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136 リュカ⑨
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「旦那様、東地区の書類をお持ち致しました。」
「ああ、そこに置いておいてくれ。」
「旦那様、今日もかなりの量の招待状が届いておりますが…。」
「ルドルフに渡しておけ。」
まだ昼にも程遠い朝。
今日も今日とてルドルフを始め、使用人たちが忙しなく屋敷中を動き回り、僕のいる執務室に出入りを繰り返している。
サイカを婚約者に持った僕の日常はこれまで以上に多忙を極めており、うんざりしながらも書類を見る目とペンを持つ手を動かす日々が続いていた。
「旦那様、こちらの書類は旦那様の決裁が必要なもので御座います。」
「分かった。後で確認する。」
以前からも多忙は多忙だった。
これでも広大な領地を持つクラフ公爵家の主だ。
それに、サイカが僕の婚約者として公になる事で忙しくなる事も予想はしていた。
何せあのサイカだ。サイカを婚約者に持つんだ。
クラフ公爵家という大きな権力に群がる者だけでなく、サイカという魅力的な女と縁を持ちたい貴族は多い。
「旦那様、招待客のリストをお持ち致しました。」
「…それは夜に確認する。寝室の机に置いておけ。」
…僕はそこそこに忍耐力がある方だと自負していたが…これは流石に参ってくる。
そろそろ癒しが欲しい。切実に。
「旦那様。」
「ああもう、次はなんだ!」
「サイカ様からお手紙が届いております。」
「…今すぐ渡せ。」
「此方で御座います。」
苛々と荒ぶりかけていた心が浮き立つ。
ペーパーナイフで封を切れば、ふわりと漂う愛しい女の香り。それだけで、苛立ち、下降していた機嫌が上向いた。
「……ふ、」
届いた手紙はクラフ公爵領で生活をしている僕がどう過ごしているか、体調など崩してはいないか、サイカ自身の近況が綴られた手紙だったが、“会いたいです”とサイカの気持ちが書かれてあった。
「はは、上出来だ。」
僕の可愛い婚約者は思慮深く、謙虚で慎ましい。
そういうサイカをとても好ましく思う反面、恋人としてはもっと我が儘を言って欲しいと思う。
確かに僕は忙しい身だ。やる事もやらねばならぬ事も多い、そういう立場の人間だ。
忙しい身である僕を気遣ってくれるのは勿論嬉しいが、寂しいものもある。
僕らを気遣って、それでサイカの気持ちを押さえ込んでしまうのであれば、そんな気遣いや遠慮はして欲しくない。…というのがサイカを愛している僕たちの意見だった。
サイカがまだ娼婦で、ファニーニという屑に手込めにされそうになった時の事。
僕はまだサイカと出会ったばかりだったが…その時でさえ、サイカは周りを気遣っていたと聞いた。
ヴァレリアやカイルへ送った手紙にも“大丈夫”だとか“良くしてもらっている”だとか“心配しないで”だとか。
マティアスが様子を見に行った時も、心配させない様に明るく振る舞っていたらしいが…当時サイカを預かっていたクライス候が言うには、夜に魘されていたし、眠りながら泣いてた時も多々あったらしい。
それはそうだろう。未遂であったとは言え、自分より一回りも二回りも大きな男に襲われたんだ。さぞ恐ろしい思いをしたに違いない。
サイカは驚く程華奢な女なのだから。
とまあ、あいつは自分がそんな目に合っても周りを気遣う女だ。
恋人という深い関係になっても気遣いや遠慮が無くならない事に、僕らがどれだけやきもきとした事か。
何かある度に“遠慮するな”“我慢するな”“変な気を使うな”“この気遣いは望んでいない”と説得を試みた結果、今回の手紙では僕の心配をしつつ、“会いたい”と書かれてあり…少しずつではあるが進歩したな、と何故か感慨深くなった。
「行かないという選択肢はないな。」
多忙な日々が続いて疲れきった肉体と精神。
可愛く、愛しい婚約者に会い存分に癒してもらうとしよう。
七日後、僕は帝都へと出発した。
実の所、サイカと会うのは二月振りだった。
サイカに会えない程多忙であっても、サイカを妻にする為だと思えば厳しい日々を乗り越えられた。
既にサイカの夫になったマティアスは兎も角、カイルやヴァレリアは城で働いているのでまだ会っている方だろうが…離れた場所にいる僕は愛する婚約者に会いにいくのも一苦労。
サイカに会う為には領地を留守にする間の仕事もしなくてはならず、考えて予定を空けなければならないので、正直帝都にいるマティアスやカイル、ヴァレリアが羨ましい。
愛しい婚約者が傍にいてくれるなら、サイカがあの屋敷にいる状況であれば…憂鬱な仕事もやる気が出るだろうに。
「ああ…早く会いたい…。」
帝都の城に着き、案内された客室でサイカを待っていると先にマティアスが僕の元へ訪れた。
眩しい笑顔を向けサイカとの新婚生活を自慢する従兄弟に腹が立ったのは仕方ない。
此方は愛しい女に早く会いたくて堪らないのに、いつでもサイカに会えるこいつは昨晩もサイカに無理をさせていた。
今日、僕が来ると分かっていながら。
「婚儀を挙げて三月だろうが。いい加減落ち着け。」
「“落ち着け?”…それは無理な話だな。」
「…ならせめて、僕が会いに来ると分かっている時くらいは無理をさせるな。」
「いや…一応頭の片隅では考えていた。…だが、ベッドに横になって口付けるともう…無理だった。」
「…はあ。」
“気持ちは分かるだろう?”と言われれば同意はするが…腹が立つのはまた別だ。
何せ今の僕はサイカを抱きたいと思っても自由に抱く事が出来ない。
この国では婚前の性行為が禁止されているわけではないので僕が婚約者であるサイカを抱こうと誰に咎められる事もない。
…ない、が。この城はマティアスのテリトリーだ。邪魔されるのは目に見えている。この従兄弟はそういう男だし、僕もマティアスの立場なら同じ事をする。
会いに行ける場所にいる、自分の目の届く範囲にいるそんな状況下で愛する妻、恋人が、自分でない誰かに抱かれている。相手の男を認めていたとしても、気分がいいわけがない。本気の本気、自分の命さえ投げ出してもいいと思うくらい、本気で愛している女なのだから。
マティアスのノロケ話を耳半分で聞きながらサイカを待つこと一時間。
やっと、僕の元にサイカが現れた。
「リュカ、待たせてごめんなさい…!」
「……。」
ああ、また美しさに磨きがかかったな。
二月振りに会ったサイカはとんでもない色香を漂わせていて…それはきっと、夫となったマティアスに毎日愛されているからだろう。
毎日毎日飽きる事なく、加減なくも限度もなく求められ、愛し愛される喜びと幸せを感じているのだろう。
大切に大切に愛され、愛した分、花開くようにサイカは美しくなっていく。
少し気だるげなサイカの視線、夜のように美しい瞳が僕を見るだけで、……堪らない気持ちになった。
「なあマティアス。久しぶりに婚約者に会った僕の気持ちを汲んでくれるか。」
「…仕方ない。」
思ったよりもあっさり頷いたマティアスはどうやら、元々僕とサイカを二人きりにさせてくれるつもりでいたらしい。
まあ、マティアスは僕以上に忙しい身だ。
一日中サイカの傍に居たくとも、叶わない場合が多い。
「感謝する。」
「…ま、このくらいはな。侍女は下がらせておくか?」
「そうしてくれ。」
「だ、そうだ。そなたらは下がれ。」
『畏まりました。』
二人きりの空間。
ソファーに座ったまま手を広げ、来い、と声を掛けるとサイカがふにゃりと笑い僕の腕の中に飛び込む。
可愛い可愛い僕のお前。会いたかった。
石鹸の香りに混じって、サイカの甘い匂いがする。
首筋に近付けばサイカの匂いが濃くなって、雄の欲求が深まってくる。
「…口、開いて。…そう、いい子だ。」
「…ん、……ひゅか、」
力一杯片手で抱き締め、もう片方の手で小さな頭を押さえ付けながら口付けし舌を絡めると、サイカの手が僕の腕の部分の服をきゅっと掴んだ。
そんな些細な行動でも堪らなく可愛いと思える。
「ん、…ぷぁっ…、」
「……手紙、嬉しかったぞ。」
「…ん…、うん…。」
「“会いたい”と、自分の気持ちをちゃんと書けていたな。」
「…うん、…だって、二ヶ月…会ってない…。」
「ああ。」
「前より、忙しくなってるのは…マティアスたちから聞いてたの…。私が、婚約者になったから…、」
「自分のせいだと思っているならキスの後に説教なんだが?」
「う、」
「勘違いするなよ。お前の為じゃない。僕自身の為だと前からそう言ってるだろうが。」
「…うん。…実は…手紙を書きながら…悩んでたんです。すごく忙しくなったって聞いて、…会いたいけど、ゆっくり休んでも欲しいし…どうしようかなって…。」
「ああ…お前はそう思うだろうな。」
「うん。…でも…リュカ、会うたび言ってくれてたでしょう?…私と会うと、疲れが吹き飛ぶって。それに、叶うなら毎日でも私に会いたいって。
じゃあ、…私の望みもリュカの望みも叶うし…遠慮とか、我慢しなくてもいいかなって。……ど、どう?」
「上出来だ。偉いぞサイカ。」
「…私、子供じゃないんですけど…?」
「馬鹿。子供相手にこんな事するか。」
そう言って何度目かの口付けをしながら無意識にサイカをソファーに押し倒していた僕は、猛烈な性欲を感じながらも理性を総動員させた。
このまま、欲望のままにサイカを抱くには時間が足りなさすぎるし、抱いてしまえばきっと止まらなくなる。絶対に。その確信しかない。
それに、今のサイカは避妊薬を飲んではいないし僕も持ってきてはいなかった。
そもそも、マティアスのテリトリーであるこの城でサイカを抱くつもりは無かったんだ。
「……はぁ。…屋敷でなら、心置きなくお前を抱くのに。」
「…リュカ…」
「そんな残念そうな顔するな。…何でもないように見えるかも知れないが…結構、我慢している。」
「……。」
「その代わりに…時間が許す限り、こうして触れ合っていたい。
あと…僕の屋敷に来た時は覚悟しておけ。」
顔を真っ赤に染めて、サイカは小さく頷いた。
「…だから、そういう可愛い顔はするなと、……いや、やっぱりいい。忘れろ。可愛いのは大歓迎だ。理性と忍耐が試されるがな。」
どんな表情でも可愛く見えてしまうのだから、もうこれはサイカのせいではなく僕の問題だろう。
それからマティアスが来るまでの間、僕はサイカと二人きりの甘い時間を楽しんだ。
サイカを抱えて座り、顔を近付け、何度も口付けをしながら細く柔らかな体に触れ、欲望と戦いながらを繰り返す。
結婚後、マティアスから容赦なく愛され続けたサイカは…それはもう凶悪なくらい可愛い女になっていた。
サイカは常に誰かを気遣う優しい女で、思慮深く、僕らに対してまで遠慮する謙虚な女だ。
その性格から分かる事は沢山ある。
サイカは、甘えるのが下手である事。
そもそもニホンでは働き、自立して生活をしていたと聞いた。
親元を離れ、女一人で生きていたと。
この世界に来るまでに、恋をした事もなければ男がいた事もない。セックスはマティアスが初めての相手。
僕も色恋に詳しい訳ではないが、何となく分かる。
子供が親に甘えるといった、そういう甘えではなく。
サイカは女として男に甘える…というのが少しばかり下手な女だった。
…ベッドの上では別として。ベッドの上ではもう、とことん甘えてくるとびきり可愛い女だ。
セックスの時以外でもそうあればいいのにと思う。
だが。僕の膝の上に座り、此方を見上げる今のサイカは…凶悪なくらいに、可愛く甘えている。
「…リュカ…今日、来てくれてありがとう…会えてなくて寂しかったから、すごく、嬉しい…。」
「……本当に?
マティアスが傍にいるんだ。僕を思い出す事は少なかったんじゃないか…?」
「!?そんなことない…!
…マティアスの事もリュカの事も、ヴァレの事も、カイルの事も、比べられないくらい大好きで、大切なのに、…どうしてそんな事言うんですか…私の気持ちを、知ってるくせに。」
瞳に溜まる涙に、やり過ぎたと反省した。
甘えるサイカが可愛くてつい、意地の悪い事を言ってしまった。
悪かったと涙を指で拭えば、拭っていた僕の手にサイカが頬を擦り寄せた。
駄目だ。なんだこいつ。可愛すぎるんだが。
「僕の事、好きか?」
「大好き。」
「僕を、愛しているか?」
「愛してる。愛してるに決まってるよ。」
「マティアスといても…僕の事を忘れていなかったか?」
「当たり前でしょう…?」
「…そうか。」
「そうだよ。」
ちゅ、と。頬に柔らかい感触。
黒い、美しい瞳が弧を描いて細まり、僕の肩にサイカの腕が回った。
「マティアスと一緒にいても、リュカの事、ヴァレの事、カイルの事は当然気になるよ。ふとした時に、今、リュカはどう過ごしているんだろう…とか、ちゃんと休んでるかな、とか。考えると、幸せな気持ちになるけど、傍にいない事に悲しくなって、寂しくなる。」
「……。」
「寂しいよ。リュカに毎日会えないのは、寂しいよ。
マティアスと結婚して、本当に幸せで、嬉しくて、楽しいけど…でも寂しいよ。リュカの元気な顔が見たい、声が聞きたい、会いたいって、毎日考えるよ。」
「ーーーー、」
とてつもない衝撃が胸に走る。
本当に、凶悪なくらい可愛く甘えてくるサイカに呼吸が止まりそうになりながら僕の膝の上に向かい合って座るサイカを抱き締めた。
「私ね、前よりうんと我が儘になったみたい…。」
“我が儘になった”というサイカの言葉。
…それは悔しいがマティアスの影響だろうとすぐ分かった。
サイカ自身は気付いていないが、サイカにとっては"前より我が儘になった"のはマティアスのせいであり、僕からしたらマティアスのお陰だろう。
クライス邸から行き来するのではなく、城でマティアスと共に過ごす日々に変わった。
マティアスにとって、今の暮らしはサイカへの思いを我慢しなくてもいい暮らしになった。
伝えたい時に愛を伝え、会いたい時に会いに行けて、愛し合いたい日は存分に愛し合える日々。
毎日マティアスに過剰な程愛され、愛を受け止め続ける日々がサイカを少しずつ変えていく。
マティアスとのそういった日々が、サイカに変化を、僕たちが望む変化をもたらしていた。
「我が儘になった?
お前にはまだまだ、僕らに対して遠慮と気遣いがあるぞ?もう何度も言ったが会いたいならもっとそう言え。すぐにとは行かないが、必ず時間を作る。」
「…うん。」
「…その顔は納得してないな?
確かに僕は多忙の身だ。そういう身分に生まれたから仕方ない。
我が儘を言って面倒な、邪魔な存在になりたくないと思っているならそれこそとんでもない。
サイカ。お前は僕の特別だ。僕への我が儘は僕にとって特別な存在であるお前の特権というやつだな。分かったか?」
「はい。」
「僕も会いに来るがお前も会いに来い。僕の婚約者なんだ。
…まあ、その時はマティアスが着いて来そうだが。お前はこの国の王妃だ。公務で僕の領地に来る事も当然あるだろうさ。」
「うん…!
…あのね、リュカ…無理はして欲しくないけど…無理だったら、それでいいの。帰った後、やっぱり寂しくなるから…また、すぐ、会いに来てね…?」
「…お前、僕を殺す気だな?」
はーーーー、と長い溜め息を吐きながら少しだけ感謝した。
マティアスは我が儘で、自己中心的な男だ。まあ僕もそうなんだが。マティアス程ではないとそう思っている。
サイカのこの凶悪なくらいの可愛い変化はマティアスが意図して変えたものに違いない。
あいつは周りや本人が気付かない内に人を操作したり、変えていったりするのが得意な奴だ。だから恐ろしいんだ。
決してマティアス本人には言ってやらないが、心の中でいい仕事をしたじゃないかと感謝した。
「ああ、そこに置いておいてくれ。」
「旦那様、今日もかなりの量の招待状が届いておりますが…。」
「ルドルフに渡しておけ。」
まだ昼にも程遠い朝。
今日も今日とてルドルフを始め、使用人たちが忙しなく屋敷中を動き回り、僕のいる執務室に出入りを繰り返している。
サイカを婚約者に持った僕の日常はこれまで以上に多忙を極めており、うんざりしながらも書類を見る目とペンを持つ手を動かす日々が続いていた。
「旦那様、こちらの書類は旦那様の決裁が必要なもので御座います。」
「分かった。後で確認する。」
以前からも多忙は多忙だった。
これでも広大な領地を持つクラフ公爵家の主だ。
それに、サイカが僕の婚約者として公になる事で忙しくなる事も予想はしていた。
何せあのサイカだ。サイカを婚約者に持つんだ。
クラフ公爵家という大きな権力に群がる者だけでなく、サイカという魅力的な女と縁を持ちたい貴族は多い。
「旦那様、招待客のリストをお持ち致しました。」
「…それは夜に確認する。寝室の机に置いておけ。」
…僕はそこそこに忍耐力がある方だと自負していたが…これは流石に参ってくる。
そろそろ癒しが欲しい。切実に。
「旦那様。」
「ああもう、次はなんだ!」
「サイカ様からお手紙が届いております。」
「…今すぐ渡せ。」
「此方で御座います。」
苛々と荒ぶりかけていた心が浮き立つ。
ペーパーナイフで封を切れば、ふわりと漂う愛しい女の香り。それだけで、苛立ち、下降していた機嫌が上向いた。
「……ふ、」
届いた手紙はクラフ公爵領で生活をしている僕がどう過ごしているか、体調など崩してはいないか、サイカ自身の近況が綴られた手紙だったが、“会いたいです”とサイカの気持ちが書かれてあった。
「はは、上出来だ。」
僕の可愛い婚約者は思慮深く、謙虚で慎ましい。
そういうサイカをとても好ましく思う反面、恋人としてはもっと我が儘を言って欲しいと思う。
確かに僕は忙しい身だ。やる事もやらねばならぬ事も多い、そういう立場の人間だ。
忙しい身である僕を気遣ってくれるのは勿論嬉しいが、寂しいものもある。
僕らを気遣って、それでサイカの気持ちを押さえ込んでしまうのであれば、そんな気遣いや遠慮はして欲しくない。…というのがサイカを愛している僕たちの意見だった。
サイカがまだ娼婦で、ファニーニという屑に手込めにされそうになった時の事。
僕はまだサイカと出会ったばかりだったが…その時でさえ、サイカは周りを気遣っていたと聞いた。
ヴァレリアやカイルへ送った手紙にも“大丈夫”だとか“良くしてもらっている”だとか“心配しないで”だとか。
マティアスが様子を見に行った時も、心配させない様に明るく振る舞っていたらしいが…当時サイカを預かっていたクライス候が言うには、夜に魘されていたし、眠りながら泣いてた時も多々あったらしい。
それはそうだろう。未遂であったとは言え、自分より一回りも二回りも大きな男に襲われたんだ。さぞ恐ろしい思いをしたに違いない。
サイカは驚く程華奢な女なのだから。
とまあ、あいつは自分がそんな目に合っても周りを気遣う女だ。
恋人という深い関係になっても気遣いや遠慮が無くならない事に、僕らがどれだけやきもきとした事か。
何かある度に“遠慮するな”“我慢するな”“変な気を使うな”“この気遣いは望んでいない”と説得を試みた結果、今回の手紙では僕の心配をしつつ、“会いたい”と書かれてあり…少しずつではあるが進歩したな、と何故か感慨深くなった。
「行かないという選択肢はないな。」
多忙な日々が続いて疲れきった肉体と精神。
可愛く、愛しい婚約者に会い存分に癒してもらうとしよう。
七日後、僕は帝都へと出発した。
実の所、サイカと会うのは二月振りだった。
サイカに会えない程多忙であっても、サイカを妻にする為だと思えば厳しい日々を乗り越えられた。
既にサイカの夫になったマティアスは兎も角、カイルやヴァレリアは城で働いているのでまだ会っている方だろうが…離れた場所にいる僕は愛する婚約者に会いにいくのも一苦労。
サイカに会う為には領地を留守にする間の仕事もしなくてはならず、考えて予定を空けなければならないので、正直帝都にいるマティアスやカイル、ヴァレリアが羨ましい。
愛しい婚約者が傍にいてくれるなら、サイカがあの屋敷にいる状況であれば…憂鬱な仕事もやる気が出るだろうに。
「ああ…早く会いたい…。」
帝都の城に着き、案内された客室でサイカを待っていると先にマティアスが僕の元へ訪れた。
眩しい笑顔を向けサイカとの新婚生活を自慢する従兄弟に腹が立ったのは仕方ない。
此方は愛しい女に早く会いたくて堪らないのに、いつでもサイカに会えるこいつは昨晩もサイカに無理をさせていた。
今日、僕が来ると分かっていながら。
「婚儀を挙げて三月だろうが。いい加減落ち着け。」
「“落ち着け?”…それは無理な話だな。」
「…ならせめて、僕が会いに来ると分かっている時くらいは無理をさせるな。」
「いや…一応頭の片隅では考えていた。…だが、ベッドに横になって口付けるともう…無理だった。」
「…はあ。」
“気持ちは分かるだろう?”と言われれば同意はするが…腹が立つのはまた別だ。
何せ今の僕はサイカを抱きたいと思っても自由に抱く事が出来ない。
この国では婚前の性行為が禁止されているわけではないので僕が婚約者であるサイカを抱こうと誰に咎められる事もない。
…ない、が。この城はマティアスのテリトリーだ。邪魔されるのは目に見えている。この従兄弟はそういう男だし、僕もマティアスの立場なら同じ事をする。
会いに行ける場所にいる、自分の目の届く範囲にいるそんな状況下で愛する妻、恋人が、自分でない誰かに抱かれている。相手の男を認めていたとしても、気分がいいわけがない。本気の本気、自分の命さえ投げ出してもいいと思うくらい、本気で愛している女なのだから。
マティアスのノロケ話を耳半分で聞きながらサイカを待つこと一時間。
やっと、僕の元にサイカが現れた。
「リュカ、待たせてごめんなさい…!」
「……。」
ああ、また美しさに磨きがかかったな。
二月振りに会ったサイカはとんでもない色香を漂わせていて…それはきっと、夫となったマティアスに毎日愛されているからだろう。
毎日毎日飽きる事なく、加減なくも限度もなく求められ、愛し愛される喜びと幸せを感じているのだろう。
大切に大切に愛され、愛した分、花開くようにサイカは美しくなっていく。
少し気だるげなサイカの視線、夜のように美しい瞳が僕を見るだけで、……堪らない気持ちになった。
「なあマティアス。久しぶりに婚約者に会った僕の気持ちを汲んでくれるか。」
「…仕方ない。」
思ったよりもあっさり頷いたマティアスはどうやら、元々僕とサイカを二人きりにさせてくれるつもりでいたらしい。
まあ、マティアスは僕以上に忙しい身だ。
一日中サイカの傍に居たくとも、叶わない場合が多い。
「感謝する。」
「…ま、このくらいはな。侍女は下がらせておくか?」
「そうしてくれ。」
「だ、そうだ。そなたらは下がれ。」
『畏まりました。』
二人きりの空間。
ソファーに座ったまま手を広げ、来い、と声を掛けるとサイカがふにゃりと笑い僕の腕の中に飛び込む。
可愛い可愛い僕のお前。会いたかった。
石鹸の香りに混じって、サイカの甘い匂いがする。
首筋に近付けばサイカの匂いが濃くなって、雄の欲求が深まってくる。
「…口、開いて。…そう、いい子だ。」
「…ん、……ひゅか、」
力一杯片手で抱き締め、もう片方の手で小さな頭を押さえ付けながら口付けし舌を絡めると、サイカの手が僕の腕の部分の服をきゅっと掴んだ。
そんな些細な行動でも堪らなく可愛いと思える。
「ん、…ぷぁっ…、」
「……手紙、嬉しかったぞ。」
「…ん…、うん…。」
「“会いたい”と、自分の気持ちをちゃんと書けていたな。」
「…うん、…だって、二ヶ月…会ってない…。」
「ああ。」
「前より、忙しくなってるのは…マティアスたちから聞いてたの…。私が、婚約者になったから…、」
「自分のせいだと思っているならキスの後に説教なんだが?」
「う、」
「勘違いするなよ。お前の為じゃない。僕自身の為だと前からそう言ってるだろうが。」
「…うん。…実は…手紙を書きながら…悩んでたんです。すごく忙しくなったって聞いて、…会いたいけど、ゆっくり休んでも欲しいし…どうしようかなって…。」
「ああ…お前はそう思うだろうな。」
「うん。…でも…リュカ、会うたび言ってくれてたでしょう?…私と会うと、疲れが吹き飛ぶって。それに、叶うなら毎日でも私に会いたいって。
じゃあ、…私の望みもリュカの望みも叶うし…遠慮とか、我慢しなくてもいいかなって。……ど、どう?」
「上出来だ。偉いぞサイカ。」
「…私、子供じゃないんですけど…?」
「馬鹿。子供相手にこんな事するか。」
そう言って何度目かの口付けをしながら無意識にサイカをソファーに押し倒していた僕は、猛烈な性欲を感じながらも理性を総動員させた。
このまま、欲望のままにサイカを抱くには時間が足りなさすぎるし、抱いてしまえばきっと止まらなくなる。絶対に。その確信しかない。
それに、今のサイカは避妊薬を飲んではいないし僕も持ってきてはいなかった。
そもそも、マティアスのテリトリーであるこの城でサイカを抱くつもりは無かったんだ。
「……はぁ。…屋敷でなら、心置きなくお前を抱くのに。」
「…リュカ…」
「そんな残念そうな顔するな。…何でもないように見えるかも知れないが…結構、我慢している。」
「……。」
「その代わりに…時間が許す限り、こうして触れ合っていたい。
あと…僕の屋敷に来た時は覚悟しておけ。」
顔を真っ赤に染めて、サイカは小さく頷いた。
「…だから、そういう可愛い顔はするなと、……いや、やっぱりいい。忘れろ。可愛いのは大歓迎だ。理性と忍耐が試されるがな。」
どんな表情でも可愛く見えてしまうのだから、もうこれはサイカのせいではなく僕の問題だろう。
それからマティアスが来るまでの間、僕はサイカと二人きりの甘い時間を楽しんだ。
サイカを抱えて座り、顔を近付け、何度も口付けをしながら細く柔らかな体に触れ、欲望と戦いながらを繰り返す。
結婚後、マティアスから容赦なく愛され続けたサイカは…それはもう凶悪なくらい可愛い女になっていた。
サイカは常に誰かを気遣う優しい女で、思慮深く、僕らに対してまで遠慮する謙虚な女だ。
その性格から分かる事は沢山ある。
サイカは、甘えるのが下手である事。
そもそもニホンでは働き、自立して生活をしていたと聞いた。
親元を離れ、女一人で生きていたと。
この世界に来るまでに、恋をした事もなければ男がいた事もない。セックスはマティアスが初めての相手。
僕も色恋に詳しい訳ではないが、何となく分かる。
子供が親に甘えるといった、そういう甘えではなく。
サイカは女として男に甘える…というのが少しばかり下手な女だった。
…ベッドの上では別として。ベッドの上ではもう、とことん甘えてくるとびきり可愛い女だ。
セックスの時以外でもそうあればいいのにと思う。
だが。僕の膝の上に座り、此方を見上げる今のサイカは…凶悪なくらいに、可愛く甘えている。
「…リュカ…今日、来てくれてありがとう…会えてなくて寂しかったから、すごく、嬉しい…。」
「……本当に?
マティアスが傍にいるんだ。僕を思い出す事は少なかったんじゃないか…?」
「!?そんなことない…!
…マティアスの事もリュカの事も、ヴァレの事も、カイルの事も、比べられないくらい大好きで、大切なのに、…どうしてそんな事言うんですか…私の気持ちを、知ってるくせに。」
瞳に溜まる涙に、やり過ぎたと反省した。
甘えるサイカが可愛くてつい、意地の悪い事を言ってしまった。
悪かったと涙を指で拭えば、拭っていた僕の手にサイカが頬を擦り寄せた。
駄目だ。なんだこいつ。可愛すぎるんだが。
「僕の事、好きか?」
「大好き。」
「僕を、愛しているか?」
「愛してる。愛してるに決まってるよ。」
「マティアスといても…僕の事を忘れていなかったか?」
「当たり前でしょう…?」
「…そうか。」
「そうだよ。」
ちゅ、と。頬に柔らかい感触。
黒い、美しい瞳が弧を描いて細まり、僕の肩にサイカの腕が回った。
「マティアスと一緒にいても、リュカの事、ヴァレの事、カイルの事は当然気になるよ。ふとした時に、今、リュカはどう過ごしているんだろう…とか、ちゃんと休んでるかな、とか。考えると、幸せな気持ちになるけど、傍にいない事に悲しくなって、寂しくなる。」
「……。」
「寂しいよ。リュカに毎日会えないのは、寂しいよ。
マティアスと結婚して、本当に幸せで、嬉しくて、楽しいけど…でも寂しいよ。リュカの元気な顔が見たい、声が聞きたい、会いたいって、毎日考えるよ。」
「ーーーー、」
とてつもない衝撃が胸に走る。
本当に、凶悪なくらい可愛く甘えてくるサイカに呼吸が止まりそうになりながら僕の膝の上に向かい合って座るサイカを抱き締めた。
「私ね、前よりうんと我が儘になったみたい…。」
“我が儘になった”というサイカの言葉。
…それは悔しいがマティアスの影響だろうとすぐ分かった。
サイカ自身は気付いていないが、サイカにとっては"前より我が儘になった"のはマティアスのせいであり、僕からしたらマティアスのお陰だろう。
クライス邸から行き来するのではなく、城でマティアスと共に過ごす日々に変わった。
マティアスにとって、今の暮らしはサイカへの思いを我慢しなくてもいい暮らしになった。
伝えたい時に愛を伝え、会いたい時に会いに行けて、愛し合いたい日は存分に愛し合える日々。
毎日マティアスに過剰な程愛され、愛を受け止め続ける日々がサイカを少しずつ変えていく。
マティアスとのそういった日々が、サイカに変化を、僕たちが望む変化をもたらしていた。
「我が儘になった?
お前にはまだまだ、僕らに対して遠慮と気遣いがあるぞ?もう何度も言ったが会いたいならもっとそう言え。すぐにとは行かないが、必ず時間を作る。」
「…うん。」
「…その顔は納得してないな?
確かに僕は多忙の身だ。そういう身分に生まれたから仕方ない。
我が儘を言って面倒な、邪魔な存在になりたくないと思っているならそれこそとんでもない。
サイカ。お前は僕の特別だ。僕への我が儘は僕にとって特別な存在であるお前の特権というやつだな。分かったか?」
「はい。」
「僕も会いに来るがお前も会いに来い。僕の婚約者なんだ。
…まあ、その時はマティアスが着いて来そうだが。お前はこの国の王妃だ。公務で僕の領地に来る事も当然あるだろうさ。」
「うん…!
…あのね、リュカ…無理はして欲しくないけど…無理だったら、それでいいの。帰った後、やっぱり寂しくなるから…また、すぐ、会いに来てね…?」
「…お前、僕を殺す気だな?」
はーーーー、と長い溜め息を吐きながら少しだけ感謝した。
マティアスは我が儘で、自己中心的な男だ。まあ僕もそうなんだが。マティアス程ではないとそう思っている。
サイカのこの凶悪なくらいの可愛い変化はマティアスが意図して変えたものに違いない。
あいつは周りや本人が気付かない内に人を操作したり、変えていったりするのが得意な奴だ。だから恐ろしいんだ。
決してマティアス本人には言ってやらないが、心の中でいい仕事をしたじゃないかと感謝した。
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