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158 リュカとサイカの結婚
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「早く早く!」
「ここから見えるかな?」
「屋根の上に登るぞ!あそこなら見えるだろ!」
「すごいね!人がいっぱいいるよ!」
クラフ公爵領にある立派な教会には大勢の人が集まっていた。
教会周辺はレスト帝国の騎士やクラフ公爵家とクライス侯爵家の私兵で厳重に守られており、中にいる花嫁や花婿、招待客の様子は見えないものの、教会から少しだけ離れた場所ではクラフ公爵領で暮らす民たちで埋め尽くされ、屋根の上に登っている者たちも少なくなかった。
皆、今日のこの喜ばしい日を一目でもいいから見たい、そんな思いだった。
「神父は到着しましたか!?」
「いえ、まだです!恐らくは大勢の人が集まっているのが原因で…馬車が思うように進まないのではないかと…!」
「まだですか…!」
「ルドルフ殿、我々にお任せ下さい。
馬車を先導して参りましょう。」
「すみません!宜しくお願いします!」
事前準備は滞りなく完了していたものの、やはり当日となると当然問題も起こるもの。
今日という喜ばしい日を祝いたい民衆が教会周辺所か至る所を埋め尽くしているお陰で神父の乗った馬車がまだ到着していない…そんな問題も起きていた。
「ああもう…!だから前日には到着しておいてほしいとお願いしたのに…!」
ルドルフが苛ついているのも仕方がない。
予定では…もうとっくに式が始まっている時間だったのだ。
この世界ではレスト帝国、ドライト王国、リスティア連合国とこの三つの国が大きな力を持つ大国と呼ばれているが、昔は大国同士の差はまだ其ほどなかった。
軍事力に商業、医療も他の多くの国より優れており、資源、財にも恵まれている三つの大国の力関係は同列。縦ではなく横に並んでいたのだ。
しかし今となっては三つの大国の中でもレスト帝国が世界で一番と人々から認識されるようになっていた。
リスティア連合国、元王太子の事件は前代未聞の事件となり、リスティア連合国王族は大きな代償を負った。
レスト帝国への賠償だけでなく、優秀な後継者を失ってしまったのだ。
今は…新たな後継者を育てている。
豊かと思われていたドライト王国はその実、砂上の楼閣だった。
長い間続いた栄華が時代と共に少しずつ衰えている事を、先代女王や臣下たちは気付かなかったのだ。
繁栄は努力の継続なしでは得られないし、時代に合わせて変化も必要である。
けれど先代女王や臣下らは過去の栄光が今も未来も変わらず続くものと過信していた為に…地方が崩壊している事に気付きもしなかった。
都市が先にダメージを受けていれば、きっと即座に対応しただろう。
都市が真っ先に恩恵を受け、地方に恩恵が届くのはいつも後だ。
しかし崩壊するのはいつも地方が先で、都市が後に残る。
だから破滅の足音に気付かない。
ドライト王国繁栄の破滅は、目の前まで来てしまっていたのに。
新しい国王は国の闇を知り、恥を忍んでレスト帝国に助けを求めた。
大国の一柱が崩れてしまえば世界は混乱するだろう。否、必ず混乱するし大きな影響と被害が及ぶ。
難民が溢れ、世界そのものが崩壊し兼ねなかった。レスト帝国に助けを求めたのは英断だったと言える。
そんなこんながあって、レスト帝国は今一番力があり栄えていると人々から認識されているのだ。
クラフ公爵家はレスト帝国の王族、その次に高貴な身分を持っている。
自領での結婚式ではあるが、教会内にいる招待客は高貴な身分を持つ人間ばかりだった。
そんな高貴な身分の人間たちを待たせてしまっている事に、ルドルフは胃を痛めているわけで……もう何度目かになる大きな溜め息を吐いていた。
「様になっているではないか。」
「…大事な日だ。サイカが誰と結婚するのか周りに見せつけないと…だろ?」
「容姿で侮るなど愚か者のする事だ。
だが、そういう人間は大勢いる。」
「そういう事だ。……ふぅ。」
「はは。緊張しているのか。」
「……緊張…というよりも…実感がない、か。夢なのでは、と思っている。
夢を見ているんじゃないか…昨日からずっとそんな感じなんだ。」
「分かるとも。」
「お前もそうだったのか?」
「ああ、同じだった。
結婚前夜も、式の最中も。初夜も。
数日は夢ではないかと思った。
数日経って、夢ではないと実感した。
きっとそういうものだろう。」
「……夢…じゃないよな?」
「夢なものか。」
「…そうか。」
サイカと恋人になってから、リュカはサイカと夫婦になる事を望むようになった。
夫婦になりたい、という思いは必ず夫婦になる、と決意に変わり、その為にこれまで頑張ってきた。
サイカと夫婦になれる。式の日取りが近付くと嬉しさでいっぱいになり、待ちきれない気持ちでいたが…いざ、前日になるとまるで実感がなかったのだ。
本当に、明日が結婚式なのか。
本当に、明日には夫婦になるのか。なれるのか。本当に?
当日になっても、結婚式用の礼服に着替えても、まだ尚、リュカには実感がなかった。
「思うに、だ。そなたはまだ、区別が出来ておらんのだろうよ。そなただけでなくきっと、ヴァレリアやカイルもそうだろう。」
「?」
「不幸続きだった。理不尽な日々だった。互いに生まれてからずっとだ。
だから、突然降ってきた幸運に心の中ではずっと怯えている。…その様子だと気付いていないと思うが。
未だ、夢を見ていると思っている。」
「………そんなことは、………ああ…いや、……そう、か。成る程…。」
リュカは目を閉じ、これまでの人生を振り返った。
長く、辛い人生だった。
何の為に生まれたのか。生まれた事を後悔した日もあった。
変わらない日々にうんざりもして、一日一日、ごっそりと精神が削られる。
生きるのが嫌になったのも一度や二度じゃなかった。
自分は一生、死ぬまで幸せとは程遠い人生を生きるのだと諦めもした。
そんなリュカに、ある日突然サイカという幸運が、幸せが降ってきたのだ。
恐る恐る、自分の元へ落ちてくる幸運を手を広げ受け止めた。
リュカの元へ降ってきた幸運は、それはもう鮮烈だった。
一度手にしてしまえば、もう手離せない。
世界は色鮮やかに変化をもたらし、リュカの生きる糧となった。
幸運を手に入れてから、リュカは夢のような日々を送っていたのだ。
そう、それは文字通り、夢のような日々を。
当たり前の幸せという、宝物のような日々を。
きっと、実感がなかったのはサイカに出会ってからもずっとだった。
ずっとずっと、リュカは夢を見ている気持ちだった。
余りにも幸せで…夢と現実の区別が付いていなかったのだ。
「お前の言う通りだ、マティアス。
僕は、まだ夢と現実の区別がついていないみたいだ。」
「直に目覚める。俺もそうだった。」
マティアスの、優しい眼差しにリュカは目を見張った。
普段であれば“気持ち悪いぞ”と言っているだろうが…この時ばかりは、リュカの胸に温かいものが広がった。
サイカの事になると決して譲らない、暴君のようなこの男が…まるでリュカも幸せになれ、と伝えてくれているようだった。
サイカという唯一無二の宝を、リュカにも分け与えようとしている。リュカはそんな風に感じていた。
「…礼を言う。…ありがとう、マティアス。僕の家族、僕の友よ。」
マティアスはリュカにとってただの従兄弟だった。
父親が兄弟同士で、王族で、責任ある身分、そして醜い容姿で生まれた不幸な者同士。
勉学や剣で競う事もあった。互いに互いの存在を意識していて、でもそれでもただの従兄弟同士だった。
醜い容姿を持つ、周りから嫌悪されている仲間、あとは従兄弟以上の感情もなかった。
けれど今は、家族のように、友のように。
サイカに関しては厄介な存在ではあるけれど、リュカにとっていつの間にかマティアスはかけがえのない存在になっていた。
「お前が僕の従兄弟で良かった。
お前は僕の目標であり、家族であり友だ。
僕はお前の幸せを願う。大切な家族、大切な友の幸せを…心から願う。」
「俺もだ。リュカ、そなたの幸せを願っている。
まあ、サイカの事は譲らんがな。」
「ふは…!」
もう、あの頃のリュカはいない。
マティアスと自分の不幸を比べ、マティアスよりも自分の方が幸せだとくだらない優劣を競っていたリュカはいない。
あの日、幸運と出会ってから。
「そろそろ戻る。しっかり見せつけてやれ。」
「言われずとも。」
マティアスが戻り、少し顔色が良くなったルドルフに神父の到着を聞いたリュカは大勢の招待客が待つチャペルへと向かった。
「サイカ。」
「お義父様!」
「お前が緊張していると思ったんだが…来て正解だったな。」
「大勢の前に立つの…少しは慣れたと思ったんですけどね…。」
「それとこれとはまた別だろう。」
「…うん。……あのね、お義父様。」
「うん?」
「マティアスの時もそうだったけど…今日も、嬉しいのに寂しい気持ちなの。
一回経験してる事なのに、切なくなる。不思議。…マティアスに嫁ぐ時に、お義父様たちの元を離れる寂しさを感じたけど、今日も感じてる。
マティアスの奥さんになって、もう一年も経つのに。」
「…それは、……それがお前が素晴らしい子だからだ。」
「そんな事ないよ。普通だよ、普通の人だよ、私。」
「ああ。それも知っている。
お前は、いつも大事な節目に色んな事を思い出して、噛み締めているのだろう。俺たちの事も、リュカ殿との日々も。
節目の後は変化がある。今日が過ぎればお前はもう、リュカ殿の婚約者ではない。」
「…うん。」
「寂しさや切なさを感じるのは…お前が、日々を大切に過ごしてきたからだ。
毎日に感謝し、大切に一日一日を過ごしてきたからこそ、日々が輝いていた。
だからお前は素晴らしい。否。そこが、お前の一番素晴らしい所だ。」
「?」
「お前はここに来た事でそれまであった大切なものたちを失った。
どれもが宝で、決して替えの利くものではなかった。
その悲しみや苦しみも未だ癒えるものでもなく…だからこそ、お前は自分の周りにあるもの全てを大切している。」
ディーノは愛する娘をよく知っていた。血の繋がりなど関係ない。それを教えてくれた大切な娘。
ディーノを父親にしてくれた大切な愛娘。
「お前は一度死に、故郷にあるもの全てを失った。
その悲しみや苦しみ、後悔はお前に大切な事を教え、それをお前は深く理解している。」
だからサイカは感謝する。
だからサイカは言葉にする。
だからサイカは行動する。
だからサイカは努力する。
だからサイカは、毎日を懸命に生きる。
そんなサイカを、ディーノは愛している。心から愛している。
「日々を大切にし生きているからこそ、お前の心は豊かなのだ。
ただ感受性に優れているのではない。
お前の心は愛に満ちている。
だから俺も皆も、お前を愛さずにいられない。お前が愛しくて堪らない。」
「お義父様…。」
ディーノはサイカを抱き締め、二度目の結婚式を迎える娘に言葉を送った。
「リュカ殿に幸せにしてもらうんだ。そしてその分、リュカ殿を幸せにしなさい。
俺の愛する娘。かけがえのない宝。目一杯幸せにおなり。」
ディーノの大きな体に包まれ、サイカは涙を溢した。
この優しい父の溢れんばかりの愛情が嬉しくて。
「さ、新しい夫君が首を長くして待っているだろう。
行こうか、サイカ。」
「はい…!」
そしてサイカも、大好きなディーノに手を引かれ、愛するリュカの元へ向かう。
『…おお…、』
サイカが現れた瞬間、招待客たちは息を飲んだ。
招待客の中にはサイカのウェディングドレス姿を一度見た者も多くいる。
だというのに、彼らは何度見ても感嘆の息を漏らさずにいられなかった。
夫となる愛しい男の元へ向かう女、その美しさはこの世のどんなものにも勝って見えた。
サイカを見つめる誰も彼も、言葉という言葉が出ない。
まるで心奪われた様に、ただ見つめる事しか出来ない。
魅了されるとはこういう事なのだと、身をもって体験していたのだ。
「……サ…イカ、」
リュカもまた、サイカに魅了された一人だ。
マティアスもヴァレリアもカイルも、サーファスも。
嗚呼!正に女神の如き美しさよ!
ウェディングドレス姿のサイカは、本当に女神のようだった。
静まり返るチャペルの中、一歩一歩噛み締めながら歩くサイカが、新たな夫になるリュカの元へ辿り着いた。
ディーノはリュカへサイカを引き渡すと自分に用意された席へ戻り、隣に座っているルイーザに目元を拭われる。
娘の門出は何度経験しようとも、きっと慣れるものではない。
二度目の式を迎えても、ディーノの目には涙が浮かんでいた。
「僕の愛、僕の命、僕の全てをお前に捧げる。お前がいるから僕は生きる。
僕の妻、僕の…愛しいサイカ。」
「リュカ、私…リュカを幸せにするからね。
私も幸せになって、それから…もっともっとリュカを幸せにするから。」
「ああ。一緒に幸せになろう。
お前がいれば、僕の人生はずっと幸せだろう…。」
キスを交わす二人の頭上に、祝福の光が射し込む。
その姿に堪えきれず、涙を流す老人がいた。
ルドルフに肩を支えられ、溢れる涙を止めることなく流す老人は幼いリュカを支え続けた前家令その人。
「…うう、……うううぅ…、」
「爺ちゃん、言っただろ?旦那様は大丈夫だって。」
「……、」
まだ幼かったリュカの苦しみと努力を長年側で見てきたクラフ公爵家の前家令だったダッドは、孫に仕事を引き継いでリュカの元を去った後も、ずっとリュカを心配し続けていた。
せめて側にいるくらいは…とダッドの気持ちにノーを突き付けたのは孫のルドルフだった。
老いた体を限界まで酷使し続けた祖父には休める環境が必要だった。
家令という職を辞めたとしても、リュカの側にと、公爵家にいれば休めるはずもない。
当時はまだ、女にしか興味のない公爵と夫の寵愛ばかりを競う夫人たち、そして馬鹿ばかりの子供たちがいたのだ。
優しい祖父はきっと、家令を辞めたとしてもリュカの側にいる限り手伝おうとするだろう。
自分の体に鞭打っても、残酷な程理不尽な運命を背負う幼いリュカの手助けをしようとしただろう。
だからダッドには公爵家、そして気掛かりであるリュカと離れ、ゆっくり体を労る環境が必要だったのだ。
ルドルフの読みは正しかった。
ダッドは公爵家を離れてもリュカの心配ばかりしていた。
“ルドルフ、リュカ様の様子はどうだ?”
“リュカ様はちゃんと寝ているか?”
“食事は召し上がっているか?”
“お前はリュカ様を支えられているか?”
“大奥様は…相変わらずだろうか…。リュカ様は…大奥様を放ってはおけないのだなぁ…、”
ルドルフがダッドの元を訪れた時はリュカの事ばかりだった。
クラフ公爵家の中で、リュカだけが“まとも”だった。
その高い身分に生まれた意味を理解していたのがリュカだけだった。
公爵家には大勢の夫人と子供たちがいるにも関わらず、領地の全てがリュカ一人に乗っかっていたのだ。
まだ、八つの小さな子供に。
ダッドはずっと、罪悪感で押し潰されそうだった。
『…私は、何て酷な事をしてしまったのだろう…。
まだ幼いリュカ様に、あの様な辛い事を…!』
『爺ちゃん…。でも、仕方なかったんだよ。リュカ様しか、公爵家でまともな人間がいない。公爵は屑だ。毎日女を抱く事しか頭にない。夫人たちもだ。普通は公爵を諌める立場だろうに!
あの馬鹿たちもだよ!好き勝手に毎日遊んでばかりで何もしやしない!』
『…だとしても…考えなかった訳じゃない。…リュカ様はまだ子供だった。
体も心も、これから大きくなっていく時期だった…。そんな子に、クラフ公爵領の全部を押し付けて…、』
『分かってる。だから、俺が爺ちゃんの代わりに支えるよ。大丈夫、いつかきっと笑い話になる時がくるさ。』
けれどダッドの心は晴れなかった。ずっと。
ダッドの後悔はずっと深い所にある。
ずっと、長くクラフ公爵家に居続けた分、見てきたものがある。
リュカの心からの笑顔を、ダッドは知っていた。
リュカの子供らしい部分をダッドは沢山知っていた。
その笑顔や感情が徐々に失われていく様子も、見てきた。
公爵領の仕事をし出してから特に酷かった。
余りにも大きな責任にリュカの幼い心は耐えられず、食欲も失せ、満足に眠る事も出来なくなっていた。
目の下にはっきりと分かる隈をこさえ、申し訳程度の食事しか取らないものだから窶れてもいた。
眠れば、リュカは毎晩悪夢を見ていたのだろう。
“すまない”“ごめんなさい”“辛い思いをさせて、ごめんなさい”“許して”
魘され出てくる言葉は、ダッドの心を痛めるものばかりだった。
リュカへの罪悪感はダッドの心だけでなく老いた体をも蝕む。
リュカはこれだけ辛い思いをしているのだ。自分も同じく辛い思いをせねばならない。自分は、幼いリュカを巻き込んだ責任を取らなくてはならない。
一種の脅迫観念のようなものだろう。
そして、ダッドのこの呪いのような感情を取り去る事が出来るのは…リュカだけだ。
「ダッド。」
「!!…リュカ様…!」
頭を下げようとするダッドを、リュカは手で制止した。
隣に立つサイカの肩を寄せ、幸せに満ちた笑顔を向けた。
「ダッド、僕の妻になったサイカだ。」
「初めまして、サイカと申します。
お会い出来て嬉しいです。」
「…っ、ダッドと、申します。…孫が、お世話に…、」
言葉が詰まるダッドの気持ちを、リュカもまたよく知っていた。
自分の事で精一杯だったあの頃とは違う。
離れていても、ダッドがリュカを支えてくれていた事もリュカは知っている。
いつもリュカの事を考え、罪悪感で押し潰されそうな老いた男の憐れな心を、成長したリュカ察していた。
「ダッド。お前の判断は正しかった。
お前が父に見切りをつけ僕の元へ来なければ…クラフ公爵領は今、なかっただろう。」
「そんなこと、」
「ある。僕が断言する。
もう少し遅ければ、領地は分断されていたと思う。
あの頃は特に酷かった。問題ばかりだった。そんな領地に、誰が残ろうと思っただろう。」
「……。」
「もっと酷い状況になっていたかもしれない。もし、僕の成長を待っていれば…もしかしたら、民たちによる暴動も起きていたかも知れない。それくらい…もう、皆の我慢は限界の所まで来ていた。
だからお前は動かずにいられなかった。」
「…リュカ様…」
そう。ダッドの判断は正しかった。
元々クラフ公爵領だった土地は敗戦国であり、問題の多い土地だった。
王弟であったリュカの父の為にと、マティアスの父が考え任せた土地だった。
女狂いであっても、リュカの父は王弟。
その身分に見合う広大な土地を、と考えてくれたのだ。
女狂いであっても、身分に見合う領地を授けたのだから…苦労はするだろうがきっと、無事平定へと導いてくれるだろうと。
最初はマティアスの父、自分の兄の思いを汲んだのか真面目に仕事に取り組んでいたリュカの父だったが、結果は最悪なものとなった。
授かった頃よりもずっとずっと、最悪なものになっていた。
クラフ公爵領で暮らす民は元々クラフ公爵領となる前からその土地その土地で暮らす者ばかりで、最初こそ、期待していたのだ。
大国の一部になれば、きっと今よりずっと平穏に暮らすことが出来る、と。
小さな国だった。それが、大国、レスト帝国の一部になるのだ。
しかも土地を治める主はレスト帝国皇帝の弟ときた。期待せずにはいられない。だがしかし、その期待は無情にも裏切られてしまう。以前よりももっと、最悪な状況になって。
民の我慢も限界に来ていた。
「ダッド。お前のお陰で今の僕が在る。
お前のお陰で、クラフ公爵領に住む大勢の人間が助かった。
誇れダッド。お前のお陰で、沢山の人間が救われたんだ。」
「そんな、…そんなことっ、…リュカ様っ、貴方様は…苦しんだ…!貴方は、私に苦しめられた…!!」
「いいや。お前のせいだと思った事は一度もない。
あのろくでなしの父とアバズレたち、馬鹿ばかりの弟妹たちのせいだとは毎日思っていたがお前のせいだと思った事は今まで一度だってない。」
「ですがっ…!私が、貴方の幸せを…!笑顔を、喜びを、失わせてっ…苦労ばかりを…押し付けて…!」
「違う。一つも、お前が僕から奪ったものなどない。
僕は確かに苦しかった。何も楽しいとも思わなかったし、達成感も幸せも感じなかった。責任だけで生きていた僕は、逃げ出したい、誰でもいいから助けてくれと、誰かに求めるばかりだった。」
「…それは、当然です…。リュカ様には、重たい、それは、重たい責任が、…私が、リュカ様にっ…」
「いいや。僕は、自分では何もしなかった。実際に悪いのはあの色狂いの父だが…僕はずっと、自分が置かれている環境を恨み、周りを恨んでいた。
自分では何もしていないのに、全部を誰かのせいにした。」
それの何が悪いのだろうか。
ダッドはリュカを見ながらそう思った。
リュカは誰かのせいにしていい。
そう、全部を自分のせいにしてくれていいのに、と。
「僕はなダッド、気付いたんだ。
僕は、あの環境でも幸せになれたはずだ。僕がそう、行動すれば。」
「……。」
「早く、爵位を継げば良かった。仕事は全て僕がやってたんだ。父を追い出すのも、夫人たちやあの馬鹿共を追い出すのも…僕がやろうと思えばもっと早くに出来たんだ。
でも、それをしなかったのは僕だ。母の事も、そうだ。」
リュカにとって、家族はリュカの母一人だった。
心を壊しても、ずっとずっと、リュカは母との優しい、幸せだった思い出に縛られていた。
父や夫人、その子供たち追い出せなかったのはリュカの真面目な性格故。
追い出すのなら、父親を諌める事をしなかった母親にも責任があると考えていたのだ。
ダッドは、母を慕うリュカの愛を知っていた。
だからこそ、見捨てる事も放っておく事も出来なかったのだと。
「何もかもを手に入れる事は出来ない。どんな人間でも。
僕が幸せになる為には…母との関係を崩さなければ始まらない。
だけど僕はそれが恐くて、出来ずにいた。思い出の中の母を追い出したくなかった。」
「…決断、されたのですね…」
「ああ。恐かった。辛かった。だけどなダッド、僕は何もかもを失ったわけじゃなかった。
母との関係は崩れた。でも、新しい関係を築けているぞ。」
「!!」
「母はもう、あの屋敷にはいない。
でも僕に会いに来るし、僕も母に会いに行くんだ。
僕たちの関係は…母が心を壊してからずっと、親子だけど親子じゃなかった。
だけど今は、僕たちは親子だと心から言える。
もう一度言うぞ、ダッド。お前が僕から奪ったものは、何一つとしてない!」
「……リュカ、…リュカ様っ…!
リュカ様、ああ、…ううう…!」
孫のルドルフに支えてもらっていたダッドは両手で顔を覆い、地面に膝を着いて泣き崩れた。
「ダッド。僕は幸せだ。
僕には母がいる。お前がいる。ルドルフがいる。そして、僕に大切な事を教えてくれた妻がいる。
もう小さな子供じゃない。僕は、クラフ公爵その人だ。
お前に感謝こそすれ、恨むなど勘違いもいい所だぞ。全く。」
ずっとずっとダッドの心を蝕んでいた罪悪感と後悔。
それが、晴れていく瞬間だった。
「ここから見えるかな?」
「屋根の上に登るぞ!あそこなら見えるだろ!」
「すごいね!人がいっぱいいるよ!」
クラフ公爵領にある立派な教会には大勢の人が集まっていた。
教会周辺はレスト帝国の騎士やクラフ公爵家とクライス侯爵家の私兵で厳重に守られており、中にいる花嫁や花婿、招待客の様子は見えないものの、教会から少しだけ離れた場所ではクラフ公爵領で暮らす民たちで埋め尽くされ、屋根の上に登っている者たちも少なくなかった。
皆、今日のこの喜ばしい日を一目でもいいから見たい、そんな思いだった。
「神父は到着しましたか!?」
「いえ、まだです!恐らくは大勢の人が集まっているのが原因で…馬車が思うように進まないのではないかと…!」
「まだですか…!」
「ルドルフ殿、我々にお任せ下さい。
馬車を先導して参りましょう。」
「すみません!宜しくお願いします!」
事前準備は滞りなく完了していたものの、やはり当日となると当然問題も起こるもの。
今日という喜ばしい日を祝いたい民衆が教会周辺所か至る所を埋め尽くしているお陰で神父の乗った馬車がまだ到着していない…そんな問題も起きていた。
「ああもう…!だから前日には到着しておいてほしいとお願いしたのに…!」
ルドルフが苛ついているのも仕方がない。
予定では…もうとっくに式が始まっている時間だったのだ。
この世界ではレスト帝国、ドライト王国、リスティア連合国とこの三つの国が大きな力を持つ大国と呼ばれているが、昔は大国同士の差はまだ其ほどなかった。
軍事力に商業、医療も他の多くの国より優れており、資源、財にも恵まれている三つの大国の力関係は同列。縦ではなく横に並んでいたのだ。
しかし今となっては三つの大国の中でもレスト帝国が世界で一番と人々から認識されるようになっていた。
リスティア連合国、元王太子の事件は前代未聞の事件となり、リスティア連合国王族は大きな代償を負った。
レスト帝国への賠償だけでなく、優秀な後継者を失ってしまったのだ。
今は…新たな後継者を育てている。
豊かと思われていたドライト王国はその実、砂上の楼閣だった。
長い間続いた栄華が時代と共に少しずつ衰えている事を、先代女王や臣下たちは気付かなかったのだ。
繁栄は努力の継続なしでは得られないし、時代に合わせて変化も必要である。
けれど先代女王や臣下らは過去の栄光が今も未来も変わらず続くものと過信していた為に…地方が崩壊している事に気付きもしなかった。
都市が先にダメージを受けていれば、きっと即座に対応しただろう。
都市が真っ先に恩恵を受け、地方に恩恵が届くのはいつも後だ。
しかし崩壊するのはいつも地方が先で、都市が後に残る。
だから破滅の足音に気付かない。
ドライト王国繁栄の破滅は、目の前まで来てしまっていたのに。
新しい国王は国の闇を知り、恥を忍んでレスト帝国に助けを求めた。
大国の一柱が崩れてしまえば世界は混乱するだろう。否、必ず混乱するし大きな影響と被害が及ぶ。
難民が溢れ、世界そのものが崩壊し兼ねなかった。レスト帝国に助けを求めたのは英断だったと言える。
そんなこんながあって、レスト帝国は今一番力があり栄えていると人々から認識されているのだ。
クラフ公爵家はレスト帝国の王族、その次に高貴な身分を持っている。
自領での結婚式ではあるが、教会内にいる招待客は高貴な身分を持つ人間ばかりだった。
そんな高貴な身分の人間たちを待たせてしまっている事に、ルドルフは胃を痛めているわけで……もう何度目かになる大きな溜め息を吐いていた。
「様になっているではないか。」
「…大事な日だ。サイカが誰と結婚するのか周りに見せつけないと…だろ?」
「容姿で侮るなど愚か者のする事だ。
だが、そういう人間は大勢いる。」
「そういう事だ。……ふぅ。」
「はは。緊張しているのか。」
「……緊張…というよりも…実感がない、か。夢なのでは、と思っている。
夢を見ているんじゃないか…昨日からずっとそんな感じなんだ。」
「分かるとも。」
「お前もそうだったのか?」
「ああ、同じだった。
結婚前夜も、式の最中も。初夜も。
数日は夢ではないかと思った。
数日経って、夢ではないと実感した。
きっとそういうものだろう。」
「……夢…じゃないよな?」
「夢なものか。」
「…そうか。」
サイカと恋人になってから、リュカはサイカと夫婦になる事を望むようになった。
夫婦になりたい、という思いは必ず夫婦になる、と決意に変わり、その為にこれまで頑張ってきた。
サイカと夫婦になれる。式の日取りが近付くと嬉しさでいっぱいになり、待ちきれない気持ちでいたが…いざ、前日になるとまるで実感がなかったのだ。
本当に、明日が結婚式なのか。
本当に、明日には夫婦になるのか。なれるのか。本当に?
当日になっても、結婚式用の礼服に着替えても、まだ尚、リュカには実感がなかった。
「思うに、だ。そなたはまだ、区別が出来ておらんのだろうよ。そなただけでなくきっと、ヴァレリアやカイルもそうだろう。」
「?」
「不幸続きだった。理不尽な日々だった。互いに生まれてからずっとだ。
だから、突然降ってきた幸運に心の中ではずっと怯えている。…その様子だと気付いていないと思うが。
未だ、夢を見ていると思っている。」
「………そんなことは、………ああ…いや、……そう、か。成る程…。」
リュカは目を閉じ、これまでの人生を振り返った。
長く、辛い人生だった。
何の為に生まれたのか。生まれた事を後悔した日もあった。
変わらない日々にうんざりもして、一日一日、ごっそりと精神が削られる。
生きるのが嫌になったのも一度や二度じゃなかった。
自分は一生、死ぬまで幸せとは程遠い人生を生きるのだと諦めもした。
そんなリュカに、ある日突然サイカという幸運が、幸せが降ってきたのだ。
恐る恐る、自分の元へ落ちてくる幸運を手を広げ受け止めた。
リュカの元へ降ってきた幸運は、それはもう鮮烈だった。
一度手にしてしまえば、もう手離せない。
世界は色鮮やかに変化をもたらし、リュカの生きる糧となった。
幸運を手に入れてから、リュカは夢のような日々を送っていたのだ。
そう、それは文字通り、夢のような日々を。
当たり前の幸せという、宝物のような日々を。
きっと、実感がなかったのはサイカに出会ってからもずっとだった。
ずっとずっと、リュカは夢を見ている気持ちだった。
余りにも幸せで…夢と現実の区別が付いていなかったのだ。
「お前の言う通りだ、マティアス。
僕は、まだ夢と現実の区別がついていないみたいだ。」
「直に目覚める。俺もそうだった。」
マティアスの、優しい眼差しにリュカは目を見張った。
普段であれば“気持ち悪いぞ”と言っているだろうが…この時ばかりは、リュカの胸に温かいものが広がった。
サイカの事になると決して譲らない、暴君のようなこの男が…まるでリュカも幸せになれ、と伝えてくれているようだった。
サイカという唯一無二の宝を、リュカにも分け与えようとしている。リュカはそんな風に感じていた。
「…礼を言う。…ありがとう、マティアス。僕の家族、僕の友よ。」
マティアスはリュカにとってただの従兄弟だった。
父親が兄弟同士で、王族で、責任ある身分、そして醜い容姿で生まれた不幸な者同士。
勉学や剣で競う事もあった。互いに互いの存在を意識していて、でもそれでもただの従兄弟同士だった。
醜い容姿を持つ、周りから嫌悪されている仲間、あとは従兄弟以上の感情もなかった。
けれど今は、家族のように、友のように。
サイカに関しては厄介な存在ではあるけれど、リュカにとっていつの間にかマティアスはかけがえのない存在になっていた。
「お前が僕の従兄弟で良かった。
お前は僕の目標であり、家族であり友だ。
僕はお前の幸せを願う。大切な家族、大切な友の幸せを…心から願う。」
「俺もだ。リュカ、そなたの幸せを願っている。
まあ、サイカの事は譲らんがな。」
「ふは…!」
もう、あの頃のリュカはいない。
マティアスと自分の不幸を比べ、マティアスよりも自分の方が幸せだとくだらない優劣を競っていたリュカはいない。
あの日、幸運と出会ってから。
「そろそろ戻る。しっかり見せつけてやれ。」
「言われずとも。」
マティアスが戻り、少し顔色が良くなったルドルフに神父の到着を聞いたリュカは大勢の招待客が待つチャペルへと向かった。
「サイカ。」
「お義父様!」
「お前が緊張していると思ったんだが…来て正解だったな。」
「大勢の前に立つの…少しは慣れたと思ったんですけどね…。」
「それとこれとはまた別だろう。」
「…うん。……あのね、お義父様。」
「うん?」
「マティアスの時もそうだったけど…今日も、嬉しいのに寂しい気持ちなの。
一回経験してる事なのに、切なくなる。不思議。…マティアスに嫁ぐ時に、お義父様たちの元を離れる寂しさを感じたけど、今日も感じてる。
マティアスの奥さんになって、もう一年も経つのに。」
「…それは、……それがお前が素晴らしい子だからだ。」
「そんな事ないよ。普通だよ、普通の人だよ、私。」
「ああ。それも知っている。
お前は、いつも大事な節目に色んな事を思い出して、噛み締めているのだろう。俺たちの事も、リュカ殿との日々も。
節目の後は変化がある。今日が過ぎればお前はもう、リュカ殿の婚約者ではない。」
「…うん。」
「寂しさや切なさを感じるのは…お前が、日々を大切に過ごしてきたからだ。
毎日に感謝し、大切に一日一日を過ごしてきたからこそ、日々が輝いていた。
だからお前は素晴らしい。否。そこが、お前の一番素晴らしい所だ。」
「?」
「お前はここに来た事でそれまであった大切なものたちを失った。
どれもが宝で、決して替えの利くものではなかった。
その悲しみや苦しみも未だ癒えるものでもなく…だからこそ、お前は自分の周りにあるもの全てを大切している。」
ディーノは愛する娘をよく知っていた。血の繋がりなど関係ない。それを教えてくれた大切な娘。
ディーノを父親にしてくれた大切な愛娘。
「お前は一度死に、故郷にあるもの全てを失った。
その悲しみや苦しみ、後悔はお前に大切な事を教え、それをお前は深く理解している。」
だからサイカは感謝する。
だからサイカは言葉にする。
だからサイカは行動する。
だからサイカは努力する。
だからサイカは、毎日を懸命に生きる。
そんなサイカを、ディーノは愛している。心から愛している。
「日々を大切にし生きているからこそ、お前の心は豊かなのだ。
ただ感受性に優れているのではない。
お前の心は愛に満ちている。
だから俺も皆も、お前を愛さずにいられない。お前が愛しくて堪らない。」
「お義父様…。」
ディーノはサイカを抱き締め、二度目の結婚式を迎える娘に言葉を送った。
「リュカ殿に幸せにしてもらうんだ。そしてその分、リュカ殿を幸せにしなさい。
俺の愛する娘。かけがえのない宝。目一杯幸せにおなり。」
ディーノの大きな体に包まれ、サイカは涙を溢した。
この優しい父の溢れんばかりの愛情が嬉しくて。
「さ、新しい夫君が首を長くして待っているだろう。
行こうか、サイカ。」
「はい…!」
そしてサイカも、大好きなディーノに手を引かれ、愛するリュカの元へ向かう。
『…おお…、』
サイカが現れた瞬間、招待客たちは息を飲んだ。
招待客の中にはサイカのウェディングドレス姿を一度見た者も多くいる。
だというのに、彼らは何度見ても感嘆の息を漏らさずにいられなかった。
夫となる愛しい男の元へ向かう女、その美しさはこの世のどんなものにも勝って見えた。
サイカを見つめる誰も彼も、言葉という言葉が出ない。
まるで心奪われた様に、ただ見つめる事しか出来ない。
魅了されるとはこういう事なのだと、身をもって体験していたのだ。
「……サ…イカ、」
リュカもまた、サイカに魅了された一人だ。
マティアスもヴァレリアもカイルも、サーファスも。
嗚呼!正に女神の如き美しさよ!
ウェディングドレス姿のサイカは、本当に女神のようだった。
静まり返るチャペルの中、一歩一歩噛み締めながら歩くサイカが、新たな夫になるリュカの元へ辿り着いた。
ディーノはリュカへサイカを引き渡すと自分に用意された席へ戻り、隣に座っているルイーザに目元を拭われる。
娘の門出は何度経験しようとも、きっと慣れるものではない。
二度目の式を迎えても、ディーノの目には涙が浮かんでいた。
「僕の愛、僕の命、僕の全てをお前に捧げる。お前がいるから僕は生きる。
僕の妻、僕の…愛しいサイカ。」
「リュカ、私…リュカを幸せにするからね。
私も幸せになって、それから…もっともっとリュカを幸せにするから。」
「ああ。一緒に幸せになろう。
お前がいれば、僕の人生はずっと幸せだろう…。」
キスを交わす二人の頭上に、祝福の光が射し込む。
その姿に堪えきれず、涙を流す老人がいた。
ルドルフに肩を支えられ、溢れる涙を止めることなく流す老人は幼いリュカを支え続けた前家令その人。
「…うう、……うううぅ…、」
「爺ちゃん、言っただろ?旦那様は大丈夫だって。」
「……、」
まだ幼かったリュカの苦しみと努力を長年側で見てきたクラフ公爵家の前家令だったダッドは、孫に仕事を引き継いでリュカの元を去った後も、ずっとリュカを心配し続けていた。
せめて側にいるくらいは…とダッドの気持ちにノーを突き付けたのは孫のルドルフだった。
老いた体を限界まで酷使し続けた祖父には休める環境が必要だった。
家令という職を辞めたとしても、リュカの側にと、公爵家にいれば休めるはずもない。
当時はまだ、女にしか興味のない公爵と夫の寵愛ばかりを競う夫人たち、そして馬鹿ばかりの子供たちがいたのだ。
優しい祖父はきっと、家令を辞めたとしてもリュカの側にいる限り手伝おうとするだろう。
自分の体に鞭打っても、残酷な程理不尽な運命を背負う幼いリュカの手助けをしようとしただろう。
だからダッドには公爵家、そして気掛かりであるリュカと離れ、ゆっくり体を労る環境が必要だったのだ。
ルドルフの読みは正しかった。
ダッドは公爵家を離れてもリュカの心配ばかりしていた。
“ルドルフ、リュカ様の様子はどうだ?”
“リュカ様はちゃんと寝ているか?”
“食事は召し上がっているか?”
“お前はリュカ様を支えられているか?”
“大奥様は…相変わらずだろうか…。リュカ様は…大奥様を放ってはおけないのだなぁ…、”
ルドルフがダッドの元を訪れた時はリュカの事ばかりだった。
クラフ公爵家の中で、リュカだけが“まとも”だった。
その高い身分に生まれた意味を理解していたのがリュカだけだった。
公爵家には大勢の夫人と子供たちがいるにも関わらず、領地の全てがリュカ一人に乗っかっていたのだ。
まだ、八つの小さな子供に。
ダッドはずっと、罪悪感で押し潰されそうだった。
『…私は、何て酷な事をしてしまったのだろう…。
まだ幼いリュカ様に、あの様な辛い事を…!』
『爺ちゃん…。でも、仕方なかったんだよ。リュカ様しか、公爵家でまともな人間がいない。公爵は屑だ。毎日女を抱く事しか頭にない。夫人たちもだ。普通は公爵を諌める立場だろうに!
あの馬鹿たちもだよ!好き勝手に毎日遊んでばかりで何もしやしない!』
『…だとしても…考えなかった訳じゃない。…リュカ様はまだ子供だった。
体も心も、これから大きくなっていく時期だった…。そんな子に、クラフ公爵領の全部を押し付けて…、』
『分かってる。だから、俺が爺ちゃんの代わりに支えるよ。大丈夫、いつかきっと笑い話になる時がくるさ。』
けれどダッドの心は晴れなかった。ずっと。
ダッドの後悔はずっと深い所にある。
ずっと、長くクラフ公爵家に居続けた分、見てきたものがある。
リュカの心からの笑顔を、ダッドは知っていた。
リュカの子供らしい部分をダッドは沢山知っていた。
その笑顔や感情が徐々に失われていく様子も、見てきた。
公爵領の仕事をし出してから特に酷かった。
余りにも大きな責任にリュカの幼い心は耐えられず、食欲も失せ、満足に眠る事も出来なくなっていた。
目の下にはっきりと分かる隈をこさえ、申し訳程度の食事しか取らないものだから窶れてもいた。
眠れば、リュカは毎晩悪夢を見ていたのだろう。
“すまない”“ごめんなさい”“辛い思いをさせて、ごめんなさい”“許して”
魘され出てくる言葉は、ダッドの心を痛めるものばかりだった。
リュカへの罪悪感はダッドの心だけでなく老いた体をも蝕む。
リュカはこれだけ辛い思いをしているのだ。自分も同じく辛い思いをせねばならない。自分は、幼いリュカを巻き込んだ責任を取らなくてはならない。
一種の脅迫観念のようなものだろう。
そして、ダッドのこの呪いのような感情を取り去る事が出来るのは…リュカだけだ。
「ダッド。」
「!!…リュカ様…!」
頭を下げようとするダッドを、リュカは手で制止した。
隣に立つサイカの肩を寄せ、幸せに満ちた笑顔を向けた。
「ダッド、僕の妻になったサイカだ。」
「初めまして、サイカと申します。
お会い出来て嬉しいです。」
「…っ、ダッドと、申します。…孫が、お世話に…、」
言葉が詰まるダッドの気持ちを、リュカもまたよく知っていた。
自分の事で精一杯だったあの頃とは違う。
離れていても、ダッドがリュカを支えてくれていた事もリュカは知っている。
いつもリュカの事を考え、罪悪感で押し潰されそうな老いた男の憐れな心を、成長したリュカ察していた。
「ダッド。お前の判断は正しかった。
お前が父に見切りをつけ僕の元へ来なければ…クラフ公爵領は今、なかっただろう。」
「そんなこと、」
「ある。僕が断言する。
もう少し遅ければ、領地は分断されていたと思う。
あの頃は特に酷かった。問題ばかりだった。そんな領地に、誰が残ろうと思っただろう。」
「……。」
「もっと酷い状況になっていたかもしれない。もし、僕の成長を待っていれば…もしかしたら、民たちによる暴動も起きていたかも知れない。それくらい…もう、皆の我慢は限界の所まで来ていた。
だからお前は動かずにいられなかった。」
「…リュカ様…」
そう。ダッドの判断は正しかった。
元々クラフ公爵領だった土地は敗戦国であり、問題の多い土地だった。
王弟であったリュカの父の為にと、マティアスの父が考え任せた土地だった。
女狂いであっても、リュカの父は王弟。
その身分に見合う広大な土地を、と考えてくれたのだ。
女狂いであっても、身分に見合う領地を授けたのだから…苦労はするだろうがきっと、無事平定へと導いてくれるだろうと。
最初はマティアスの父、自分の兄の思いを汲んだのか真面目に仕事に取り組んでいたリュカの父だったが、結果は最悪なものとなった。
授かった頃よりもずっとずっと、最悪なものになっていた。
クラフ公爵領で暮らす民は元々クラフ公爵領となる前からその土地その土地で暮らす者ばかりで、最初こそ、期待していたのだ。
大国の一部になれば、きっと今よりずっと平穏に暮らすことが出来る、と。
小さな国だった。それが、大国、レスト帝国の一部になるのだ。
しかも土地を治める主はレスト帝国皇帝の弟ときた。期待せずにはいられない。だがしかし、その期待は無情にも裏切られてしまう。以前よりももっと、最悪な状況になって。
民の我慢も限界に来ていた。
「ダッド。お前のお陰で今の僕が在る。
お前のお陰で、クラフ公爵領に住む大勢の人間が助かった。
誇れダッド。お前のお陰で、沢山の人間が救われたんだ。」
「そんな、…そんなことっ、…リュカ様っ、貴方様は…苦しんだ…!貴方は、私に苦しめられた…!!」
「いいや。お前のせいだと思った事は一度もない。
あのろくでなしの父とアバズレたち、馬鹿ばかりの弟妹たちのせいだとは毎日思っていたがお前のせいだと思った事は今まで一度だってない。」
「ですがっ…!私が、貴方の幸せを…!笑顔を、喜びを、失わせてっ…苦労ばかりを…押し付けて…!」
「違う。一つも、お前が僕から奪ったものなどない。
僕は確かに苦しかった。何も楽しいとも思わなかったし、達成感も幸せも感じなかった。責任だけで生きていた僕は、逃げ出したい、誰でもいいから助けてくれと、誰かに求めるばかりだった。」
「…それは、当然です…。リュカ様には、重たい、それは、重たい責任が、…私が、リュカ様にっ…」
「いいや。僕は、自分では何もしなかった。実際に悪いのはあの色狂いの父だが…僕はずっと、自分が置かれている環境を恨み、周りを恨んでいた。
自分では何もしていないのに、全部を誰かのせいにした。」
それの何が悪いのだろうか。
ダッドはリュカを見ながらそう思った。
リュカは誰かのせいにしていい。
そう、全部を自分のせいにしてくれていいのに、と。
「僕はなダッド、気付いたんだ。
僕は、あの環境でも幸せになれたはずだ。僕がそう、行動すれば。」
「……。」
「早く、爵位を継げば良かった。仕事は全て僕がやってたんだ。父を追い出すのも、夫人たちやあの馬鹿共を追い出すのも…僕がやろうと思えばもっと早くに出来たんだ。
でも、それをしなかったのは僕だ。母の事も、そうだ。」
リュカにとって、家族はリュカの母一人だった。
心を壊しても、ずっとずっと、リュカは母との優しい、幸せだった思い出に縛られていた。
父や夫人、その子供たち追い出せなかったのはリュカの真面目な性格故。
追い出すのなら、父親を諌める事をしなかった母親にも責任があると考えていたのだ。
ダッドは、母を慕うリュカの愛を知っていた。
だからこそ、見捨てる事も放っておく事も出来なかったのだと。
「何もかもを手に入れる事は出来ない。どんな人間でも。
僕が幸せになる為には…母との関係を崩さなければ始まらない。
だけど僕はそれが恐くて、出来ずにいた。思い出の中の母を追い出したくなかった。」
「…決断、されたのですね…」
「ああ。恐かった。辛かった。だけどなダッド、僕は何もかもを失ったわけじゃなかった。
母との関係は崩れた。でも、新しい関係を築けているぞ。」
「!!」
「母はもう、あの屋敷にはいない。
でも僕に会いに来るし、僕も母に会いに行くんだ。
僕たちの関係は…母が心を壊してからずっと、親子だけど親子じゃなかった。
だけど今は、僕たちは親子だと心から言える。
もう一度言うぞ、ダッド。お前が僕から奪ったものは、何一つとしてない!」
「……リュカ、…リュカ様っ…!
リュカ様、ああ、…ううう…!」
孫のルドルフに支えてもらっていたダッドは両手で顔を覆い、地面に膝を着いて泣き崩れた。
「ダッド。僕は幸せだ。
僕には母がいる。お前がいる。ルドルフがいる。そして、僕に大切な事を教えてくれた妻がいる。
もう小さな子供じゃない。僕は、クラフ公爵その人だ。
お前に感謝こそすれ、恨むなど勘違いもいい所だぞ。全く。」
ずっとずっとダッドの心を蝕んでいた罪悪感と後悔。
それが、晴れていく瞬間だった。
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