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132 威圧
しおりを挟むフリードは、その大きな身体からは想像できないような身軽さで、馬車の入り口に駆け寄ると、車内を勢いよく覗き込む。
と、そこにいた八の字眉毛の青年が、ホッとした顔で彼を迎える。
「フリード様、よ、よかった……」
……よかった……か、どうかはかなり怪しいが。
ともかくヴィムは、グステルの保護者(?)が戻ってきてくれたことに安堵した。
しかし帰ってきた男の目には、ヴィムの姿は映っていない。
フリードは、彼の膝の上でブルブル震えている妹の背を見て仰天した。
ここまでの道中、散々彼女の演技に騙されてきたフリードではあったが。本能的に、今この妹の怯えが、それらとは根本的に違うとものだとすぐに察した。
──が。
ここで彼が冷静に振る舞えればかっこ良かったのだが……。
まだ、他者を思いやる気持ちが芽生えたての芽生えたてたるお坊っちゃまは、すっかり気が動転してしまう。
「ど、どうした⁉︎ どうしたぁあああああ⁉︎」
職務中には、血まみれの賊なども散々見てきたはずの大男は、妹の丸まった背中に盛大にオロオロしはじめる。
「それが……突然こうなられて……」
「ステラ……? ステラ⁉︎」
ヴィムの膝に顔を埋めた妹は、呼びかけても兄を見てくれない。
ただ、彼女は苦しげにもらすのだ。
「……やめて、もう私を放っておいて……」
「⁉︎」
聞いたことのない妹の悲痛な声に。フリードは動揺し、そして──怒った。
男は、大事な妹を苦しめるものを見逃さぬよう、瞳を限界まで見開いて、ゆ……っくりと背後を振り返る。
「……、……誰だ……誰がこやつをこんなに怖がらせた⁉︎」
怒りに任せてフリードが腕を振ると、八つ当たられた馬車の車体がバキッと音を立てて割れた。その腹に響くような怒声と剛腕には、ヴィムを含めた周りの者たちが皆慄く。
「お前か⁉︎」
「ひっ」
そしてまず、その怒りの眼差しで刺された歩兵は、地面の上で跳び上がる。
フリードは、鼻頭を痙攣させるほどに顔を歪め、眼光鋭く歩兵を見下ろしている。その姿は、まるで鬼神。誰もが彼の後ろにゆらめく怒りの炎を見た。
視線で射られた歩兵ばかりでなく、先ほどあっけなく馬から引き摺り下ろされた騎兵も、周りにいた民衆すらも。皆、フリードの気迫に怯えて後退っていく。
王国兵たちは身構え腰の剣に手をかけて、今にもそれを抜きそうだ。そんな緊張感を見たヴィムはギョッとして喉の奥で悲鳴を上げる。
「ヒィ⁉︎ ちょ……フ、フリード様⁉︎」
「許っさん……っ‼︎」
怒れる兄が咆哮を上げた。
……身体がひどく冷たい。
理由はわかっている。
あの方と再び出会ってしまった。
でも、これ以上はダメだ。
少し目があっただけでこれならば、もし面と向かって出会ってしまったらどうなることか。
それを思うと、グステルの身体は余計に冷たくなるようだった。
私たちは再会するべきじゃない。
(──そ、そうだ、逃げなきゃ……)
グステルは、先ほどの感覚を思い出すと、どうしようもなく怖かった。相反する二つの感情に、身が引きちぎられそうなのだ。
今すぐあの金の髪の青年のそばから離れたい気持ちと、彼のところへ駆け出したい気持ち。
これは早くここから立ち去らねば、グステルの中の見知らぬ彼女がより明確に現れて、自分の主導権を奪われてしまいそうだ。
恋心は、強い。
特に若い娘の恋の力は、グステルのような老成した魂を圧倒する力を持っていた。彼を間近にして、制御できる自信がなかった。
(これは、まずいわ……今すぐここから離れなきゃ……)
そうは思うのに。
あまりにも恐怖したせいか、だんだん意識を保っているのがつらくなってきた。
耳には周囲の喧騒が遠く、轟々と風が暴れるような音がうるさくて──……。
「──俺様の妹をわずらわせた者は全員そこに直れ!」
「……、……、………………」
「貴様たちが無礼にも怒鳴りつけたのは、この俺様を大好きな妹なのだぞ⁉︎ この俺様をだ!」
その甚だしく主張の強い怒号に、グステルの恐怖がつんのめって止まった。
なにやら……ものすごく恥ずかしい身内の喚き声が聞こえる気がして、別の意味で気が遠くなった。
そこへさらに聞こえてくる怒号。
「貴様らの武人の精神はどうなっている⁉︎ 俺様を大好きな妹を怖がらせ、血まみれにするとは……それでも武人か⁉︎ か弱き者をいたわる精神が皆無か⁉︎ 根性を叩き直されたい奴はどいつだ⁉︎ さっさと並べ! 俺様が順にぶん殴って──……」
と、兄がいいかけた時。グステルは、カッと目を見開き恐怖をねじ伏せた。
この時、気を失いそうなほどの恐怖をなぜ彼女が堪えられたかというと。それはひとえに、年長者(?)として、あの幼な子が如き兄をどうにかせねばならぬという責任感に他ならなかった。
子供(?)が絡むと、どうにも強い、グステルである。
「っ!」
氷りかけていた腕を動かし、その手で、馬車の戸口をガシッとわしづかんで。なんとか腕の力で身体を扉のほうへ引っ張った。そうして外に向かって思いきり怒鳴る。
「っこぉら若様っっっ‼︎」
戸口に這い寄り、ゾンビのような顔で兄を叱りつけると。
今にもそこに正座させた兵士たちの胸ぐらをつかみ、吊し上げそうだった兄がハッと振り返る。
フリードはメントライン家の馬車の戸口に、すがるようにして出てきた妹を見つけ。その、血の気の引いた、血まみれの悲壮な顔を見て胸を突かれ、顔を歪める。
「! 大丈夫かグス──」
と、フリードが口走った瞬間。その悲壮なはずの妹が、暗黒の眼差しで兄を威圧。
顎を上げ、在らん限りに両目を見開いた。
その両目から放たれる眼光は射るようで、煽るような圧は、兄にはっきり(黙れ!)といっている……。
「⁉︎」
その妹の顔にフリードはフリーズ。グステルの怒った顔は、母が怒った時の顔ととても似ていた……。
どうやら自分は妹の機嫌を損ねてしまったらしい。そう察したフリードは──つかんでいた王国兵の胸ぐらから、そ……と、無言で手を離した。
しかし、叱られ慣れていない彼は、妹に怒鳴られた理由がわからない。
(グ、グステルは……どうして怒っている……?)
フリードは困惑しながら、妹の奇異なほどに見開かれた瞳を見て、そこでやっとハッと思い出す。
そういえば──。
グステルは、今はまだ令嬢暮らしには戻らないと決めたらしく、身分も伏せておきたいといっていたのである。
彼は彼女に、『人前では絶対妹扱いしないでください。名前もステラと呼び捨てて。私もお兄様のことは“若様”と呼びますからね?』と、重々言い含められていた。
対外的に、現在メントライン家の一人娘は王都の町屋敷にいることになっている。
もちろんそれは偽物だが、メントライン家の嫡男が、ここで他の娘を『妹』と呼ぶのはまずい。
それなのに、彼は先ほど怒りのあまり、うっかり妹の言葉を忘れて。大勢の前で、彼女のことを『妹』といってしまったのである……。
これにはフリードは、ちょっと慌てる。
「む……むむ……」
フリードは身を固め、ぎこちなく視線を泳がせている。どうしていいのかわからぬらしく、腕をひいたり戻したり。表情は困ったようにチラチラと馬車の娘を見ていて……。
この様子には、彼が怒りまくって剛腕を振るったのを目撃し、怯えて成り行きを見守っていた民衆たちも、彼に怒鳴られた王国兵たちも皆、ぽかんとしている。
ついでにいうと、その男を叱咤した娘は顔が幽鬼のように白く、そして、顔が塗りたくられたように血まみれ。
その顔で、何やらひどく怒っているらしいのだから、これは──正直何も事情のわからぬ者たちにとっても非常に怖い光景であった。
聴衆たちがシーンと静まり返った中で。
蒼白の顔の娘は、今にも倒れそうにふらつきながら、にっこりげっそり笑う。
「若様……? 何をいきなりこんなところで暴れようとなさっているの? ん?」
その目は冷え冷えとして、かけらも笑っていなかった。
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