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161 クラフ公爵邸に春がやってきた

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クラフ公爵当主、リュカ・シルフィード・クラフは真面目で責任感の強い優秀な男である。
また無駄を嫌う合理的かつ理性的な男でもある。
優しい一面も持ってはいるが、常の表情から冷たい印象の方が大きい。
使用人たちの前で笑顔など全く見せず、彼らが見るリュカの顔は眉間に皺を寄せた難しい顔ばかりだった。
これは決して大袈裟ではなく、リュカが最愛と出会う前の常であった。

「……ん、…?」

リュカの意識がゆっくり浮上し目を半分程開けると、目の前は暗闇だった。
しかし優しく甘い、いい匂いがしていた。
そして顔面には柔らかい何かが押し当てられているけれど、苦しくもなく何故だか幸せな気持ちさえしている。

「…んん……」

これは何だろうかと思いつつも、この優しい、甘い匂いと温かく柔らかいものに包まれたリュカは一瞬で考える事を放棄した。
これはいいものだ。何故か分からないが、とても幸せだ、と匂いと感触を堪能する事にした。
すう、と鼻一杯に息を吸う。顔をもぞもぞと動かし、その温かさと柔らかさを堪能する。
意識がはっきりと覚醒し出したリュカは、自分がサイカの胸に包まれている事を理解した。

「……。」

妻に迎えたばかりの最愛はまだ気持ち良さそうに寝息を立てており…リュカはここぞとばかりに包まれる温かさと柔らかさを楽しむ事にし、向かい合いリュカを抱き締めるようにして眠っているサイカの谷間に挟まるように鼻先を埋め、思いきり息を吸い込み片手は柔らかく弾力のある乳の感触を堪能した。

(ああ、これは何とも…至福な時間だな。最高じゃないか…。)

最愛を妻に迎えたばかりの夫の思考は少しばかり…否、かなり緩くなっているのだが、本人は寝起きとあって気付いていない。
最愛の妻、サイカの目が覚めるまでリュカは湧き上がる雄の欲に抗いもせず好き放題新妻の体を堪能し、目が覚めたサイカに怒られる事になるのだが、リュカは新婚という免罪符を新妻に突き付け許しを得る事に成功した。
許されたとなれば、朝から盛っても問題はない。
クラフ公爵夫妻は新婚二日目を迎えた朝からも愛し合う。
リン、と一つベルを鳴らせば気を利かせた使用人たちの配慮により食事は夫婦の寝室、ドアの前に用意され裸にローブだけを纏った夫が使用人の如く用意された食事を部屋の中に運ぶ。
裸のままの妻を自分の膝の間に座らせ甲斐甲斐しく食事の世話をした後はまた足取り軽やかにベッドに運び、愛の営みを再開させた。
そうして、夫婦の愛の営みは翌朝までねちこく続き…

「…す、少し休ませて、下さい…」

新妻、サイカの体力は新婚三日目にして早くも限界を迎えてしまっていたのだった。


一方その頃。クラフ公爵家に仕える家令、ルドルフはうきうきとした気持ちで庭師と数人の使用人たちと共に公爵邸自慢の庭の水やりに励んでいた。
息を吸い込めば澄んだ空気が肺を満たし、風に乗って爽やかな香りもする。清々しいほどの青空の下で、ルドルフは呟いた。

「クラフ公爵邸に春が来たんだなぁ。」

彼の瞳はいつも以上にきらきらと輝き、胸は希望でいっぱいだった。
彼にとって希望の朝というか、希望の春がやってきたのだ。
そう、クラフ公爵邸の庭に咲く色とりどりの見事な花たちのように。
彼の張り切り様はいつも以上だった。
こんなに楽しそうな彼は見たことない、と周りに思われるくらいにルドルフはうきうきしていた。

「いつお呼びされても温かい食事を出せるよう気を配るように!」

『はい!』

「それから!旦那様と奥様の邪魔をしないよう、用意した食事などはドアの前に置いておくこと!
置いたらすぐにその場から離れなさい!いいですね!?」

『邪魔は致しません!』

「湯殿もお二人がいつでも入れるようにしておいて下さい!」

『承知しました!』

「いいですか?旦那様と奥様が仲睦まじい様子であっても、じっと見すぎてはいけません。
少し離れた所から見守るのです!そう、近すぎず遠すぎない、適度な距離で!!」

『勿論です!!』

ルドルフもそうではあるが、長年クラフ公爵家に仕えてきた使用人たちはずっと疲弊していたのだ。
長年仕えていなくとも、リュカがクラフ公爵になる少し前あたりから屋敷で勤め出した使用人たちも同じく疲弊していた。
仕える主人たちがそれはもう、最低最悪な人間たちだったから。

ルドルフはそう遠くない過去を思い出す。
リュカも気難しい性格ではあるが、リュカはルドルフにとって尊敬すべき主人だ。
しかし他は違う。ルドルフはリュカの母がまともだった頃を祖父から聞いた事があるだけで、実際は知らない。
ルドルフが知るリュカの母は、リュカの足枷でもありリュカを苦しめる存在だった。
だからルドルフにとっても、リュカの母は同情はするけれど“最低最悪な主人たち”の一人だったのだ。
しかし、今は違う。
敬愛し尊敬するリュカが、奥方を迎えた。
ルドルフや使用人たちにとって、新しくクラフ公爵夫人となったサイカはそれはもう、喜ばしい存在だった。
リュカに、という意味でも、自分たちにとって、という意味でも。
彼らもまた、餓えていた。“まともな主人”に。
これまで世話をしてきたのはまともではない最低最悪な主人ばかり。
小さな事で罵られ癇癪を起こされ、機嫌の良し悪しで一々当たられては堪ったものではない。
ミスとも言えないミスでこの世の終わりかと言うくらいヒステリックに怒られ、罰を受けた者もいた。
用意したドレスが気に入らないと、何時間も着替えを手伝った者もいた。
元公爵の寝所に数日呼ばれない、それだけで八つ当たりを受けた者もいた。
赤ん坊より手の掛かる主人たちに、否、これは赤ん坊に失礼だった。屑の集まりのような主人たちに仕える事に、使用人一同はほとほと疲れていたのだ。

「奥様のマッサージは私に任せて下さい!隅から隅まで癒して差し上げますからね!!」

「ちょっと!私だってこの日の為に腕を磨いたのよ!ここは先輩を立てるべきじゃない!?」

「早くお呼びが掛からないかしら。」

「待ち遠しいわよねぇ!」

クラフ公爵家に勤める使用人たちのサイカへの好感度はかなり高かった。
まだ二人が婚約者な間柄だった頃、サイカが初めてクラフ公爵邸に訪れた日から使用人たちはそれはもう、サイカがクラフ公爵夫人となる日を心待ちにしていた。
絶世の美女。女神の如くとんでもない美しさを持つ令嬢は、まともを通り越して天使のように優しい…それでいて守ってあげたいと思わずにいられない愛らしさを持ち合わせており、おまけに自分たちが尊敬する主人、リュカにとって大層大切な存在でもあり、長く陰っていた公爵家に明るい光をもたらしたのだから、好意を持つのは当然だろう。

「本当、いい天気だなぁ。」

ルドルフはこれからの日々を楽しみに呟く。

公爵夫妻が寝室から出て来たのは新婚生活四日目の事だった。
出来る事なら愛する妻と一日中ずっと睦み合いたいのが本音であるが、リュカの身分は公爵。やらねばならない仕事も多い。
普段であれば折角サイカが屋敷にいるのに仕事なんて、と愚痴の一つや二つや三つ溢している所だろう。
しかし、今のリュカは大層ご機嫌だった。

「奥様、紅茶が入りましたよ。」

「あ、はい…ありがとうルドルフ。」

「いいえ。お寒くはありませんか?
ブランケットは必要ございませんか?」

「あ…じゃあ、お願いしよう…かな。」

「すぐにお持ち致します。
誰か!大至急で奥様にブランケットを!!」

『畏まりました!!』

リュカもルドルフも、ブランケットを持って来た侍女もとてもにこやかな表情をしているが、サイカは自分の今の状況にまだ混乱していた。
朝起きて、体を起こす体力すら残っていないサイカに夫のリュカはそれはもう甲斐甲斐しく世話を焼きながら、そろそろ少しずつでも仕事を再開せねば…と不満気な様子でサイカに伝えた。
ならば今日はゆっくり休もう。休ませてもらおう。寝て過ごす気満々だったサイカは、寝室から出たくない、仕事などしていられない、今日はまだお前と居たいと駄々をこねる夫に対し、頑張って、お仕事でしょう、少しずつでも手を付けないと溜まってその分大変になってしまう、リュカが来るのを待ってるからとあやすように声を掛ける。
新妻と一時も離れたくない夫VS今日はゆっくり休ませて欲しい妻の攻防は否応なしに夫に軍配が上がった。
体力ゼロの妻の体はいとも簡単に抱えられ…そのまま夫の執務室へ。そして椅子に座る夫の膝へ横抱き座らされ…現在に至る。
リュカは機嫌よくルドルフに指示を出しながら机の上に溜まった書類を片付けていく。
時折サイカの髪をくるくると指で遊んだり、煮詰まればサイカの首筋の匂いをすーはーと嗅いだりサイカと視線が合えば口付けしたりとやりたい放題であった。
そんな大層機嫌の良い主人の様子を見て、ルドルフは春だなぁ羨ましい、と心の中で呟いた。
幸せそうな主人を見るとルドルフも嬉しくなった。

「…ふう、一旦休憩にするか。ルドルフ、一時間程休憩するから呼ぶまで下がっていろ。」

「畏まりました。では失礼致します。」

パタン、と小さな音を立てドアが締まるとリュカはサイカを抱え三人掛けのソファーへ移動する。
目の前のテーブルの上には数種類のケーキが並び、リュカは自分が食べるのではなくサイカの口に運んだ。

「あーんだ、あーん。ほら、口を開けろ。何だ?菓子は好きだろう?腹がいっぱいか?」

「…えーと、ううん、いただきます…。」

「あーん。」

「…あー…む、」

好き放題されるがままもぐもぐとケーキを食べるサイカを、リュカは緩んだ表情で見つめる。
少し前の話になるが、マティアスやヴァレリア、カイルがサイカに手ずから食べさせたり食べさせてもらったりしている事を聞いたリュカは『恥ずかしい奴等め!』と彼らに悪態を付きながらも本音は羨ましくて仕方なかったのだ。
機会があればサイカへあーんをしたり、サイカからあーんされたりしたかったリュカは今、本懐を遂げていた。

「…旨いか?否、聞かなくともその顔を見れば分かる。旨いのだな?」

「うん、美味しい。」

甘い物を食べ心が満たされたのか、ふにゃりとサイカが表情を緩めれば夫の胸は盛大にときめく。

「…あー、…何だこれ…」

「?」

「何なんだ、この堪らない気持ちは…これはいかん…癖になるやつだ…。」

きょとんとする妻は夫から見て可愛いの権化だった。
否、今のリュカにとってはサイカのどんな表情や態度仕草も可愛いしかないだろう。
(はー、可愛い可愛い。もう可愛いしかないんだが一体何なんだこの可愛いのは。ああ、そうだ。この可愛いの塊は僕の妻だった。…妻?妻だ。僕の妻になったんだ。あー、可愛い可愛い。僕の妻が可愛い。)
夫の心の中は割りと大変な事になっていた。

リュカ自らが一時間と決めた休息は十分、二十分、三十分と延び…呼ぶまで下がっていろと命令されていたルドルフがドア越しから声を掛けるまで続いた。
書類にペンを走らせながらも新妻を愛でる事を忘れない主人を、ルドルフを始めとするクラフ公爵家の使用人たちは二度見しながらも次の瞬間には微笑ましげに見守った。

彼らがいつも見ている主人の表情は眉間に皺を寄せ難しい顔をしているものばかりだった。
目の下に隈を作り無表情に、時折苛々した様子で書類を片付ける主人は恐らく眼力で人を殺せる、と使用人たちが思うくらい恐ろしいものであった。
自分たちが仕える主人は真面目で責任感が強く、理性的で合理的で無駄を嫌い俗物を嫌う…そんな人物だと思っていた使用人たちは新妻をこれでもかと愛でる主人の変貌っぷりに二度見するくらいには驚いていた。
リュカがサイカを溺愛している、というのは使用人皆が知っている事実だけれど、それにしてもこんな主人は見た事がない。
“どちら様ですか!?”と思ったのも一人二人ではなかった。
常にあった眉間の皺は消え、普段は怒っているのかと問いたいくらいつり上がっていた眉は情けなくハの字になっている。
目尻も下がり、口角がゆるゆるとしてだらしない。極めつけは彼らが思わず赤面してしまうくらいの甘い言葉の数々だ。

「お前は本当に可愛いな。」
「こら、離れるな。寂しいじゃないか。」
「何処に行くんだ?トイレ?なら僕が抱えて行こう。体が辛いだろう?いいさ、僕が無理をさせたのだから。」
「退屈だったら僕の髪を触っていていいぞ。好きだろ、僕の髪。僕もお前の髪を触るのは好きだ。飽きない。」
「幸せだ。僕はお前が可愛くて仕方ないよ。」
「サイカ、愛している。」

“本当にどちら様!?”と使用人たちは何度も同じ事を思った。
自分たちが普段見ている主人と同一人物とは思えず動揺したけれど、彼らは“プロ”だった。
いちゃつく公爵夫妻…否、主に新妻を愛でまくる主人を視界に入れた途端、二度見し一瞬思考が停止するくらいの衝撃を受けるものの、皆次の瞬間には何事もなかったように振る舞った。
何事もなかったかのように…ではなく、何事もなかったかのように振る舞いつつ、微笑ましく見守る…が正解かも知れない。
合理的で理性的で無駄や俗物を嫌っていたはずの主人の、常とは違う余りの変貌振りに大変驚きはしたものの、クラフ公爵家に仕える多くの使用人たちがリュカの苦労と理不尽で不幸だった日々を知っていた。

自分たちの愛する故郷、クラフ公爵領を守る為に誰よりも身を粉にして、いいや身も心も犠牲にして責任を果たしてきた、尊敬すべき、敬愛すべき、敬うべき主。
使用人たちはリュカがどれだけ苦しんだか、どれだけ理不尽に晒されてきたか、長く辛い日々を送っていたか、笑顔の一つもなかった理由も、何一つ幸せではなかったそれまでの日々をよく知っていたのだ。

それが、それが。
今は、あんなにも幸せそうに。
あんなにも、この世の幸福を詰め込んだような優しい、穏やかで、愛に満ちた笑顔を浮かべている。
まるで春のようではないか。
公爵邸に、我らが主人に春がやってきた。
この春がどうか、過ぎる事なく永遠に続きますように。
どうか、あの春のように温かい笑顔が、この先もずっと失われませんように。
それは使用人たちの願いで、祈りだった。

『春真っ盛りだなぁ。』

機嫌よく仕事をこなすリュカと、リュカの膝に座るサイカに気付かれないように見つめ、ルドルフはもう何度目かになる台詞を呟く。
ルドルフは他の使用人たちよりもリュカと一緒にいる事が多く、他の使用人たちよりも多く、リュカの事を知ってもいる。
沢山リュカの表情を見てきた。
色んな葛藤も傍で見てきた。
主人に対してこんな気持ちを抱くのは不敬かも知れないけれど、ルドルフはリュカと年も近いとあって、友人のような、兄弟のような気持ちも持っていた。
勿論、領主としても主人としても尊敬している。
これまで心を殺して生きるしかなかったリュカにルドルフは心を痛めてもいたし、サイカと出会ってからの変化をとても嬉しく思っている。
他人にも自分にも厳しいリュカが、愛するサイカにはとことん甘くなっているもの見ていて微笑ましく思う。
最近のルドルフの楽しみは色んな表情を見せるリュカを見る事だった。今現在もそう。

「…僕をじっと見てどうした?退屈か?…すまない、もう少しで終わるからな。」

「ううん、退屈してないよ?
ただ、リュカが格好いいなぁって思ってじっと見てただけ。」

「は!!?」

「仕事中のリュカって余り見た事なかったから。
普段も格好いいなって思ってるんだけど…真剣な表情で仕事してるリュカは…すごく格好いい。こんな素敵な人が旦那様なんだなぁって。…ときめいちゃった。」

「は、はあぁぁぁぁ!?お、おま、馬鹿!!そういうのはっ、そういうのは仕事中に言うな!堪らない気持ちになるだろうがっ!こっちはずっと我慢してずっと理性を働かせているんだぞ!!?
お前は自分がどれだけ可愛いか!可愛すぎて僕の心臓にどれだけ負担をかけているか!ちょっと…いやだいぶ知れ!!」

「え…えー…?」

「えー…?ではない!何だその可愛い上目使い!新婚早々僕を殺す気か!?まだ新婚四日目だぞ!?いつか殺されるとは言ったがまだ殺すな!早い!!
はー、胸が痛い。苦しい。辛い。僕の妻が可愛すぎて苦しい、死んでしまう…!」

自分は散々、リュカの甘い言葉を聞かされ続けたのに納得いかない、といった表情のサイカと真っ赤になって照れる…いや、怒っているリュカのやりとりを見ながらルドルフは込み上げる衝動に必死に耐えた。

『おもしれー旦那様だな』

春を迎えた夫の頭は、だいぶ面白いことになっている。
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