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131 運命と、念仏
しおりを挟むすっきりと鼻筋の整った横顔は、聡明そうで気品に満ちていた。
門前にいた民衆たちが彼を仰ぎ見ると、その青い瞳は静かに微笑む。その表情は、朗らかで優しい。
青年らしい逞しさと、爽やかな慈愛が窓越しでも伝わってくる。
彼を見た瞬間、グステルの身には確信が電撃のように駆け抜けていった。
余韻が身体を小刻みに揺らす。
以前、彼を見たのはもう何年も前のこと。
あれは王宮で、見たとはいえ、そんなに近くで顔を合わせたわけではない。
公爵家の人間として、王族に引き合わされることもあったが、なにせグステルが彼を避けていた。
特に、彼の妃の座を狙っていた父の企みを知ってからは、なんだかんだと理由をつけて、出会いを回避した。
そうして彼女は家出をして、しばらくはその少年の顔を覚えていたが……じきに日々の忙しさで記憶は薄れてしまった。
それなのに今、すっかり青年になった彼を目にした一瞬で、グステルには分かった。
──彼が、運命の相手だ、と。
「っ」
天啓のような確信に、グステルは息を呑んで呆然とした。
手足が時を忘れたように動かなかった。それなのに、全身は強烈に引き寄せられるのだ。
あの笑顔の主に。
(──欲しい)
不意にそんな感情が湧き上がり、グステルは驚いた。
まるで、自分の中に自分ならざるものの感情があるようだ。
身体の中に、はっきりと異物が感じられて、その気持ちの悪さにめまいがする。
異物は、強く“彼”を求めていた。
渇望が蛇のようにのたうち回り、今にも自分が突き動かされそうでゾッとした。
うなじの辺りがゾワゾワし、喉が詰まったように苦しくなって。グステルは思わず己の首をつかんだ。
その瞬間。呆然と目で追っていた青年が、彼女のほうを見た。
ガラスの向こうにある、澄んだ青い瞳が彼女を捉えると、途端グステルの内側から感情が怒涛のように溢れ出た。
「………………」
しかしグステルは、なんとか感情の発露を堪えた。
代わりにひきつった顔のまま、無言でくるぅり……と、身体をぎこちなく回し、ゆっくりとその青年から目を逸らす。
と、そばで一生懸命荷物をあさり、新しいハンカチ(※鼻血用)を引っ張り出そうとしていたヴィムが異変に気がつき顔を上げた。
「? ステラさん?」
「…………」
グステルは、声をかけても無言。そのままヴィムのほうを向き、静かぁ……に、馬車の床に跪き、血の気の引いた顔を青年の膝に、埋めた。
「え……」
「な──南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀…………!」
ぽかんとするヴィムの視線の下で、グステルは全力で念仏を唱えはじめた。
どうやら彼女は、この思いがけない邂逅が相当恐ろしかったらしい。
膝の上でガタガタ震え出した娘に、ヴィムは唖然。
グステルは強烈な運命を感じて慄いていた。
恋の運命ではない。
運命の──死。
すでに絶命の経験も積んだ彼女が、この世で何が怖いかといえば、それはやはり自分を運命の死へ導く存在だろう。
それはただの死とは違う。
悪役令嬢としての道に堕ちる死。
彼女がこれまで築いてきた矜持や自分らしさというものを、まったく無視した、不名誉極まりない死である。
恋情のために冷静さを失い、誰かを蹴落としてでもと執着した末に死ぬなんて。これは絶対に嫌だった。
それはグステルが自分を失うこと。
到底承服できやしない。
そんな──彼女が望まない運命へと、彼女を導くものが恐ろしくないわけがない。
それすなわち、今あそこで煌めきまくっている貴公子──王太子である。
「あああああ……不意打ち……せめて不意打ちはやめてください!」
グステルは、とにかく怖くてたまらずヴィムの膝に震えながらすがりついていた。
何より恐ろしかったのは、彼を見た瞬間の自分。グステルは己の中に、確かに“悪役令嬢グステル”の魂を感じた。
その魂は、あの青年に強烈に惹かれている。
その勢いは激しく、グステルの意思を消し飛ばしてしまいそうなほど。
まるで物語の意思が、筋書きに従わない彼女を“グステルの魂”の中から無理やりもぎ取ろうとしているように感じられて。
グステルは愕然。こんな恐怖はない。
「な、ななな……っ南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏っ! 神様仏様、へ、ヘルムート様! お助けくださいっ! し、し、死神がっ‼︎ 死神が見える!」
グステルはすっかりパニックに陥っていた。
ヴィムの膝にすがって一心不乱に祈る。
正直……必死すぎて自分が何を口走っているのかもよく分かっていなかった。
そんな彼女に、ヴィムは困惑。
「ス、ステラさん⁉︎ ど、どう、どうしたんですか⁉︎」
車窓から外を覗いていると思ったら。血の気の引いた顔でくるりと方向転換し、そのまま自分の膝の上に頭を乗せて丸まった娘はいったいどうしたことか。
彼女はとにかく強心臓で、ヴィムにこんなに怯えた姿を見せたのは初めてだった。
「っ悪霊(?)退散! 悪(役令嬢)よ去れ! あああああっ!」
「あ、悪霊……⁉︎ ど、どこに⁉︎ ちょ、あの、ステラさん、お、落ち着いて……」
……果たして悪役令嬢は悪霊か……? ということはさておき。
この怯えようを見たヴィムも、次第に怯えた表情になっていく。
彼は今やすっかり彼女を慕っている。彼女に言われると、悪霊も本当にいるような気がして怖かった。
ヴィムは慌てて彼女の頭を守るように覆い被さり、怯えた目で馬車の中を見回した。(※悪霊探してる)
と、その時だった。馬車の外から大きな怒号が上がった。
「おい! いったい何事だ! 死神などと……中の者、降りてこい!」
「⁉︎」
驚いたヴィムが急いで窓の外を見ると、王国の騎兵が馬車のそばまでやってきていた。
どうやらグステルの必死の念仏が外に筒抜けだったらしい……。
騎兵は険しい顔で彼らのほうを睨み、周りには歩兵の姿もある。メントライン家の馬車は、すっかり王国兵たちに取り囲まれてしまったようだった。
ここでようやくヴィムも、どうやらそばにとんでもない貴人の馬車がいたのだと気が付き、青ざめた。
「え……あ、あの……僕たち別に怪しいものでは……」
ヴィムはオロオロと言いかけたが──。
膝の上には、鼻血まみれで震えながら謎の呪文(念仏)を延々唱え続けている娘。
ヴィムはハッとした。
──どうしよう……僕達……ぜんぜん怪しい……。
案の定、馬車の中を覗き込んだ騎兵は血相を変えて怒鳴りはじめる。
「⁉︎ お前たち……なんだその血は⁉︎」
「え、ええと……」
「まさか殿下の御前で刃傷沙汰か⁉︎ 貴様……さっさと降りてこい!」
「え……? そ、そんな、刃傷沙汰だなんて……ちょ、ちょっと待ってくださいぃ!」
どうやら兵は何かを勘違いしたらしい。これにはヴィムは非常に困った。
騎兵は険しい顔で怒鳴りつけてくるが、グステルは彼の膝に縋りついたまま。
横から顔を覗くと、蒼白の顔は冷や汗まみれで瞳をしっかり閉じている。両手は耳を塞ぐように添えられて……。
まるで、全身で何かを拒絶しているようだった。
身体はガタガタ震えて──あと、ついでに鼻血もかなりの量。
きっと力んだせいだろう。そんな彼女に縋られたヴィムの膝もだんだん血まみれになっていくわで……。
(あ、あ……は、早く止めないと……)
この窮地に、ヴィムは頭が真っ白になりそうなところを、なんとか堪える。
そしてまずは、どうにかグステルの鼻血を止めなければと思って。彼は周りを見回すのだが……。
しかし、そんな彼を、苛立った王国兵が再び怒鳴るのだ。
「何をしている! さっさと出てこい!」
その怒号は、今にも彼らを引きずり出さんばかり。青年は、なんだかとても腹が立ってきた。
別に自分たちは何も悪いことをしていない。少し(?)鼻血を出したくらいで、そんなに怒鳴らなくても……と、思っていると。今度は王国兵が、彼らの馬車の戸を叩く。その激しい音に、グステルがビクッと身を震わせると、それを見たヴィムはムッと眉を寄せた。
「引きずり出されたいのか⁉︎」
「そ、そんなわけないでしょう⁉ そんなにドンドン扉を叩かないでください! ステラさんが余計に怯えちゃうじゃないですか!」
この弱気な青年にしては珍しい、きっぱりとした物言いだった。
どうやら……ヴィムの怯えのメーターが、振り切れてしまったらしい。もしくは、グステルが死神やら悪霊やらと口走るもので、そんな怪異よりはまだ人間のほうがマシだとでも思ったか。
青年は、真っ赤な顔で王国兵を睨んでいる。
しかしこの態度には、王国兵も黙ってはいない。
「なんだと⁉︎」
騎兵はそばにいた歩兵に向かい「引っ張り出せ!」と怒鳴る。
歩兵は頷くとすぐさま彼らの馬車の扉を開けて。ヴィムがあっと思った時には、歩兵が馬車の踏み段に足をかけ車内に乗り込んできた。
「⁉︎」
と、そこで、何かを見たヴィムの目がギョッと見開かれる。
馬車に乗り込もうとしてきた歩兵の後ろで、居丈高に馬にまたがっていた騎兵が、本当に唐突に、空へ……舞い上がった。
「え」
ヴィムの目がまるくなる。
と、騎兵はそのまま地面へ落ちて。地面に叩きつけられるような音と共に悲鳴が聞こえ、ヴィムがぽかんと口を開ける。
──そこへ、ずしんと重苦しい声。
「……おい貴様」
その、地を這うような響きに身がすくむ。
「俺様の馬車に、何用だ……?」
高慢に因縁をつけるような声には聞き覚えがあって。ヴィムがハッと目をやると。その瞬間、彼らの前にいた歩兵が馬車から引き摺り下ろされていた。
歩兵は誰かに後ろ首をわしづかまれていて、あっという間に地面に放り出される。
そこに高圧的に仁王立ちしていたのは……。
メントライン家の高慢王。
シスコン見習い脳筋お兄様、フリード、で、あった。
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