの機嫌良さそうな顔を見ているジェイクからすると、しっくり来ない。
「確認ですけど、アマリア様って、中央の社交界は殆ど経験されてないんですよね?」
「中央だけでなく、地元でも屋敷からほぼ出た事がないらしい。恐らく、同性の友人もいないのだろうな」
「じゃあ…多分、そのまま、言葉通りの意味だと思いますよ?」
「言葉通り、とは?」
「嬉しいんですよ。殿下が素の姿を見せるのは。場所の一つ、と言うのは、俺やアレクは、殿下の真の姿を知っているからでしょう。『私だけ』と優越感を抱いて勘違いしない辺り、謙虚でいいじゃないですか」
「そう、ならばいいが…希望的観測に過ぎなくないか?」
「アマリア様が、貴族の社交に慣れていない、擦れていない、と言うのは、殿下も判っているでしょう?そのような裏のある女性には見受けられませんが」
「そうか、そうだな」
ホッと肩の力を抜くランドールに、気づいていないのだろうな、と思いながら、気の毒そうに追い打ちを掛ける。
「つまり、殿下に告白されたなんて、全く気づいてない、って事なんですけどね」
「!」
婉曲的お断り表現の出来ない人物が、婉曲的告白に気づくわけがない。
「中央の社交界に慣れている高位貴族のご令嬢であれば、宰相補佐である事が第一義である殿下にそんな事を言われたら、『そこまでわたくしの事を…!』ってなるんでしょうけど…ほら、アマリア様は、それがどれだけ凄い事か、全然判ってないですから…」
「…そうか…そう、だよな…」
ランドールも、予想していた反応と違うな、とは思っていたのだ。
アマリアであれば、愛の告白と気づけば、もっと照れたり恥ずかしがったりしそうなものだ。
純粋に喜んでくれているのは伝わっていたけれど、そこに甘やかなものは欠片も含まれていなかったから、脈なしなのか、と落胆したのだが。
「気づいていなかったか…」
「やっぱり直球勝負しかないのでは?」
それが出来るなら、している。
言葉以上に語る恨めし気なランドールの表情に、ジェイクは笑う。
「まぁ、焦らなくていいんじゃないですか?ユリアス殿下のご婚儀までにじっくり進めていけばいいんです。殿下の目が見えるようになったら、気持ちも変わるかもしれないですし?」
「…恋愛じゃなかったとしても、アマリアを手放すつもりはない」
「だったら寧ろ、今日、気づかれなくて良かったんですよ」
腹心の言葉に、納得しきれないものの頷く。
そうだ、時間はあるのだから、焦る必要はない――…。
離宮滞在二日目。
朝食を共に終えたランドールとアマリアは、予定通り、中庭に向かっていた。
表玄関を出ると、ぐるりと建物の背後に向かって歩いて行く。
煉瓦敷きの小径沿いに植えられた植物は、そこを歩く者の視線を無意識に前方へと誘導するよう設計されている事に、アマリアは気づいた。
「こちらのお庭を担当されている庭師の方は、素晴らしい腕をお持ちなのですね」
昨日同様、ランドールと腕を組んで、彼に指示されるままに歩くアマリアは、感嘆して声を弾ませた。
「判るのか?」
「一見、自然のままの様子ですけれど、背の高さを変えた植物が、実際は綿密な計算の元に植え込まれているのだと思います。植物を目で追っていくだけで、目的地に辿り着くようになっているのですね」
「貴女向きかな?」
「…えぇ、お恥ずかしながら」
頬を染めて俯くアマリアの今日のドレスは、アザミの花のような紫だ。
鎖骨が僅かに除く襟ぐりに、繊細なレースの襟がついており、薄手の生地は、風が通るように袖口がふわりと広がっている。
身頃はゆったりとしており、汗ばんでも肌に張り付く事はない。
涼しさを優先させた夏のドレスだが、アマリアの痩身を際立たせている。
「薔薇の目印があって、良かったです…」
帽子を忘れたから、と、玄関にランドールを待たせて部屋に取りに戻ったのだが、案の定、迷子になった。
屋敷の右翼に向かったのは確かだし、王城と違い、道は複雑ではないのにも関わらず、だ。
全く同じように見える扉に、どの部屋だったか判らなくなってしまった。
これまで外出する機会が少なかった為か、一度しか辿った事のない道を覚える経験が、まだ不足している。
「役に立てたようで良かった」
微笑むランドールは、濃灰色の目隠しで目元を覆っている。
僅かに薄くなったからか、昨日よりも瞼に明るさを感じた。
白い開襟の飾り気のないシャツと、爽やかな薄荷色のトラウザーズに身を包み、休暇だから髪は上げずにそのまま自然に下ろしている。
『日傘だと、介添えしながら歩くのは難しいですから』
中庭に出る、と聞いて日傘を用意していたアマリアに、帽子に替えるよう声を掛けたのはジェイクだ。
確かに、二人の身長差では、日傘の先でランドールを傷つけかねない。
つばの短い麦わらの日除け帽を被ったアマリアが、首を横に振る。
「申し訳ございません、私の考えが至らずに」
これまで、婚約者とすら、並んで歩いた経験がないのだ。
日傘の影響を受ける範囲など、考えた事もなかった。
「いや、貴女が付き添ってくれるお陰で、私も目的地まで行けるのだから」
「ランドール様は、見えずとも道案内が出来るのですね」
「これから向かう場所は、特に私の気に入りなんだ」
小径の先には、今を盛りとばかりに咲き誇る薔薇のトンネルがあった。
「わぁ…っ」
感嘆の声を上げたアマリアの腕に、興奮の余り、無意識に力が入る。
ぎゅっとランドールの腕を強く抱き締める結果となり、思いの他、柔らかな胸に押し当てられて、ランドールは息を詰まらせた。
アマリアはそれに気づく事なく、うっとりと溜息を吐く。
「素敵…何て素晴らしいんでしょう。少しずつ色の違う薔薇が植えられているのですね」
トンネルの入り口は真っ白の薔薇が咲いているが、目に見える範囲だけで、淡い桃色へと変化していた。
アマリアが気づいた通り、この薔薇のトンネルは、最前が白で、奥に向かうにつれて、濃い色へと変わっていくのだ。
「気に入ったか?」
「はい!」
きっと、目を輝かせているに違いない。
その表情を見られない事が、もどかしい。
トンネルは、長身のランドールよりもなお高さがあるが、秘密の花園への入り口だからか、幅が狭い。
二人が肩を寄せ合わねば、ドレスの裾を薔薇の棘に引っ掛けてしまうだろう。
さり気なく、ランドールはアマリアの肩を抱いて、棘から彼女を遠ざける。
薔薇の香しい芳香に包まれながら歩を進めると、トンネルは淡い桃色から濃い桃色、薄紅色、赤、深紅へと変化していった。
緩く湾曲した小径は、咲き誇る薔薇で、その先が見えない。
美しい景色に見惚れるアマリアの視界に、濃い深紅の薔薇が見えたと思ったら、次の瞬間には、空間が開けていた。
「これは…」
突然、世界から隔絶されたように、アマリアとランドールはぽっかりとした空間に足を踏み入れた。
周囲を、人の背丈よりも高いよく手入れされた生垣に囲まれ、薔薇のトンネル以外に出入口のないその場所には、綺麗に刈り込まれた芝生が広がっている。
芝生の中央に、白い錬鉄で作られた東屋が立っていた。
六本の柱に真っ白な蔦薔薇が絡んで満開に花を咲かせ、段を三段上った先に、同じく白い錬鉄の卓と長椅子が据えられている。
息を飲んだきり、黙り込んだアマリアの腕に、ランドールが気を引く為に触れた。
「ここは、私が生まれる前に亡くなった祖母…先代の王妃が作らせた場所だそうだ。子供の頃から、ここで本を読むのが好きでな」
「こちらで読書ですか…?それは…夢のような時間ですね…」
夢心地なのか、アマリアの声が上ずっている。
ランドールの予想通り、アマリアはここを気に入ったらしい。
「椅子に座らせてくれるか?」
「あ、はい」
慌てて、アマリアはランドールを誘導して段を上った。
ジェイクが用意しておいたのだろう、長椅子には藤の敷物、卓には籐籠が置かれている。
ランドールを長椅子に座らせてから、藤籠の中を確認すると、薄手の綿紗の肌掛けに、昼食用のサンドウィッチ、飲み物の入った瓶とコップ、本が数冊入っていた。
「『ランドールの冒険』…?」
「あぁ、子供の頃の愛読書だ。知っているか?」
「確か、父の世代に人気を博した冒険小説だとか」
「そうだ。自分と同じ名だから、離宮の書庫にあった父の本を読むようになってな。少年向け小説だから、読んだ事がないだろうか?」
「そう、ですね…父の土産にはありませんでした」
「では、丁度いい。久し振りに、その本を読みたくなった。貴女に、読んで貰えるだろうか」
「承知致しました」
ランドールに促されるまま、アマリアはランドールの隣に腰を下ろす。
拳一つ分、開けただけの距離。
これまで、隣の椅子に腰を掛けた事はあっても、長椅子に隣り合わせなどない。
余りに近く、お互いの熱すら伝わりそうな距離にドキドキと鼓動が早まるが、手元の本に無理矢理意識を移して、アマリアは本を開いた。
「『屋根裏に上がってはいけない。そう言われれば、誰だって、いや、冒険心溢れる少年ならば、逆らいたくなるものさ。絶対に』」
背の高い木々に囲まれ、色濃い影の落ちる東屋に、アマリアの声が流れ出す。
頁を繰ろうとして、聞こえてきた寝息に、アマリアは指を止めた。
冒険小説と言うものは初めてだったが、思わず夢中になって読んでいるうちに、ランドールは寝入ってしまったらしい。
「…お疲れなのね」
小さく呟くと、そっと手を伸ばして肌掛けを彼の胸元辺りから掛ける。
「お風邪でも召されたら、大変だわ」
幾ら目隠しで顔が半分隠れているとは言え、それと寝顔は別物だ。
人前ではいつも、気を張っているように見える彼の、無防備な様子に触れるのは罪深い気がして、出来るだけ目を逸らそうと思ったが、
「ん…」
漏れた声に、思わず、そちらを見てしまう。
薄い唇が、小さく開かれている。
そうすると、鋭い頬の輪郭が和らいでいる気がして、目が離せなくなった。
「!」
相当深く寝入っているのか、ランドールの体がゆっくりと傾くのに、慌てて支えようと近づくと、アマリアの肩に重みがかかった。
そのまま、頬を摺り寄せるように据わりのいい位置を探し出し、ランドールはアマリアの肩を枕に、一層深く眠りに落ちる。
「ランドール様…」
お疲れなのだから、寝かせてあげたい。
こんなに無防備に近づかれたら、ドキドキして心臓が破裂しそう…。
相反する気持ちに悩みながら、アマリアは自分の顔の直ぐ近くにあるランドールの顔を眺める。
いつもは後ろに流している髪が下ろされ、秀でた額が隠されている事で、年齢相応に見え、彼が威容を持たせる為に印象操作している事に気づいた。
これまでの黒一色から一段明るくなった目隠しの下からは、真っ直ぐな鼻梁が伸び、艶のある薄い唇が小さく開いて、真珠のような歯が覗いている。
釦を一つ外した開襟シャツの胸元から、しっかりと筋肉のついた胸板が見えて、アマリアは頬を染めて目を伏せた。
日陰とは言え、夏の始め。
うっすらとランドールの顔に汗が浮かんでいるのに気づき、アマリアは彼を起こさないように、手巾でそっと拭う。
続いて、扇子を広げると、ゆったりと風を送り始めた。
優しい風、ランドールの規則正しい寝息、人肌の温もりに、アマリアの瞼も次第に重くなってくる。
(駄目…寝ては…)
抗いつつも、引き込まれるように、いつしかアマリアもまた、眠りに落ちたのだった。
頬に何かが触れ、くすぐったさにランドールの意識が浮上した。
左腕が、夏のじりじりした暑さとは異なる、何処かホッとする温もりに包まれている。
同時に、漂う香りに気が付いた。
この東屋は薔薇に囲まれているが、薔薇の豊潤な香りの中に、控えめで清純な香りを感じて、一つ深く息を吸い込む。
(アマリア…?!)
嗅ぎ慣れた香りに、微睡んでいた意識が一気に覚醒した。
一瞬硬直して、恐る恐る体を起こすと、シャツの釦に何かが絡まる。
「…っ」
小さく漏らされた女性の声に、先程までの事を思い出した。
少年時代の愛読書を、アマリアの、胸の奥の柔らかな場所をそっと撫でるような穏やかな声に読んで貰ううちに、ここ三か月で蓄積された疲れが出たのか、段々と体が重くなってきた事。
どうせ目を閉じているのだから、と、体を休ませようとして、どうやら、本格的に寝入ってしまった事。
瞼に感じる明るさと、お腹の空き具合から想像するに、まだ然程、時間は経っていない筈だ。
「…アマリア嬢」
小さく囁くように声を掛けると、触れている熱がぴくりと動いて、左腕に触れているのが、アマリアなのだと再確認した。
恐らく、寝入ってしまった自分に、肩を貸してくれたのだろう。
そのまま、彼女も眠ってしまったに違いない。
お互いに肩を寄せ合って寝た結果、ランドールのシャツの釦に、アマリアの髪が絡んでしまったのだ。
目の見えないままでは、アマリアの髪をほどく事が出来ないが、折角だから寝かせておいてあげたい。
考えた結果、ランドールはシャツの釦に手を伸ばして、絡んだ長い髪を切ってしまわないよう、慎重に丁寧な手付きで避けて、プツンと釦を留めてある糸を切った。
乱れた髪をそっと撫でて直し、彼女の髪が思っていたよりも長い事を知る。
自分の膝に掛かっていた肌掛けを、冷えてしまわないよう、アマリアの肩にかけ直した。
アマリアを起こさないように、静かに。
それから、彼女の頭を自分の胸に凭せ掛ける。
胸の奥底から湧き出る温かい思いに、抵抗は無駄だと自覚した。
言い訳等、どれだけ重ねても、心は正直だ。
彼女が、愛おしい。
「……ランドール様…?」
寝ぼけたような、少し掠れたアマリアの声。
「起こしてしまったか…?」
小さく問うと、アマリアが身動ぐ。
悪戯心が湧いて、アマリアの頭を撫でてみた。
ランドールの胸に凭れていたアマリアの体が、硬直する。
「ランドール様…?」
「うん?」
「起きて…らしたのですか…」
ランドールはそれには答えず、
「ゆっくり休めたか?」
と尋ねた。
アマリアは跳ねるように起き上がり、頭を下げる。
「も、申し訳ございません、」
「いや、貴女のお陰で、俺もゆっくり出来た」
「おれ…?」
「あぁ、貴女の前では使った事なかったな。『私』なんて、他の者もいないのに、堅苦しいだろう?」
声に笑みを含ませて言うと、アマリアの緊張が解けるのが伝わる。
「何だか…不思議です。ランドール様は、『ランドールの冒険』に夢中になった少年なのだ、と確かに感じます」
「人は皆、その場その場で、求められている仮面を被っているものだ」
「そう、なのですか?」
「そうだ。トゥランジア伯だって、家での父親の顔と、王宮での書記官長の顔は異なるだろう?」
「あぁ…父の執務の様子は見た事がありませんが、家と同じでは少し困った事になりそうです」
「セルバンテスも、『爺や』として俺に見せる顔と、『おじ様』として貴女に見せる顔は違う」
「おじ様は、いつもお優しいです」
「それがいまいち、俺には判らない」
肩を竦めるランドールに、アマリアが笑った。
「俺にも、宰相補佐のランドール・クレス・ロイスワルズとしての顔がある。人々に求められている顔であり、国の為の顔が」
「はい」
「だが…」
ランドールは、躊躇するように言い淀んだ。
彼の言葉を、アマリアはじっと待つ。
「アマリア嬢、貴女の前では、『ただのランドール』でいてもいいだろうか」
いつも、堂々としている彼なのに、その声には少し張りがない。
緊張しているような、アマリアの言葉を恐れているような。
「勿論です、ランドール様」
アマリアは、穏やかに即答する。
「そうか」
嬉しそうなランドールの声に、アマリアは知らず微笑んだ。
最初は、市井の噂の通り、冷徹な宰相補佐なのだと思っていた。
だが、傍で彼の仕事振りを見ていると、人に厳しいが無茶な事を求めているわけではなく、きちんと相手の能力を見極めた上での要求である事に気づいた。
何より、他人よりも自分に厳しい人なのだ。
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「俺も…貴女が、『ただのアマリア』で居られる場所になれるだろうか?」
少し、小さなランドールの声。
「勿論です。私を、ランドール様がただのランドール様であれる場所の一つに加えて下さって、そのままの私を受け入れて下さって、とても嬉しいです」
心からの喜びを込めて言うと、ランドールが固まる。
「ランドール様…?」
「あぁ、いや…俺も、嬉しい」
日頃の彼からは考えられない位に拙い返事に、アマリアは笑った。
「ランドール様、シャツの釦が」
ランドールの方に顔を向けたアマリアの目に、彼の胸元が寝入る前よりも大きく開いている様子が飛び込んでくる。
一瞬、顔を赤らめた後、釦が取れているせいだと気付いて、慌てたように声を上げる。
「あぁ。貴女の髪が絡んでしまったものだから、釦をちぎり取った」
「まぁ、申し訳ございません!私の髪など、よろしかったのに」
「何を言う。とても綺麗に伸ばしているではないか。釦など、付け直せばよいのだから」
「では、お部屋に戻りましたら、付け直させて下さいませ」
当然のように申し出るアマリアに、ランドールは驚いた。
「貴女が、釦を付け直せるのか?」
「はい」
「そのような事は、侍女にさせているかと」
「ランドール様、私は侍女ですわ」
笑みを含むアマリアの声に、ランドールは、彼我の隔たりを感じる。
離宮に居ると忘れてしまいそうになるが、ランドールは王族で、アマリアの身分は王宮に勤める侍女に過ぎない。
「侍女になる為に、身に着けた事なのか」
「少し違います。王宮に上がる前から、父の意向で、身の回りの事は一通り出来るように仕込まれております。幼年学校で、貴族の子弟が自分の世話を出来るようになるのと同じく、婦女子であっても、自分の事は自分で出来た方がよい、との方針なのです。実際には、領地にいた頃は自分でする事は殆どありませんでしたが」
「なるほど…」
頷きながら、自分の周囲の令嬢の事を思い浮かべる。
彼女達は、美しさを競う刺繍こそ、貴族の嗜みとして身に着けているが、実用的な釦付けはどうなのだろう?
針と糸を使うのだから、当然のようにこなすのだろうか。
そう言った目で見た事がなかった自分に気が付く。
「トゥランジア伯の方針に賛同する。確かに、いざと言う時に従者がいなくとも生活出来る知識と技術は必要だな」
ギリアンが与えたと言う家庭教師達もきっと、アマリアがどのような立場であれ生き抜く為に必要な知識と技術を教えたのだろう。
「貴女と話していると、これまで、自分に欠けていた視点を得られる」
「それは、嬉しいお言葉です」
アマリアの声には、濁りなく好意しか含まれていないように聞こえる。
だが、先程の彼女の言葉に引っ掛かりを覚えて、ランドールは少しだけ、眉を顰めたのだった。
その夜。
宣言していた通り、アマリアは、部屋に戻るなり、ランドールのシャツの釦を付け直した。
手早く正確な針仕事は、確かに彼女が裁縫の技術を身に着けている事を知らしめた。
釦が取れるに至るまでの詳細は聞かなかったものの、二人の様子から何か起きた事を察していたジェイクだが、にこにこと東屋から帰って来たアマリアに対し、浮かない顔だったランドールが気になって、就寝前のひと時に問い質してみる。
「殿下。アマリア様と何かあったんですか?」
「ジェイク…これは、脈がないのだろうか」
「いきなり何です?」
「今日…つい勢いで、アマリアに気持ちを伝えてしまった」
「おや?アマリア様は、そんな様子ではありませんでしたが」
「だから、脈がないのかと聞いているんだろう」
いつになく不安気な主の様子に、恋は人を変えるものだ、と何だかしみじみと感心しながら、ジェイクはランドールに説明を促した。
「それだけじゃ状況が判りませんよ。今日は、殿下のご指示通り、お二人の声が聞こえない所まで下がっておりましたから」
「当たり前だ、俺が見えないのに、お前だけにアマリアの様子を見られたくない」
「…殿下って、独占欲強かったんですね…。薄々、気づいてましたけど。で?アマリア様に何て仰ったんです?」
「『貴女の前では、宰相補佐ランドール・クレス・ロイスワルズではなく、ただのランドールでいてもいいか。貴女がただのアマリアで居られる場所になれるだろうか』と言った」
「おぉ!大胆ですね!で、アマリア様は?」
「『勿論です』と」
「え、いい感じじゃないですか。アマリア様もにこにこされてましたし、順調なのでは?何が問題なんです?」
「アマリアは、『ランドール様がただのランドール様であれる場所の一つに加えて下さって嬉しい』と言ったのだ」
「あ…あぁ…なるほど…」
貴族的婉曲表現であれば、これはお断りと受け取られかねない。
ランドールは、『身分に関係なく素のままの自分で向き合いたい、何のしがらみもないアマリアを受け止めたい』、つまりは、『政略も打算も関係なく、貴女が好きだ』と伝えた。
それに対し、アマリアは、『他にも、貴方がそう仰ってる方がいらっしゃるのは判ってますわ』と答えた事になるのだ。
しかも、その後に、殊更に侍女の立場を強調された。
脈なしか、とランドールが落ち込むのも判るけれど、アマリアの機嫌良さそうな顔を見ているジェイクからすると、しっくり来ない。
「確認ですけど、アマリア様って、中央の社交界は殆ど経験されてないんですよね?」
「中央だけでなく、地元でも屋敷からほぼ出た事がないらしい。恐らく、同性の友人もいないのだろうな」
「じゃあ…多分、そのまま、言葉通りの意味だと思いますよ?」
「言葉通り、とは?」
「嬉しいんですよ。殿下が素の姿を見せるのは。場所の一つ、と言うのは、俺やアレクは、殿下の真の姿を知っているからでしょう。『私だけ』と優越感を抱いて勘違いしない辺り、謙虚でいいじゃないですか」
「そう、ならばいいが…希望的観測に過ぎなくないか?」
「アマリア様が、貴族の社交に慣れていない、擦れていない、と言うのは、殿下も判っているでしょう?そのような裏のある女性には見受けられませんが」
「そうか、そうだな」
ホッと肩の力を抜くランドールに、気づいていないのだろうな、と思いながら、気の毒そうに追い打ちを掛ける。
「つまり、殿下に告白されたなんて、全く気づいてない、って事なんですけどね」
「!」
婉曲的お断り表現の出来ない人物が、婉曲的告白に気づくわけがない。
「中央の社交界に慣れている高位貴族のご令嬢であれば、宰相補佐である事が第一義である殿下にそんな事を言われたら、『そこまでわたくしの事を…!』ってなるんでしょうけど…ほら、アマリア様は、それがどれだけ凄い事か、全然判ってないですから…」
「…そうか…そう、だよな…」
ランドールも、予想していた反応と違うな、とは思っていたのだ。
アマリアであれば、愛の告白と気づけば、もっと照れたり恥ずかしがったりしそうなものだ。
純粋に喜んでくれているのは伝わっていたけれど、そこに甘やかなものは欠片も含まれていなかったから、脈なしなのか、と落胆したのだが。
「気づいていなかったか…」
「やっぱり直球勝負しかないのでは?」
それが出来るなら、している。
言葉以上に語る恨めし気なランドールの表情に、ジェイクは笑う。
「まぁ、焦らなくていいんじゃないですか?ユリアス殿下のご婚儀までにじっくり進めていけばいいんです。殿下の目が見えるようになったら、気持ちも変わるかもしれないですし?」
「…恋愛じゃなかったとしても、アマリアを手放すつもりはない」
「だったら寧ろ、今日、気づかれなくて良かったんですよ」
腹心の言葉に、納得しきれないものの頷く。
そうだ、時間はあるのだから、焦る必要はない――…。
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