悪意の揺り籠の中で、令嬢は人を信じることを止めた

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慣れ親しんだ居場所

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 翌日、私はいつも通り外に出かける。

 そして、中層に出て、道を歩いていると色々な人から挨拶される。最初は戸惑ったものだが、もはや見慣れた光景なので、それぞれに言葉を返しながら歩いて行く。

 八百屋のおばちゃん、魚屋のおじさん、花屋の老夫婦、走り回る子供達。

 
 昔、世界に絶望してからはただの箱庭と人形のようにしか感じていなかった。だが、今それは命を持った存在となって私の周りを彩っている。

 もちろん、それはいいことばかりでは無い。だが、今の私にはこの色が戻った世界が綺麗に思え、そして、淡い期待を抱いてしまうのだ。以前、初めて社交界へ赴いた日のように。




「おはよう。クララちゃん、今日もアールとデートかい?」


 もう少しで待ち合わせ場所というところで昼から飲んでいるマルコに声をかけられる。
 最初に会った時もそうだったが、彼が飲んでいない日を見たことが無い。私は苦笑しながらそれに応える。

「デートじゃありません、仕事です。それに、そういう関係でもありませんので」

「そんなことないだろ。アールがあんだけ若い連中を追い払ってるんだから」

「そうなのですか?」


 初めて聞く話だ。確かに、若い男の人に話しかけられることは以前は多かった。だが、いつからかあまり話しかけられなくなった気がする。流石に貴族令嬢に何かあってはいけないと守ってくれていたのかもしれない。


「ああ。アイツはモテるのにそういう浮いた話は全く無かったから、ついに春が来たって噂になってるくらいなんだぜ。そうそう、そう言えば前に」

 
 不自然なところで固まった彼に不思議に思う。そして、その視線の先に目を向けるとアラン殿下がマルコの方に静かに目を向けていた。
 怒りは感じさせないが、有無を言わせないような強い圧力を感じる。
 

「マルコ、酔い過ぎだ」

「そんなに飲んでは……いや、やっぱり酔っぱらってるみたいだから俺は帰るわ。じゃあね、クララちゃん」

 
 マルコはそのまま逃げるように走り去っていく。そして、状況の変化に戸惑いつつアラン殿下に話しかける。


「少し遅れてしまいましたか?申し訳ありません」

「いや、まだ遅れていない。ただ、いつも早く来る君がいないから少し見に来ただけだ」

「そうですか。心配して頂いてありがとうございます」

「いや、俺が勝手にやったことだから気にしないでくれ。それと、今日は少し予定を変えた。ついてきてくれ」


 そう言って彼は歩き出した。

 しかし、予定変更とは珍しい。基本的に彼は猶予時間を作りながら予定を立てるのであまり予定自体を変更することは少ない。それこそ、避けられない事故が発生したときくらいなものだ。

 不思議に思って着いていくと、以前使った地下道に進んでいき、そして、外に出た。


「久しぶりですね、クレア様」


 日の光の眩しさに目を細め、足を止めていると、馬車の御者席に座ったゼクスの声が聞こえてきた。


「お久しぶりです。ゼクス様」

 
 その言葉に私が返すと、彼は苦笑した。
 

「相変わらず貴方は丁寧ですね。俺が下層出身って既に知っているでしょうに」


「これは癖のようなものですからご容赦ください。それに、公の場ならまだしも、私的な場で下層だから、中層だからということで対応を分けることの意味を感じませんので」


「そうですか…………こりゃ女主人を迎え入れる準備をした方がいいですかね?」

 
 最後の言葉はこちらには聞こえず、殿下に向けて話していたようだ。

 殿下は、睨みつけるようにゼクスを見ているが、それに対してゼクスは飄々とした態度で肩を竦めていた。
 
 本当にこの二人は主従という関係以上に信頼があるのだろう。それが伝わってくる。


「今日は、君を連れて行きたいところがある。それほど時間はかからないが、馬車に乗ってくれ」 
 

 馬車で出かけることなどこれまで無かったので疑問に思うが、言われた通りに乗る。

 二人が乗ると、馬車が静かに動き出した。

 



◆◆◆◆◆





 そして、世間話を交えながら話をしていると、少しして馬車が止まる。

 外に出ると、以前カテジナ嬢と騎士爵の息子の目撃情報のあった大きな湖が目の前にあった。

 
 この湖は通称『誓いの湖』、遥か昔、戦争に行く男が、この場所で愛する女に帰還を誓い、無事に帰った。という言い伝えがある。
 そして、それが転じてこの場で誓ったことは必ず果たされるという風に噂が立っているようだった。


 ただ、今ではそれほど多くの人が知っているわけでは無く、夜光虫の見える夜にしかほとんど人通りは無い。
 加えてゼクスの警戒するこの場なら、人に話を聞かれることもほとんど無いだろう。

 
 少し過去の記憶を思い出しながら前を見つめていると、横からふいに声がかかった。



「ありがとう」


 
 その一言が何に対してのものなのかわからず疑問符を浮かべる私に、彼は笑いかける。



「兄上に聞いたよ。これまで苦悩していたこと、そして、君の言葉で決心がついたことを。どうやら、俺たち兄弟はすれ違っていたらしい。俺は、兄上が俺のことで悩んでいることなんて全く知らなかった」



「俺は、兄上のことを信頼している。だから、自分が前に出なければそれでうまくいくと思って敢えて話し合うことはしてこなかった。でも、それがいけなかったのだろう。俺は、また間違えた、いや、間違いかけた」



「昔、兄上は俺が何も話さずともわかってくれた。だから、俺はそれに甘えていたんだろう。そして、兄上は俺が昔本心を隠しながら生きていたことを知っていて、その時のように何も話さないのではという気持ちを奥底に持っていた」



「このままいけば、俺たちは取り返しのつかないほどすれ違っていたかもしれない。だから、それを救ってくれたクレアに俺は感謝しているんだ。これ以上ないほどに」

 殿下は穏やかな笑みでこちらに笑いかけている。



 でも、よかった。二人がちゃんとわかり合えて。

 今ならわかる。私は、その美しい愛情を、その自分の手に入らなかったものを、どうしても壊して欲しくなかった。だから、それが守れたことがとても嬉しい。


「いいえ、私が勝手にしたことですので気にしないでください。それに、私なんかができることは大したことがありませんので」

 
 本当に大したことはしていない。彼らがこれまで形作ってきてものが傾きかけたように見えたので、少し手を添えただけ。
 それを形作ることがどれほど難しく、大変で、素晴らしい事なのかを知っている私にとっては、自分のしたことを誇る気持ちには到底なれない。




「…………君はいつも自分を卑下しているが、俺には君がとても魅力的な人間に映っている。それこそ、出逢うたびにその想いは強くなっている」

 

 そんなことは無い。自分がこれまでにどう扱われ、何をしてきたかを殿下は知らないのだから。



「それは、評価が過ぎると思います。私には、大したことはできません。それこそ、頭が多少回るくらいです。現に、私は家族と仲が良くありませんし、自己防衛とは言っても外では人を傷つけてきました。それに、ある程度の関係を作れたとしても、そこには常に利害関係があったんです。私はずっとそういう人間で、だから、その言葉は相応しくありません」


 自嘲するようにそう返す。だが、これが真実だ。私が人に好かれることは今まで無かった。それは一番自分がよく知っているのだから。





「……君は、自分が信用できないんだろう。その気持ちはわかるよ。俺も過去の過ちをずっと気にしていたから。だが、俺の場合はそれを家族が癒してくれた。でも、君はそうじゃない。その傷を周りが逆に広げてきたんだろう」




 そして、今まで以上に強い意志を乗せて彼はこちらの目を見つめると、言葉を更に重ねる。


「ならば、俺が君のその傷を癒したい。前にも伝えたが、クレアは賢く、努力家で、優しい人だ。誰もが君を良く言っている。あの気難しいシーラ婆さんも、物覚えが良く、働き者で、弱い者や子供の面倒をよく見ると手放しに褒めていたくらいだ」



「俺は、君が自分のことを信じれるようになるのを手助けしたい。兄上が王位に就いた今、それを支えることに多くの時間も取られるだろう。特に、下層に関する事案で大きな変化も生まれると思う」



「だが、俺はそれでも可能な限りの時間を君に使う。そして、改めて誓おう。俺は君の手を引く。いや、引き続ける、たとえ君がそれを望まずとも」




 私は殿下がこの湖に伝わる言い伝えを知っているかは分からない。

 だが、どちらでもあまり関係は無いだろう。殿下は自分で決めたことは必ずやり切る。それを私はこれまでの積み重ねで知っているのだから。


 いつものように自分勝手で、それでいて力強さを感じさせてくれるその物言いに、私は慣れ親しんだ居心地の良さのようなものを感じていた。


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