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109 娘への敗北
しおりを挟む「とにかく……お父様、一旦ここを出ましょう」
浮かんだ涙を散らし、グステルがそう提案すると、父は額にぎゅっと不安そうなしわを寄せた。
「いや……しかし、私はもう歩けぬ身だ……私を連れて歩くのは危険すぎる」
自分の配下が排除された邸の中で、それが別の誰かに支配されているというのなら。その者はかなり邪智深いはず。そんな者のいる邸内を、娘一人が病人を担いで誰にも見つからずに外に出るなど不可能なのではないか。
長年寝付いていて邸内の状況が何も分からぬだけに、公爵の不安と敵に対する恐れは大きかった。
彼も、何も初めから諦めていたのではない。
足が衰えた身でも、何度もこの部屋から抜け出そうとして、しかし、その度に無情にも連れ戻された。
彼が苛立って癇癪を起こすと、看護人はいつも数人の男たちを呼び寄せ、彼を押さえつけさせて何かを吸入させた。それはおそらく鎮静作用のある薬で、そのあとは、気がつくと彼はいつも寝台に逆戻り。
そんなことを幾度も繰り返しているうちに、彼は気力を失って行ったのだった。
ゆえに、娘のことも心配でならない。
大人の自分がこの有様だ。
せっかく娘と再会できたのに、もし彼女が自分のせいで悪人に捕らえられ酷い目にでも遭ったらと思うと。そんな危険は冒させられないと思った。
父は硬い顔で首を振る。
「お前が私を心配してここまで来てくれただけで満足だ。どうせ私はもうそう生い先は長くは──」
ない、と、言おうとした瞬間。公爵は、娘が目を据わらせて、ギ、リィ……ッと片方の歯を噛み締めたのを見てギクリとした。
「な……」
「……何をのたまっておられるのですか……弱った身体はきちんと治療して、療養とリハビリをしたら治ります!」
「り、は……?」
これには父はぽかんとしているが。グステルはピシャリと父の弱音を切り捨て発破をかける。
「天下の公爵閣下が、まだ五十代という若さで、こんな邸ごときに引きこもるんですか? それはニートってやつですお父様!」
「に、にーと?」
国内でも指折りの立派で歴史ある邸を『ごとき』と断じられた公爵は唖然とする。それに、娘は聞き慣れない言葉でもって父を叱る。公爵は戸惑いを見せるが、娘は子供に言い聞かせるような顔つきで父を見ていた。
「さっさと外に出て、身体を治して、領民たちのために働いてください! お父様が働いてなくても妹君は贅沢三昧しているんですから、その分税金が湯水のように使われているんですよ? お父様知らないでしょう⁉︎ お邸の中、かなり悪趣味なリフォームがなされていて、あれは結構な金額が消えていると見ました!」
「り、ほーむ……?」
「叔母様に使われた税金の分はお父様が元気になって、治世でもって領民たちにお返ししなければ、領民たちが気の毒です!」
自分たちが汗水垂らして必死に収めた税金が、あんなゴテゴテした薔薇の壁紙とかになったなんて! と、グステルは邸内の悪趣味で派手派手しい装飾を思い出し、ワナワナと拳を握りしめている。そんな腹立たしげな娘の言葉の一部が若干わからなかった父は唖然。だが、娘の言わんとしていることはなんとなく理解した。
「だ、だが……ここを出てどこへ……?」
恐る恐る問うと、グステルの顔は途端スーン……とした表情に戻る。
「もちろんお母様のところへ放り込ませていただきます」
その断言に、父は目を瞠った。
「い、いやしかし……お前の母は今更喧嘩別れした私になど会いたいはずが……」
ないとオロつく父に、グステルは平然と言う。
「そんなことありません。『絶対文句言ってやる!』と、息巻いていらっしゃいましたから、お会いになりたいはずですよ」
「………………」
……娘よ……。
それは本当に会いたいと思われているのか……? と、公爵は絶句したが。
まあ確かに、文句は会わねば言えはしない。
そんな父の困惑を、グステルはもちろん分かった上で問答無用ですと彼を見据える。
「ともかく、何もかもは安全なところに出てからです! ここじゃ安心して話し合いもできやしない」
「…………」
言い捨てて廊下のほうを睨む娘を、公爵はまじまじと眺めていた。
憤慨している姿は、毅然と背筋が伸びていて力強い。まだまだ頼りない年頃のはずだが……弱々しさ微塵もなく、醸し出す雰囲気は厳格で有無を言わせないものがあった。
なんというかまあ……昔から敏いとは思っていたが、随分たくましい娘に成長したものである。
とてもではないが──弱りきった今の自分では、この気迫にはかなう気がしなかった。
「……」
公爵は娘に対する敗北感に──思わず笑い、弱った身のうちで対抗心が首をもたげるのを感じた。何かに負けておられぬと前向きな気持ちが浮かぶのは、久々の感覚だ。悪い気は少しもしなかった。ぱっと目の前が明るくなったような気分だった。
と、娘は決意の眼差しで再びきっぱりと宣言。
「必ず外にお連れします。それに、大丈夫です、手伝ってくださる方にもご同行いただいていますから」
グステルがエドガーに協力を仰いだのは、ほとんどこれが目的だったと言っていい。
もし父が寝たきりになってしまっていた場合を考えて、女一人では到底父を連れ出せぬだろうと思った。
しかし、父を叱咤して気合が入ったグステルは「でも」と、鼻息が荒い。
「お父様、お痩せになられたから私でもかつげるかも。私、世間の荒波に揉まれて結構たくましくなったんです」
「…………そのようだな……」
わざわざ申告してもらわずとも、そのタフさは父にすでに重々伝わった。
娘のあまりに小気味いい様子に、公爵は惚れ惚れとため息をつく。
「お前は……相変わらずの傑物だな……」
「お褒めに預かり光栄です。さ、さっさとトンズラしましょう。何か持っていきたいものはありますか?」
しみじみと言う父を尻目に、グステルは手早く父を連れ出す準備をする──と、そこで、入り口の扉が軋む音が室内に響く。ゆっくりと開いた扉の音に、グステルがハッと視線を走らせた。
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