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71 ディーノ③
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俺の大切な娘が去っていくばかりの月日が経った。
あの娘、サイカがいた間の屋敷はいつも明るい笑顔で満たされていたが…それが今は幻だったかのようだ。
いや、言ってしまえばサイカが来る前に戻っただけなのだが。
「…違和感しかないな。」
そう。違和感だらけだ。
以前の日常に戻っただけであるのに、その日常が違和感でしかない。
屋敷にいる使用人たちもいつも通り、これまで通り。
「おはようございます、旦那様。」
「ああ、おはよう。」
「おはようございます。」
「おはよう。」
皆普段と変わりない様に見えてそうでない。
レジーヌは別として…目に見えて沈んではいないものの、やはり何か足りないのだ。
そう、それは笑い声。あの娘が笑うと皆が笑った。
それはそれは楽しそうに、口許を緩ませるだけの笑みではなく、はしたなくも皆が声を出して笑っていた。
あははと広い屋敷のどこでも聞こえていたそれが、今はない。
「…寂しいものだ。」
そう。寂しいものだ。こうも静かだと。
あの娘一人いないだけでこうも屋敷は静かだ。
静かで、穏やかで、平和で。けれど退屈な日々を、俺は毎日娘の健康と無事と、幸せを祈りながら過ごしていた。
「…リリアナ、精が出るな。
だが毎日掃除をしなくともいいのだぞ。他の仕事をしながらだと手間もかかるだろう。」
「いえ、私がやりたいのです。
サイカ様がいつお戻りになってもいいように。いつ、ふらりと来てもいいようにしておきたいのです。」
「…そうか。」
サイカが娼婦である事を知らないリリアナたちは突然サイカが屋敷に来る可能性もあるかも知れないとそう思っている。
黙っているのは心苦しいが致し方無いことだ。
サイカが娼婦であると知っても、恐らくこの屋敷にいる者たちはそんな事でサイカを蔑んだりはしない。
皆心優しい者たちばかりだ。
警戒しているのは屋敷の者たちではなく外の者たちの事だ。
マティアスやリュカ殿、カイル殿にヴァレリア殿。
皆色んな意味で注目を集める者たちで、サイカはその皆の恋人である。
娼婦である、娼婦であった、その事実が万が一心無い人間に知られてしまえばマティアスがサイカを妃にしたいという願いも難航してしまうだろう。
それに一番はサイカを悪く言われる事があってはならない。
俺の娘になり、社交界へ出ればきっとサイカは注目の的になる。
あの美貌と優しい心の持ち主だ。
サイカの存在が世に出ればたちまちこの屋敷も野次馬で溢れ返るだろう。
何処から話が漏れるかも分からない。
これまで屋敷の警護はそう必要がなかった為に置いていなかったが…サイカが戻れば必要になる。
何せこの屋敷の敷地はかなり広い。
もし、野次馬やサイカの美貌に心奪われ…屋敷の敷地内に侵入してきた者がいたとして。
侵入者に気付かず、使用人たちの何気ない話の中でサイカが娼婦であったと知れてしまえばそれはまずいことになる。
そうなるかも知れないという可能性がある限りはサイカが娼婦である事を伝えるわけにはいかないのだ。
あの娘を守る為にも。
「…リリアナ。」
「はい。」
「大変だろうがこれからも頼む。
いつ、サイカが来てもいいように。」
「…はい!お任せ下さい…!」
「シーツ取り込んで来ました…あ、旦那様…。」
「レジーヌか。…レジーヌも、サイカがいつ来てもいいように…今後も掃除を頼んだぞ。」
「っ、…はいっ!サイカ様がいつ来てもふっかふかの、お日様の匂いがするシーツで寝られる様にしておきます!鏡だって、サイカ様の美しいお姿を余すことなく写せるようにぴっかぴかに磨きますから…!埃なんてかぶせませんよ…!」
「はは、そうか。それは頼もしいな。」
リリアナはまだ普段通りに努めているがレジーヌは酷いものだった。
サイカの世話が余程楽しく遣り甲斐があったのだろう。
サイカが屋敷を去って暫くはミスも多く、その度にリリアナに叱られていたのを見ている。
リリアナもレジーヌも、他の使用人たちも。
料理長も庭師も。
皆サイカが居なくなって寂しいのだろう。
「…まるで日が落ちたようだ。」
サイカが使っていた部屋は元々客室だった。
ベッドもクローゼットも何もかも、誰でも使えるような無難な物を置いていたがサイカが去ってからは養女としていつでも迎えられる様に準備を整えた。
十分な広さがあった客室はサイカの、娘の部屋へ。
無難な家具は全て新しく揃えることにした。
『サイカ様は可愛らしい物がお好きのようでした。』
『豪華…というか、華美なものより可愛い物がいいと思います!
私が持ってる小物入れをすごく可愛いと言っていましたし!』
サイカの世話をしていた二人の言葉を聞き、家具職人に作らせたドレッサー、椅子、ソファー、ベッド。
白を基調としたそのどれもに小鳥と蔦が描かれている。
カーテンも生地から拘り、刺繍も家具に合わせたものを作らせた。
この屋敷の一角に、この屋敷では他にない可愛らしい部屋が出来ていた。
驚き、喜ぶ娘の顔を想像するだけで楽しくなった。早く見せたいものだと、そう思った。
そんなある日のこと。
「旦那様。陛下からお手紙が届いております。」
「ありがとう。」
第三執事から渡された手紙の封を開け読んでいくと…そこには吉報が書かれてあった。
「そうか…!…今すぐ馬車の用意を!帝都へ行く!」
…いや。浮かれすぎていた自覚はある。
何せ迎えに来いと言われていた日付よりもかなり早くに帝都へ来てしまっていた。
マティアスには呆れられたが…仕方がない。
何せ其ほど楽しみにしていたのだ。
あの娘が名実共に俺の娘になる日を、あの娘の父になるその瞬間をずっと待ち望んでいたのだ。
『…それでマティアス。サイカがお前の他に三人もの夫を持つ事に関してだが…どうするつもりだ?』
『どうもしない。』
『?…どうもしない、とは。』
『そのままの意味だ。
あれからまた過去の書物を漁ったが結果は同じだった。
長い歴史の中で女王でもなく、また世継ぎである王子が生まれなかった場合を除き、妃側が王以外の夫を持ったと書かれてあるのは一例のみ。』
『…ああ、不幸な末路として終わったのだったな。』
『そうだ。だが俺たちやサイカの場合は“何か策を取ろう”とすること事態が間違いであると気付いた。』
『…一体どういう事だ?』
『ヴァレリアの家は其ほど昔からある家ではない。先代と今代の優秀さで今の爵位にまでのし上がった家だ。
ヴァレリアも元々頭のいい男ではあったが…ここ最近は目を見張る程成長している。
そしてカイル。…あいつの身体能力の高さは恐らく血筋だろう。』
『ディアストロ家は古くから続く名家だが…騎士の家ではなかったはずだぞ?』
『その通りだ。だが歴史書には戦で活躍した騎士の名にディアストロの名が何人か出てくる。
つまりはディアストロ家もまた、文武に秀でた者が多くいた家という事だ。…この話はまた後日…皆が揃った時にでもしよう。』
『…安心してもいいのだな?』
『勿論だ。』
貴族となるサイカの今後を思うと娼婦でいるより大変な事も待っているだろう。
何よりマティアスを始め皆がかなりの立場にいるのだ。
それが気掛かりでもあったが笑みを浮かべるマティアスを見れば杞憂であったのだとそう思えた。
『…ああ、楽しみだな。』
『サイカが辞めるまで…まだあと十日はあるぞ。』
『構わん。その間にサイカのドレスや…色々見回っておくさ。
これから必要になってくるんだ。あって困るものではないしな。それにサイカの部屋に置く小物類も探したい。…帝都であればサイカが好みそうな物が沢山あるだろう。』
『はは、ディーノ!今から親馬鹿か!』
『何とでも言え。俺は今機嫌がいい。何を言われても堪えんぞ。』
この日はマティアスと酒を交わしつつ色々な話をした。…まあ主にサイカの話ではあるが。
そして約束の日がやってくる。
久方ぶりに会った娘の目は腫れていて、家族と慕っている者たちとの別れが寂しいのだと雄弁に物語っていた。
サイカにとってはこの月光館という娼館も“家”だ。俺の知らない思い出も当然沢山あるに違いない。
「サイカ、元気でね。…陛下、ディーノ様、サイカを、どうか宜しくお願いします。」
「ああ、案ずるなキリム。サイカは必ず幸せにする。」
キリムに手を握られたサイカはその手が離れてしまうといよいよ別れになるのだと悟った様子で…腫れた目を潤ませていた。
俺もサイカの父。そしてキリムもサイカの父であるのだ。
そこに一番や二番などの順序などはない。なぜなら俺の知る娘は…とても愛情深い、情の厚い子だからだ。
この愛しい娘を共に見守っていこうではないか。
そんな意味を込めてキリムには互いの娘として宜しく頼むと伝えればキリムは目尻の皺を深くさせ勿論ですと応えた。
「あああああサイカ様あああああ!?お、お帰りなさいませえええええ!?」
二日かけ領地に帰ってくれば門前を掃除していたレジーヌの混乱した大声。
マティアスから手紙を貰った後は嬉しさの余りに気が急いて皆には帝都に行くとだけしか伝えていなかったなと思い出す。
「レジーヌさん!」
「あああああ、サ、サイカ様!!本物!?本物ですかああああああ!!?」
そんなレジーヌの大きな声を聞いて集まってくる使用人たち。
リリアナが慌てた様子で走る所など滅多と見た事もない。
休み以外の者全員がずらりと揃えば皆一様に似通った表情をした。
「…そうだな…ここで署名するか。」
「?」
「マルチェロ。例の書面を持って来てくれ。」
「!!
はい!直ぐにお持ち致します!」
きょとんと俺を見上げるサイカに笑いかけ、第二執事のマルチェロを待つ。
数分足らずでマルチェロが持って来た書面にペンを走らせ書き終わると持ち手をサイカへと向ける。
「門を通れば…サイカ、お前は俺の娘だ。
この領地がお前の故郷になり、この屋敷がお前の家に。
そして屋敷に、領地にいる皆が家族になる。
…この書面は俺の名とお前の名、そしてこの国の王であるマティアスの名が書き込まれれば国が認めたものになる。」
「…国が認める…?」
「そうだ。俺とお前が“家族”になる事を国が認めた証となる。」
「!!」
「…書いてくれるか?」
俺からペンを受け取ったサイカは恐る恐るといった様子で書面を見つめ、そしてゆっくりと自分の名前を書き出した。
ふる、とペン先が震えているのが目に入り…同じ思いでいてくれているのだろうと感じた。
ただ紙に名前を書くだけ。だがそれはただの作業ではない。
この日の、この一瞬の重みを、先への不安を、何とも言えない感慨深い思いを、はたまた喜びを。
…この娘はそういった色んな感情を心に刻みながら、噛み締めながら名を書いている。
嬉しい事だ。幸せな事だ。
俺は今日、素晴らしい娘を我が子として迎えることが出来る。
震えたペン先にこの娘がどれ程素晴らしい子かが表れている。
サイカの、娘の最大の魅力は心だ。
誰かの痛みを想像し自分に置き換えること。
誰かの悲しみを、誰かの怒りを、誰かの喜びを、そして幸せをサイカは想像し、自分であればと置き換えることが出来る。
この国では、いや世界では多くの者が考えない。
誰かの不幸の上に自らの幸せがあっても感謝もしない。
醜い人間が他者から嫌悪されるのは当たり前で、貧しい者が死んでしまうのも当然で、それが多くの者にとっては当たり前なのだ。
もし立場が逆であれば…と、そんなことは考えたりしない。
それが普通だ。何もおかしくはない。俺やマティアスのように理不尽に晒されながら生きてきた人間なら兎も角。
不自然な同情でもない。嫌な憐れみでもない。
この子は自分が同じ立場だったらと想像することが出来る。
想像出来るから寄り添うことが出来るのだ。労ることが出来るのだ。
「……か、書けました。」
ふう、と緊張した面持ちで俺を見るサイカ。
この子らしい綺麗な文字で“サイカ”と名が書かれてある。
「マティアス。」
「ああ。最後は俺の署名だな。」
名を書き終えたマティアスは皆に書面が見えるように持つ。
「ディーノ、そしてサイカ。
今日、この場を以てそなたらは“父娘”となった。
その事実をレスト帝国が皇帝、マティアス・ベルフォーレ・レストが認める!」
瞬間、わあ!と使用人たちの歓喜の声にその場が包まれる。
俺もマティアスも、そして屋敷の皆もまた、サイカが俺の娘になることを待ち望んでいたのだ。
「…サイカ、父としてはまだまだ至らぬ俺だが…遠慮はするんじゃないぞ。
気に入らない事、嫌な事は我慢をするな。時には互いの意見が合わず嫌な雰囲気になる事もあるだろう。
だが、俺とお前は今日から家族だ。沢山喧嘩をして、その度に仲直りをしよう。な?」
「はい…!今日から娘として…末永く宜しくお願いします、お義父様…!」
喜色に輝く瞳で笑う娘に愛しさが募り、堪らず抱き抱える。
わあ、と驚いたのち恥ずかしそうにはにかんだ我が娘。
そう。今日からサイカは俺の娘となったのだ。
国が、そして王が認めた俺の娘に。
「今日は宴だ。今日という素晴らしい日を盛大に祝おうじゃないか。」
なあ皆、と使用人たちに目を向けると…誰もが喜びの元大きく頷いた。
あの娘、サイカがいた間の屋敷はいつも明るい笑顔で満たされていたが…それが今は幻だったかのようだ。
いや、言ってしまえばサイカが来る前に戻っただけなのだが。
「…違和感しかないな。」
そう。違和感だらけだ。
以前の日常に戻っただけであるのに、その日常が違和感でしかない。
屋敷にいる使用人たちもいつも通り、これまで通り。
「おはようございます、旦那様。」
「ああ、おはよう。」
「おはようございます。」
「おはよう。」
皆普段と変わりない様に見えてそうでない。
レジーヌは別として…目に見えて沈んではいないものの、やはり何か足りないのだ。
そう、それは笑い声。あの娘が笑うと皆が笑った。
それはそれは楽しそうに、口許を緩ませるだけの笑みではなく、はしたなくも皆が声を出して笑っていた。
あははと広い屋敷のどこでも聞こえていたそれが、今はない。
「…寂しいものだ。」
そう。寂しいものだ。こうも静かだと。
あの娘一人いないだけでこうも屋敷は静かだ。
静かで、穏やかで、平和で。けれど退屈な日々を、俺は毎日娘の健康と無事と、幸せを祈りながら過ごしていた。
「…リリアナ、精が出るな。
だが毎日掃除をしなくともいいのだぞ。他の仕事をしながらだと手間もかかるだろう。」
「いえ、私がやりたいのです。
サイカ様がいつお戻りになってもいいように。いつ、ふらりと来てもいいようにしておきたいのです。」
「…そうか。」
サイカが娼婦である事を知らないリリアナたちは突然サイカが屋敷に来る可能性もあるかも知れないとそう思っている。
黙っているのは心苦しいが致し方無いことだ。
サイカが娼婦であると知っても、恐らくこの屋敷にいる者たちはそんな事でサイカを蔑んだりはしない。
皆心優しい者たちばかりだ。
警戒しているのは屋敷の者たちではなく外の者たちの事だ。
マティアスやリュカ殿、カイル殿にヴァレリア殿。
皆色んな意味で注目を集める者たちで、サイカはその皆の恋人である。
娼婦である、娼婦であった、その事実が万が一心無い人間に知られてしまえばマティアスがサイカを妃にしたいという願いも難航してしまうだろう。
それに一番はサイカを悪く言われる事があってはならない。
俺の娘になり、社交界へ出ればきっとサイカは注目の的になる。
あの美貌と優しい心の持ち主だ。
サイカの存在が世に出ればたちまちこの屋敷も野次馬で溢れ返るだろう。
何処から話が漏れるかも分からない。
これまで屋敷の警護はそう必要がなかった為に置いていなかったが…サイカが戻れば必要になる。
何せこの屋敷の敷地はかなり広い。
もし、野次馬やサイカの美貌に心奪われ…屋敷の敷地内に侵入してきた者がいたとして。
侵入者に気付かず、使用人たちの何気ない話の中でサイカが娼婦であったと知れてしまえばそれはまずいことになる。
そうなるかも知れないという可能性がある限りはサイカが娼婦である事を伝えるわけにはいかないのだ。
あの娘を守る為にも。
「…リリアナ。」
「はい。」
「大変だろうがこれからも頼む。
いつ、サイカが来てもいいように。」
「…はい!お任せ下さい…!」
「シーツ取り込んで来ました…あ、旦那様…。」
「レジーヌか。…レジーヌも、サイカがいつ来てもいいように…今後も掃除を頼んだぞ。」
「っ、…はいっ!サイカ様がいつ来てもふっかふかの、お日様の匂いがするシーツで寝られる様にしておきます!鏡だって、サイカ様の美しいお姿を余すことなく写せるようにぴっかぴかに磨きますから…!埃なんてかぶせませんよ…!」
「はは、そうか。それは頼もしいな。」
リリアナはまだ普段通りに努めているがレジーヌは酷いものだった。
サイカの世話が余程楽しく遣り甲斐があったのだろう。
サイカが屋敷を去って暫くはミスも多く、その度にリリアナに叱られていたのを見ている。
リリアナもレジーヌも、他の使用人たちも。
料理長も庭師も。
皆サイカが居なくなって寂しいのだろう。
「…まるで日が落ちたようだ。」
サイカが使っていた部屋は元々客室だった。
ベッドもクローゼットも何もかも、誰でも使えるような無難な物を置いていたがサイカが去ってからは養女としていつでも迎えられる様に準備を整えた。
十分な広さがあった客室はサイカの、娘の部屋へ。
無難な家具は全て新しく揃えることにした。
『サイカ様は可愛らしい物がお好きのようでした。』
『豪華…というか、華美なものより可愛い物がいいと思います!
私が持ってる小物入れをすごく可愛いと言っていましたし!』
サイカの世話をしていた二人の言葉を聞き、家具職人に作らせたドレッサー、椅子、ソファー、ベッド。
白を基調としたそのどれもに小鳥と蔦が描かれている。
カーテンも生地から拘り、刺繍も家具に合わせたものを作らせた。
この屋敷の一角に、この屋敷では他にない可愛らしい部屋が出来ていた。
驚き、喜ぶ娘の顔を想像するだけで楽しくなった。早く見せたいものだと、そう思った。
そんなある日のこと。
「旦那様。陛下からお手紙が届いております。」
「ありがとう。」
第三執事から渡された手紙の封を開け読んでいくと…そこには吉報が書かれてあった。
「そうか…!…今すぐ馬車の用意を!帝都へ行く!」
…いや。浮かれすぎていた自覚はある。
何せ迎えに来いと言われていた日付よりもかなり早くに帝都へ来てしまっていた。
マティアスには呆れられたが…仕方がない。
何せ其ほど楽しみにしていたのだ。
あの娘が名実共に俺の娘になる日を、あの娘の父になるその瞬間をずっと待ち望んでいたのだ。
『…それでマティアス。サイカがお前の他に三人もの夫を持つ事に関してだが…どうするつもりだ?』
『どうもしない。』
『?…どうもしない、とは。』
『そのままの意味だ。
あれからまた過去の書物を漁ったが結果は同じだった。
長い歴史の中で女王でもなく、また世継ぎである王子が生まれなかった場合を除き、妃側が王以外の夫を持ったと書かれてあるのは一例のみ。』
『…ああ、不幸な末路として終わったのだったな。』
『そうだ。だが俺たちやサイカの場合は“何か策を取ろう”とすること事態が間違いであると気付いた。』
『…一体どういう事だ?』
『ヴァレリアの家は其ほど昔からある家ではない。先代と今代の優秀さで今の爵位にまでのし上がった家だ。
ヴァレリアも元々頭のいい男ではあったが…ここ最近は目を見張る程成長している。
そしてカイル。…あいつの身体能力の高さは恐らく血筋だろう。』
『ディアストロ家は古くから続く名家だが…騎士の家ではなかったはずだぞ?』
『その通りだ。だが歴史書には戦で活躍した騎士の名にディアストロの名が何人か出てくる。
つまりはディアストロ家もまた、文武に秀でた者が多くいた家という事だ。…この話はまた後日…皆が揃った時にでもしよう。』
『…安心してもいいのだな?』
『勿論だ。』
貴族となるサイカの今後を思うと娼婦でいるより大変な事も待っているだろう。
何よりマティアスを始め皆がかなりの立場にいるのだ。
それが気掛かりでもあったが笑みを浮かべるマティアスを見れば杞憂であったのだとそう思えた。
『…ああ、楽しみだな。』
『サイカが辞めるまで…まだあと十日はあるぞ。』
『構わん。その間にサイカのドレスや…色々見回っておくさ。
これから必要になってくるんだ。あって困るものではないしな。それにサイカの部屋に置く小物類も探したい。…帝都であればサイカが好みそうな物が沢山あるだろう。』
『はは、ディーノ!今から親馬鹿か!』
『何とでも言え。俺は今機嫌がいい。何を言われても堪えんぞ。』
この日はマティアスと酒を交わしつつ色々な話をした。…まあ主にサイカの話ではあるが。
そして約束の日がやってくる。
久方ぶりに会った娘の目は腫れていて、家族と慕っている者たちとの別れが寂しいのだと雄弁に物語っていた。
サイカにとってはこの月光館という娼館も“家”だ。俺の知らない思い出も当然沢山あるに違いない。
「サイカ、元気でね。…陛下、ディーノ様、サイカを、どうか宜しくお願いします。」
「ああ、案ずるなキリム。サイカは必ず幸せにする。」
キリムに手を握られたサイカはその手が離れてしまうといよいよ別れになるのだと悟った様子で…腫れた目を潤ませていた。
俺もサイカの父。そしてキリムもサイカの父であるのだ。
そこに一番や二番などの順序などはない。なぜなら俺の知る娘は…とても愛情深い、情の厚い子だからだ。
この愛しい娘を共に見守っていこうではないか。
そんな意味を込めてキリムには互いの娘として宜しく頼むと伝えればキリムは目尻の皺を深くさせ勿論ですと応えた。
「あああああサイカ様あああああ!?お、お帰りなさいませえええええ!?」
二日かけ領地に帰ってくれば門前を掃除していたレジーヌの混乱した大声。
マティアスから手紙を貰った後は嬉しさの余りに気が急いて皆には帝都に行くとだけしか伝えていなかったなと思い出す。
「レジーヌさん!」
「あああああ、サ、サイカ様!!本物!?本物ですかああああああ!!?」
そんなレジーヌの大きな声を聞いて集まってくる使用人たち。
リリアナが慌てた様子で走る所など滅多と見た事もない。
休み以外の者全員がずらりと揃えば皆一様に似通った表情をした。
「…そうだな…ここで署名するか。」
「?」
「マルチェロ。例の書面を持って来てくれ。」
「!!
はい!直ぐにお持ち致します!」
きょとんと俺を見上げるサイカに笑いかけ、第二執事のマルチェロを待つ。
数分足らずでマルチェロが持って来た書面にペンを走らせ書き終わると持ち手をサイカへと向ける。
「門を通れば…サイカ、お前は俺の娘だ。
この領地がお前の故郷になり、この屋敷がお前の家に。
そして屋敷に、領地にいる皆が家族になる。
…この書面は俺の名とお前の名、そしてこの国の王であるマティアスの名が書き込まれれば国が認めたものになる。」
「…国が認める…?」
「そうだ。俺とお前が“家族”になる事を国が認めた証となる。」
「!!」
「…書いてくれるか?」
俺からペンを受け取ったサイカは恐る恐るといった様子で書面を見つめ、そしてゆっくりと自分の名前を書き出した。
ふる、とペン先が震えているのが目に入り…同じ思いでいてくれているのだろうと感じた。
ただ紙に名前を書くだけ。だがそれはただの作業ではない。
この日の、この一瞬の重みを、先への不安を、何とも言えない感慨深い思いを、はたまた喜びを。
…この娘はそういった色んな感情を心に刻みながら、噛み締めながら名を書いている。
嬉しい事だ。幸せな事だ。
俺は今日、素晴らしい娘を我が子として迎えることが出来る。
震えたペン先にこの娘がどれ程素晴らしい子かが表れている。
サイカの、娘の最大の魅力は心だ。
誰かの痛みを想像し自分に置き換えること。
誰かの悲しみを、誰かの怒りを、誰かの喜びを、そして幸せをサイカは想像し、自分であればと置き換えることが出来る。
この国では、いや世界では多くの者が考えない。
誰かの不幸の上に自らの幸せがあっても感謝もしない。
醜い人間が他者から嫌悪されるのは当たり前で、貧しい者が死んでしまうのも当然で、それが多くの者にとっては当たり前なのだ。
もし立場が逆であれば…と、そんなことは考えたりしない。
それが普通だ。何もおかしくはない。俺やマティアスのように理不尽に晒されながら生きてきた人間なら兎も角。
不自然な同情でもない。嫌な憐れみでもない。
この子は自分が同じ立場だったらと想像することが出来る。
想像出来るから寄り添うことが出来るのだ。労ることが出来るのだ。
「……か、書けました。」
ふう、と緊張した面持ちで俺を見るサイカ。
この子らしい綺麗な文字で“サイカ”と名が書かれてある。
「マティアス。」
「ああ。最後は俺の署名だな。」
名を書き終えたマティアスは皆に書面が見えるように持つ。
「ディーノ、そしてサイカ。
今日、この場を以てそなたらは“父娘”となった。
その事実をレスト帝国が皇帝、マティアス・ベルフォーレ・レストが認める!」
瞬間、わあ!と使用人たちの歓喜の声にその場が包まれる。
俺もマティアスも、そして屋敷の皆もまた、サイカが俺の娘になることを待ち望んでいたのだ。
「…サイカ、父としてはまだまだ至らぬ俺だが…遠慮はするんじゃないぞ。
気に入らない事、嫌な事は我慢をするな。時には互いの意見が合わず嫌な雰囲気になる事もあるだろう。
だが、俺とお前は今日から家族だ。沢山喧嘩をして、その度に仲直りをしよう。な?」
「はい…!今日から娘として…末永く宜しくお願いします、お義父様…!」
喜色に輝く瞳で笑う娘に愛しさが募り、堪らず抱き抱える。
わあ、と驚いたのち恥ずかしそうにはにかんだ我が娘。
そう。今日からサイカは俺の娘となったのだ。
国が、そして王が認めた俺の娘に。
「今日は宴だ。今日という素晴らしい日を盛大に祝おうじゃないか。」
なあ皆、と使用人たちに目を向けると…誰もが喜びの元大きく頷いた。
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r15は保険です。
2024年12月12日
私生活に余裕が出たため、投稿再開します。
それにあたって一部を再編集します。
設定や話の流れに変更はありません。
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