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③裏切り
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蒼が悪夢を見始めてとうとう半年が経った。
悪夢を見ない日は一日足りとない。
眠れば必ず男と会い、男に抱かれ射精されながら絶頂し目が覚める日々を送っていた。
悪夢の中でも、悪夢から目覚めた現実でも、蒼の体は火照ったように熱を持ち、疼く子宮から溢れる蜜で下着を汚すようにもなっていた。
それでも、蒼は悪夢に耐え続けていた。
四ヶ月目も五ヶ月目も。悪夢の中で狂いそうな快楽に理性を飛ばしても完全に狂いはしなかった。
悪夢の終わりに必ず洋太の姿と洋太への変わらない愛を思い出し、毎夜必ず見る悪夢に耐え続けていたのだ。
悪夢を見るようになって半年。
この頃、洋太は蒼に冷たく接するようになっていた。
残業と言って二人の家に帰って来るのが遅くなったり、食事も取らず洋太の帰りを待つ蒼を鬱陶しげに見ることもあった。
蒼の事など省みず、蒼の体調や意思など考えず自分勝手にセックスを強要するようにもなっていたし、毎日働く洋太の為に作った栄養満点の夕食がテーブルの上に並んでいるのを見て、“今日は食べてきたから。それ、捨てといてよ”と心無い言葉まで出る始末。
優しい言葉、労りの言葉は無くなり、蒼を責めるような言葉が増えた。
殴る蹴るなどの暴力こそないものの、日々のストレスを蒼で発散するかのように八つ当たりにも似た言葉が多く出るようになっていた。
「はっ、はっ、あー、出る…!」
「っ、ふぅっ、…ひっく、…ぁ…!」
「…泣かないでよ。僕が酷いことしてるみたいじゃんか。…僕が悪いの?僕は毎日しんどい思いをして働いてお金稼いで蒼を養ってるのに?」
「…ちが、…洋ちゃんは、悪くないよ…」
「シャワー浴びてくる。」
互いの愛を確かめ合うものだったセックスには、もう愛の言葉など一つもない。
前戯をしても濡れないと踏んでいるのか、洋太は前戯すらしなくなった。
何の準備も出来ていない、まだ乾いたままの膣に入ってくる異物。ひりひりと痛む中分泌される愛液で少しばかり痛みは治まるがそれでも快楽や心地良さといったものは全くない。
出会った時から優しく、態度を変えることなく蒼の側にいてくれた洋太。
洋太の冷たい言動や行動を蒼は信じたくなかった。
まだ慣れない土地に移り住んで半年。
今は疲れやストレスが溜まっていて、どこにもぶつけられない感情を蒼へぶつけているのだろう。きっとそうだ。
もう少し。もう暫くすればきっと、また仲良く過ごせるようになるはずだと、蒼は自分に言い聞かせる。
けれど、蒼が洋太を気遣えば気遣うほど、洋太に尽くせば尽くすほど、洋太は蒼を疎むようになり視線すら合わない日も出てきた。
蒼の洋太への愛は変わらない。
冷たくされても、八つ当たりをされても思いは何一つ変わらなかった。
きっとまた元通りになる。
今は疲れているだけ。
新しい環境、仕事。まだ慣れていない職場での人間関係が大変なだけで、洋太の根はきっと変わっていない、
なら待とう。元通りになるまで。いつまでもいつまでも。
洋太がまた、自分に“愛してる”と伝えてくれるまで。
「蒼は馬鹿が付くほど健気よなあ。
夫とやらに理不尽に責められても罪悪を感じておるのもあって自分が悪いと受け入れる。
夫とやらが蒼を蔑ろにしても変わらず愛している。情に縛られ盲目になっておるのも厄介なものだ。」
「ひぁっ、んはぁ…!あ″っああ″…!!」
「可哀想に。お前とあの男ではそもそもの想いが違うというのに。
お前の想いが重く強く。だがあの男の想いは軽く脆い。だがな蒼、人間とはそういうものよ。移ろい易くまた脆い。
だからはよう…その愛を捨てよ、蒼。」
「っ…や…ぃや…、やらぁ…!」
「もう認めろ蒼。
あれがお前の夫の本性よ。小さい男だ。お前に当たりお前を蔑ろにし、萎縮し怯えるお前に優越を感じる器の小さな男よ。あの男はお前が思うような男ではない。」
「ぅあ、…しん、じ、ないっ…!ぁっ…ちが、うぅ…!」
「そうやって目を背けるな。お前はあの男にとって欲を満たすだけの都合の良い存在だった。お前を強く想い愛しているわけではない。」
「ちがうっ…!ど、して……そんな、酷いこと…!知らないくせに!洋ちゃんは、ずっと側にいてくれたの…!変わらず側にいてっ、私を支えてくれてっ…!」
「それだけだ。あの男はお前の為に立ち向かう事はしなかった。
もし、あの男が心からお前を想っていたなら。お前を傷付ける者を許さなかっただろう。お前を守ってやっただろう。
だがあの男はお前の側にいる事しかしなかった。それも都合のいい時にだけだ。」
よく思い出してみろ。と男は蒼に言った。
「女たちがお前に聞こえるように醜い言葉を並べ、ありもしない言葉を広めていた時、あれがお前の前に出て女たちの言葉を否定した事があったか。
男たちがお前に邪な視線を向けている時、お前の身を隠すように守った事があったか。
強引に手を取られた時、あれはお前を守ろうとしたか。」
無かったろう?
男は言葉を続けた。
「何もかもが終わってからあの男はお前の前に現れる。いつもいつも。そうだろう?
お前の心が傷付けられた後、気遣うような素振りでお前の前に現れ、優しい言葉でお前を慰めた。ただそれだけ。」
「……。」
「心からお前を想っていたなら、もっとお前を守る為に行動したはず。
あの男は臆病で意気地のない、胆の小さな男よ。
あの男は何処にでもいる凡庸な男だった。
対してお前は、お前が望んでいなくとも、嫌でも周囲から視線を集める存在だった。」
「……。」
「凡庸な男と特別なお前。
あの男は孤立していたお前に懐かれお前に想われ気を良くしておった。
男たちの視線を集めるお前が自分だけに懐き、信じ、好意を持って傍にいる。そのことに優越を感じ気を良くした。
優しさは身勝手なものばかりで打算だらけ。一つもお前の為などではない。」
そんな事はない。
嗚咽しながら蒼は必死に首を振った。
洋太の優しさに蒼は救われてきた。
洋太が側にいてくれたから、母親に疎まれた後も蒼は生きてこれた。
「…あの男は良くも悪くも己が凡庸である事を分かっておった。特別ではない、何処にでもいる人間と理解しておった。だが人間とは欲深いものでな…周囲から視線を集めるお前の傍にいた事で己を特別と感じるようになってしまった。その心地良さを知ったが為にあの男はお前に執着したのよ。」
まだ悪夢を見始めた頃に行為を止めようと洋太をどれだけ愛しているか、どれだけ洋太という存在が大切か、蒼は自身の身の上話を交えて男へと伝えた事があったものの、そう多くを伝えてはいない。一から十まで事細かくも。
蒼が男に伝えた身の上話と言えば、幼い頃から周りの子供たちより発育が良かった為に友人が出来なかった事。
ある程度成長してからは同性に嫌われるようになり、異性からは性の対象とした不快な視線を向けられていた事。
母親の恋人に襲われかけ、そのせいで母子の関係が壊れてしまった事。
両手を上げて幸せとは言えない蒼の人生の中で、洋太だけが変わらず側にいて支えてくれた。その程度しか蒼は男に話していない。
同性に嫌われていたとは伝えたが心無い言葉を掛けられた事やありもしない噂話を広められた事は伝えていないし、異性に不快な視線を向けられていた事は伝えたが強引に手を引かれ何処かに連れて行かれそうになった事など男に伝えた事はない。
しかし呆然とする蒼は気付いていないが、男はまるで、蒼のこれまでを全て知っているかの様な口振りだった。
「目を背けたままでは苦しいままだぞ、蒼。信じるのは勝手だが報われる事はなかろう。
お前は疎いのよ。人の悪意に晒されてはおったが、人との関わりが極端に少なかった。だから気付けん。
母親の事も、あの男の事も。お前は純粋に慕い、信じ、そして裏切られる。」
「……。」
「お前のその難くなな心が砕けるまで罰は続く。その間、お前は苦痛を得続けるだろう。
あの男を信じたいのなら信じ続けるといい。あの男は簡単にお前を裏切る。
お前がどれだけ愛しても、あの男から同じ愛が返ってくる事もない。」
男の言葉を信じたくはないけれど、別人のような冷たい態度を蒼に向ける洋太の姿が頭に浮かび、蒼は呆然としたまま涙を流し続けた。
男の言葉の数々は傷付いた蒼の心を容赦なく抉るけれど、視線と声は慈しむかのように優しいものだった。
「目を背けてもいつまでも逃げ道は続かんぞ、蒼。
逃げ続ければその分、お前が辛いだけだ。
あの男が何をしているか…目を背けた分お前が苦しむだけだ。
…さ、そろそろ夢から覚める頃合いだぞ。蒼。」
悪夢から目覚めた蒼はリビングのソファーから体を起こし、寝室へと向かう。
サラリとしたベッドのシーツは朝に蒼が整えたまま皺一つなく冷たい状態だった。
「……洋ちゃん…。」
蒼がリビングで眠っていたのは、連絡もない洋太の帰りを待っていたから。
眠らずに待っていたものの、待っている間に眠ってしまっていたらしい。
結局、洋太は家に帰って来なかったらしくスマホを確認しても“遅くなる”だとか“今日は帰れない”だとか、心配する蒼に向けた連絡は届いていない。
蒼はいつも通り家事をしながら洋太を待った。
昨日は何処に泊まったのだろうか。
今日は帰って来てくれるだろうか。
不安になりながら待ち続け、日付が0時を越えようとした時、漸く洋太が帰って来た。
「あ…!お帰りなさい、洋ちゃん…!」
「…ただいま。」
「昨日…連絡もないし…帰って来ないから心配したんだよ…?」
「仕事だよ。残業、遅くまでかかってさ。帰るのもしんどかったから、会社に泊まったんだ。」
「…それなら、連絡くらい…」
「…はあ。…あのさ、こっちは仕事終わらせようと必死なんだけど。
家にいる蒼には分かんないだろうけど、疲れてる時にそんな余裕ないんだ。それくらい察してよ。」
「ご、ごめんなさい。…あの、夕飯…」
「ご飯はいい。会社で食べたから。
お風呂入るから。あと、このスーツクリーニング出しといて。」
「う、うん。」
渡されたスーツからふわりと香る匂い。
家で使っている洗剤の匂いでも柔軟剤匂いでも洋太自身の匂いでもない…女性らしいその匂いに蒼は一瞬眉を潜めた後、気のせいだと自分に言い聞かせたが…もやもやとした不安が消える事はなかった。
それからも洋太の身勝手な行動は続いた。
連絡を入れることなく外泊し、時には週末二日も家に帰って来ない日があった。
洋太の休みはカレンダー通り土日と祝日。
仕事が休みの日に帰って来ない洋太に問えば、“休日出勤になった”だとか“先輩の家に飲みに行って、そのまま泊まった”だとかそんな言葉が返ってきたものの、洋太の洗濯物からはいつも同じ匂いがした。
女性らしい、甘い匂い。
蒼の不安は膨らんだ。気付かない振りをするのも、恐らく限界だった。
「…今宵の蒼は人形のようだな。」
「……。」
「…全く。だから言っただろう?お前が苦しいだけだと。
…よしよし。よしよし蒼…。辛いなあ。」
もう何度目かも分からない悪夢での男との逢瀬。
この日の蒼は疲れていた。
日に日に洋太の身勝手な行動は酷さを増し、妻たる蒼をちっとも省みない。
不安ばかりな日々を過ごす内、蒼は自分の存在意義を見失っていた。
洋太にとって自分は一体何なのだろうか。
妻ではなかったのか。家族ではないのか。
毎日毎日、会話も録になく視線すら合わない。
まるでいない様に扱われる事も増え、蒼の心は壊れる一歩手前まで来ていたのだ。
「孤独が恐ろしいか、蒼。」
今、蒼を支えてくれる人はいない。
友人もいない。母親とも疎遠。そして変わらず蒼の側にいてくれた洋太も、今は蒼の側にいない。
悲しみ、腹立たしさや悔しさ、苦しい気持ちを分かち合う存在が今の蒼にはおらず、毎日鬱々とした感情を吐き出す場もまたない。
「…辛いなあ、蒼。苦しいなあ、蒼。
よしよし…よしよし。お前が抱えるもの、全て俺に言うてみよ。蒼。」
「……。」
「あの男が帰って来ぬのが辛いか。
妻たるお前を蔑ろにし、一つも省みんことが辛いか。
平然と嘘を並べられるのが辛いか。
変わってしまったのが辛いか。」
「……。」
「幼い頃、お前には祖父母と母がいた。
祖父母がおらんなってからは母が。
母との関係が壊れてからはあの男がいた。
だが、今のお前は一人ぼっちになってしまった。」
「…っ、」
「怒り、苦しみ、悲しみ。抱えるものを吐き出す場が今のお前にはない。
一人で抱え耐えるのは辛かろうに…。」
蒼は唇を噛み締め、喉までせり上がってくる何かに耐える。
じわりと目頭が熱くなり、目の前は滲み鼻がつんと痛んだ。
「泣けばいい。此処は夢。お前の側に俺がおる。苦しみを耐えなくとも良い。
俺がお前の涙を拭ってやろう。
此処でのお前は、決して一人ではないぞ…蒼や。」
蒼の瞳から堰を切ったように涙が溢れた。
わんわんと子供のように、嗚咽を止める事もなく泣き、男の胸を濡らした。
「よしよし。よく耐えて偉いな、蒼。
寂しかったろうに。辛かったろうに。」
「…さみし…くるし、よ……!
ど、してぇ…!すき、って、あい、し、てる、って!いった、いってた、のにっ…!!」
「そうさな…言っておったなぁ。
“僕には蒼だけ”と豪語しておったのになぁ。」
「どう、して、ど、して……へい、きなっ…かお、…なん、でぇ……!!」
「どうしてだろうなぁ。
どうしてあの男は平然とお前に嘘を吐くのだろうなあ…。」
「ふ、ううううううぅぅ…、」
「…蒼。まだあの男を信じたいか。信じているか。まだ、あの男を愛しておるか…?」
信じたい気持ちもある。愛しい気持ちもある。
男の問いかけには喉が詰まったように言葉が出ず、蒼は無言で涙を流すだけだった。
信じたいと、変わらず愛していると確信を持って返事が出来ないくらいには…蒼の心は疲弊してしまっている。
あからさまに甘ったるい匂いをシャツや全身に付けて帰ってくる洋太。
蒼が一生懸命作った食事も食べないから捨てろと心無い言葉を投げ、心配と不安でいっぱいな蒼を鬱陶しげに見る。
家にいる蒼を責めては仕事や人間関係のストレスを蒼にぶつける洋太。
蒼が傷付いても、泣いても気にもしないような態度。
それでも、まだ心の片隅に洋太を信じている馬鹿な蒼がいた。
いつか、幸せだった日々が戻ってくる。
そんな馬鹿な希望を蒼はまだ夢見ている。
「そうか。…信じたいと思うのなら信じておればいい。
お前は頑固な娘だ。難くなで、臆病で。
馬鹿な娘だ。もう、愛がただの情に変わっておるのも気付かずに。」
「……。」
「お前は自らの目で見たものでなければ納得せんのだろう。難儀なものだ。
もう俺からは何も言わん。夢からも解放してやろう。
さあ、蒼。地獄という名の現実に戻るがいい。」
この日、初めて男は蒼を抱かなかった。
蒼が悪夢を見るようになって初めてのことだった。
そして男の言葉通り蒼はこの日からぱたりと悪夢を見なくなったが…悪夢を見なくなったからと言って洋太と蒼の関係が良くなる事もなかった。
洋太は蒼を省みる事なく、家では自分のしたい事だけをし、外泊も当然のようになった。
蒼が話しかけても平然と聞こえない振りをし、それでも尚蒼が声を掛ければ苛立ったような態度を向ける。
萎縮する蒼を見てはニヤニヤと笑い、蒼が如何に駄目な人間かなど悪意ある言葉で傷付けるようにもなり、蒼の知る優しい洋太など何処にも、もう面影すら見当たらない。
悪夢を見なくなって喜ばしいはずなのに、蒼は喜べない。
安堵していいはずなのに、安堵出来ない。
一日、一日と日が経つと悪夢を見ない事に不安すら感じるようになったそんなある日の事。
冷たい態度ばかりだった洋太が機嫌よく蒼に朝の挨拶をしてきたのだ。にこにこと仲の良かった頃よく見せていた笑顔で洋太は蒼へ話しかける。
「ということで仲良くなった先輩と同期が今日、家に来るから。美味しいもの頼むね。」
「う、うん!分かった!」
話は何てことない。
洋太が勤めている会社の人間が二人の新居に来るというものだったがそれでも蒼は久しぶりに笑顔で洋太と会話が出来て嬉しかった。
今日をきっかけにまた以前のような二人に戻れるかも知れない、とも考えた。
蒼は張り切って掃除をし、買い物に出掛け洋太や客人が喜んでもらえるようにと料理に励む。
そして夜、洋太が客人を連れて帰って来た。
「洋ちゃん、お帰りなさい。」
「ただいま蒼。こちら、会社の先輩で新島さんと田中さん。こっちは同期の太田と安藤ね。
新島さん、田中さん、太田、安藤。妻の蒼です。」
「初めまして。主人がいつもお世話になっております。
大したおもてなしも出来ませんが、我が家と思って寛いで下さいね。」
『!!』
四人が蒼を見てほのかに顔を赤らめた。
そして洋太に向かい蒼を褒めていくと洋太は満更でもなさそうな顔をした。
「うおお!すげぇ!めっちゃ旨い!」
「ほんと、すごい旨いっす蒼さん!」
「いいなぁ。俺もこんな料理上手で可愛い奥さん欲しいわ。」
「佐上羨ましい!この幸せ者めー!」
「ははは。蒼は僕の奥さんですからね~!先輩たちの事は尊敬してますけど、蒼は誰にも渡しませんよ!」
「くっそ佐上~!今度仕事押し付けてやる!」
「ちょっと、羨ましいからってそういうの止めてくれませんか!?」
酒も入り益々上機嫌になる洋太の声。
たまに蒼を呼んだかと思うと自慢するように軽いスキンシップを見せつける。
蒼がキッチンで追加の料理を作っていても、四人の男たちの視線は蒼を追っていた。
蒼本人は気付いていない。
今の蒼は、女としての色香が満ちている。
昔から発育が良かった蒼は男からすれば誘っているような体をしていた。
大きく実った胸とむっちりとした形のいい尻。
白くまろい体は何処に触れても柔らかそうで…そう、“美味しそう”な体をしているのだ。
加えて、これまで未熟だった女としての性が夢の中の行為で花開いた事により…今の蒼の色気はそれはそれは色濃く漂っていて若い男などひとたまりもないものだった。
洋太や男たちに一緒に飲もうと誘われた蒼は、久しぶりの嫌な視線を感じつつも笑顔で対応した。
男たちは蒼を口々に褒め、洋太は見せつけるように蒼の肩を抱き自慢する。
飲み会が終わったのは深夜を過ぎた頃で、もう終電もない時間だった為に四人の男たちは居間で雑魚寝をする事になった。
洋太と蒼は寝室で眠りについたのだが…その日、洋太は蒼を犯すように抱いた。
居間に四人がいるから嫌だと伝えても、止めてと泣いても洋太は止まらなかった。
止まらない所かもっと声を出せだとか四人に聞こえても構わないだとか、えらく興奮した様子の洋太に蒼は信じられない気持ちだった。
翌日仕事から帰ってきた洋太は昨日の飲み会に続き上機嫌で、蒼に当たることもなく、冷たくするでもなく、寧ろ今までの態度は何だったのかと言うくらい優しかった。
翌々日も、その次も、その次の日も。
一緒に夕食を食べ、笑顔で蒼に話しかける洋太。
外泊する事はまだあるけれど、回数も減り日付を越えて帰宅する事も少なくなった。
その代わりベッドに入れば蒼を求めるようになり、独りよがりなセックスは変わらないものの以前のように愛の言葉を交えたものへと戻ったが…何故か、蒼は嬉しいとも幸せとも余り感じなかった。
“洋太にとって蒼は欲を満たす為の都合のいい女”
悪夢の中での男の言葉が、蒼の脳裏にちらついてしまう。
洋太と結婚して丁度一年が経っていた。
それからも元通りとはいかないが洋太と夫婦としての日々を過ごしていた蒼の元に、蒼の母親が亡くなったと洋太の家族から連絡があった。
仕事で通夜葬儀に参加出来ない洋太を残し、一人で亡くなった母親と対面する事になった蒼。
仕事中に脳梗塞で倒れ、そのまま息を引き取ったらしい。
高校卒業後に家を出てから二年。久しぶりに見た母親の姿は棺の中で眠っており、家を出た頃よりも痩せていて知らない人間のように思えた。
実の母親が死んだというのに、蒼は涙が出なかった。
周囲にはそれが異様に見えていたのだろう。
涙を流す事もなく、悲しそうな様子でもない蒼の姿を見て、葬儀に参加していた人間は“なんて薄情な”と口にする。
納骨を終え実家に戻った蒼は、そこで初めて、母親が死んだ事を理解した。
嫌いになった事はない。嫌いだから家を出たわけではない。
ただ、蒼は大好きだった母親に憎しみの籠った目で見られるのが辛くて、悲しくて、蒼がいない方が、母親は心安らかに過ごせるだろうと思ったから家を出たのだ。顔も合わすのが嫌だからとか、母親が嫌いだからという理由ではない。
大好きだった。そう、大好きだった。
母と娘で暮らした日々はあんな事が起きるまでは楽しいものばかりで、蒼は母親を慕っていた。
いつかまた、仲の良い母と娘に戻れたらと考えていたけれど…母親が亡くなってしまった為、そんな日はもう二度と来ない。静かすぎる実家の居間で、蒼は母親の死を漸く実感した。
片付けなどもある為、洋太には一週間程度実家で過ごすと伝えた蒼は母親との思い出が詰まった家を片付けていく。
手を止めてしまえば嫌でも色んな事を思い出してしまう為蒼は無心で片付けるけれど、やはり感傷に浸ってしまう。
悲しい時や苦しい時はいつも洋太が蒼の側にいてくれた。
蒼は無性に洋太に会いたくなって、洋太の待つ家へ帰る事にした。
『今から帰る』と連絡する余裕など、今の蒼には無かった。
母親を失った今、蒼の家族は本当の意味で洋太一人だけとなった。
悲しみ、後悔、喪失感、虚無感で崩れそうだった。
失意のまま洋太の元へ帰る蒼に、更なる地獄が待っていた。
「あ、あんっ、ああ、あああん!
洋太くんっ、洋太くぅん…!」
「はっ、はぁ、はぁっ!
は、あぁ、気持ちいい…!」
「あっ、あんっ、ふふ、あん、奥さん、よりぃっ…?」
「ああ!蒼よりもずっと気持ちいいっ…!!」
「やんっ、あっあっ、うれしー…!
好きっ!好きぃ!洋太くん、好きぃ…!!出してっ!膣に出してぇ!」
「っ、い、いいのっ!?今日危ないんでしょっ…!?
膣に出してっ、ほんとにっ、いいのっ!?」
「んあっ、いい、よぉ!洋太く…のっ赤ちゃん、出来ても、いい、からぁっ!
あんっ、ああっ…!中に出してぇ…!!」
「あー…!さいっこう…!!
いいのっ!?赤ちゃん出来ちゃうよ!?赤ちゃん、仕込んでもいいのっ!?
僕の子、出来てもっ…いいんだねっ!?」
「うんっ!うんっ…!いいのっ!
奥さんより、愛してるならっ…!証明してよぉっ…!!」
「愛してるっ!勿論愛してるよっ…!!蒼より先に君と出会っていればっ…!そしたらっ…!!」
一体、自分が今、何を見ているのか。
蒼には理解出来なかった。
洋太と二人で暮らす家。
ゆっくり鍵を開けまず目に入ったのは女物の靴が一足。
そして女の甘ったるい、鼻にかかったような声が聞こえ、蒼は混乱した。
家に入ってはいけない。今すぐにでも引き返した方がいい。
そんな警鐘が頭の中で響いていたものの、蒼の足は誘われるように靴を脱ぎ、床を踏んでしまう。
廊下に蒼の物ではない衣服が落ちていた。
洋太の物もあった。
寝室へ続く廊下に散らばる衣服と下着。
蒼の足はどんどん寝室へと近付き…そして、少し空いた隙間から見てしまった。洋太は見知らぬ女の腰を掴んだまま勢いよく腰を振っていた。
それはまるで動物の交尾のようで、女の顔も洋太の顔も、嫌悪を感じてしまうくらいにだらしのないものだった。
セックスに夢中になっている洋太と女は蒼の存在に一切気付いていない。
洋太と見知らぬ女の行為を暫くの間呆然と見続けた蒼は、二人が“愛してる”と声を上げ絶頂を迎えた所で漸くその場を離れた。
洋太と蒼、二人の新居を後にした蒼はただ歩き続けた。
まだ先程見た行為を理解出来てもいなかった。
あれは一体何だったのだろうか。
あれは洋太だっただろうか。
愛していると洋太が伝えた相手は、一体誰だったのか。
蒼を繋ぎ止めていた頼りない細い糸が、プツリと切れた音がした。
悪夢を見ない日は一日足りとない。
眠れば必ず男と会い、男に抱かれ射精されながら絶頂し目が覚める日々を送っていた。
悪夢の中でも、悪夢から目覚めた現実でも、蒼の体は火照ったように熱を持ち、疼く子宮から溢れる蜜で下着を汚すようにもなっていた。
それでも、蒼は悪夢に耐え続けていた。
四ヶ月目も五ヶ月目も。悪夢の中で狂いそうな快楽に理性を飛ばしても完全に狂いはしなかった。
悪夢の終わりに必ず洋太の姿と洋太への変わらない愛を思い出し、毎夜必ず見る悪夢に耐え続けていたのだ。
悪夢を見るようになって半年。
この頃、洋太は蒼に冷たく接するようになっていた。
残業と言って二人の家に帰って来るのが遅くなったり、食事も取らず洋太の帰りを待つ蒼を鬱陶しげに見ることもあった。
蒼の事など省みず、蒼の体調や意思など考えず自分勝手にセックスを強要するようにもなっていたし、毎日働く洋太の為に作った栄養満点の夕食がテーブルの上に並んでいるのを見て、“今日は食べてきたから。それ、捨てといてよ”と心無い言葉まで出る始末。
優しい言葉、労りの言葉は無くなり、蒼を責めるような言葉が増えた。
殴る蹴るなどの暴力こそないものの、日々のストレスを蒼で発散するかのように八つ当たりにも似た言葉が多く出るようになっていた。
「はっ、はっ、あー、出る…!」
「っ、ふぅっ、…ひっく、…ぁ…!」
「…泣かないでよ。僕が酷いことしてるみたいじゃんか。…僕が悪いの?僕は毎日しんどい思いをして働いてお金稼いで蒼を養ってるのに?」
「…ちが、…洋ちゃんは、悪くないよ…」
「シャワー浴びてくる。」
互いの愛を確かめ合うものだったセックスには、もう愛の言葉など一つもない。
前戯をしても濡れないと踏んでいるのか、洋太は前戯すらしなくなった。
何の準備も出来ていない、まだ乾いたままの膣に入ってくる異物。ひりひりと痛む中分泌される愛液で少しばかり痛みは治まるがそれでも快楽や心地良さといったものは全くない。
出会った時から優しく、態度を変えることなく蒼の側にいてくれた洋太。
洋太の冷たい言動や行動を蒼は信じたくなかった。
まだ慣れない土地に移り住んで半年。
今は疲れやストレスが溜まっていて、どこにもぶつけられない感情を蒼へぶつけているのだろう。きっとそうだ。
もう少し。もう暫くすればきっと、また仲良く過ごせるようになるはずだと、蒼は自分に言い聞かせる。
けれど、蒼が洋太を気遣えば気遣うほど、洋太に尽くせば尽くすほど、洋太は蒼を疎むようになり視線すら合わない日も出てきた。
蒼の洋太への愛は変わらない。
冷たくされても、八つ当たりをされても思いは何一つ変わらなかった。
きっとまた元通りになる。
今は疲れているだけ。
新しい環境、仕事。まだ慣れていない職場での人間関係が大変なだけで、洋太の根はきっと変わっていない、
なら待とう。元通りになるまで。いつまでもいつまでも。
洋太がまた、自分に“愛してる”と伝えてくれるまで。
「蒼は馬鹿が付くほど健気よなあ。
夫とやらに理不尽に責められても罪悪を感じておるのもあって自分が悪いと受け入れる。
夫とやらが蒼を蔑ろにしても変わらず愛している。情に縛られ盲目になっておるのも厄介なものだ。」
「ひぁっ、んはぁ…!あ″っああ″…!!」
「可哀想に。お前とあの男ではそもそもの想いが違うというのに。
お前の想いが重く強く。だがあの男の想いは軽く脆い。だがな蒼、人間とはそういうものよ。移ろい易くまた脆い。
だからはよう…その愛を捨てよ、蒼。」
「っ…や…ぃや…、やらぁ…!」
「もう認めろ蒼。
あれがお前の夫の本性よ。小さい男だ。お前に当たりお前を蔑ろにし、萎縮し怯えるお前に優越を感じる器の小さな男よ。あの男はお前が思うような男ではない。」
「ぅあ、…しん、じ、ないっ…!ぁっ…ちが、うぅ…!」
「そうやって目を背けるな。お前はあの男にとって欲を満たすだけの都合の良い存在だった。お前を強く想い愛しているわけではない。」
「ちがうっ…!ど、して……そんな、酷いこと…!知らないくせに!洋ちゃんは、ずっと側にいてくれたの…!変わらず側にいてっ、私を支えてくれてっ…!」
「それだけだ。あの男はお前の為に立ち向かう事はしなかった。
もし、あの男が心からお前を想っていたなら。お前を傷付ける者を許さなかっただろう。お前を守ってやっただろう。
だがあの男はお前の側にいる事しかしなかった。それも都合のいい時にだけだ。」
よく思い出してみろ。と男は蒼に言った。
「女たちがお前に聞こえるように醜い言葉を並べ、ありもしない言葉を広めていた時、あれがお前の前に出て女たちの言葉を否定した事があったか。
男たちがお前に邪な視線を向けている時、お前の身を隠すように守った事があったか。
強引に手を取られた時、あれはお前を守ろうとしたか。」
無かったろう?
男は言葉を続けた。
「何もかもが終わってからあの男はお前の前に現れる。いつもいつも。そうだろう?
お前の心が傷付けられた後、気遣うような素振りでお前の前に現れ、優しい言葉でお前を慰めた。ただそれだけ。」
「……。」
「心からお前を想っていたなら、もっとお前を守る為に行動したはず。
あの男は臆病で意気地のない、胆の小さな男よ。
あの男は何処にでもいる凡庸な男だった。
対してお前は、お前が望んでいなくとも、嫌でも周囲から視線を集める存在だった。」
「……。」
「凡庸な男と特別なお前。
あの男は孤立していたお前に懐かれお前に想われ気を良くしておった。
男たちの視線を集めるお前が自分だけに懐き、信じ、好意を持って傍にいる。そのことに優越を感じ気を良くした。
優しさは身勝手なものばかりで打算だらけ。一つもお前の為などではない。」
そんな事はない。
嗚咽しながら蒼は必死に首を振った。
洋太の優しさに蒼は救われてきた。
洋太が側にいてくれたから、母親に疎まれた後も蒼は生きてこれた。
「…あの男は良くも悪くも己が凡庸である事を分かっておった。特別ではない、何処にでもいる人間と理解しておった。だが人間とは欲深いものでな…周囲から視線を集めるお前の傍にいた事で己を特別と感じるようになってしまった。その心地良さを知ったが為にあの男はお前に執着したのよ。」
まだ悪夢を見始めた頃に行為を止めようと洋太をどれだけ愛しているか、どれだけ洋太という存在が大切か、蒼は自身の身の上話を交えて男へと伝えた事があったものの、そう多くを伝えてはいない。一から十まで事細かくも。
蒼が男に伝えた身の上話と言えば、幼い頃から周りの子供たちより発育が良かった為に友人が出来なかった事。
ある程度成長してからは同性に嫌われるようになり、異性からは性の対象とした不快な視線を向けられていた事。
母親の恋人に襲われかけ、そのせいで母子の関係が壊れてしまった事。
両手を上げて幸せとは言えない蒼の人生の中で、洋太だけが変わらず側にいて支えてくれた。その程度しか蒼は男に話していない。
同性に嫌われていたとは伝えたが心無い言葉を掛けられた事やありもしない噂話を広められた事は伝えていないし、異性に不快な視線を向けられていた事は伝えたが強引に手を引かれ何処かに連れて行かれそうになった事など男に伝えた事はない。
しかし呆然とする蒼は気付いていないが、男はまるで、蒼のこれまでを全て知っているかの様な口振りだった。
「目を背けたままでは苦しいままだぞ、蒼。信じるのは勝手だが報われる事はなかろう。
お前は疎いのよ。人の悪意に晒されてはおったが、人との関わりが極端に少なかった。だから気付けん。
母親の事も、あの男の事も。お前は純粋に慕い、信じ、そして裏切られる。」
「……。」
「お前のその難くなな心が砕けるまで罰は続く。その間、お前は苦痛を得続けるだろう。
あの男を信じたいのなら信じ続けるといい。あの男は簡単にお前を裏切る。
お前がどれだけ愛しても、あの男から同じ愛が返ってくる事もない。」
男の言葉を信じたくはないけれど、別人のような冷たい態度を蒼に向ける洋太の姿が頭に浮かび、蒼は呆然としたまま涙を流し続けた。
男の言葉の数々は傷付いた蒼の心を容赦なく抉るけれど、視線と声は慈しむかのように優しいものだった。
「目を背けてもいつまでも逃げ道は続かんぞ、蒼。
逃げ続ければその分、お前が辛いだけだ。
あの男が何をしているか…目を背けた分お前が苦しむだけだ。
…さ、そろそろ夢から覚める頃合いだぞ。蒼。」
悪夢から目覚めた蒼はリビングのソファーから体を起こし、寝室へと向かう。
サラリとしたベッドのシーツは朝に蒼が整えたまま皺一つなく冷たい状態だった。
「……洋ちゃん…。」
蒼がリビングで眠っていたのは、連絡もない洋太の帰りを待っていたから。
眠らずに待っていたものの、待っている間に眠ってしまっていたらしい。
結局、洋太は家に帰って来なかったらしくスマホを確認しても“遅くなる”だとか“今日は帰れない”だとか、心配する蒼に向けた連絡は届いていない。
蒼はいつも通り家事をしながら洋太を待った。
昨日は何処に泊まったのだろうか。
今日は帰って来てくれるだろうか。
不安になりながら待ち続け、日付が0時を越えようとした時、漸く洋太が帰って来た。
「あ…!お帰りなさい、洋ちゃん…!」
「…ただいま。」
「昨日…連絡もないし…帰って来ないから心配したんだよ…?」
「仕事だよ。残業、遅くまでかかってさ。帰るのもしんどかったから、会社に泊まったんだ。」
「…それなら、連絡くらい…」
「…はあ。…あのさ、こっちは仕事終わらせようと必死なんだけど。
家にいる蒼には分かんないだろうけど、疲れてる時にそんな余裕ないんだ。それくらい察してよ。」
「ご、ごめんなさい。…あの、夕飯…」
「ご飯はいい。会社で食べたから。
お風呂入るから。あと、このスーツクリーニング出しといて。」
「う、うん。」
渡されたスーツからふわりと香る匂い。
家で使っている洗剤の匂いでも柔軟剤匂いでも洋太自身の匂いでもない…女性らしいその匂いに蒼は一瞬眉を潜めた後、気のせいだと自分に言い聞かせたが…もやもやとした不安が消える事はなかった。
それからも洋太の身勝手な行動は続いた。
連絡を入れることなく外泊し、時には週末二日も家に帰って来ない日があった。
洋太の休みはカレンダー通り土日と祝日。
仕事が休みの日に帰って来ない洋太に問えば、“休日出勤になった”だとか“先輩の家に飲みに行って、そのまま泊まった”だとかそんな言葉が返ってきたものの、洋太の洗濯物からはいつも同じ匂いがした。
女性らしい、甘い匂い。
蒼の不安は膨らんだ。気付かない振りをするのも、恐らく限界だった。
「…今宵の蒼は人形のようだな。」
「……。」
「…全く。だから言っただろう?お前が苦しいだけだと。
…よしよし。よしよし蒼…。辛いなあ。」
もう何度目かも分からない悪夢での男との逢瀬。
この日の蒼は疲れていた。
日に日に洋太の身勝手な行動は酷さを増し、妻たる蒼をちっとも省みない。
不安ばかりな日々を過ごす内、蒼は自分の存在意義を見失っていた。
洋太にとって自分は一体何なのだろうか。
妻ではなかったのか。家族ではないのか。
毎日毎日、会話も録になく視線すら合わない。
まるでいない様に扱われる事も増え、蒼の心は壊れる一歩手前まで来ていたのだ。
「孤独が恐ろしいか、蒼。」
今、蒼を支えてくれる人はいない。
友人もいない。母親とも疎遠。そして変わらず蒼の側にいてくれた洋太も、今は蒼の側にいない。
悲しみ、腹立たしさや悔しさ、苦しい気持ちを分かち合う存在が今の蒼にはおらず、毎日鬱々とした感情を吐き出す場もまたない。
「…辛いなあ、蒼。苦しいなあ、蒼。
よしよし…よしよし。お前が抱えるもの、全て俺に言うてみよ。蒼。」
「……。」
「あの男が帰って来ぬのが辛いか。
妻たるお前を蔑ろにし、一つも省みんことが辛いか。
平然と嘘を並べられるのが辛いか。
変わってしまったのが辛いか。」
「……。」
「幼い頃、お前には祖父母と母がいた。
祖父母がおらんなってからは母が。
母との関係が壊れてからはあの男がいた。
だが、今のお前は一人ぼっちになってしまった。」
「…っ、」
「怒り、苦しみ、悲しみ。抱えるものを吐き出す場が今のお前にはない。
一人で抱え耐えるのは辛かろうに…。」
蒼は唇を噛み締め、喉までせり上がってくる何かに耐える。
じわりと目頭が熱くなり、目の前は滲み鼻がつんと痛んだ。
「泣けばいい。此処は夢。お前の側に俺がおる。苦しみを耐えなくとも良い。
俺がお前の涙を拭ってやろう。
此処でのお前は、決して一人ではないぞ…蒼や。」
蒼の瞳から堰を切ったように涙が溢れた。
わんわんと子供のように、嗚咽を止める事もなく泣き、男の胸を濡らした。
「よしよし。よく耐えて偉いな、蒼。
寂しかったろうに。辛かったろうに。」
「…さみし…くるし、よ……!
ど、してぇ…!すき、って、あい、し、てる、って!いった、いってた、のにっ…!!」
「そうさな…言っておったなぁ。
“僕には蒼だけ”と豪語しておったのになぁ。」
「どう、して、ど、して……へい、きなっ…かお、…なん、でぇ……!!」
「どうしてだろうなぁ。
どうしてあの男は平然とお前に嘘を吐くのだろうなあ…。」
「ふ、ううううううぅぅ…、」
「…蒼。まだあの男を信じたいか。信じているか。まだ、あの男を愛しておるか…?」
信じたい気持ちもある。愛しい気持ちもある。
男の問いかけには喉が詰まったように言葉が出ず、蒼は無言で涙を流すだけだった。
信じたいと、変わらず愛していると確信を持って返事が出来ないくらいには…蒼の心は疲弊してしまっている。
あからさまに甘ったるい匂いをシャツや全身に付けて帰ってくる洋太。
蒼が一生懸命作った食事も食べないから捨てろと心無い言葉を投げ、心配と不安でいっぱいな蒼を鬱陶しげに見る。
家にいる蒼を責めては仕事や人間関係のストレスを蒼にぶつける洋太。
蒼が傷付いても、泣いても気にもしないような態度。
それでも、まだ心の片隅に洋太を信じている馬鹿な蒼がいた。
いつか、幸せだった日々が戻ってくる。
そんな馬鹿な希望を蒼はまだ夢見ている。
「そうか。…信じたいと思うのなら信じておればいい。
お前は頑固な娘だ。難くなで、臆病で。
馬鹿な娘だ。もう、愛がただの情に変わっておるのも気付かずに。」
「……。」
「お前は自らの目で見たものでなければ納得せんのだろう。難儀なものだ。
もう俺からは何も言わん。夢からも解放してやろう。
さあ、蒼。地獄という名の現実に戻るがいい。」
この日、初めて男は蒼を抱かなかった。
蒼が悪夢を見るようになって初めてのことだった。
そして男の言葉通り蒼はこの日からぱたりと悪夢を見なくなったが…悪夢を見なくなったからと言って洋太と蒼の関係が良くなる事もなかった。
洋太は蒼を省みる事なく、家では自分のしたい事だけをし、外泊も当然のようになった。
蒼が話しかけても平然と聞こえない振りをし、それでも尚蒼が声を掛ければ苛立ったような態度を向ける。
萎縮する蒼を見てはニヤニヤと笑い、蒼が如何に駄目な人間かなど悪意ある言葉で傷付けるようにもなり、蒼の知る優しい洋太など何処にも、もう面影すら見当たらない。
悪夢を見なくなって喜ばしいはずなのに、蒼は喜べない。
安堵していいはずなのに、安堵出来ない。
一日、一日と日が経つと悪夢を見ない事に不安すら感じるようになったそんなある日の事。
冷たい態度ばかりだった洋太が機嫌よく蒼に朝の挨拶をしてきたのだ。にこにこと仲の良かった頃よく見せていた笑顔で洋太は蒼へ話しかける。
「ということで仲良くなった先輩と同期が今日、家に来るから。美味しいもの頼むね。」
「う、うん!分かった!」
話は何てことない。
洋太が勤めている会社の人間が二人の新居に来るというものだったがそれでも蒼は久しぶりに笑顔で洋太と会話が出来て嬉しかった。
今日をきっかけにまた以前のような二人に戻れるかも知れない、とも考えた。
蒼は張り切って掃除をし、買い物に出掛け洋太や客人が喜んでもらえるようにと料理に励む。
そして夜、洋太が客人を連れて帰って来た。
「洋ちゃん、お帰りなさい。」
「ただいま蒼。こちら、会社の先輩で新島さんと田中さん。こっちは同期の太田と安藤ね。
新島さん、田中さん、太田、安藤。妻の蒼です。」
「初めまして。主人がいつもお世話になっております。
大したおもてなしも出来ませんが、我が家と思って寛いで下さいね。」
『!!』
四人が蒼を見てほのかに顔を赤らめた。
そして洋太に向かい蒼を褒めていくと洋太は満更でもなさそうな顔をした。
「うおお!すげぇ!めっちゃ旨い!」
「ほんと、すごい旨いっす蒼さん!」
「いいなぁ。俺もこんな料理上手で可愛い奥さん欲しいわ。」
「佐上羨ましい!この幸せ者めー!」
「ははは。蒼は僕の奥さんですからね~!先輩たちの事は尊敬してますけど、蒼は誰にも渡しませんよ!」
「くっそ佐上~!今度仕事押し付けてやる!」
「ちょっと、羨ましいからってそういうの止めてくれませんか!?」
酒も入り益々上機嫌になる洋太の声。
たまに蒼を呼んだかと思うと自慢するように軽いスキンシップを見せつける。
蒼がキッチンで追加の料理を作っていても、四人の男たちの視線は蒼を追っていた。
蒼本人は気付いていない。
今の蒼は、女としての色香が満ちている。
昔から発育が良かった蒼は男からすれば誘っているような体をしていた。
大きく実った胸とむっちりとした形のいい尻。
白くまろい体は何処に触れても柔らかそうで…そう、“美味しそう”な体をしているのだ。
加えて、これまで未熟だった女としての性が夢の中の行為で花開いた事により…今の蒼の色気はそれはそれは色濃く漂っていて若い男などひとたまりもないものだった。
洋太や男たちに一緒に飲もうと誘われた蒼は、久しぶりの嫌な視線を感じつつも笑顔で対応した。
男たちは蒼を口々に褒め、洋太は見せつけるように蒼の肩を抱き自慢する。
飲み会が終わったのは深夜を過ぎた頃で、もう終電もない時間だった為に四人の男たちは居間で雑魚寝をする事になった。
洋太と蒼は寝室で眠りについたのだが…その日、洋太は蒼を犯すように抱いた。
居間に四人がいるから嫌だと伝えても、止めてと泣いても洋太は止まらなかった。
止まらない所かもっと声を出せだとか四人に聞こえても構わないだとか、えらく興奮した様子の洋太に蒼は信じられない気持ちだった。
翌日仕事から帰ってきた洋太は昨日の飲み会に続き上機嫌で、蒼に当たることもなく、冷たくするでもなく、寧ろ今までの態度は何だったのかと言うくらい優しかった。
翌々日も、その次も、その次の日も。
一緒に夕食を食べ、笑顔で蒼に話しかける洋太。
外泊する事はまだあるけれど、回数も減り日付を越えて帰宅する事も少なくなった。
その代わりベッドに入れば蒼を求めるようになり、独りよがりなセックスは変わらないものの以前のように愛の言葉を交えたものへと戻ったが…何故か、蒼は嬉しいとも幸せとも余り感じなかった。
“洋太にとって蒼は欲を満たす為の都合のいい女”
悪夢の中での男の言葉が、蒼の脳裏にちらついてしまう。
洋太と結婚して丁度一年が経っていた。
それからも元通りとはいかないが洋太と夫婦としての日々を過ごしていた蒼の元に、蒼の母親が亡くなったと洋太の家族から連絡があった。
仕事で通夜葬儀に参加出来ない洋太を残し、一人で亡くなった母親と対面する事になった蒼。
仕事中に脳梗塞で倒れ、そのまま息を引き取ったらしい。
高校卒業後に家を出てから二年。久しぶりに見た母親の姿は棺の中で眠っており、家を出た頃よりも痩せていて知らない人間のように思えた。
実の母親が死んだというのに、蒼は涙が出なかった。
周囲にはそれが異様に見えていたのだろう。
涙を流す事もなく、悲しそうな様子でもない蒼の姿を見て、葬儀に参加していた人間は“なんて薄情な”と口にする。
納骨を終え実家に戻った蒼は、そこで初めて、母親が死んだ事を理解した。
嫌いになった事はない。嫌いだから家を出たわけではない。
ただ、蒼は大好きだった母親に憎しみの籠った目で見られるのが辛くて、悲しくて、蒼がいない方が、母親は心安らかに過ごせるだろうと思ったから家を出たのだ。顔も合わすのが嫌だからとか、母親が嫌いだからという理由ではない。
大好きだった。そう、大好きだった。
母と娘で暮らした日々はあんな事が起きるまでは楽しいものばかりで、蒼は母親を慕っていた。
いつかまた、仲の良い母と娘に戻れたらと考えていたけれど…母親が亡くなってしまった為、そんな日はもう二度と来ない。静かすぎる実家の居間で、蒼は母親の死を漸く実感した。
片付けなどもある為、洋太には一週間程度実家で過ごすと伝えた蒼は母親との思い出が詰まった家を片付けていく。
手を止めてしまえば嫌でも色んな事を思い出してしまう為蒼は無心で片付けるけれど、やはり感傷に浸ってしまう。
悲しい時や苦しい時はいつも洋太が蒼の側にいてくれた。
蒼は無性に洋太に会いたくなって、洋太の待つ家へ帰る事にした。
『今から帰る』と連絡する余裕など、今の蒼には無かった。
母親を失った今、蒼の家族は本当の意味で洋太一人だけとなった。
悲しみ、後悔、喪失感、虚無感で崩れそうだった。
失意のまま洋太の元へ帰る蒼に、更なる地獄が待っていた。
「あ、あんっ、ああ、あああん!
洋太くんっ、洋太くぅん…!」
「はっ、はぁ、はぁっ!
は、あぁ、気持ちいい…!」
「あっ、あんっ、ふふ、あん、奥さん、よりぃっ…?」
「ああ!蒼よりもずっと気持ちいいっ…!!」
「やんっ、あっあっ、うれしー…!
好きっ!好きぃ!洋太くん、好きぃ…!!出してっ!膣に出してぇ!」
「っ、い、いいのっ!?今日危ないんでしょっ…!?
膣に出してっ、ほんとにっ、いいのっ!?」
「んあっ、いい、よぉ!洋太く…のっ赤ちゃん、出来ても、いい、からぁっ!
あんっ、ああっ…!中に出してぇ…!!」
「あー…!さいっこう…!!
いいのっ!?赤ちゃん出来ちゃうよ!?赤ちゃん、仕込んでもいいのっ!?
僕の子、出来てもっ…いいんだねっ!?」
「うんっ!うんっ…!いいのっ!
奥さんより、愛してるならっ…!証明してよぉっ…!!」
「愛してるっ!勿論愛してるよっ…!!蒼より先に君と出会っていればっ…!そしたらっ…!!」
一体、自分が今、何を見ているのか。
蒼には理解出来なかった。
洋太と二人で暮らす家。
ゆっくり鍵を開けまず目に入ったのは女物の靴が一足。
そして女の甘ったるい、鼻にかかったような声が聞こえ、蒼は混乱した。
家に入ってはいけない。今すぐにでも引き返した方がいい。
そんな警鐘が頭の中で響いていたものの、蒼の足は誘われるように靴を脱ぎ、床を踏んでしまう。
廊下に蒼の物ではない衣服が落ちていた。
洋太の物もあった。
寝室へ続く廊下に散らばる衣服と下着。
蒼の足はどんどん寝室へと近付き…そして、少し空いた隙間から見てしまった。洋太は見知らぬ女の腰を掴んだまま勢いよく腰を振っていた。
それはまるで動物の交尾のようで、女の顔も洋太の顔も、嫌悪を感じてしまうくらいにだらしのないものだった。
セックスに夢中になっている洋太と女は蒼の存在に一切気付いていない。
洋太と見知らぬ女の行為を暫くの間呆然と見続けた蒼は、二人が“愛してる”と声を上げ絶頂を迎えた所で漸くその場を離れた。
洋太と蒼、二人の新居を後にした蒼はただ歩き続けた。
まだ先程見た行為を理解出来てもいなかった。
あれは一体何だったのだろうか。
あれは洋太だっただろうか。
愛していると洋太が伝えた相手は、一体誰だったのか。
蒼を繋ぎ止めていた頼りない細い糸が、プツリと切れた音がした。
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