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後日談

1-1 婚約公示期間

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 ぽかぽかとした日差しの中庭で、ミリヤムは戸口の傍で膝を抱えにやにやしていた。
 その手の内にあるのは、小さな金の指輪だった。
 それはシェリダン家の家紋と彼女の婚約者となったヴォルデマーのイニシャルが掘り込んである代物で、ミリヤムはそれを片手の平に乗せ幸せそうに眺めているのだ。
 その胸中に思い起こされているのは、昨日の婚約式の光景だ。

 それは領都の教会で執り行われた。
 さすがにいつものメイド服で……とはいく訳もなく……この日のミリヤムはヴォルデマーから贈られたふんわりとした薄紫色のワンピースを身に纏っていた。髪もサラが綺麗に結い上げてくれて耳の傍には可愛らしい白い小花があしらわれ、いつになく着飾った己の様にミリヤムは気恥ずかしくて堪らなかった。顔面の強張りが見っとも無いと思うのに、それを何とかしたいと焦ると更に顔は緊張に引きつった。
 周囲には式を執り行う司祭の他に、辺境伯アタウルフを始めとしたシェリダン家の面々、そしてリヒター家の代表として義父のフロリアンが彼女等を取り囲んでいて……正直な所、その注目を受けるミリヤムは緊張で吐きそうだ。
 荘厳な雰囲気の格式高い教会、立派な人々に囲まれた己はいかにも場違いなような気がした。
 けれども、そうして青い顔の娘がガタガタしていると、隣に立つ男は僅かに口の端を持ち上げその手をそっと握った。
 安堵させるようなその感触にミリヤムも気がついて。隣を見上げると、視線の先で彼は金の瞳を幸せそうに和らげていた。その瞳の奥にある幸福感を目にすると、ミリヤムの心の中からはもやもやとした場違い感は潮が引いていくように綺麗に拭い去られていく。
 ヴォルデマーは少し身体を屈めるとミリヤムの耳元にそっと「大丈夫だ」と、低く囁いた。
 黄金の瞳から伸ばされる、静かにも愛しげな視線は惜しみもなくミリヤムに注がれていた。
「……綺麗だぞ」
 深みのある声音が僅かな熱と共に耳をくすぐって。ミリヤムは緊張を忘れ、その金の瞳にうっとりとため息をついた。
 見上げる黒い毛並みの人狼は、ミリヤム同様、本日は品の良い正装に身を包んでいた。普段の隊服やラフなシャツ姿とはまた違う、紳士然とした彼は、しかし少しも浮いたところもなく整然とそれを着こなしている。
 その凛々しき様にミリヤムは惚れ惚れして、思った。
 あまり見続けると、惚けすぎて鼻から流血する、と。
(はああああ、ヴォ、ヴォルデマー様素敵……一生……一生見ていられる……っ、ひいいい、し、死にそう……)
 今度は別な意味でぶるぶるし始めるミリヤムだった。が……それを冷静さに引き戻す光景が目の端に引っかかった。その光景に気がついて、ミリヤムは一瞬押し黙る。
 それはミリヤムの視界の端で感極まったように涙している──ヴォルデマーの母アデリナと己の幼馴染ルカスの姿だった。
「…………」
 アデリナはもっふりした彼女の夫辺境伯(背が足りない伯はギズルフに抱えられている)に頭を撫でられ、ルカスはニコニコしたフロリアンによしよしと背を撫でられている。
 そんな──この婚約を散々反対していた筈の二人の様子を見た途端、何だか微妙さと安堵、そして惚けの狭間で惑い──思わず神妙な顔で冷静さに立ち返ってしまうミリヤムだった。
(あ──……)
 その時、ミリヤムはルカスを慰めていた美しい青年と目が合った。
 元主、現義父、彼女が天使と崇める彼は、宝石のような青緑の瞳を和らげて……その表情にミリヤムはやっと落ち着きを取り戻す。
(……坊ちゃまに失態をお見せするわけにはいかない……天使に鼻から流血なんてそんなもの見せたら、婚約早々天罰が下ってしまう……やり遂げるのよ!! ヴォルデマー様と共に……)
 ミリヤムは意を決した様に、その未来の夫たるヴォルデマーの手を強く握り返した。
「……」
 そんな彼女の心の声でも聞こえたか。ヴォルデマーはその上方で僅かに苦笑して。
 そして、その手を優しく握り返すのだった……

──こうして──……彼等の立会いのもと、結婚の約束と婚約指輪の交換を行なったヴォルデマーとミリヤムは婚約公示期間へと突入した。
 公示期間は通常はおよそ一ヶ月間程。その間に異議を申し立てる者などが無く、特に問題が無ければ晴れて結婚式となる。
 この領主の息子の前例のない異種族婚は、幾ら相手が隣領の侯爵家門に連なる娘だとはいえ、多くの反発者を生むものと思われた。が……彼女の後ろ盾となったのは、侯爵家だけではなかった。
 前領主ロルフとその夫人サラは、それまで引退後は貴族達の集まりに顔を出すことは殆どなかったのだが、領都に戻って以来、事あるごとに社交界に顔を出し、その度ミリヤムというその人族の娘を連れて歩いた。
 それは最早彼女が領主の息子の妻であると宣言するかのような振る舞いで……
 過ぎ去った時代とはいえ、隣国の脅威から長きに渡り領を守り抜き、安定させてきた彼等の影響力は未だ領都では色濃く──その大きな後ろ盾を前に、多くの人狼貴族達は口を噤む事を決め込んだようだった。
 それに加え、人狼族の名家の娘で元ヴォルデマーの婚約者候補の筆頭であったフェルゼンのウラがこの婚姻を後押しした事も大きかった。彼女はそれまでヴォルデマーを狙っていた領内の若い人狼娘達を黙らせ、そして他種族の娘に敗れたのかと揶揄する声にもびくともしなかった。そのウラの強き様に、強さを重要視する人狼族達の青年達からは結婚の申し込みが殺到しているらしかった。
 そして──……この婚約には、人狼社会で肩身の狭い思いをしていた他種族の領民達も勿論多いに喜んで──その空気は徐々に、しかし確実に領都に広がって行ったのだった。
 今や、この領都では、彼女達の婚約に反対する声は殆ど耳にすることがなくなっていた。

 ミリヤムはうっとりした。つまみ上げた金色のそれは、同じ色の小さな鎖に通されてミリヤムの首にかけられている。そこに刻まれたヴォルデマーのイニシャルを見る度に悶えるような幸福感に思わず笑みが零れ落ちる。
 何て幸せなのだろうと一日に何度も思って。いずれ来るであろう結婚式の事を思うと、尚更に足元がふわふわするような感覚に浮き立つのだった。
 そうして中庭の戸口でしゃがみ込んだまま、幸せな気持ちに浸っていたミリヤムだったのだが──……
 その時、ぼかっと背後から頭を叩かれた。
「おうっ!?」
 膝を抱えていたミリヤムはその形のままつんのめって転がる。
「い、ったた……」
「……おい、いつまでにやけているつもりだ。お前馬鹿なのか? 休憩する度に、にやにや、にやにや……」
 現れたのはルカスだった。
 ルカスは眉間に皺を寄せミリヤムを睨んでいる。
 ミリヤムは彼に気がつくとすぐに立ち上がって、大切な指輪を服の内に収め、彼の視線を迎え撃って抗議する。
「だって、昨日の今日ですよ!? 少しくらいにやにやしたって良いでしょう!? 今日にやにやしなければいつしろと!? 我が人生でこれほど華々しかった日がこれまであったでしょうか!? 絶賛にやにや期ではないのですかこれは!?」
 しかし銀の眼鏡の幼馴染は目を細め、上から彼女を冷たい表情で見下ろした。ただし彼はサラが縫ってよこした花柄の前掛けをしていてかなり間抜けな恰好だ。が、最早二人共その姿に見慣れてしまい、まったく違和感を感じていない。
 ルカスは冷気と共に言い放つ。
「良いけど鬱陶しい。」
「!? 、!?」
 切り捨てられてミリヤムが驚愕する。
「なんという切り替えの早さ……昨日はあんなにめそっていたくせに、なんだこいつ」
「!? 黙れ! 俺は泣いてない……!!」
「阿呆ですかルカスさん。貴方の可愛らしげな涙の染み込んだ手ぬぐいを一体誰が洗濯したと思ってるんですか? そう、それは私、当家の洗濯の番人ミリヤムです」
 しらっとした顔で言い返すと、ルカスは威嚇するような顔でミリヤムを見る。
「勘違いするな、誰がお前が婚約したくらいで……!! ただ俺はアリーナおばさんが草葉の陰でさぞ喜ぶ事だろうと……やっと変態が片付きそうでほっとしただけだ!!」
「私は変態じゃ……、っ!?」
 反論しようとすると鼻をつまみ上げられて。抵抗しようとしたミリヤムだったのだが、続けられた言葉にきょとんとする。
「黙れ、その議論には飽き飽きだ。そんな事よりも……城からお使いがいらした」
「? おつかひ?」
「辺境伯閣下がお前をお呼びだそうだ」
 ルカスは放り出すようにミリヤムの鼻から手を離すと同時に、たった今ミリヤムが回収してたたもうと傍に置いておいた洗濯物のカゴを彼は持ち上げる。
「いたた……閣下が……?」
「着替えてさっさと行って来い! 閣下とお使いの方をお待たせするな!!」
「え!? お……おおお!!」
 叱り飛ばされて、ミリヤムは慌ててスカートの裾を翻し、転がるように走り出すのだった……
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