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第五章 泡沫の夢
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早めのチェックアウトを済ませると、瑞紀は、『メイト・エージェント』へと向かった。話がある、と西尾に連絡すると、彼は、開館時刻よりも前に建物に通してくれた。いつも打ち合わせる部屋で向かい合うと、瑞紀は深々と頭を下げた。
「ごめんなさい、西尾さん。この任務、失敗しました」
「詳しく頼む」
西尾の声音は、意外にも穏やかだった。瑞紀は頭を上げると、彼の目を見つめて語り始めた。
「厄介な奴に付きまとわれたのが、きっかけなんだ。アルファのいとこなんだけど……。それを心配した小田桐聖が、小田桐ホテルに部屋を確保してくれたんだ。それも、VIP用の部屋をな。それを知った小田桐みどりが、俺が聖との結婚を目論んでると誤解したんだ。はっきり、クビだと言われた」
「なるほどなあ」
西尾は、深刻そうに腕を組んだ。
「本当に、申し訳ない。誤解されないよう注意しろって、言われたばっかりだったのに……」
「まあ、仕方ない」
西尾の反応は、案外あっさりしていた。
「小田桐みどりがそう言い張るなら、とりあえず前金は返すしかないな。でも、その後のことは気にしなくていい。俺の方で、何とかしてやる」
そう言うと、西尾はスマホを取り出した。電話をかけ始める。
「早い時間に、失礼いたします。私、『メイト・エージェント』の西尾と申しますが……」
西尾が名乗るなり、電話口の向こうからは、ヒステリックな怒鳴り声が聞こえてきた。みどりだ、と直感する。はい、はい、と西尾は丁重に返事を返した。
「まことに、申し訳ございませんでした。中森にくださった前金は、責任を持ってお返しいたします。そして、今後ですが……」
そこで西尾は、ぴたりと黙った。何やら、みどりが話し始めたらしい。しばし耳を傾けた後、西尾は大きくうなずいた。
「かしこまりました。では、そのように取り計らいます」
何度も謝罪した後、西尾はようやく電話を切った。
「みどり社長、何て?」
「息子とは一年婚活させると約束した手前、うちには登録し続けるってさ。だが、サクラはもう不要だと。その代わり、聖が興味を持ちそうも無いような、好みとは反対のオメガを紹介し続けろと」
なるほど、と瑞紀はうなずいた。別のオメガを紹介したところで、意欲の無い聖が、結婚を考えることは無いだろう。それを西尾に言ってやれば安心するのだろうが、勝手に話すのははばかられた。
「で、前金のことだが」
西尾は、てきぱきと話を進めて行く。
「今日中に、同額の小切手で返せと。二十時以降に小田桐ホールディングス本社へ来い、と高飛車におっしゃっていた。どうする? お前が直接返した方が、心証は良いだろうが」
「うん、そうする」
瑞紀は、即座に同意した。
「本当にごめんな、西尾さん。世話になったのに、顔をつぶしちまって……」
「もう謝るな」
西尾は、きっぱりと瑞紀の言葉をさえぎった。見ればその表情は、驚くほど穏やかで、瑞紀は面食らった。
「元はと言えば、そのいとこが原因だろ。例の、同居してた奴だな?」
うん、と瑞紀は答えた。前に打ち明けたことがあるので、西尾は壮介とのことを、よく知っているのだ。
「けど、失敗は失敗……」
「だから、もういいんだって」
西尾は、励ますように瑞紀の肩をポンポンと叩いた。
「一度の失敗で、くよくよすんな。たまたま、厄介な案件だったのさ。お前には、期待してるんだ。これからも、よろしく頼むぞ?」
こくんと、瑞紀はうなずいた。西尾はふっと笑うと、席を立った。瑞紀の隣に腰かける。
「なあ、中森。初めてお前と会った時のこと、覚えてるか?」
「そりゃ、忘れようがないだろ」
瑞紀は、クスッと笑った。
「入店して俺を買ったってのに、何もしないんだもんなあ。ビジネスの話を始めるから、たまげたぜ」
西尾は、瑞紀が売り専ボーイとして働く店に、客として来店したのだ。そして指一本触れることなく、サクラの仕事を持ちかけたのだった。後で聞いたところでは、その種の店を回っては、サクラにふさわしいオメガを探していたらしい。
「お前は、見た目が綺麗なだけじゃなく、頭が切れると踏んだ。客の顔色を見て、とっさに好みに合わせる機転を、お前は持ち合わせていたんだ。おまけに、演劇経験者ときた……。サクラとして、これ以上の逸材はいないと思ったね」
けど、と西尾は続けた。
「お前は、もっと幸せを望んでもいいと思う。お前には、その権利がある」
「ごめんなさい、西尾さん。この任務、失敗しました」
「詳しく頼む」
西尾の声音は、意外にも穏やかだった。瑞紀は頭を上げると、彼の目を見つめて語り始めた。
「厄介な奴に付きまとわれたのが、きっかけなんだ。アルファのいとこなんだけど……。それを心配した小田桐聖が、小田桐ホテルに部屋を確保してくれたんだ。それも、VIP用の部屋をな。それを知った小田桐みどりが、俺が聖との結婚を目論んでると誤解したんだ。はっきり、クビだと言われた」
「なるほどなあ」
西尾は、深刻そうに腕を組んだ。
「本当に、申し訳ない。誤解されないよう注意しろって、言われたばっかりだったのに……」
「まあ、仕方ない」
西尾の反応は、案外あっさりしていた。
「小田桐みどりがそう言い張るなら、とりあえず前金は返すしかないな。でも、その後のことは気にしなくていい。俺の方で、何とかしてやる」
そう言うと、西尾はスマホを取り出した。電話をかけ始める。
「早い時間に、失礼いたします。私、『メイト・エージェント』の西尾と申しますが……」
西尾が名乗るなり、電話口の向こうからは、ヒステリックな怒鳴り声が聞こえてきた。みどりだ、と直感する。はい、はい、と西尾は丁重に返事を返した。
「まことに、申し訳ございませんでした。中森にくださった前金は、責任を持ってお返しいたします。そして、今後ですが……」
そこで西尾は、ぴたりと黙った。何やら、みどりが話し始めたらしい。しばし耳を傾けた後、西尾は大きくうなずいた。
「かしこまりました。では、そのように取り計らいます」
何度も謝罪した後、西尾はようやく電話を切った。
「みどり社長、何て?」
「息子とは一年婚活させると約束した手前、うちには登録し続けるってさ。だが、サクラはもう不要だと。その代わり、聖が興味を持ちそうも無いような、好みとは反対のオメガを紹介し続けろと」
なるほど、と瑞紀はうなずいた。別のオメガを紹介したところで、意欲の無い聖が、結婚を考えることは無いだろう。それを西尾に言ってやれば安心するのだろうが、勝手に話すのははばかられた。
「で、前金のことだが」
西尾は、てきぱきと話を進めて行く。
「今日中に、同額の小切手で返せと。二十時以降に小田桐ホールディングス本社へ来い、と高飛車におっしゃっていた。どうする? お前が直接返した方が、心証は良いだろうが」
「うん、そうする」
瑞紀は、即座に同意した。
「本当にごめんな、西尾さん。世話になったのに、顔をつぶしちまって……」
「もう謝るな」
西尾は、きっぱりと瑞紀の言葉をさえぎった。見ればその表情は、驚くほど穏やかで、瑞紀は面食らった。
「元はと言えば、そのいとこが原因だろ。例の、同居してた奴だな?」
うん、と瑞紀は答えた。前に打ち明けたことがあるので、西尾は壮介とのことを、よく知っているのだ。
「けど、失敗は失敗……」
「だから、もういいんだって」
西尾は、励ますように瑞紀の肩をポンポンと叩いた。
「一度の失敗で、くよくよすんな。たまたま、厄介な案件だったのさ。お前には、期待してるんだ。これからも、よろしく頼むぞ?」
こくんと、瑞紀はうなずいた。西尾はふっと笑うと、席を立った。瑞紀の隣に腰かける。
「なあ、中森。初めてお前と会った時のこと、覚えてるか?」
「そりゃ、忘れようがないだろ」
瑞紀は、クスッと笑った。
「入店して俺を買ったってのに、何もしないんだもんなあ。ビジネスの話を始めるから、たまげたぜ」
西尾は、瑞紀が売り専ボーイとして働く店に、客として来店したのだ。そして指一本触れることなく、サクラの仕事を持ちかけたのだった。後で聞いたところでは、その種の店を回っては、サクラにふさわしいオメガを探していたらしい。
「お前は、見た目が綺麗なだけじゃなく、頭が切れると踏んだ。客の顔色を見て、とっさに好みに合わせる機転を、お前は持ち合わせていたんだ。おまけに、演劇経験者ときた……。サクラとして、これ以上の逸材はいないと思ったね」
けど、と西尾は続けた。
「お前は、もっと幸せを望んでもいいと思う。お前には、その権利がある」
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