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第一章 甘えるということ

7話

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 飛び出したシイナは何処かを目指すわけでもなくひたすらに一人になれる狭い場所を探して走った。だけどこの屋敷はどこもかしこも大きく作られており、シイナが安心できるような場所はなかった。それに廊下にも掃除をする使用人たちがちらほらとおり、走って駆け抜けるシイナを驚いたように見ていた。
 シイナはじわじわと出てくる涙を拭いたかったが、せっかく着せてもらった綺麗な服を汚したくなくて、そのままにすることしかできなかった。
 やがて走り疲れたシイナは肩で息をしながら立ち止まった。ちょうど近くには誰もいないようだった。シイナが身を隠せる場所を探すように辺りを見渡すと、廊下から中庭に繋がる扉を見つけた。
 シイナは戸惑いながらも惹かれるようにその扉を開けて中へと入った。中庭は手入れされており、色とりどりの花が咲き乱れていた。
「わぁ……!」
 シイナはその花々の綺麗さに、泣きそうな気持ちも忘れて声を上げる。
 花はどこからか吹く風に揺れ、甘い香りを中庭いっぱいに漂わせていた。シイナはその中でも一番近い花に近づき、くんくんと鼻を動かした。獣人は人の何倍も嗅覚と聴覚に優れている。その嗅覚を使ってシイナは花の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
 花の匂いを堪能するときょろきょろと辺りを見渡し、中庭の中心へと進んでいった。
 中庭の中心には小さなガーデンテラスがあった。白を基調として作られた小さなテラスには同じく白いテーブルと二脚のイスが置かれていた。
 花で囲まれたテラスを見てシイナはまるで絵本の中の世界のようだと思った。
 シイナはまるで夢のような世界に目を輝かせた。シイナがそこに入ることでこの調和を崩してしまうのではないかと恐れたが、この世界に入り込みたい気持ちの方が勝った。
 足を一歩ずつ踏みだし、そこに近づこうとした時、他の誰かが地面を踏みしめる音をシイナの耳が拾った。
「シイナ」
「!」
 名前を呼ばれて、夢から覚めたようにはっとして振り返る。振り返った先にはアルベリヒが立っていた。シイナは悪いことをしているところを見つかったように慌て、視線を彷徨わせた。
 シイナの動揺が手に取るように分かったアルベリヒはシイナに近づくといつものようにすっと持ち上げた。アルベリヒに会ってから何度も抱っこをされているが、地面に足がつかない感覚や温もりが近くにある感覚はすぐには慣れそうになかった。
「少し話そう、シイナ」
 そう言ってシイナが勇気を振り絞って中に入ろうとしたテラスにはアルベリヒは足を向ける。
 テラスに入ると椅子に座り、シイナを膝の上に乗せた。シイナは膝の上でどうしたらいいのかと戸惑ったようにアルベリヒを見上げる。
「そんな困った顔をしなくても大丈夫だ。何も怖いことはしない。……それよりも、シイナ。シイナのことを教えてくれないか?」
「……私の、こと?」
「そうだ。シイナ、君のことだ。君の生い立ちについては調べればどうにでもなる。だが、シイナの気持ちはシイナが口に出してくれないと私には分からない」
 真剣な表情で話すアルベリヒの瞳をじっと見つめる。シイナの事を知りたいなんて言われたのは生まれて初めてで返答に困った。何をいうのが正解なのかシイナには分からなかった。
 もしもアルベリヒの意図に沿わない答えを返してしまって、アルベリヒに呆れられたらどうしようとか、やっぱりお前はシイナじゃないと突き放されたらと思うと、気軽に答えることができなかった。
「難しく考える必要はない。シイナの今の気持ちを、ありのままに話してくれればいい。どんな気持ちでもちゃんと聞くから」
 コツンとアルベリヒがシイナの額に自身の額をくっつける。おでこからアルベリヒの体温が伝わってくる。ぐるぐると考えていた頭はその温もりに包まれて冷静さを取り戻していった。
「……どうして」
 無意識に出た言葉だった。至近距離でアルベリヒの瞳をじっと見つめながら、シイナはか細い声で言う。アルベリヒの瞳は優しく、シイナを拒絶していなかった。そのことが嬉しいと素直に思った。
「私、だったんですか?」
 あの場にはたくさんの孤児が居た。その中でもアルベリヒは自分を見て真っ先にシイナだと言ってくれた。シイナを見つけてくれた。それがなぜか知りたかった。
「そうだな。私はずっとシイナを探していた。……私は昔にある人と約束をした。必ず、君を見つけると」
 アルベリヒも言葉を選ぶように口にする。
「そのある人は君にとてもよく似ている」
「似てる……」
「あぁ、金色の髪に青い瞳……きっとシイナの笑顔もその人によく似ているだろう」
「……その人も私と一緒、ですか?」
「君と一緒だ。その人も獣人だ」
 アルベリヒの話を頭の中で飲み込みながらある人に思いを馳せる。シイナは誰からも気にかけられたことがなかった。皆んなに嫌われて、普通の子供とは違うから周りに受け入れてもらえないのだと思っていた。
 だけど、こんな世界でもシイナの知らないところでシイナを想っていてくれた人がいた。その人が今どこにいるのかはわからないけれど、シイナと同じ種族で、アルベリヒと約束をしてまでシイナを気にかけてくれた人がいた。
 その事実がシイナには嬉しかった。
 シイナは無意識に耳をぴょこぴょこと動かした。
「私は、その人に、会えますか?」
 期待を込めるようにアルベリヒを見つめる。するとアルベリヒは僅かに悲しそうに顔を歪めた。
「すまない。その願いは叶えてあげられない。その人は遠くへ行ってしまったんだ」
 アルベリヒの返答に「そう、ですか……」と落胆した様子を見せる。アルベリヒは励ますようにシイナの頭を撫でる。
「だけど、その人はいつだってシイナのことを想っている。だから、そんな悲しそうな顔をしないでくれ」
 シイナの頭にアルベリヒが頬を寄せる。そして優しくシイナを腕の中に抱きしめる。
「……私は、いつまで、ここにいられますか?」
 シイナはぼんやりと庭園の奥を見つめながら尋ねた。この短い間で十分夢を見させてもらった。この夢が覚めるなら早い方が傷が浅くて済むだろう。そうシイナは考えた。
「昨日も言ったが、私はシイナと家族になりたい。シイナは私と家族になりたくはないか?」
「……でも、私、なにも持ってません。役立たずだし、なにをやっても失敗ばかりで、迷惑になるだけです」
 話していくうちにだんだんと顔が下を向く。いつも周りの大人や子供たちに言われ続けた事だった。
『お前は役立たずだ。なにをやらせてもダメ。ダメ!ダメ!ダメ!そんな役立たずなのに飯だけもらおうなんて図々しいなぁ!』
 孤児院の院長の声が蘇る。
『あの子のそばにいると目をつけられる。そばによらない方がいいよ』
『あの子、ほら、私たちと違って化け物だから。一人の方が好きなのよ』
 陰でこそこそと話していた子供の声が聞こえる。
 思い出される声が頭の中に響いて思わず目を閉じる。そして何も聞きたくなくて耳を押さえて塞ぎたくなる。
 シイナは何もしていなかった。ただ言われた通りの仕事を行い、言われた通りに過ごしているだけなのに、罵倒や陰口を言われ続けた。ただ、獣人の子供だからと言う理由で。
「シイナ、顔を上げなさい」
 暗闇の中で一筋の光が差すようにアルベリヒの声がシイナの耳に届く。うるさく響いていた過去の亡霊の声はアルベリヒの存在に蹴散らされたのか、聞こえなくなっていた。
 アルベリヒの声に促されるように顔を上げる。
「シイナがたとえ役立たずでも、化け物だって、私は構わない。私はシイナだから家族になりたい。シイナの事を守りたいんだ」
 アルベリヒはシイナから目を逸らさず、そう言った。シイナは思わず息を呑んだ。利害もなくそんな事を言ってくれる人がいるなんて、夢か絵本の中だけの話だと思っていた。
 この世界はシイナにとって厳しく、辛いものだった。シイナはずっと、いつかそんな世界から助け出してくれる、絵本の中のヒーローのような存在を待っていた。だけど実際にそんな人が現れるわけがないと初めから諦めてもいた。
 だけどアルベリヒがシイナの前に現れた。シイナを見つけてくれた。そしてシイナを迎えにきてくれた。
「私……家族に……お父さんって、呼んでもいいんですか?」
 震える声でシイナが祈りを込めながら尋ねる。アルベリヒは優しく笑って頷いた。
「もちろん」
 シイナの目尻から涙が溢れる。シイナはこんなに暖かい涙があるなんて知らなかった。アルベリヒは懐から綺麗に折り畳まれたハンカチを取り出すと優しくシイナの涙を拭った。
 どれだけ拭ってもシイナの涙は止まるところを知らなかった。早く泣き止まなければと思うのに、ようやくアルベリヒの家族になるという実感を得て止めようがなかった。
 アルベリヒはシイナを抱え直して昨晩のように肩口にシイナの頭を置く。そして背中をポンポンと優しく撫でる。その優しさがさらに涙を誘った。
「うっ……うぅぁ……!」
 声を押し殺して泣く。アルベリヒはシイナの気持ちが落ち着くまでいつまでも背中を撫で続けてくれた。
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