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プロローグ

4話

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 ナナが風呂場に来てからは嵐のようにことが進んだように感じた。シイナの反応を見ながら湯浴みを進めてくれたが、アルベリヒを待たせていることもあって段取りよく進んだ。
 シイナはお風呂のお湯に触れた時あまりの熱さにぴゃっと体が跳ねた。するとアンナ達がシイナにとっての適温になるようにすぐに温度の調節をしてくれた。
 湯浴みは水を被るだけだと思っていた。だから水を被って大まかな汚れを落としたあとアンナたちが泡立つ何かを取り出して体をもくもくに包んできた時、シイナは再び体を硬くさせた。
 後からあれは石鹸と言って体をより綺麗にするためのものなのだと知った。
 シイナが体を硬くしている間に体の隅々まで洗われて、痣や孤児院でできた傷はあれど、来た時とは見間違うほど綺麗な体になっていた。
 湯浴みを終えるとシイナは新しい白い無地のワンピースを着せられた。髪は櫛で解いてもらった。自由に伸びきった毛先は栄養不足もあってばさばさとあらぬ方向を向いていたが、それでも湯浴みをする前に比べれば幾分かマシになっていた。
 それからナナに抱き上げられてアルベリヒが待つ書斎へと案内された。
「旦那様、シイナ様をお連れしました」
「入れ」
 アルベリヒの了承を得てアンナが書斎へと続く扉を開く。ニカはナナの後ろで控えていた。
 シイナはナナに部屋の中まで運んでもらい、アルベリヒのそばでそっと体を地面に戻された。
 地面に足をつけた時一瞬ふらついたが、そばにいたナナが体を支えてくれた。
 書斎は両側が大きな本棚となっており、たくさんの本が並べられていた。書斎の扉の真正面には大きな窓があり、その手前にアルベリヒが座り、客人用の机と長椅子が並べられていた。アルベリヒが使っている机には燭台があり、蝋燭の灯りがゆらりと揺れている。大きな部屋に燭台一つではとても光量が足りているとは言えなかったが、それでもアルベリヒの顔ははっきりとわかった。
「シイナ」
 アルベリヒがくれた名前を呼ばれてシイナは顔を上げる。全てを飲み込むような黒い瞳は孤児院でたまに窓から見たカラスの色に似ているようで、全然違った。カラスの黒い色よりももっと深く、濃く、その目に見つめられたら目を逸らすことができなくなるのではないかと思うほどだった。
 燭台の灯りがゆらりと揺れるたびにアルベリヒの瞳もきらりと光る。
「改めて、ようこそポートランド家へ。これからはシイナ・ポートランド、それが君の名前になる」
 無表情で淡々と告げられた事実をただ受け止める。それ以外にシイナにできることがなかったのだ。
「……今はきっとわからないことも、この先分かるようになる。そして安心して欲しい。もうシイナが嫌がることも、痛いことも、理不尽に泣くこともないと約束しよう」
 じっと漆黒のような瞳で見つめられながらアルベリヒは告げる。シイナはアルベリヒの言葉をゆっくりと噛み砕き、そして想像する。
 シイナにとって嫌なことは化け物と呼ばれて叩かれること。普通じゃないと虐げられること。痛いことも居場所がないこともずっと嫌だった。
「……いばしょ」
 ポツリと言葉を漏らす。アルベリヒは片方の眉を僅かに上げシイナに言葉を促す。
「いやなこと……だれも、そばにいない。ひとりぼっちは、いたい……です」
 シイナはなけなしの勇気を振り絞って拙いながらに考えたことを伝えた。それは初めてシイナが口にした希望のようなものだった。アルベリヒはずっと目を細めると椅子から立ち上がりシイナの脇に手を入れる。
 シイナの体がふわりと宙に浮く。ここに来るまでに何度も経験した感覚だった。
 アルベリヒは同じ目線になったシイナの瞳をしっかりと見つめる。そして力強く言葉を言い聞かせた。
「これからは私が家族になる。シイナを一人にはさせない。寂しい夜もひとりぼっちの日々ともお別れだ」
 シイナの瞳が蝋燭の灯りを反射してきらりと光る。まるで初めて希望を目の当たりにしたように。
 シイナは唇をワナワナと振るわせる。そして何か言葉を口にしようとしては失敗することを何度か繰り返す。最後はきゅっと唇を強く噛み締め、顔を隠すように下に向ける。そして遠慮がちにアルベリヒに手を伸ばす。アルベリヒの首の後ろで手を組むようにしてアルベリヒの体に自身の体をくっつける。
 手を握るより、頭を撫でられるより、抱き上げられるよりも、ずっと暖かかった。その暖かさについ涙腺が緩み、涙がじわじわと目尻に浮かんだ。
 シイナの流した涙がアルベリヒの肩を濡らす。アルベリヒは堪えるように震えるシイナの背中を優しく撫でた。
「おかえり、シイナ」
 アルベリヒはそっとシイナの頭に顔を寄せた。

 しばらく声を押し殺すようにして泣き続けたシイナは気がつくと静かに寝息を立てていた。アルベリヒの肩はシイナの涙で冷たくなっていたが、アルベリヒはそれすらも愛おしいように優しくシイナの背中を撫でていた。
 アルベリヒはシイナを起こさないように抱き直すとシイナのために用意していた部屋へと向かった。子供のための部屋ということもあり少し小さめな部屋だったが、それでもシイナがこれまで過ごしてきた場所に比べれば十分過ぎるほどの大きさだった。
 その部屋には絵本やちょっとした玩具が置かれており、家具や調度品は全て子供のためのサイズで作られていた。しかしこれまでまともな生活を送ることができなかったシイナの体ではどれも大きく見えた。
 大き過ぎるくらいの天蓋付きのベッドにシイナを横たわらせて、柔らかい羽毛布団を肩まで掛ける。
 そこまでしてアルベリヒはようやく後ろに控えていたナナ、アンナ、ニカに目をやった。
「下がっていい。明日からもシイナの身の回りのことを頼む」
 端的に伝えると三人は了承したようにお辞儀をして、物音一つ立てずに部屋の外へと出ていった。三人の姿が見えなくなると、アルベリヒはベッドの近くに備え付けられていた大人が座るには小さな椅子に腰掛けた。
 シイナを見つけた時、シイナの肌は汚れで黒ずんでおり髪は手入れされていないことがはっきりとわかるほどボサボサで、本来の色よりも程遠い燻んだ黄色をしていた。しかしナナ達の努力のおかげか、たった一回しっかりと体を洗うことで、今のシイナの肌は白く陶器のようであり、髪も夜に輝く月のように金色で綺麗だった。適当に伸ばされて好き勝手に散らかる毛先は後日どうにかする手筈を整えようと考える。
 アルベリヒはその存在を確かめるようにもう一度シイナの頭を撫でようと手を伸ばした。シイナに触れる直前、アルベリヒはシイナの面影に彼女を見た。
 シイナと同じように不純物の混じらない金色の髪に、空の色を溶かし込んだかのような透き通る水色の瞳を持つ彼女。触れれば傷つけてしまうのではないかと思えるほど華奢な体付きなのに、誰よりも芯が通っており曲がったことを許せない性格の持ち主だった。
 太陽の下で、笑顔がよく似合う女性だった。
 そんな今は亡き彼女の願いが、約束が、アルベリヒを呪いのように縛る。
「イザベラ……」
 伸ばした手を宙で硬く結び、アルベリヒは懺悔するようにその名前を口に出した。その声は誰に届くこともなかった。
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