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第五章 人身売買

32話

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「君はここがどんなところかわかっているのか?」
 エランの質問にシイナは首を横に振る。
「知らない……気がついたら、ここに連れてこられてた」
「そうか……ここはザイラスという貴族の隠れ家だ」
「ザイラス?」
「そう。ザイラスは男爵位だが、とあることをすることで他の貴族から多大な支援を受けていると言われていた」
 とあること、と言われてシイナは考え込む。そしてその答えは今のシイナの現状が示していた。
「人身売買……」
「そうだ。この国、ザーフィアス帝国では近年、人身売買、違法オークション、奴隷売買、その他、人をやり取りする行為は全て禁止されている。たとえそれが、表向きは孤児の保護であっても」
 エランは忌々しそうに眉を顰める。鋭い視線を向けられたシイナはごくりと唾を飲み込む。
「だが、この国の貴族は腐ってる。禁止されているそれらの行為を水面下でやってる。バレなければいいと思ってるんだ」
「……」
「俺は人間達が同じ人間達をどう扱おうとどうでもいいと思ってる。だけど、同胞を……獣人族をその行為の商品にされることは許せない。俺たちは物じゃない。人間達と同じように生きている」
 エランはだんだんと熱が入ったように口調が荒くなる。そして固く握り拳を作り、憎々しげに石の床を殴りつけた。その様子を逆に落ち着いた心で聞いていたシイナは首を傾げる。
「……どうして?」
 シイナの言葉に今度はエランが首を傾げる。何を尋ねられているのかわからないようだった。
「あなたはいつも人間はどうでもいいって言ってる。だけど、人間も私たちも同じだよ。みんな生きてる。みんな大好きな家族がいる。帰りたい場所がある」
 シイナは自分の考えを纏めるように、ゆっくりと話し始める。
「同じなのに、どうして違うの?」
「君は……」
 シイナの純粋な疑問にエランは絶句する。何も知らない少女にエランは言葉を紡ぐことができなくなる。
 この問題は一朝一夕で解決するような話ではない。人間と獣人族は長い歴史の中でお互い睨み合い、時には戦争を起こしてきた。そして、その関係が大きく歪んだのは、ザーフィアス帝国の先代王が起こしたあの襲撃事件であるとはっきりと言えた。
 その事件を境に獣人族は人間達に一生をかけても拭えない恨みの気持ちを抱き続けている。その恨みの気持ちが、獣人族達を突き動かす動力源とも言えた。
 ここに囚われている獣人族だって、胸の内には深い憎しみを抱えている。今は人間達に飼われているからその憎しみを晴らす方法を知らないだけで、エラン達の話を聞けば、彼らもエラン達の考えに賛同してくれるだろうと自信を持って言えた。
 だけど、目の前の少女は違う。同じように酷い扱いを人間から受けながら、その心には人間を思いやる気持ちがある。エラン達のように恨む気持ちがないわけではないだろうが、その気持ちに呑まれることなく、少女は、シイナは人と獣人は同じだと言いきる。
 そのことにエランは返す言葉を失う。
 どうしてこの少女は、憎しみに溺れないでいられるのだろうか。エランはそう思った。
「良い人も悪い人も、どこにでもいるよ。人間だから獣人だからってそんなことで区別しなくても」
 エランが黙っているとシイナが顔を伏せる。これまで出会ってきた全ての人を思い出しているようだった。
「痛い思いは嫌。悲しい思いも嫌い。逆に、楽しい気持ちは好き。嬉しい気持ちもあったかい気持ちも大好き。それは人間と獣人で違うこと?」
 伏せていた瞳を僅かにに持ち上げる。下から覗き込むように見てくる瞳はエランの記憶の向こうにいる彼女を彷彿とさせた。
 太陽の下で笑顔がとてもよく似合う彼女。曲がったことを嫌い、人と獣人の未来を案じていた彼女。
 そんな彼女をシイナの瞳は思い出させた。
「あなたは、人間と獣人を無理矢理区別つけたいように見える。同じなのにおかしいことだよ」
 シイナははっきりと答える。エランの考えを、獣人族の想いを否定する。彼女が無知だからその言葉を言ってるのではない。彼女は彼女なりにこの世界を知り、理解した上でエラン達の考えを否定している。
「お父さんは、とてもすごい人。優しくてかっこよくて、私の大好きな人。ジェイクはとても優しくて、いつも一緒に遊んでくれる。アンナさんやニカさん、ナナさんは私のことを優しく見守ってくれる。アドリアーナ先生は私のことをよくできたねって褒めてくれる。ジョナソン先生は私に素敵な世界を見せてくれる」
 嬉しそうに話すシイナの横顔をエランはじっと見つめる。
「私を地獄のような世界から助けてくれたのはそんな温かくて、優しい人たち。あなたもお父さん達と話してみればきっとわかるよ」
 シイナはエランに笑顔を向ける。彼らのことが心の底から大好きなのだろう。その笑顔からそのことがわかった。その眩しいくらいの笑顔にエランは目を細める。
「そうか。君はその人達に救われたんだね……でも、俺たちにはそんな人はいなかった」
 エランはこれまでのことを振り返りながら目を伏せる。エラン達は常に人々の視線に怯えながら生きてきた。獣人族だと分かれば蔑まれ、暴力を振るわれ、捕まればどこかへと売られる。まるで見せ物のように気持ちの悪い視線に晒されて、その尊厳すら踏み躙られる。
 そんな日陰を生きてきたエラン達に手を差し伸べてくれる人間はいなかった。シイナのようにこの地獄から助けてくれる人間はいなかった。
 だからエラン達は自分たちで立ち上がるしかなかった。今もどこかで虐げられている同胞を、仲間を同じ地獄から救い出すために。
 そんな状況ではとてもじゃないがシイナの言うように人間と獣人が同じだとは思えなかった。そんな甘い考えを持てば、すぐに地獄へと逆戻りだった。
「なら」
 沈み込んだ思考の渦の中に一筋の光が差すようにシイナの声がすっとエランの頭に入ってくる。エランはシイナの声に導かれるように顔を上げる。
「私が助けてあげる。何ができるかは分からないけど、一緒に考えてあげることはできるよ」
 シイナは優しく微笑みながら強張ったエランの手を取る。その手からシイナの温もりが伝わり、エランの氷のように固くなった心を溶かすようだった。
 エランはその温もりに目を見開く。肩を並べる仲間は居ても、温もりを分け合う人はいなかった。そんなことをしている暇があれば一人でも多くの同胞を助ける方が先決だったから。
「……シイナは、おかしな子だね」
 エランはその温もりをむず痒く思いながら、そっと目を伏せて笑う。この時、エランは初めてちゃんとシイナの名前を呼んだ。こんな状況じゃなければ、そのことにもエランは恥ずかしさを感じていたかもしれない。
 シイナは一瞬何を言われたのか分からなかったのかきょとんとした顔をしていた。
「でもね、シイナ。それじゃあ、まだダメだ」
 エランは繋がれたシイナの手をジッ見つめ、その手を握り返す。
「俺たちの憎しみは、恨みは、そんなちっぽけなことでなくなったりしない。シイナの考えはきっととても素晴らしいものなのだろうけど、それだけじゃ俺たちは止められないよ」
 悲しいことだけど、とエランは思う。そして同時に、何が違ったんだろうかと考える。同じ獣人、同じ境遇、同じ地獄を知っているはずなのに二人の考えは交わることがなく、全く違っていた。
「さぁ、俺たちのことは今は置いておこう」
 切り替えるようにエランが明るい声を出す。その顔はまるで憑き物が落ちたかのように清々しさを感じさせた。
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