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107 結束 前編
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ゆらゆらと揺れている。
暗く、狭い箱の中にもう何時間もサイカは閉じ込められている。
喋れないように布を噛まされ、手足を縛られ、暗く狭い箱の中で横たわっている。
人間は一つ何かを失うとその何かを補おうと別の何かが働くと言うが…暗く、視覚からの情報が一つも得られない今のサイカは耳がよく働いていた。
ざあ、と波を掻き分けている音がずっとしている。
自分は今、海の上にいるのだとサイカは分かっていた。
(マティアス…)
不安はある。
けれどサイカは信じている。だから恐れはなかった。
「…出せ。」
「はっ。」
眩しいくらいの光。
暗闇に慣れていた目が光を拒み、目を細める。
抱えられ、狭い箱の中から解放されたサイカの目の前にはでっぷりと太っている老いた男と、腰に剣を携えた数人の男たちがいた。
「ようしよし。窮屈な思いをさせてしまって悪かった。
ああ…美しい…。眠っているお前も美しいが矢張り目を開け動いているお前は更に美しい…!
腹が減ってはいないか?んん?食事にしようか?旨いものを食わせてやるぞ。」
「……。」
「うん?どうした。そう怯えなくともいい。
これからお前は幸せになるんだ。あの方の妾になったお前は儂にも愛され…一生苦労せず暮らせる。
欲しいものは何でも与えよう。」
「……妾…?貴方の、妾ですか…?」
「そうしたいのは山々なんだがなぁ。
あの忌々しい小僧のお陰でそれが出来んのだ。
何せあの醜い男は烏滸がましくもお前を溺愛している。美しいお前が優しくするから勘違いをしてしまったのだろう。
だからお前に執着し、生意気にも男どもを牽制しておる。」
「…私は、何処へ…?」
「うん?…はは!あの国では儂とお前は結ばれんからな。リスティアに行く事にした。
リスティアであれば、お前を抱く事が出来る。あの方の妻…いや、妾となったお前を抱かせてくれる約束だ。」
「あの方…?」
「そう、あの方だ。大国、リスティア連合国の第一王子。
次期に国王になる方。お前はフィル・アルダ・リスティア王太子殿下の妾となる。
ああ…待ち遠しい…!あの婚約式の日からお前を抱きたいと何度も夢に見たぞ…!何度その体に触れたいと思ったか…!何度、お前を組み敷く事を夢みたか…!マティアスの小僧め!態とらしく見せつけおって…!!」
老いた男、サイモン・ベルナンドが興奮した様子でサイカの腕を取り華奢な体を引き寄せる。
荒い吐息がサイカの頭上に吹き掛かり、サイカは気持ち悪さに身を竦めた。
「ベルナンド侯爵。約束を違えますな。」
「……お前か。少しくらいいいだろう?」
「いけません。最初は王太子殿下と決まっております。
この方は殿下のものに。貴方はそのおこぼれを貰うだけ。
それが“約束”ですよ。」
「生意気な!苦労してここまで連れ出した、それが出来たのは儂のお陰だろうが!!」
「それはリスティア連合国という“盾”があるからこそ成り立った話です。でなければ何も出来なかった。そうですよね?
“約束”はお守り下さい。
危ない橋を渡っているのはこちらも同じ。貴方がこの方に口付けた時、服を脱がせた時、殿下より先に抱こうとした時は…私は貴方を切らねばなりません。それを、お忘れなきよう。」
ふん!と鼻息を荒くしたベルナンドはサイカを放り、部屋を後にする。
ふう、と重い溜め息を吐くサイカの目の前にはベルナンドを止めてくれた大柄の男がいた。
「……このような事になり…申し訳御座いません。」
「え…?」
「…いえ。あともう暫くで我が国に到着します。
殿下の元へ着くまでの間、ベルナンド侯爵が貴女様に手を出さぬよう警護致します。それまでの短い間ですが…宜しくお願い致します。」
サイカを安心させるように、大柄の男は眉を下げて笑う。
サイカにはその笑顔が、悲しい笑顔のように見えた。
『サイカ、同情はするな。何があっても。』
マティアスのその言葉を思い出す。
ベルナンド侯爵も、この男も。そしてリスティア連合国の王太子も。これから彼らは、既に決まった結末を迎える事になる。
『サイカ、そなたに謝らねばならぬ事と、そなたに協力して欲しい事がある。』
『…謝る?……協力…?』
忙しくも、でも平和な日々を送っていたサイカの元へ、ある日マティアスが訪ねて来た。
その日サイカはマティアスから色んな話を聞いた。
自分が狙われている事、自分を守る為に各々が動いている事。
サーファスがマティアスを訪ねて来た事。
マティアスに謁見出来るサーファスが本当はどんな身分の人間なのかがサイカは気になったけれど、それは本人が話すだろうとマティアスが言ったのでサイカはその時を待つ事にした。
『…まだ、一番大事で、大切な話がある。』
それまでに聞いた話もとても大事な話だったと思うが……これ以上に大事な話があるのだろうか。
真剣なマティアスにサイカはそう思う。
マティアスにとってはベルナンドの事よりも何よりも大切な話だった。
だってマティアスの全てはサイカにあるから。
大国の、否、一国を治める王としてそれはきっと正しくない。
国よりも民よりも、親よりも臣よりも、一等サイカが大切であるその感情は、王として正しくはない。
けれどマティアスは決して他を蔑ろにしている訳でもない。
マティアスにとっては、サイカが一番大事で、大切なだけで。
『サーファス・ラグーシャと話して、気付いた。俺はそなたを傷付けていたんだな。』
マティアスとサーファスが初めて対面したその日、サーファスは容赦が無かった。
彼もまた、サイカが特別大切だから。
長く蔑まれ、長く苦しみ、生きる意味も感じられる事が無かった彼らの希望はサイカだった。
嫌われる事を恐れ、人を恐れ、でも愛を求めて伸ばした手を取ってくれたサイカは彼らの希望で、光だった。
容姿だけでなく優しく美しい心に惹かれ、男たちはサイカを“尊い”と盲目的に思う。
神聖視し、サイカはこうだという理想を抱く。
それは悪い事ではないけれど、良い事でもない。
そういった一方的な感情は時に誰かを、サイカを傷付けてしまう。無意識に。
マティアスは悔やんだ。
サーファスの話を聞いて、自分に怒りが湧いた。
どうして考えなかったのだろう。
形は違えど、自分も周りの身勝手な考えや言葉で傷付いてきたというのに。
『嫌という程事実を突きつけられた…そんな気持ちだった。
サイカとて一人の人間であるのに。周りと違う扱いをされた苦しみを、俺は知っていたのに。
俺は、勝手にそなたを神聖視して、理想を押し付けて、そなたに負担を負わせていたのだな…。』
酷く身に覚えがあった。
“そんな大層な人間じゃない”とそう言うサイカに、そんな事はない。謙遜しているのだな。とそれだけで終わらせる事があったマティアス。
“あの子は神様女神様じゃない。
ただの一人の女の子だよ、マティアス陛下。俺たちと同じ愚かな人間の、その一人だった。
優しくて、可愛くて。強くて弱い。悩み、自問自答して、流されたり、立ち向かったり。葛藤しながら足掻いて、抗って、受け入れて。そうやって生きている一人の女の子だ。
恋人である君たちが受け入れなくてどうするんだ。”
このサーファスの言葉はマティアスの心を深く抉った。
抉り、そして気付かせた。
あの日サイカに失望した自分は、本当に愚かだったと気付かせた。
勝手な理想。サイカはこうだ。こうあるべきだ。そんな身勝手な気持ちがマティアスの中にあった。
嫌われたくない。だから人から好かれる自分を作る。だから嫌われないように振る舞う。少しでも“良い人間”と思われたくて、失望もされたくなくて。
マティアスにも身に覚えがあった。まだ幼い頃、誰か…両親が自分を普通の子供として愛してくれるのではないか。そんな期待があった頃。
子供らしく振る舞った。でも駄目だった。物分かりのいい子を演じた。それでも駄目だった。自慢の息子と言ってくれるように努力した日々。勉学、剣、乗馬、政治。
どれもこれも嫌われたくなかったからだ。疎まれたくなくて。
どれもこれも、好かれたかったからだ。マティアスにとっての大切な人たちに、少しでも好かれたかったからだった。
『人は無意識に人を意識する。
…気付くのが遅くなって、すまなかった。
傷付いただろう?苦しかっただろう…?』
『…ううん、自分でも気付いてなかったから。
だってそれって、当たり前の事だもの。
嫌われたくないから、良く見られたいから。誰にでもある事でしょう?
私はマティアスに、皆によく思って欲しくて、こうしなきゃああしなきゃって、無意識に思ってた部分は確かにあって…。
でも、多分…このままじゃいけないとも何処かで思ってたんだと思う。…だから失望されてもいいから話そうって思えたのかも。』
『……それは、……もう、俺が、そなたにとって…どうでもよくなったから、か…?』
マティアスがサイカにそうあれと理想があったように、サイカもマティアスがこうだという勝手なイメージを持っていた。
サイカの中でマティアスは強く、とても強い存在。いつだってサイカを守ってくれる存在だった。マティアスに出来ない事はない。この人は何でもやり遂げる。強い人間なのだと。
トラウマを乗り越え、そういう風に変わったのだと。
でもそうじゃなかった。乞うようなマティアスの目は弱々しくて、不安げで、怯えていた。
『どうして。大切だから、大事だからに決まってる。
どうでもいいなら嫌われる覚悟なんてしないもの。
大好きだから、愛しているから。私の汚い部分、醜い部分、知られたくない事もちゃんと話そうって思ったの。』
良い所だけじゃない。
どんな人間にも、浅はかで、愚かで、卑怯で、小賢しくて、馬鹿で、汚い、醜い、人間らしい、人間たる部分がある。
それを受け入れるか、そうじゃないかは当人次第。
この日マティアスとサイカは、互いの人間たる部分を伝え合い、理解し合い、そして受け入れる事が出来た。
マティアスがどれだけサイカを愛しているか。
綺麗も汚いも全て含めて、改めてどれだけ愛しているか。
大切で、大事な話を何時間もかけて。気持ちを伝え合い、また一つ絆を深めていった。
そしてサイカは改めて、自分が周りからどれだけ大切にされているかを知る。
見えない所で、知らない所で、自分はいつも大切な人たちに守られていた事をまた知る。
『そなたをこの件に関わらせるつもりは無かったが…状況が変わり、そうも言っていられなくなった。
事は大国、リスティア連合国が関わっている。二度とこんな事が起こらない為にも、この一回で終わらせる必要が出てきた。』
自分の知らない話。
自分一人だけが知らなかった話。
けれど、サイカは以前のような寂しい気持ちにはならなかった。
こうしてマティアスが自分に話してくれた事が嬉しかった。
『いいよ、マティアス。
私を利用して。』
『…サイカ。無理だと思ったら無理だと言って欲しい。
奴が指一本、そなたに触れないとは約束出来ない。
…月光館で襲われかけた時も、怖かったろう?』
『…それは……とても怖かった、けど。』
『確かに今回そなたの協力があるとないとでは全く違う結果になる。
だがベルナンドを捕らえる事が出来るだけでもいいんだ。
抑止にはなる。サイカが怖いなら、しなくていい。
…本音を言えば……して欲しくない。俺も、皆もそう思っている。』
『…でも、ベルナンド侯爵だけでは危険が残る…そういう事なんですよね?
現行の、その証拠がないといけないんですよね?』
『そうだ。恐らく奴は自国で待ち構えている。
そなたが自分の元へ来るのを。…所持する屋敷、施設。そなたを閉じ込める場所はいくらでもあるからな。
仮に俺たちが奴等の企みを知らず、気付かずにいたとしよう。
そしてサイカが拐われ、リスティアに連れて行かれたら…確証もないのにリスティア国内を探す事は出来ない。
大国同士だ。他の国のように簡単には行かない。奴は、それを狙っているんだ。』
ベルナンドだけであれば、サイカ自らが関わらずとも何も問題は無かった。
マティアスが動く事も無かった。リュカや、ヴァレリア、カイルだけで事が済むはずだった。
けれど同じ大国であるリスティア連合国が関わっているとなれば、そうもいかない。
サイカを危険に晒したくない。けれど、リスティア連合国を放っておけば、危険は更に大きくなる。ベルナンドだけを捕らえ、いくばかりかの平穏を取るか…それとも…サイカを危険に晒す事になるが、今回の件に関わる全ての人物を捕らえるか。
マティアスたちには苦渋の決断だった。
そして、サイカ本人に委ねられる。
『…私、嬉しいです。
色々話してくれた事、今日、マティアスが話してくれた正直な気持ちも全部。
マティアス。私、強くもないけど、弱くもないよ。それに、絶対に守ってくれるんでしょう?』
『当然だ。』
『…じゃあ、大丈夫。
マティアスや皆がいる。皆私の為に頑張ってくれてる。
なら、私もそれに応えなくちゃ。ううん、応えたいって思うんです。
……もし、もしも、私がその人たちに抱かれたら…マティアスは…皆は、私を嫌いになる?』
『そんなわけあるか!』
『ふふ。だったらいいの。
もしそうなったら、勿論私も精一杯抵抗する。これでもかってくらい暴れて抵抗する。汚い言葉を使って、手足を、体全部を使って。
……だから、絶対に助けてね。信じてるから。』
『…サイカ。』
マティアスたちはその万が一が起こらないように念入りに計画を立てた。使えるものは全て使って。考えられるあらゆる可能性を皆で考え、相手の目論見、思惑を読み解いていった。
頭という頭を、体という体を働かせ、男たちは休む事なく準備に取りかかった。
何の言い逃れも出来ないように、逃げ道を作らせないように。
リュカがベルナンドを、その後ろにいる人間を捕らえる為の道を作る、それと同時に拐われたサイカを守る役割も果たす。
ベルナンドの、そしてベルナンドに繋がっている貴族たちの罪をカイルとヴァレリアが暴く。
ベルナンドを助ける者がいないように。確実に罰を受けさせる為に。
そしてマティアスとサーファスが呼応して動き、見せしめを行う。
二度と、サイカに手を出そうと考える愚かな者が現れないように。
「お待ちしておりました。
サイカ・クライス侯爵令嬢。
僕はフィル・アルダ・リスティア。美しい貴女の、夫となる男です。」
サイカは信じている。
だから、少しも恐くなかった。
暗く、狭い箱の中にもう何時間もサイカは閉じ込められている。
喋れないように布を噛まされ、手足を縛られ、暗く狭い箱の中で横たわっている。
人間は一つ何かを失うとその何かを補おうと別の何かが働くと言うが…暗く、視覚からの情報が一つも得られない今のサイカは耳がよく働いていた。
ざあ、と波を掻き分けている音がずっとしている。
自分は今、海の上にいるのだとサイカは分かっていた。
(マティアス…)
不安はある。
けれどサイカは信じている。だから恐れはなかった。
「…出せ。」
「はっ。」
眩しいくらいの光。
暗闇に慣れていた目が光を拒み、目を細める。
抱えられ、狭い箱の中から解放されたサイカの目の前にはでっぷりと太っている老いた男と、腰に剣を携えた数人の男たちがいた。
「ようしよし。窮屈な思いをさせてしまって悪かった。
ああ…美しい…。眠っているお前も美しいが矢張り目を開け動いているお前は更に美しい…!
腹が減ってはいないか?んん?食事にしようか?旨いものを食わせてやるぞ。」
「……。」
「うん?どうした。そう怯えなくともいい。
これからお前は幸せになるんだ。あの方の妾になったお前は儂にも愛され…一生苦労せず暮らせる。
欲しいものは何でも与えよう。」
「……妾…?貴方の、妾ですか…?」
「そうしたいのは山々なんだがなぁ。
あの忌々しい小僧のお陰でそれが出来んのだ。
何せあの醜い男は烏滸がましくもお前を溺愛している。美しいお前が優しくするから勘違いをしてしまったのだろう。
だからお前に執着し、生意気にも男どもを牽制しておる。」
「…私は、何処へ…?」
「うん?…はは!あの国では儂とお前は結ばれんからな。リスティアに行く事にした。
リスティアであれば、お前を抱く事が出来る。あの方の妻…いや、妾となったお前を抱かせてくれる約束だ。」
「あの方…?」
「そう、あの方だ。大国、リスティア連合国の第一王子。
次期に国王になる方。お前はフィル・アルダ・リスティア王太子殿下の妾となる。
ああ…待ち遠しい…!あの婚約式の日からお前を抱きたいと何度も夢に見たぞ…!何度その体に触れたいと思ったか…!何度、お前を組み敷く事を夢みたか…!マティアスの小僧め!態とらしく見せつけおって…!!」
老いた男、サイモン・ベルナンドが興奮した様子でサイカの腕を取り華奢な体を引き寄せる。
荒い吐息がサイカの頭上に吹き掛かり、サイカは気持ち悪さに身を竦めた。
「ベルナンド侯爵。約束を違えますな。」
「……お前か。少しくらいいいだろう?」
「いけません。最初は王太子殿下と決まっております。
この方は殿下のものに。貴方はそのおこぼれを貰うだけ。
それが“約束”ですよ。」
「生意気な!苦労してここまで連れ出した、それが出来たのは儂のお陰だろうが!!」
「それはリスティア連合国という“盾”があるからこそ成り立った話です。でなければ何も出来なかった。そうですよね?
“約束”はお守り下さい。
危ない橋を渡っているのはこちらも同じ。貴方がこの方に口付けた時、服を脱がせた時、殿下より先に抱こうとした時は…私は貴方を切らねばなりません。それを、お忘れなきよう。」
ふん!と鼻息を荒くしたベルナンドはサイカを放り、部屋を後にする。
ふう、と重い溜め息を吐くサイカの目の前にはベルナンドを止めてくれた大柄の男がいた。
「……このような事になり…申し訳御座いません。」
「え…?」
「…いえ。あともう暫くで我が国に到着します。
殿下の元へ着くまでの間、ベルナンド侯爵が貴女様に手を出さぬよう警護致します。それまでの短い間ですが…宜しくお願い致します。」
サイカを安心させるように、大柄の男は眉を下げて笑う。
サイカにはその笑顔が、悲しい笑顔のように見えた。
『サイカ、同情はするな。何があっても。』
マティアスのその言葉を思い出す。
ベルナンド侯爵も、この男も。そしてリスティア連合国の王太子も。これから彼らは、既に決まった結末を迎える事になる。
『サイカ、そなたに謝らねばならぬ事と、そなたに協力して欲しい事がある。』
『…謝る?……協力…?』
忙しくも、でも平和な日々を送っていたサイカの元へ、ある日マティアスが訪ねて来た。
その日サイカはマティアスから色んな話を聞いた。
自分が狙われている事、自分を守る為に各々が動いている事。
サーファスがマティアスを訪ねて来た事。
マティアスに謁見出来るサーファスが本当はどんな身分の人間なのかがサイカは気になったけれど、それは本人が話すだろうとマティアスが言ったのでサイカはその時を待つ事にした。
『…まだ、一番大事で、大切な話がある。』
それまでに聞いた話もとても大事な話だったと思うが……これ以上に大事な話があるのだろうか。
真剣なマティアスにサイカはそう思う。
マティアスにとってはベルナンドの事よりも何よりも大切な話だった。
だってマティアスの全てはサイカにあるから。
大国の、否、一国を治める王としてそれはきっと正しくない。
国よりも民よりも、親よりも臣よりも、一等サイカが大切であるその感情は、王として正しくはない。
けれどマティアスは決して他を蔑ろにしている訳でもない。
マティアスにとっては、サイカが一番大事で、大切なだけで。
『サーファス・ラグーシャと話して、気付いた。俺はそなたを傷付けていたんだな。』
マティアスとサーファスが初めて対面したその日、サーファスは容赦が無かった。
彼もまた、サイカが特別大切だから。
長く蔑まれ、長く苦しみ、生きる意味も感じられる事が無かった彼らの希望はサイカだった。
嫌われる事を恐れ、人を恐れ、でも愛を求めて伸ばした手を取ってくれたサイカは彼らの希望で、光だった。
容姿だけでなく優しく美しい心に惹かれ、男たちはサイカを“尊い”と盲目的に思う。
神聖視し、サイカはこうだという理想を抱く。
それは悪い事ではないけれど、良い事でもない。
そういった一方的な感情は時に誰かを、サイカを傷付けてしまう。無意識に。
マティアスは悔やんだ。
サーファスの話を聞いて、自分に怒りが湧いた。
どうして考えなかったのだろう。
形は違えど、自分も周りの身勝手な考えや言葉で傷付いてきたというのに。
『嫌という程事実を突きつけられた…そんな気持ちだった。
サイカとて一人の人間であるのに。周りと違う扱いをされた苦しみを、俺は知っていたのに。
俺は、勝手にそなたを神聖視して、理想を押し付けて、そなたに負担を負わせていたのだな…。』
酷く身に覚えがあった。
“そんな大層な人間じゃない”とそう言うサイカに、そんな事はない。謙遜しているのだな。とそれだけで終わらせる事があったマティアス。
“あの子は神様女神様じゃない。
ただの一人の女の子だよ、マティアス陛下。俺たちと同じ愚かな人間の、その一人だった。
優しくて、可愛くて。強くて弱い。悩み、自問自答して、流されたり、立ち向かったり。葛藤しながら足掻いて、抗って、受け入れて。そうやって生きている一人の女の子だ。
恋人である君たちが受け入れなくてどうするんだ。”
このサーファスの言葉はマティアスの心を深く抉った。
抉り、そして気付かせた。
あの日サイカに失望した自分は、本当に愚かだったと気付かせた。
勝手な理想。サイカはこうだ。こうあるべきだ。そんな身勝手な気持ちがマティアスの中にあった。
嫌われたくない。だから人から好かれる自分を作る。だから嫌われないように振る舞う。少しでも“良い人間”と思われたくて、失望もされたくなくて。
マティアスにも身に覚えがあった。まだ幼い頃、誰か…両親が自分を普通の子供として愛してくれるのではないか。そんな期待があった頃。
子供らしく振る舞った。でも駄目だった。物分かりのいい子を演じた。それでも駄目だった。自慢の息子と言ってくれるように努力した日々。勉学、剣、乗馬、政治。
どれもこれも嫌われたくなかったからだ。疎まれたくなくて。
どれもこれも、好かれたかったからだ。マティアスにとっての大切な人たちに、少しでも好かれたかったからだった。
『人は無意識に人を意識する。
…気付くのが遅くなって、すまなかった。
傷付いただろう?苦しかっただろう…?』
『…ううん、自分でも気付いてなかったから。
だってそれって、当たり前の事だもの。
嫌われたくないから、良く見られたいから。誰にでもある事でしょう?
私はマティアスに、皆によく思って欲しくて、こうしなきゃああしなきゃって、無意識に思ってた部分は確かにあって…。
でも、多分…このままじゃいけないとも何処かで思ってたんだと思う。…だから失望されてもいいから話そうって思えたのかも。』
『……それは、……もう、俺が、そなたにとって…どうでもよくなったから、か…?』
マティアスがサイカにそうあれと理想があったように、サイカもマティアスがこうだという勝手なイメージを持っていた。
サイカの中でマティアスは強く、とても強い存在。いつだってサイカを守ってくれる存在だった。マティアスに出来ない事はない。この人は何でもやり遂げる。強い人間なのだと。
トラウマを乗り越え、そういう風に変わったのだと。
でもそうじゃなかった。乞うようなマティアスの目は弱々しくて、不安げで、怯えていた。
『どうして。大切だから、大事だからに決まってる。
どうでもいいなら嫌われる覚悟なんてしないもの。
大好きだから、愛しているから。私の汚い部分、醜い部分、知られたくない事もちゃんと話そうって思ったの。』
良い所だけじゃない。
どんな人間にも、浅はかで、愚かで、卑怯で、小賢しくて、馬鹿で、汚い、醜い、人間らしい、人間たる部分がある。
それを受け入れるか、そうじゃないかは当人次第。
この日マティアスとサイカは、互いの人間たる部分を伝え合い、理解し合い、そして受け入れる事が出来た。
マティアスがどれだけサイカを愛しているか。
綺麗も汚いも全て含めて、改めてどれだけ愛しているか。
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そしてサイカは改めて、自分が周りからどれだけ大切にされているかを知る。
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『そなたをこの件に関わらせるつもりは無かったが…状況が変わり、そうも言っていられなくなった。
事は大国、リスティア連合国が関わっている。二度とこんな事が起こらない為にも、この一回で終わらせる必要が出てきた。』
自分の知らない話。
自分一人だけが知らなかった話。
けれど、サイカは以前のような寂しい気持ちにはならなかった。
こうしてマティアスが自分に話してくれた事が嬉しかった。
『いいよ、マティアス。
私を利用して。』
『…サイカ。無理だと思ったら無理だと言って欲しい。
奴が指一本、そなたに触れないとは約束出来ない。
…月光館で襲われかけた時も、怖かったろう?』
『…それは……とても怖かった、けど。』
『確かに今回そなたの協力があるとないとでは全く違う結果になる。
だがベルナンドを捕らえる事が出来るだけでもいいんだ。
抑止にはなる。サイカが怖いなら、しなくていい。
…本音を言えば……して欲しくない。俺も、皆もそう思っている。』
『…でも、ベルナンド侯爵だけでは危険が残る…そういう事なんですよね?
現行の、その証拠がないといけないんですよね?』
『そうだ。恐らく奴は自国で待ち構えている。
そなたが自分の元へ来るのを。…所持する屋敷、施設。そなたを閉じ込める場所はいくらでもあるからな。
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ベルナンドだけであれば、サイカ自らが関わらずとも何も問題は無かった。
マティアスが動く事も無かった。リュカや、ヴァレリア、カイルだけで事が済むはずだった。
けれど同じ大国であるリスティア連合国が関わっているとなれば、そうもいかない。
サイカを危険に晒したくない。けれど、リスティア連合国を放っておけば、危険は更に大きくなる。ベルナンドだけを捕らえ、いくばかりかの平穏を取るか…それとも…サイカを危険に晒す事になるが、今回の件に関わる全ての人物を捕らえるか。
マティアスたちには苦渋の決断だった。
そして、サイカ本人に委ねられる。
『…私、嬉しいです。
色々話してくれた事、今日、マティアスが話してくれた正直な気持ちも全部。
マティアス。私、強くもないけど、弱くもないよ。それに、絶対に守ってくれるんでしょう?』
『当然だ。』
『…じゃあ、大丈夫。
マティアスや皆がいる。皆私の為に頑張ってくれてる。
なら、私もそれに応えなくちゃ。ううん、応えたいって思うんです。
……もし、もしも、私がその人たちに抱かれたら…マティアスは…皆は、私を嫌いになる?』
『そんなわけあるか!』
『ふふ。だったらいいの。
もしそうなったら、勿論私も精一杯抵抗する。これでもかってくらい暴れて抵抗する。汚い言葉を使って、手足を、体全部を使って。
……だから、絶対に助けてね。信じてるから。』
『…サイカ。』
マティアスたちはその万が一が起こらないように念入りに計画を立てた。使えるものは全て使って。考えられるあらゆる可能性を皆で考え、相手の目論見、思惑を読み解いていった。
頭という頭を、体という体を働かせ、男たちは休む事なく準備に取りかかった。
何の言い逃れも出来ないように、逃げ道を作らせないように。
リュカがベルナンドを、その後ろにいる人間を捕らえる為の道を作る、それと同時に拐われたサイカを守る役割も果たす。
ベルナンドの、そしてベルナンドに繋がっている貴族たちの罪をカイルとヴァレリアが暴く。
ベルナンドを助ける者がいないように。確実に罰を受けさせる為に。
そしてマティアスとサーファスが呼応して動き、見せしめを行う。
二度と、サイカに手を出そうと考える愚かな者が現れないように。
「お待ちしておりました。
サイカ・クライス侯爵令嬢。
僕はフィル・アルダ・リスティア。美しい貴女の、夫となる男です。」
サイカは信じている。
だから、少しも恐くなかった。
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