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1 二人の出会い
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「キャー!」
リチェンツァ王国の王城広間にて、第一王子ジョバンニと、インフェルボラート侯爵家令嬢、ベアトリーチェの婚約披露が行われている最中に、いきなり女性の悲鳴が響き渡った。
声の方向を見ると、ひとりの男が持込不可のはずの剣を握って中央通路に飛び出してきたのだ。そして今まさに檀上にいるジョバンニ皇太子を殺さんと階段を駆け上がった。
椅子に座っているジョバンニは動けなかった。そして男は警備兵をすり抜け、ジョバンニの前に迫り、その剣を振りかざす。
その前にベアトリーチェが立ちはだかった。
***
インフェルボラート侯爵は、リチェンツァ王国の法務省の法務大臣を務めている。職業柄もあり、厳格な人物としても有名だった。その第3子の娘のベアトリーチェは、そんな厳格な家に生まれたのに、非常に自由に育った。
小さい頃から外で走り回るのが大好きで、ドレスやリボンなどには興味を示さず、二人の兄と、二人の小さくなった服を貰って、一緒に走り回っていた。
そのうちには兄の真似をして、その辺に落ちている棒で素振りを真似し、兄たちと打ち合うようになった。
母親の侯爵夫人がベアトリ-チェに令嬢らしくしなさいと窘めても、全く言う事を聞かずに走り回る。兄たちは、可愛い妹が自分たちの後を付いて回るのが楽しくて仕方がないので、止めさせる気もない。
夫人が夫である侯爵に愚痴をこぼすと、初めての女の子が可愛くて仕方がない侯爵は苦笑しながら、もう少ししたら令嬢教育が始まる。それまではせめて自由に遊ばせようと言ったので、夫人もしぶしぶ承諾した。
おかげでベアトリーチェは毎日、思う存分駆け回り、子供用の木刀を貰って素振りを繰り返し、兄たちと打ち合う事ができた。
馬に乗れる年齢になったら、大喜びで乗馬の練習を始めた。風を切って走るのが大好きで、すぐに一人で乗れるようになり、邸内の馬場を走らせてもらうようになった。
育っていくうちに運動神経の非常に良いベアトリーチェは、周りが『この子が男の子だったら良かったのに』と嘆くほどに剣の筋もよかった。本人も剣術が大好きで、馬に乗っているか剣術の練習をしているかの日々を過ごした。
だがどれだけ剣の素質があろうと、高位貴族の令嬢には、他の高位貴族と結婚して子を産み育てるという使命がある。下位貴族であれば、跡継ぎが他にいればその子の思うように生きられたかもしれないが、残念ながらインフェルボラート侯爵家にはその自由を与えることは出来なかった。
しかもベアトリーチェの1歳上に、王国の第一王子ジョバンニがいるのだ。高位貴族の令嬢はもれなく彼の婚約者候補となる。選ばれるかどうかは第一王子次第だが、顔合わせの場には出席しなくてはいけない。その時に令嬢としての最低限のマナーが身についていなければ、家の名に傷がつく。
せめて妹か姉でもいればベアトリーチェが参加しなくても済んだかもしれないが、残念ながら現在の侯爵家には長男、次男とベアトリーチェしかいない。
「ベアトリーチェ、お前が剣術の才能があるのは分かっている。しかしお前はこの家の唯一の女の子なんだ。そろそろ令嬢としての振る舞いを覚えてもらわないといけない」
ある日、父親の侯爵は、毎日走り回って遊んでいるベアトリーチェを捕まえて、そう言い始めた。
「令嬢としての振る舞いとは何ですか?」
「ドレスを着こなすこと、女の子にふさわしい立ち居振る舞いと、刺繍を刺したり、楽器の練習をしたりすることだ。乗馬は嗜む程度にできればいい。将来は嫁ぎ先でお茶会やパーティを開くだろうから、茶の種類と味を覚えたり、もてなしを覚えたりしなければいけない」
「お父様。刺繍や楽器は男の子だって出来るでしょう? 茶の種類だって執事の方が詳しいではありませんか」
「執事は職業柄覚える必要があるからだ。男は家を守るために戦うこともあるから、剣技や乗馬が必須なんだ。それと同じで、刺繍などは貴族の女の子の仕事だと考えてくれていい」
「ですが、男の子で乗馬や剣技が苦手な人もいます。それにドレス職人の中には男性もいます」
「そ、それはそうだが、苦手なら努力して身に付けるものだ。令嬢の仕事が苦手だと言うのなら、男と同じように努力して身に付けなくてはいけない。そうして上級貴族のお嫁さんになるのが、貴族令嬢の仕事なのだから」
「お父様。たしかに私はこの家唯一の女の子ですが、上に兄が2人います。大兄様が家を継いで、小兄様が家に有利な令嬢と結婚すれば、私が無理に努力などしなくても、家には問題ないと思います。それにドレスは動きにくいです。あんな恰好では走れません。大嫌いです」
侯爵は深くため息をついた。ああ言えばこう言う、口ばかり達者で困る、と。
「そうだな。今はそうかもしれない。しかしお前が年頃になって恋をしたとしよう。その時に令嬢の作法を身に付けていなかったら、結婚も出来なくなるんだぞ」
「お父様、そういう相手が出来たら、その時に努力しますし、そんな事を言わない人を選びます」
「それじゃあ遅いんだ。立ち居振る舞いと言うのは、一朝一夕には身に付かないものなんだ。剣技だって毎日の練習で身に付くだろう? それと一緒だ」
そう言われてベアトリーチェは少しだけ考える様子を見せた。よし、いまだ、と侯爵はさらに続ける。
「ベアトリーチェが剣技や馬が得意なのは私も知っている。女の子でも護身術としてそれらを嗜むのは良いだろう。だから、こうしよう。午前中は令嬢教育をしっかりと受けなさい。その代わり昼食後は好きにしていいから」
「……剣技を教えてもらっても良いですか? それに、午後はドレスを着なくても良いですか?」
手にマメを作っている令嬢など見たことがないが、侯爵は、友人同士の集まりの場で、男兄弟に囲まれていると女の子でも剣などに興味を持つと聞いたことがあった。だが結局は体格の違いから長続きせず、いずれは自分から令嬢教育をうけるようになる、とも。しかもあまりに反対すると、父親嫌いになってしまったりするのだという。
唯一の女の子のベアトリーチェを、侯爵は心から可愛がっていた。もちろん二人の兄も可愛いが、それとはまったく方向性の違う可愛さなのだ。この子にだけは嫌われたくない。
「分かった、午前中にきちんと令嬢教育を受け、ドレスを着用すれば、午後は免除しよう。剣は兄に教えて貰いなさい。あの子たちも教えることで色々学ぶことがあるだろうから。その代わりに令嬢教育をさぼったら、剣技は禁止にするからな」
「ちゃんと学びます! ありがとうございます、お父様、大好き!!」
そういってベアトリーチェは父親に抱き着き、その頬にキスまで送った。侯爵は、愛娘に満面の笑顔で大好きと言われて満足だった。嫌われないで済んだだけでなく、頬にキスまで貰えた。とりあえずは令嬢教育を受けると言うのだから万々歳だ。それに剣技などはどうせ長続きなどしないのだから。
**
それからのベアトリーチェは、午前中にまじめに令嬢教育を受けた。嫌いなドレスも着て、足さばきもカーテシーも習った。お茶のマナー、ダンス、楽器、刺繍など、日替わりで頑張った。
だが立ち居振る舞いはともかく、刺繍や楽器は適性が皆無だった。刺繍をまっすぐに刺すだけでも何度も指を刺し、布が血まみれになり、それを見た講師の悲鳴で警備が大勢駆けつけて大騒ぎになった。
楽器も指が動きにくく、いくら練習しても弾けない。ならばと歌を歌わせると、先生が逃げ出すほどに音痴だった。それ以来、せめて楽譜くらいは読めるように、とカスタネットを叩きながら、音を言う練習を地道に続けることになった。
勉学はともかく、そのほかは講師たちにブツブツと文句を言われ、ただでさえやりたくないのにとベアトリーチェの中で不満が渦巻く。しかし堪えないと剣技を教えて貰えなくなる。
ベアトリーチェは我慢に我慢をして、午前中の教育を終え、優雅に昼食を食べると、ストレス発散とばかりに庭を駆けまわり、馬で屋敷周辺の草原を走り回り、練習用の木刀で素振りを繰り返した。
9歳になった時、皇太子の婚約者選びが行われた。ベアトリーチェも上位貴族の一人として呼ばれた。王族からの呼び出しだから拒否することなど出来ない。
飾り立てた薄い青のドレスに身を包み、王城に行き、順番に皇太子の前に連れて行かれて、名を名乗ってカーテシーを披露する。
ベアトリーチェがチラリと見たジョバンニ皇太子は、10歳にしては線の細い覇気のない子供だった。
外見も特に特徴もなく、冴えない、という表現がぴったりだ。あまり外に出ないのか、ベアトリーチェよりも白い肌で、プラチナゴールドの胸くらいまである長いふわふわ髪に、綺麗な緑の目をしている。まるで女の子のようだ。
ベアトリーチェの兄二人は、王子と同じ8歳の時にはもっと日に焼けていたし、じっとしているのも苦手な様子だった。だがジョバンニ王子は父親である王様が座っているイスの横に立ったまま、微動だにしない。
あれが王子としての教育だというのなら、王族とはなんと窮屈なものなのだろうか。ベアトリーチェは気の毒に思いながら、自分の番になったので名乗って、カーテシーをして、うつろな目のジョバンニをちらりと見て、そのまま下がった。
周りの令嬢たちは、王子が綺麗だとか冷静だとか盛り上がっているが、ベアトリーチェは全く興味がなかった。男ならば、兄たちのように強くあってほしい。ベアトリーチェの兄たちは本当に強い。訓練を見ているだけでもその見事さに憧れるほどだ。細マッチョな体格も素晴らしい。
王子は正装していて、その腰には立派な剣を下げていたけれど、あの細い腕では剣を振るえないだろう。
弱い男に興味はない。しかしこのあとは庭で茶会が予定されており、挨拶だけで帰るわけにもいかない。
ベアトリーチェはため息をついて、次の茶会の会場へと父親と共に移動した。
茶会に参加した令嬢たちは、同席した王子を質問攻めにしていた。好きな色、食べ物、好きな事、嫌いな事。そして他の子よりも目立って王子に覚えてもらおうと、積極的に近づいて話しかけていた。王子は興味なさそうに、しかし質問されたことには律儀に返答していた。ただしその大半が、『そういう事には答えられない』だったが。後で父親に聞いたところ、好きな食べ物などはヘタに答えるとどっさりと送られてくるし、商売に使われることもあるのだという。
好きな事はともかく、嫌いなことがあってはいけないというのが王族の考え方らしいし、王子の詳細を教えるわけにはいかない、という事らしい。
だったら最初から質問させなければ良いと思うのだが、幼い令嬢たちが相手と仲良くしようとしたら、そういう話を聞くくらいしか会話の糸口がつかめないと言う事らしい。
ベアトリーチェは彼女たちを眺めながら紅茶をのんびりと味わっていた。
最近ようやく紅茶の味の違いが分かってきた、気がする。少なくとも今飲んでいるこれは、家のものよりも香りが良いし、渋みが全くない。さすがに王族は良いお茶を飲んでいるなと思いながら、令嬢たちの楽しそうな声を聞きながら庭を眺める。
王城の庭は、ベアトリーチェの家のそれよりもはるかに大きく、整っている。
茶会が開かれている場所は、庭園の薔薇の花に囲まれた一角だ。さすがに美しい庭園だし、花のにおいも上品だが、折角の茶の香りが薔薇の香りに消されてしまい、ここで茶を飲むものではないな、とベアトリーチェは思う。
色とりどりの薔薇は見事だがベアトリーチェは花にも興味がないので、それ以上の感想はない。
そのうち令嬢の一人が、薔薇の種類だとか花言葉だとか言い出した。王子は立ち上がって薔薇に近付き、花を眺めている。お花、好きですか? という令嬢の質問に、少しだけ頷いているのが見えた。
そこから令嬢たちは自分の好きな花を語り出していたが、ベアトリーチェに好きな花などないので、座ったまま黙って聞いていた。
しばらくして茶会は終了となった。王子が立ち去り、それを全員でカーテシーで見送る。それが済めば解散だ。そのうえ今日は令嬢たちに庭が特別に解放される。大半の令嬢たちはすぐに帰ったが、それでもちらほらと庭を散策する令嬢たちもいる。
ベアトリーチェは、その散策組だった。しかも一人で。いやいや着てきたドレスだが、実は上下で別れているのだ。
普通、スカートの中にはパニエを着用し、その中に普通はペチコートと呼ばれるズボンタイプの下着を履いている。
ベアトリーチェはそれの代わりに乗馬用のズボンを着用していた。多少窮屈だが、ドレスなど絶対に着たくないベアトリーチェに、デザイナーが提案してきた着方だ。
上下で別れるドレス自体ほとんど着用されることがないが、腰に太めのリボンを巻けばわからない、スカートは頑張れば自分で脱げる、ドレスの上もレースやフリルを極力抑えておけば、スカートを脱げば騎士服のように見える、と言われた。
そう言われたら、大嫌いなスカートも気にならなくなった。なにせ中身は違うのだから、と思えるからだ。
ベアトリーチェはまずは休憩室に急いだ。すでに令嬢たちが退出しているので、休憩室にはベアトリーチェの侍女しかいなかった。ちょうど良いとスカートを外してもらう。スカートの一番上にはレースが被せてあるのだが、これをたくし上げれば両脇を紐で結んであるのが見える。後ろのリボンを外して、脇も外せばスカートは一人でも簡単に脱げるのだが、手伝いがいればなお早い。
さらに巻いたりあげたり縛ったりしていた髪の毛を降ろしてもらい、ポニーテールに結いなおしてもらう。毛先がくるりと丸まっているが、その程度なら許容範囲だ。
スカートを外して、パニエも脱いで、すっきりした所で侍女が持っていた騎士風の黒いロングコートを羽織る。
中の薄い青と相まって、なかなかに格好いいのではとベアトリーチェは姿見に映った自分に満足して、侍女には馬車で待つようにと言い、部屋を飛び出していった。
「本当に広いな。うちの庭なんか比べ物にならないかもしれない」
ベアトリーチェは先ほどの茶会が開かれていた庭ではなく、その反対側へとやってきた。
城内は庭といえど詳細は公表されていない。大雑把に庭園、薔薇園、草原、森、という程度だ。ベアトリーチェが今いるのは、城の西側の草原と森という部分だ。
城の西側にはいろいろな用途に使うのであろう空間があり、その先には林があった。ベアトリーチェはこの林を走り抜けた。
そしてその先には、木陰が点在する草原が広がっている。そのさらに先には森があるようだ。
これは良い。ここだけでも侯爵家全体がすっぽりと入りそうな広さだ。しかも人気もない。
ここなら思う存分走り回って、先ほどの林で拾った枝を振り回すことも、転げまわる事も出来る。
午前中あれだけ我慢して大人しくしていたのだ、この位のご褒美がなくては。
ベアトリーチェは思う存分走り回った。さすがに王家の草原だけあって、草原なのに滑らかだ。侯爵家でもあちこちに大小のくぼみがあるというのに、ここには全くと言って良いほど、ない。こんなところまで完璧に整備されているのに、整備されている感は全くないのだ。おかげで走りやすいし、転がり回りやすい。
ベアトリーチェはただ走っているわけではない。仮想敵と戦っているのだ。そのために走るし、攻撃を避けるために転がり、受け身を取る。
普通なら服がすぐに汚れるものだが、王家は草も普通ではないのかもしれない。葉っぱは付くものの、衝撃を十分に吸収してくれる柔らかさを持ったうえで、地面を完全に隠している。
素晴らしい。これなら怪我の心配もない。
ベアトリーチェは思う存分に走り回った。
森の一歩手前まで走りついた。まだまだ体力には余裕があるが、十分に満足した。
本当に素晴らしい所だ。ぜひともまた来てみたい。その時にはここを馬で走ってみたい。もしかすると馬で走らないから、くぼみがないのかもしれない。となると馬場は他にあるのか。ぜひともそこも行ってみたいし、愛馬で駈ってみたいところだ。
そう思いながら、ベアトリーチェは額に浮いた汗をハンカチで押さえ、元来た方向へ足を進めた。
来た時は全力で走ったが、帰りは早歩き程度で周りを見回しながら移動する。自分ならこの地形をどう使うか。まあこんな平坦な草原では用兵も何もないが、それならばどう戦ったらいいのか。
お父様は女子には用兵術も戦術も学ぶ必要などないと笑われたが、いざ戦いとなった時、一番犠牲になるのは女だ。負ければ確実に戦利品扱いされる。
女性は品物ではないのだ。そんな扱いは許せない。
そんな目に合わないためには、攻め込まれたら逃げるのが一番だが、その時に戦いを知っていれば、逃げ道だっておのずと見えてくる。
世の中には必要でない事などないのだ。
まあ自分に令嬢教育は必要ないと思うが。
そんな風に考えながら、木刀代わりのしっかりとした枝を振りつつ歩いていたら、木陰に人影を見付けた。ここに来た時にはあんな人影はなかった。用心しながら近づいてみる。
木の下に座っている。どうやら令嬢のようだ。先ほどの集まりに参加していた令嬢だろうか。こんなところまで来るとは物好きな、と自分の事を棚に上げて、ベアトリーチェは思った。
気配と足音を消しているし、大木が点在してはいるが、この開けた草原では隠れようがない。それに彼女を避けてこそこそするのも性に合わない。どうせ彼女もこちらの存在にすぐに気が付くだろうから、とベアトリーチェは堂々と大股で歩いて、挨拶だけして行こうと彼女に近寄った。
顔が見えてくる近さまで来たが、彼女は下を向いて何かをやっているためか、ベアトリーチェには気が付いていないようだ。令嬢を怖がらせないように、枝はそこに落とす。
密集している草で音などはしなかったはずだが、令嬢がいきなりベアトリーチェを見た。
そしてベアトリーチェは、衝撃を受けた。
リチェンツァ王国の王城広間にて、第一王子ジョバンニと、インフェルボラート侯爵家令嬢、ベアトリーチェの婚約披露が行われている最中に、いきなり女性の悲鳴が響き渡った。
声の方向を見ると、ひとりの男が持込不可のはずの剣を握って中央通路に飛び出してきたのだ。そして今まさに檀上にいるジョバンニ皇太子を殺さんと階段を駆け上がった。
椅子に座っているジョバンニは動けなかった。そして男は警備兵をすり抜け、ジョバンニの前に迫り、その剣を振りかざす。
その前にベアトリーチェが立ちはだかった。
***
インフェルボラート侯爵は、リチェンツァ王国の法務省の法務大臣を務めている。職業柄もあり、厳格な人物としても有名だった。その第3子の娘のベアトリーチェは、そんな厳格な家に生まれたのに、非常に自由に育った。
小さい頃から外で走り回るのが大好きで、ドレスやリボンなどには興味を示さず、二人の兄と、二人の小さくなった服を貰って、一緒に走り回っていた。
そのうちには兄の真似をして、その辺に落ちている棒で素振りを真似し、兄たちと打ち合うようになった。
母親の侯爵夫人がベアトリ-チェに令嬢らしくしなさいと窘めても、全く言う事を聞かずに走り回る。兄たちは、可愛い妹が自分たちの後を付いて回るのが楽しくて仕方がないので、止めさせる気もない。
夫人が夫である侯爵に愚痴をこぼすと、初めての女の子が可愛くて仕方がない侯爵は苦笑しながら、もう少ししたら令嬢教育が始まる。それまではせめて自由に遊ばせようと言ったので、夫人もしぶしぶ承諾した。
おかげでベアトリーチェは毎日、思う存分駆け回り、子供用の木刀を貰って素振りを繰り返し、兄たちと打ち合う事ができた。
馬に乗れる年齢になったら、大喜びで乗馬の練習を始めた。風を切って走るのが大好きで、すぐに一人で乗れるようになり、邸内の馬場を走らせてもらうようになった。
育っていくうちに運動神経の非常に良いベアトリーチェは、周りが『この子が男の子だったら良かったのに』と嘆くほどに剣の筋もよかった。本人も剣術が大好きで、馬に乗っているか剣術の練習をしているかの日々を過ごした。
だがどれだけ剣の素質があろうと、高位貴族の令嬢には、他の高位貴族と結婚して子を産み育てるという使命がある。下位貴族であれば、跡継ぎが他にいればその子の思うように生きられたかもしれないが、残念ながらインフェルボラート侯爵家にはその自由を与えることは出来なかった。
しかもベアトリーチェの1歳上に、王国の第一王子ジョバンニがいるのだ。高位貴族の令嬢はもれなく彼の婚約者候補となる。選ばれるかどうかは第一王子次第だが、顔合わせの場には出席しなくてはいけない。その時に令嬢としての最低限のマナーが身についていなければ、家の名に傷がつく。
せめて妹か姉でもいればベアトリーチェが参加しなくても済んだかもしれないが、残念ながら現在の侯爵家には長男、次男とベアトリーチェしかいない。
「ベアトリーチェ、お前が剣術の才能があるのは分かっている。しかしお前はこの家の唯一の女の子なんだ。そろそろ令嬢としての振る舞いを覚えてもらわないといけない」
ある日、父親の侯爵は、毎日走り回って遊んでいるベアトリーチェを捕まえて、そう言い始めた。
「令嬢としての振る舞いとは何ですか?」
「ドレスを着こなすこと、女の子にふさわしい立ち居振る舞いと、刺繍を刺したり、楽器の練習をしたりすることだ。乗馬は嗜む程度にできればいい。将来は嫁ぎ先でお茶会やパーティを開くだろうから、茶の種類と味を覚えたり、もてなしを覚えたりしなければいけない」
「お父様。刺繍や楽器は男の子だって出来るでしょう? 茶の種類だって執事の方が詳しいではありませんか」
「執事は職業柄覚える必要があるからだ。男は家を守るために戦うこともあるから、剣技や乗馬が必須なんだ。それと同じで、刺繍などは貴族の女の子の仕事だと考えてくれていい」
「ですが、男の子で乗馬や剣技が苦手な人もいます。それにドレス職人の中には男性もいます」
「そ、それはそうだが、苦手なら努力して身に付けるものだ。令嬢の仕事が苦手だと言うのなら、男と同じように努力して身に付けなくてはいけない。そうして上級貴族のお嫁さんになるのが、貴族令嬢の仕事なのだから」
「お父様。たしかに私はこの家唯一の女の子ですが、上に兄が2人います。大兄様が家を継いで、小兄様が家に有利な令嬢と結婚すれば、私が無理に努力などしなくても、家には問題ないと思います。それにドレスは動きにくいです。あんな恰好では走れません。大嫌いです」
侯爵は深くため息をついた。ああ言えばこう言う、口ばかり達者で困る、と。
「そうだな。今はそうかもしれない。しかしお前が年頃になって恋をしたとしよう。その時に令嬢の作法を身に付けていなかったら、結婚も出来なくなるんだぞ」
「お父様、そういう相手が出来たら、その時に努力しますし、そんな事を言わない人を選びます」
「それじゃあ遅いんだ。立ち居振る舞いと言うのは、一朝一夕には身に付かないものなんだ。剣技だって毎日の練習で身に付くだろう? それと一緒だ」
そう言われてベアトリーチェは少しだけ考える様子を見せた。よし、いまだ、と侯爵はさらに続ける。
「ベアトリーチェが剣技や馬が得意なのは私も知っている。女の子でも護身術としてそれらを嗜むのは良いだろう。だから、こうしよう。午前中は令嬢教育をしっかりと受けなさい。その代わり昼食後は好きにしていいから」
「……剣技を教えてもらっても良いですか? それに、午後はドレスを着なくても良いですか?」
手にマメを作っている令嬢など見たことがないが、侯爵は、友人同士の集まりの場で、男兄弟に囲まれていると女の子でも剣などに興味を持つと聞いたことがあった。だが結局は体格の違いから長続きせず、いずれは自分から令嬢教育をうけるようになる、とも。しかもあまりに反対すると、父親嫌いになってしまったりするのだという。
唯一の女の子のベアトリーチェを、侯爵は心から可愛がっていた。もちろん二人の兄も可愛いが、それとはまったく方向性の違う可愛さなのだ。この子にだけは嫌われたくない。
「分かった、午前中にきちんと令嬢教育を受け、ドレスを着用すれば、午後は免除しよう。剣は兄に教えて貰いなさい。あの子たちも教えることで色々学ぶことがあるだろうから。その代わりに令嬢教育をさぼったら、剣技は禁止にするからな」
「ちゃんと学びます! ありがとうございます、お父様、大好き!!」
そういってベアトリーチェは父親に抱き着き、その頬にキスまで送った。侯爵は、愛娘に満面の笑顔で大好きと言われて満足だった。嫌われないで済んだだけでなく、頬にキスまで貰えた。とりあえずは令嬢教育を受けると言うのだから万々歳だ。それに剣技などはどうせ長続きなどしないのだから。
**
それからのベアトリーチェは、午前中にまじめに令嬢教育を受けた。嫌いなドレスも着て、足さばきもカーテシーも習った。お茶のマナー、ダンス、楽器、刺繍など、日替わりで頑張った。
だが立ち居振る舞いはともかく、刺繍や楽器は適性が皆無だった。刺繍をまっすぐに刺すだけでも何度も指を刺し、布が血まみれになり、それを見た講師の悲鳴で警備が大勢駆けつけて大騒ぎになった。
楽器も指が動きにくく、いくら練習しても弾けない。ならばと歌を歌わせると、先生が逃げ出すほどに音痴だった。それ以来、せめて楽譜くらいは読めるように、とカスタネットを叩きながら、音を言う練習を地道に続けることになった。
勉学はともかく、そのほかは講師たちにブツブツと文句を言われ、ただでさえやりたくないのにとベアトリーチェの中で不満が渦巻く。しかし堪えないと剣技を教えて貰えなくなる。
ベアトリーチェは我慢に我慢をして、午前中の教育を終え、優雅に昼食を食べると、ストレス発散とばかりに庭を駆けまわり、馬で屋敷周辺の草原を走り回り、練習用の木刀で素振りを繰り返した。
9歳になった時、皇太子の婚約者選びが行われた。ベアトリーチェも上位貴族の一人として呼ばれた。王族からの呼び出しだから拒否することなど出来ない。
飾り立てた薄い青のドレスに身を包み、王城に行き、順番に皇太子の前に連れて行かれて、名を名乗ってカーテシーを披露する。
ベアトリーチェがチラリと見たジョバンニ皇太子は、10歳にしては線の細い覇気のない子供だった。
外見も特に特徴もなく、冴えない、という表現がぴったりだ。あまり外に出ないのか、ベアトリーチェよりも白い肌で、プラチナゴールドの胸くらいまである長いふわふわ髪に、綺麗な緑の目をしている。まるで女の子のようだ。
ベアトリーチェの兄二人は、王子と同じ8歳の時にはもっと日に焼けていたし、じっとしているのも苦手な様子だった。だがジョバンニ王子は父親である王様が座っているイスの横に立ったまま、微動だにしない。
あれが王子としての教育だというのなら、王族とはなんと窮屈なものなのだろうか。ベアトリーチェは気の毒に思いながら、自分の番になったので名乗って、カーテシーをして、うつろな目のジョバンニをちらりと見て、そのまま下がった。
周りの令嬢たちは、王子が綺麗だとか冷静だとか盛り上がっているが、ベアトリーチェは全く興味がなかった。男ならば、兄たちのように強くあってほしい。ベアトリーチェの兄たちは本当に強い。訓練を見ているだけでもその見事さに憧れるほどだ。細マッチョな体格も素晴らしい。
王子は正装していて、その腰には立派な剣を下げていたけれど、あの細い腕では剣を振るえないだろう。
弱い男に興味はない。しかしこのあとは庭で茶会が予定されており、挨拶だけで帰るわけにもいかない。
ベアトリーチェはため息をついて、次の茶会の会場へと父親と共に移動した。
茶会に参加した令嬢たちは、同席した王子を質問攻めにしていた。好きな色、食べ物、好きな事、嫌いな事。そして他の子よりも目立って王子に覚えてもらおうと、積極的に近づいて話しかけていた。王子は興味なさそうに、しかし質問されたことには律儀に返答していた。ただしその大半が、『そういう事には答えられない』だったが。後で父親に聞いたところ、好きな食べ物などはヘタに答えるとどっさりと送られてくるし、商売に使われることもあるのだという。
好きな事はともかく、嫌いなことがあってはいけないというのが王族の考え方らしいし、王子の詳細を教えるわけにはいかない、という事らしい。
だったら最初から質問させなければ良いと思うのだが、幼い令嬢たちが相手と仲良くしようとしたら、そういう話を聞くくらいしか会話の糸口がつかめないと言う事らしい。
ベアトリーチェは彼女たちを眺めながら紅茶をのんびりと味わっていた。
最近ようやく紅茶の味の違いが分かってきた、気がする。少なくとも今飲んでいるこれは、家のものよりも香りが良いし、渋みが全くない。さすがに王族は良いお茶を飲んでいるなと思いながら、令嬢たちの楽しそうな声を聞きながら庭を眺める。
王城の庭は、ベアトリーチェの家のそれよりもはるかに大きく、整っている。
茶会が開かれている場所は、庭園の薔薇の花に囲まれた一角だ。さすがに美しい庭園だし、花のにおいも上品だが、折角の茶の香りが薔薇の香りに消されてしまい、ここで茶を飲むものではないな、とベアトリーチェは思う。
色とりどりの薔薇は見事だがベアトリーチェは花にも興味がないので、それ以上の感想はない。
そのうち令嬢の一人が、薔薇の種類だとか花言葉だとか言い出した。王子は立ち上がって薔薇に近付き、花を眺めている。お花、好きですか? という令嬢の質問に、少しだけ頷いているのが見えた。
そこから令嬢たちは自分の好きな花を語り出していたが、ベアトリーチェに好きな花などないので、座ったまま黙って聞いていた。
しばらくして茶会は終了となった。王子が立ち去り、それを全員でカーテシーで見送る。それが済めば解散だ。そのうえ今日は令嬢たちに庭が特別に解放される。大半の令嬢たちはすぐに帰ったが、それでもちらほらと庭を散策する令嬢たちもいる。
ベアトリーチェは、その散策組だった。しかも一人で。いやいや着てきたドレスだが、実は上下で別れているのだ。
普通、スカートの中にはパニエを着用し、その中に普通はペチコートと呼ばれるズボンタイプの下着を履いている。
ベアトリーチェはそれの代わりに乗馬用のズボンを着用していた。多少窮屈だが、ドレスなど絶対に着たくないベアトリーチェに、デザイナーが提案してきた着方だ。
上下で別れるドレス自体ほとんど着用されることがないが、腰に太めのリボンを巻けばわからない、スカートは頑張れば自分で脱げる、ドレスの上もレースやフリルを極力抑えておけば、スカートを脱げば騎士服のように見える、と言われた。
そう言われたら、大嫌いなスカートも気にならなくなった。なにせ中身は違うのだから、と思えるからだ。
ベアトリーチェはまずは休憩室に急いだ。すでに令嬢たちが退出しているので、休憩室にはベアトリーチェの侍女しかいなかった。ちょうど良いとスカートを外してもらう。スカートの一番上にはレースが被せてあるのだが、これをたくし上げれば両脇を紐で結んであるのが見える。後ろのリボンを外して、脇も外せばスカートは一人でも簡単に脱げるのだが、手伝いがいればなお早い。
さらに巻いたりあげたり縛ったりしていた髪の毛を降ろしてもらい、ポニーテールに結いなおしてもらう。毛先がくるりと丸まっているが、その程度なら許容範囲だ。
スカートを外して、パニエも脱いで、すっきりした所で侍女が持っていた騎士風の黒いロングコートを羽織る。
中の薄い青と相まって、なかなかに格好いいのではとベアトリーチェは姿見に映った自分に満足して、侍女には馬車で待つようにと言い、部屋を飛び出していった。
「本当に広いな。うちの庭なんか比べ物にならないかもしれない」
ベアトリーチェは先ほどの茶会が開かれていた庭ではなく、その反対側へとやってきた。
城内は庭といえど詳細は公表されていない。大雑把に庭園、薔薇園、草原、森、という程度だ。ベアトリーチェが今いるのは、城の西側の草原と森という部分だ。
城の西側にはいろいろな用途に使うのであろう空間があり、その先には林があった。ベアトリーチェはこの林を走り抜けた。
そしてその先には、木陰が点在する草原が広がっている。そのさらに先には森があるようだ。
これは良い。ここだけでも侯爵家全体がすっぽりと入りそうな広さだ。しかも人気もない。
ここなら思う存分走り回って、先ほどの林で拾った枝を振り回すことも、転げまわる事も出来る。
午前中あれだけ我慢して大人しくしていたのだ、この位のご褒美がなくては。
ベアトリーチェは思う存分走り回った。さすがに王家の草原だけあって、草原なのに滑らかだ。侯爵家でもあちこちに大小のくぼみがあるというのに、ここには全くと言って良いほど、ない。こんなところまで完璧に整備されているのに、整備されている感は全くないのだ。おかげで走りやすいし、転がり回りやすい。
ベアトリーチェはただ走っているわけではない。仮想敵と戦っているのだ。そのために走るし、攻撃を避けるために転がり、受け身を取る。
普通なら服がすぐに汚れるものだが、王家は草も普通ではないのかもしれない。葉っぱは付くものの、衝撃を十分に吸収してくれる柔らかさを持ったうえで、地面を完全に隠している。
素晴らしい。これなら怪我の心配もない。
ベアトリーチェは思う存分に走り回った。
森の一歩手前まで走りついた。まだまだ体力には余裕があるが、十分に満足した。
本当に素晴らしい所だ。ぜひともまた来てみたい。その時にはここを馬で走ってみたい。もしかすると馬で走らないから、くぼみがないのかもしれない。となると馬場は他にあるのか。ぜひともそこも行ってみたいし、愛馬で駈ってみたいところだ。
そう思いながら、ベアトリーチェは額に浮いた汗をハンカチで押さえ、元来た方向へ足を進めた。
来た時は全力で走ったが、帰りは早歩き程度で周りを見回しながら移動する。自分ならこの地形をどう使うか。まあこんな平坦な草原では用兵も何もないが、それならばどう戦ったらいいのか。
お父様は女子には用兵術も戦術も学ぶ必要などないと笑われたが、いざ戦いとなった時、一番犠牲になるのは女だ。負ければ確実に戦利品扱いされる。
女性は品物ではないのだ。そんな扱いは許せない。
そんな目に合わないためには、攻め込まれたら逃げるのが一番だが、その時に戦いを知っていれば、逃げ道だっておのずと見えてくる。
世の中には必要でない事などないのだ。
まあ自分に令嬢教育は必要ないと思うが。
そんな風に考えながら、木刀代わりのしっかりとした枝を振りつつ歩いていたら、木陰に人影を見付けた。ここに来た時にはあんな人影はなかった。用心しながら近づいてみる。
木の下に座っている。どうやら令嬢のようだ。先ほどの集まりに参加していた令嬢だろうか。こんなところまで来るとは物好きな、と自分の事を棚に上げて、ベアトリーチェは思った。
気配と足音を消しているし、大木が点在してはいるが、この開けた草原では隠れようがない。それに彼女を避けてこそこそするのも性に合わない。どうせ彼女もこちらの存在にすぐに気が付くだろうから、とベアトリーチェは堂々と大股で歩いて、挨拶だけして行こうと彼女に近寄った。
顔が見えてくる近さまで来たが、彼女は下を向いて何かをやっているためか、ベアトリーチェには気が付いていないようだ。令嬢を怖がらせないように、枝はそこに落とす。
密集している草で音などはしなかったはずだが、令嬢がいきなりベアトリーチェを見た。
そしてベアトリーチェは、衝撃を受けた。
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