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第二話 明子
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新月からか空の輝度は彼を照らすには及ばず、天井に張り付いた無機的な蛍光のみが頼りなく光を浴びせている。
全ての輪郭は朧おぼろげで、何一つ確かな事物は存在せず、あるのはただ身に迫る浮遊感のみに思えた。聡太はさしたる思考も感情も動かさず呆け、流れる時を無為に過ごしていた。
夢列車は、一両三十二席のボックスシートの三両編成となっている。
古い車両のためか、それぞれの席は汚れ、背を持たれると中の金属に触れてしまうほど薄い。
乗客はこの昔然とした車内に揺られて、始発夢咲、嶺春、阿芽那、灰、寄木、終点響林まで約四十分の遠路を行く。
時節が時節なら夢列車にそれなりの人波が押し寄せるが、今日に限って乗客は聡太一人だった。
聡太は暫く閑散とした車内に空疎な視線を向けていたが、ついぞ耐えきれず瞼を閉じ、眠りについた。別に疲労も退屈も無かったが、今のこの身で意識を保つことが限りなく億劫おっくうだった。
「———駅、———駅」
車内アナウンスで目が覚めた。響林で下車する聡太は、車内に入る足音で時間の余裕を確認しながらも、ゆっくり瞼を開く。
すると、向かいの席に知った顔があった。
「武内君、だよね」
いたのは、明子だった。
聡太は突如驚きと羞恥の念に襲われた。
明子は大学の学友であり、聡太が密かに想いを寄せた相手だった。聡明な頭脳と朗らかな笑みが特徴的で、大学生二年の頃は共に研究を突き進むことを誓ったが、彼女は家の事情でそれを諦めた。
「ああ、懐かしい顔だな。誰かと思ったら明子じゃないか」
聡太は少し強ばった口調で応対した。
明子に都落ちの事実を悟られたくなかった。それは第一に自身の尊厳のためだったが、勉学に励んだ明子に学問の暗さを見せたくないという気遣いも含んでいた。
明子には、あの四年間を明るい青春時代として心に留めて欲しかったのだ。
明子は彼の声の硬さに気づき、ふっと一度微笑む。そして、一拍置いた後、言った。
「院、辞めたんだってね」
唐突だった。
聡太は驚愕と失望とともに全身の力が緩むのを感じた。額に手を当て、思考の整理に努めながらも、あくまでも毅然と振る舞った。
「誰から聞いた」
「朱莉から。噂になってるって」
朱莉は聡太達の一つ後輩であり、真面目さと饒舌さを兼ねた女性で、聡太を含め良く先輩から可愛がられていた。しかし、この時ばかりは朱莉の饒舌さを恨んだ。
そして、大学内で噂になっているという事実が、聡太の気をより重くさせた。
それでも聡太はその振る舞いを崩さず、淡々と返した。
「いや、その言い方だと語弊があるな。辞めたんじゃなく、辞めさせられたんだ、仕方なくね。母の病気が芳しくなくてね。ほら、研究職となるとどこの土地に飛ばされるかわからないだろ。それだと今後母に何かあったら、どうしようもないからさ、仕方なく、仕方なくだ」
心なしか早口になり、聡太は自分でもこの弁明の嘘の嫌いを認めていたが、内容自体は事実だった。母の病は悪化の一途を辿っていたし、その報が院を辞めるきっかけだった。
しかし、これはきっかけであって、理由ではなかった。
明子は納得の色を見せず、表情そのままで再度尋ねる。
「研究が、辛くなった?」
聡太に暗鬱が走った。
全ての輪郭は朧おぼろげで、何一つ確かな事物は存在せず、あるのはただ身に迫る浮遊感のみに思えた。聡太はさしたる思考も感情も動かさず呆け、流れる時を無為に過ごしていた。
夢列車は、一両三十二席のボックスシートの三両編成となっている。
古い車両のためか、それぞれの席は汚れ、背を持たれると中の金属に触れてしまうほど薄い。
乗客はこの昔然とした車内に揺られて、始発夢咲、嶺春、阿芽那、灰、寄木、終点響林まで約四十分の遠路を行く。
時節が時節なら夢列車にそれなりの人波が押し寄せるが、今日に限って乗客は聡太一人だった。
聡太は暫く閑散とした車内に空疎な視線を向けていたが、ついぞ耐えきれず瞼を閉じ、眠りについた。別に疲労も退屈も無かったが、今のこの身で意識を保つことが限りなく億劫おっくうだった。
「———駅、———駅」
車内アナウンスで目が覚めた。響林で下車する聡太は、車内に入る足音で時間の余裕を確認しながらも、ゆっくり瞼を開く。
すると、向かいの席に知った顔があった。
「武内君、だよね」
いたのは、明子だった。
聡太は突如驚きと羞恥の念に襲われた。
明子は大学の学友であり、聡太が密かに想いを寄せた相手だった。聡明な頭脳と朗らかな笑みが特徴的で、大学生二年の頃は共に研究を突き進むことを誓ったが、彼女は家の事情でそれを諦めた。
「ああ、懐かしい顔だな。誰かと思ったら明子じゃないか」
聡太は少し強ばった口調で応対した。
明子に都落ちの事実を悟られたくなかった。それは第一に自身の尊厳のためだったが、勉学に励んだ明子に学問の暗さを見せたくないという気遣いも含んでいた。
明子には、あの四年間を明るい青春時代として心に留めて欲しかったのだ。
明子は彼の声の硬さに気づき、ふっと一度微笑む。そして、一拍置いた後、言った。
「院、辞めたんだってね」
唐突だった。
聡太は驚愕と失望とともに全身の力が緩むのを感じた。額に手を当て、思考の整理に努めながらも、あくまでも毅然と振る舞った。
「誰から聞いた」
「朱莉から。噂になってるって」
朱莉は聡太達の一つ後輩であり、真面目さと饒舌さを兼ねた女性で、聡太を含め良く先輩から可愛がられていた。しかし、この時ばかりは朱莉の饒舌さを恨んだ。
そして、大学内で噂になっているという事実が、聡太の気をより重くさせた。
それでも聡太はその振る舞いを崩さず、淡々と返した。
「いや、その言い方だと語弊があるな。辞めたんじゃなく、辞めさせられたんだ、仕方なくね。母の病気が芳しくなくてね。ほら、研究職となるとどこの土地に飛ばされるかわからないだろ。それだと今後母に何かあったら、どうしようもないからさ、仕方なく、仕方なくだ」
心なしか早口になり、聡太は自分でもこの弁明の嘘の嫌いを認めていたが、内容自体は事実だった。母の病は悪化の一途を辿っていたし、その報が院を辞めるきっかけだった。
しかし、これはきっかけであって、理由ではなかった。
明子は納得の色を見せず、表情そのままで再度尋ねる。
「研究が、辛くなった?」
聡太に暗鬱が走った。
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