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クレーマー一号(ズイちゃん)

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  翌日なつみは、早速房代経営のカフェを訪れた。初めて彼女と会った場所である。手広く商売をしている房代だが、メインはこの店だそうで、アパートのことで何かあったらここに来てくれ、と言われている。

 店頭には、手土産向きのクッキー類が並んでいた。来訪の口実に、取りあえず買い求める。すると、なつみに気が付いたらしく、奥から房代が出て来た。

「まあ、なつみさん。お部屋の住み心地はどうえ?」
「おかげさまで、快適に過ごさせてもらっています」

 妙な狐がたまに来ますが、となつみは心の中で付け加えた。さて、世間話をしつつ、さりげなく息子の話を聞き出そうか。すると何と、向こうの方からこんなことを言い出した。

「なつみさん。就職活動でお忙しいやろうけど、どこかで時間を作れへん? 実はなあ、義母がなつみさんに会いたいゆうてるんやわ。右京さんのお孫さんなら、是非にって。うち、このすぐ近くやし、また暇な時にでも寄ってくれへん?」

 渡りに船だ、となつみは目を輝かせた。

「わあ、是非。祖母のお友達なら、私もお目にかかりたいです。今日でもいいくらいですよ?」

 就活も目処が付いたんです、と嘘だが付け加える。

「ほんまに? ほな、せっかくやから寄って行って。狭い家やけど」

 房代は、ほほほと笑ったのだった。


 房代の言葉は、嫌味なレベルの謙遜だった。カフェから徒歩五分くらいの場所にあったのは、広い庭園を併せ持つ、趣ある日本家屋だった。その坪数たるや、周囲の他の民家とは、比較にならない。

 房代の案内で、なつみは応接間へと案内された。十畳はあろうかというその和室には、高価そうな掛け軸や壺が飾られている。仕事があるという房代は、お茶を出すとすぐに店に戻ってしまった。何となく緊張しながら待っていると、しばらくして、小柄な白髪の老女が姿を現した。品の良い着物を、びしっと着こなしている。

「はじめまして、榊なつみと申します。アパートの件では、お世話になっております」

 なつみは、立ち上がって挨拶した。
 
「前原絹子きぬこです。こちらこそ、天珠さんには感謝してもしきれへんのですよ」

 絹子は、にっこり笑いながらなつみに座布団を勧めた。座卓に向かい合って腰かけると、絹子はふうとため息をついた。

「なつみさんのお力になれたのなら、よかったかもしれへんけど……。房代さんもねえ。商売だけやなくて、もっと子供の教育にも力を入れてもらわんと」
 
 早速嫁の愚痴が始まるのかとうんざりしなくもないが、これは孫息子の話を聞き出すチャンスでもある。なつみは、絹子の話に耳を傾けることにした。

「うちの家業は、ご存じやろ?」
 
  ええ、となつみは頷いた。房代の夫は開業医で、彼の父・つまり絹子の夫も、その父もそうだったとか。医院の歴史は、かなり古いらしい。
 
「それ、全て天珠さんのおかげやからねえ」
「えっ、まさか」

 意外な言葉に、なつみは目を見張った。絹子が、くっくっと笑う。

「ほんまやでえ。私はうちの主人とは、十代の学生の頃から婚約しとったんやけど。主人は、それは気が弱うてなあ。大学受験前に、自信が無いと言い出したんやわ。それを、びしいっと叱ってくれはったのが、天珠さん。F大なら絶対に受かる、しゃんとせえってな」

 F大は、京都で唯一の公立医大で、医学部志望の関西の受験生には人気がある。それにしても、祖母はなぜそんなことを断言したのだろう、となつみは訝った。受験、それも医学部受験に詳しいだなんて、初耳だ。

「ほんで半信半疑受験してみたら、見事合格してなあ。学校の先生も、厳しい言わはったのに。まあそんなわけで、前原家は途絶えずにすんだのや」

 絹子が、にこにこと続ける。

「せやから、うちの長男も次男もF大に進ませたわ。次男のところの子は、諦めて私大にしたんやけど……」

 ふう、と絹子はため息をついた。表情は、一転険しくなっている。

「まあ、それはええ。順平じゅんぺいには、F大に行ってもらわなあかんのや。大事な大事な、跡継ぎやさかい」

 順平というのが、房代と、絹子の長男の間の息子らしい。大変だなあ、となつみは身をすくませた。両親のみならず、祖母まで躍起になっているとは(ついでにご先祖まで)。なつみは、自分が受験した時のことを思い出した。京都の大学を受けたいと主張したなつみに対し、『都内の大学なら実家から通えるのに』と母が少々愚痴ったぐらいで、家庭内で大きな波風は立たなかった。

「あら、噂をすれば。なつみさん、少し待っててくれはる?」
 
 自分の言いたいことだけまくし立てると、絹子は不意に立ち上がった。襖を開け、何やら誰かに呼びかけている。

「順平ちゃん、今日の予備校はどうやったの? 英語でわからんゆうてたとこは、解決したんか?」

 どうやら、問題の順平が帰宅したらしい。なつみは、耳をそばだてた。

「何やて? 代行の先生? それで、結局わからんままやったんかいな」

 絹子の声音が厳しくなっていく。なつみは、何だか順平に同情したくなった。受験勉強のことで、ここまで家族に介入されるなんて。医学部受験ともなれば、そうなのだろうか。

「ほんまに、ええかげんな予備校やなあ。後で文句をゆうたるわ。いっそのこと、別のとこに変わった方がええかもしれんなあ……」
「あのっ」

 なつみは、思わず応接間から走り出ていた。見れば廊下の先には、絹子と若い男性が立っている。二人は、なつみを見て驚いたような顔をした。

「順平君、ですよね? 私、絹子さんの友人の孫の、榊と申します。すみません、聞くつもりは無かったんですが、聞こえてしまって」

 順平は、気弱そうな雰囲気のほっそりした青年だった。ぽかんとしている彼に、なつみは言った。

「私でよければ、わからない箇所見ましょうか? 英語は得意なんです。英検やTOEICも持ってますよ」
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