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第五章 人身売買

36話

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 エランがシイナのすることに気づき、再び止めるよりも前にシイナは魔法を発動する。いくつもの光の玉が宙に浮かび、それはシイナが振り下ろすように伸ばした手に従うように飛び回る。光の玉は鉄格子の隙間から勢いよく飛び出るとロングソードを握るザイラスの手に命中する。
「なっ?!」
 ザイラスが突然の衝撃に驚きの声を上げる。そして手に持っていた剣が床に落ちてカランと乾いた音を立てる。誰もがその様子を何が起きたのかと驚いて見ていた。泣きじゃくる子供の声だけが異様にその場に響いていた。
 ザイラスは自身の手を見つめた後、ゆっくりと体をシイナ達のいる牢屋の方に向けた。怒りと憎悪に塗れた顔が興奮で息を荒げているシイナを捉える。
 初めて魔法を人に向けたシイナは全身に血が巡る感覚に酔いしれていた。バクバクと耳元でうるさくなっているように聞こえる心臓の音にザイラスが床を踏み締める音が混じる。怒りや憤りを抱え、感情の赴くままに放った魔法は、これまでの優しい魔法とは比べ物にならないほどの威力を発揮していた。
「貴様か……?」
 ザイラスは落ちた剣に目をくれることもなく、ゆっくりとシイナがいる牢屋に近づいてくる。シイナはゆっくりと呼吸をしながら手を挙げたまま固まっていた。エランはそんなシイナを庇おうと立ち上がる。
「ただの獣風情が、この私に、魔法を使ったのかと聞いているんだ」
 牢屋の前までくるとザイラスはシイナを見下ろす。シイナは自分よりも背が高く、怖い顔をしたザイラスを気丈に見つめ返す。
「あなたは、間違ってる」
 ゆっくりと手を下ろして、静かに言う。その言葉にザイラスは不快そうに眉を吊り上げると傭兵の男を呼んだ。男は落ちたロングソードを拾い上げながらザイラスに近づく。
「このクソガキを上へ連れて行け。生意気な獣にはしっかり躾をしてやらねばな」
 命令された男は魔法で鍵をかけられた錠前を同じく魔法を使って開けると牢屋の中に入ってきた。そしてシイナにむかって手を伸ばす。シイナはその手から逃れようと後ろに足を下げたが、壁に背中がぶつかり逃げ場がなかった。
 男の手がシイナに届きそうになった時、エランが立ち上がる。そして男の手を掴むと足払いをかけて男を地面に転がす。一瞬にして世界が反転した男は何が起きたか分からず一瞬目を見開いたがすぐに状況を把握して立ち上がった。
 エランが次の行動に出る前に男はエランの頭を手で掴み魔法を使った。男の手から出た魔法はエランを抗いようのない眠りの世界へと誘う。
「お前……その子に手を…………」
 強制的に意識をブラックアウトさせられたエランは最後に抗うようにそう呟くと、全身を脱力させた。意識を失ったことを確認すると男はエランの頭を離す。エランはその場にぐったりと横たわった。
 横で起きた一瞬の出来事に頭がついていっていなかったシイナだったが、すぐにエランの無事を確かめようと近寄ろうとした。だがその手は男によって止められる。
「いたっ……!」
 加減のされていない力で腕を握られ思わず悲鳴を上げる。他の獣人達は目の前で起きていることに何をすればいいのかわからず、ただ視線を泳がせる。だけど、このままシイナが連れて行かれてしまうのはよくないとわかっていた。
「早くしろ。私は今大変不快な気分だ」
 ザイラスが男に声をかける。男は了承したように僅かに顎を引くとその場から離れまいと抵抗するシイナの体を引きずるように連れていく。
「獣の分際で人間様に楯突こうなど、烏滸がましいにも程がある」
 イライラしたようにぶつぶつと恨み言を言い続ける。
「あ……あぅぅぅぅ!!」
 獣人のうち、舌を切られて話すことのできない獣人の男が突如立ち上がりシイナを引きずる男に体当たりを仕掛ける。直情的なその攻撃は男が体を捻ることで避けられてしまった。しかしその行動を横で見ていた他の獣人達はお互いに目を見合わせ各々が行動に移し始めた。
 ジェーという名の獣人は突進して倒れ込んでいった男に気を取られていた傭兵の手を力一杯掴みかかる。そしてシイナから手を離させようと力の限りその手を握りしめる。
 他の獣人達もシイナを助けようと立ち上がり傭兵の男に向かって体当たりをするように突進する。傭兵は突然の反抗に舌打ちをして、自身の手を掴むジェーの腹を蹴り付ける。
「……っ!」
 男の一撃はジェーを軽く吹き飛ばし、ジェーは壁に体を打ちつけた。そして考えなしにただ突っ込んでくるだけの獣人達を避けながらその首に手刀を下ろす。
「やめ……やめて!」
 ばたばたと倒れていく仲間を見ながらシイナは震える声で訴えた。誰かが傷つくところを見たくなかっただけだったのに、シイナの行動で今ここにいるみんなが傷ついていた。そのことがシイナを苦しめた。
「わ、私、行くから!ついていくから!だ、だから、もうやめて!」
 シイナは抵抗することをやめて傭兵の男に縋り付く。しかしそんなシイナの言葉をザイラスが鼻で笑う。
「今更何を言ってるんだね?お前の躾が済めば、こいつらも躾をする。人間様に盾をついた獣をそのままにするわけがないだろう?」
「この人たちは!関係ないよ!」
「甘いねぇ。お前の考えはまるで砂糖菓子のように甘くていけないねぇ」
 シイナは傭兵に引っ張られながら牢の外へ放り投げられる。受け身を取ることもできず、ごつごつとした固い石の上に転がる。シイナは蹲りながら遙か上にある冷めた瞳を見つめる。まるでゴミか何かを見るようなその瞳に唇をキュッと噛み締める。
「お前もこいつらも、全員私の所有物だ。そしてこれから他の貴族どもに売られ、その貴族に所有権が移る。家畜と一緒……いや、家畜以下の存在なんだよ、お前達は。そんな存在のお前達が、人間様に逆らうなどあってはいけないと、そう思わないかね?」
 ザイラスの言い分はこれっぽっちもシイナにはわからなかった。どうしてそんな酷い考えができるのか、不思議でしょうがなかった。
「私は……私たちは、あなたと同じだよ」
 眉間に皺を寄せザイラスの言葉に不快感を示しながらシイナは上から見下ろすその瞳を見つめ返す。強い意志を秘めたその瞳はザイラスの神経を逆撫でた。青筋を額に浮かべ、ザイラスはひくりと頬を動かす。
 言葉を重ねようとしたザイラスは何かを思い直したようにため息を吐くと牢屋の鍵を閉め直していた傭兵の男の方を向く。
「私は先に行く。お前達はこの犬畜生を私の部屋まで連れてくるんだ。……このうるさいガキも処分してから上がってきたまえ」
 ザイラスは命令を出すと足取り荒く地下から去っていく。傭兵の男達はお互いに顔を見合わせると、シイナの近くにいた男はシイナの腕を掴み無理やり立たせた。そしてもう一人の男は腰から下げていたロングソードをゆっくりと引き抜いた。
 シイナはその動きをまるで静止画を見ているように呆然と見つめていた。泣きじゃくる子供の声に、狂ったように悲鳴をあげる人の声。シイナと同じように男の動きを見つめる人たちの息を呑む音。剣が引き抜かれていく音に空気を切り裂くように振り上げられるその獲物は鋭く天を突き刺していた。
 廊下にある蝋燭の光に反射してロングソードの鋒がきらりと光る。
 そしてその剣が、スローモーションのように振り下ろされていくのを目を背けることもできずただ見ていた。
 あっ、と思った時には辺りには鋭い悲鳴を上げる人の声しかしなかった。
 たった一振りで、その子供の喉元は掻き切れ、うるさいほどの泣く声は聞こえなくなる。子供は少しの間両目をこれでもかと見開きながら、涙を流し、体をビクビクと震わせた。しかしそれもある瞬間から動きを止めて、もう二度と動くことも泣くこともなかった。
 事切れた子供を目の当たりにしてシイナはわなわなと唇を震わせる。
 そんな、どうして……なんで。
 そんな感情が頭の中で暴れ出す。子供の知り合いと思われるその人は鉄格子に縋り付きながら激しく泣きじゃくっていた。もう二度と届かない儚き命を引き戻そうとするように子供に手を伸ばす。
 その様子をシイナはただ見ていた。一瞬のことに何もできなかった。
 光を映さない瞳に、止まることを知らない子供の血液が水溜まりを作るように広がっていく。子供の目に残された、最後の一粒の雫がはらりと目尻からこぼれ落ちた。
 その瞬間をシイナは思わず込み上げてきた吐き気に口を抑えるが、それは意味をなさなかった。激しい咳き込みと胃の中のものが逆流してきて口から溢れる。足に力が入れられなくなり、膝をつく。暴れ出す感情に身を任せるようにシイナの瞳からもボロボロと涙が溢れる。
(どうして……どうして……!)
 どうしてこんな酷いことができるのか。同じ人間じゃないのか。同じ命じゃないのか。どうしてこの男達は何も言わずに、当たり前のようにその命を摘み取ることができるのだろうか。
 たくさんの何故が頭を駆け巡る。だけどいくら考えてもその答えは出てこなかった。
 シイナはふと元いた牢屋を横目で見る。そこには意識を失ったエランが、蹲るように地面に転がる獣人達がいる。
(あぁ……)
 シイナは溢れる涙を止めることもせず、辛そうに眉間の皺を深くする。
(私には何もできなかった。私が余計ことをしなければこんなことにはならなかったかもしれない……私は、私はなんてことを……)
 自分のしたことが間違っていたのかとシイナは思った。そうじゃなければこんな酷い結末を到底受け入れられなかった。
 シイナは傭兵の男に無理やり立たされ引きずるように連れていかれる。
 もう歩く気力も抵抗する気も起きなかった。ただ、虚しさと絶望する気持ちだけがシイナの心を支配していた。
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