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後日談

3ー5

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 フロリアンはさらりと揺れる金の髪を耳にかけて、丸い楕円形のゆりかごの中を覗きこんだ。
 かごの中では、父親そっくりの黒い三角の耳を今はまだたらりと下向きに垂らした小さな赤子が寝転んだまま、近づいて来た青年の方へつぶらな瞳を向けている。
 そのころりとした姿を捉えると、青年の青緑の瞳が優しげに綻ぶ。
「可愛いなぁ……」
 そう言って彼は傍で直立不動で立っている娘に、穏やかに微笑みかけた。
「ミリー頑張ったね」と、栗色の髪を優しく撫でると、娘がもるんもるんと大粒の涙を零し始める。
「……なんという天国的光景……天使と赤子など、幸せレベルの値が高すぎて……ああ、寿命が延びそうなエネルギーが身体に染み入る……ありがたや、ありがたや……」
 ミリヤムはいつものように拝み始めたが、今日はルカスからの静止は入らなかった。
 彼自身も久々に会った主と赤子の共演を、徹夜明けに朝日を浴びるような顔をしてじぃんと見ている。結局彼も、フロリアン大好き党の一人であることには間違いが無かった。
 ところが、ミリヤムは次の瞬間、「で。」と、顔を上げる。大粒の涙はどこへやら。隣でルカスはまだ感動の余韻に浸っているというのに、ミリヤムの表情はまっさら、真顔に戻っていた。切り替えが異様に早い。余韻を楽しまない女、それがミリヤムだった。
 ミリヤムはフロリアンに問う。
「……そこにおいでのお坊ちゃんはどちら様で……」
「え?」
 ミリヤムの問いにフロリアンはきょとんと赤子達から顔を上げる。
 ミリヤムは、フロリアンが連れて来た見慣れない獣人の少年を見ていた。
 少年は、しなやかな身体つきの少年で。白い毛並みには薄い色の模様が川に散らした花びらのように流れている。瞳は綺麗な碧眼で、その横顔にはあどけなさから凛々しさへ変化する途中のような、少年期特有の美しさを備えていた。
 彼はその青い目で、ゆりかごの中で機嫌良さそうにしているランドルフをじっと見つめている。
 ミリヤムは少年の品のいい身なりを見て、どこかの貴族の子息かなと思った。
「……もしかして、侯爵邸の新しい小姓の坊ちゃんですか?」
 そうフロリアンに問うと、彼は少しだけ視線を泳がせて、「ふふ」と口元で笑った。
「? ぼ、お父様?」
「ふふふ」
 ミリヤムが怪訝そうに視線を向けても、フロリアンはにこにこ微笑むばかりである。
 ミリヤムは思った。「……やばい悪戯臭い匂いがするぞ……」と。
 彼女は思い切り警戒色の強い顔に表情を変える。
 目を細め、例の獣人少年をじっと凝視する(「気持ち悪い」とルカスに叩かれる。)と──……少年を見ている内に、ミリヤムはふと、今になって彼の横顔が誰かに似ていることに気がついた。
「……あれ?」
 と、同じタイミングで、食い入るようにランドルフを見ていた少年がぱっと顔を上げてにやりと笑う。何か悪巧みをしているような顔だ。その表情には覚えがあった。
「!? ま、まさか……」
「ん?」
 目をむいて指差すと、少年が振り返ってミリヤムを見た。そうしてミリヤムのぶるぶるしている指先を見ると、もう一度にんまりと笑う。
 その顔が決定打となった。
「ろ、……ローラント坊ちゃんっ!?」
「バレた。えへ」
 その顔にミリヤムが仰け反る。
「毛、毛並みが減って……!?」
「人聞きが悪いなぁ、剥げたみたいに言わないでくれる? ちょっと痩せただけだってば」
「ちょっと!?」
 ミリヤムは少年の傍に駆けよって、以前の様にそのお腹にあまった肉を掴もうとして──それが出来なかったことに慄いた。
「な、ないっ!?」
 ローラントは、信じられないほどに痩せていた。
 少年は、えへーと笑う。
「僕は別にどっちでも良かったんだけど、痩せたら兄上にとっても褒められたよ。ミリーにも見せたくってフロリアンさんにお願いして連れてきてもらったんだー」
 少年は嬉しそうにくるーりとそこで回ってみせる。
「…………」
「あれミリー? 何その変な顔」
 ミリヤムは何故だか消沈していた。砦に居た頃は、あんなに「菓子を食べ過ぎるな」「野菜を食べろ」と言っていたのに──
 ミリヤムは項垂れ気味に口を開く。
「……ええ、ええ……ローラント坊ちゃんが健康的そうなお姿になられたのは革命的に喜ばしいことでございますよ!? しかしですね、どういう事でございましょうか……いざそのふっくらさが無くなると猛烈に寂しいんですが!? ローラント坊ちゃんがしゅっとしてしまわれた……あ、私めめまいがしてまいりましたよ!? ぽっちゃりもふが……偉大なるぽっちゃりもふがこの世から消えておしまいになられた! 心の中に荒野の風が吹きすさぶ!!」
 何だこの複雑な感情は、ぎゃーっとか言いながら、ミリヤムは床に沈み、その場で打ち震え嘆いている。ローラントはそれを見ながらけらけら笑っている。
 そしてすっかり美しくなってしまった少年は、項垂れるミリヤムの耳元でそっと囁いた。
「大丈夫だよ、ミリー。僕、ミリーの顔見たらまた食欲湧いてきたから」
 すぐ元に戻るよー、という少年に、ミリヤムはぐわっと顔を上げて。大げさな勢いで両手で頭の上に×印をつくる。目は瞳孔開き気味だった。
「お気遣い無用!! 少年様の素晴らしきご成長を妨害するなど出来よう筈がありません!! 私めは、私めは、己の寂しさにがっちり蓋をしてローラント坊ちゃんの輝かしき未来を応援いたします!! どうぞこれを機に是非、坊ちゃんの可愛らしいもっふり姿を作り上げていた大量のお菓子様方とは縁をお切り下さい!!」
「え、やだー」
「ろぉらんと坊ちゃん!?」
「領都でたくさんお土産買って帰るんだ~」と、るんるんして部屋を出て行こうとする白豹の少年を、ミリヤムは目を吊り上げて追いかけて行った。「ルカス、ちょっとランドルフ達見てて!」とか叫びながら。
「!? ま、待ちなさいミリヤム!」
 いきなり部屋を出て行ったミリヤムに、産後間もない彼女を案じたヴォルデマーが慌ててその後を追いかけていく。
「こらー!! ローラント坊ちゃん!! く、なんという素早さ……お痩せになってすばしっこさに磨きが!? 坊ちゃんがまた太ったらイグナーツ様がお泣きになられますよ!?」
「泣いてるほうが兄上は可愛げがあるよぅ」
「かもしれませんがね!?」
「ミリヤム……! あまり走ってはならぬ!」
 
 ……という騒動を──フロリアンはころころ笑いながら見送った。
 そんな彼の背後では、ルカスがやれやれという顔で双子のゆりかごを揺らしている。
 それを見たフロリアンはにっこり微笑んで。自分も二つのゆりかごの傍の椅子に腰を下ろし、「手伝うよ」と幼馴染に声をかけた。
 彼がゆっくりとゆりかごを揺らすと、中ではルドルフがぽやんと眠そうな顔をしていた。それを微笑ましげに見つめながら、フロリアンは苦笑した。騒々しい一行の賑やかな声がまだ耳に届いてきていた。
「君達の母上は相変わらず元気だねぇ」
 君達もミリーに似るのかなーというほのぼのしたフロリアンの言葉に……ルカスが間髪入れずに言い放つ。
「それを防ぐ為に私がここに居るのです!」
 あんな性格を受け継いでしまったら、子らが苦労してしまう! ……という、その、あまりにきっぱりとした、決意の篭った言葉に──フロリアンは思わず噴出してしまうのだった。

 ローラントは結局、腕一杯では足りぬほどのお菓子を買って、ほくほくと砦に帰って行った。


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