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106 グステルとステラ
しおりを挟む──記憶の彼方に忘れえぬ後悔がある。
互いを責め合ってけんか別れした妻のこと。
以来、自分に失望したのか、少しも顔を見せに来なくなった長男のこと。
そして何より。
失ってしまった、小さな宝。
暗闇の中に浮かぶのは、鮮やかな赤い髪の小さな娘。
身の丈は彼の半分以下。あどけない顔で、しかし、斜に構えた表情で彼を見る目はとても幼子のものとは思えぬものだった。
とても賢い娘だったのだ。
おそらく、天がこの世に授けるときに、前世の記憶を消し忘れでもしたに違いない。
……そんな冗談を言ってしまいたくなるほどに、大人のような目をする娘だった。
赤子の時からその資質の片鱗は覗いていて、生まれて一年もたたずにさっさと歩き、言葉も恐ろしいほどに早かった。
そして二、三歳の頃だろうか……。
ある時彼は、娘が一人きりの部屋の中で独り言を言っているのを耳にした。
『……やれやれ、舌足らずな話し方をするのも楽じゃないわ……』
幼児用の小さな寝台の上で、深々とため息をつく娘。彼が送ったぬいぐるみにもたれかかり、苦い顔の娘がページをめくっていたのは……どこから持ってきたのか、大人が読むような分厚い書物。
その姿を見て、彼は驚愕した。
つまり、娘は単に発達が早いというわけではなく、自分が他より賢いということを隠そうとするだけの知恵さえも持っているのだ。
娘がなぜそんな自身を隠そうとするのかは分からなかったが……とにかく彼は歓喜した。
なんという資質だろうか。
あの能力と利発さがあれば、きっと娘の将来は有望。
おそらく国で一番高貴な女人にもなり得て、彼が必死で守ってきた家門と土地の大いなる守護者となってくれるに違いない、と。
……しかし今思えば……この考えがそもそもの間違いだった。
本当に愚かなことをしたものだと思っている。
娘の秘密を目撃してすぐ、彼は娘に大勢の教師をつけた。
あのように賢いのなら、早期から教育しておくに越したことはない。
幸いなことに、国には娘より少し年上の王太子がいる。
必ず素晴らしい娘に育て上げ、王太子妃に、そしてゆくゆくは王妃にと、彼は国内外から有能と噂のある教師を片っぱしからかき集めた。
娘の前に居並ぶ教師たちを見て、彼はほくそ笑んだ。
これできっと娘の将来は安泰だ。
……正直なところ、この頃の彼は、長男の教育に力を入れている妻に対して大きな対抗心があった。
妻は長男にかかりきりで、仕事ばかりしている彼をいつも『子供のことなど何も気にかけない』となじった。
そんなことはないと証明してやりたかった。
仕事が忙しくとも、こうして金さえ使えば娘をきちんと教育できるはず。そうして妻があまり重要視していない娘を立派に育て上げることで、妻の鼻を明かしてやりたかった。
しかしそうして娘の将来に期待をかけた反面、利己的な彼は、他の人間に娘を託したことで満足し、自分自身の目ではほとんど娘を見ることはなくなっていった。
その間に、娘がどんな顔をしているか、重圧をかけ続ける自分を、彼女がどんな目で見ているかも気にかけなくなった。
──そして……
彼の娘は、いなくなった。
……今では彼にも分かっている。
当時は誘拐だなんだと大騒ぎしてしまったが……あの娘はきっと、本当は誘拐などされていない。
恐ろしいまでに賢かった娘のことだ。彼に失望し、自らこの地を去ったのだろう。
それが……こうして暗闇の中でその姿を懐かしむしかない今になって。
見えないふりをしていた娘の表情を、記憶の中からひとつひとつ拾い集めることができるようになった今になってやっと、彼には理解できたのだった。
繰り返される懐かしい夢の中では、娘はいつでも彼のことを責めるような声で呼ぶ。
『……お父様……?』
彼は、おやと思った。今日はいつもより、娘の声が悲しげに聞こえた。
──その部屋の中は、ある種の独特な香りがした。
グステルはその匂いを嗅いだとたん、己の懸念が当たっていたことを察する。
『そうかもしれない』と覚悟してここまできたが、いざこうしてそれを突きつけられると胸が張り裂けそうなほどの苦痛を感じた。
本当は、当たっていて欲しくなどなかった。この匂いは、悲しい匂いなのだから。
グステルがこの匂いを記憶したのは、今生ではない。
その時感じた無力感とやるせなさを思い出し、グステルは焦燥感に苛まれ、それを振り払うように薄暗い部屋の中を急いだ。
広い部屋の最奥を目指し、帳の先の天蓋付きの寝台のうえに、その姿を見つけたグステルは、思わず足を止めた。
真実は目の前だ。──が、目の当たりにするのが恐ろしい。
そんな気持ちの動揺と、荒くなった息とをなんとかなだめ。彼女は静かに帳をめくり、その奥へと分け入った。
寝台の枕元に膝を寄せ、躊躇いつつ、呼びかける。
「……お父様……?」
緊張で、寝台に添えた指先が冷たくなっているのが分かった。しんと静まり返った室内に、自分の心臓の音が鳴り響いてしまっているのではと錯覚する。
そうして恐々と見つめていると、不意に父の口が僅かに動き、どきりとする。
青白い顔の父は、目を閉じたまま、まるで寝言のように言った。
「…………ステラ……」
これにはあまりに驚いて、グステルは息が止まるかと思った。喉が何かに塞がれたように言葉が出ず、身体は凍りついていた。
今、父がうわ言のようにもらした名──彼女がずっと名乗っていたその“ステラ”という名前は、グステルの幼少期からの愛称だった。
「どうした……今日はやけに沈んでいるな……」
かすれる声で訊ねられたグステルが喘ぐ。取り乱してはならないと、深々と吐き出された息にはさまざまな感情が滲む。
父を嫌った気持ち、彼らを捨てた罪悪感、それでも捨てきれぬ情と、父の中に自分の記憶が残っていた驚き。
この父にとって、自分はきっと今も昔も、彼の地位を高めるための駒以上の価値はないのだろうと思っていた。
だから、まさか──呼びかけただけで自分を判別してくれるなどとは、思ってもみなかったのである。
「……お分かりに、なってくださいますか…………」
グステルは、いまだ信じられぬ思いでそうつぶやく。と、その言葉を拾い聞いたらしい父が、布団の中で、わずかに身体を揺すって笑う。
「……こんなザマだが……耳は耄碌しておらん。お前は物心ついた頃からとにかくうるさいほどによくしゃべった。……忘れるわけがない……」
瞳を閉じたまま、しゃがれた声で言う父の言葉を聞いて、グステルの瞳にはいつの間にか涙が浮かんでいた。
父の声が弱々しすぎる。
グステルの記憶の中で、父は傲慢だったが、毅然とした男だった。
声には恐ろしいほどに張りがあって、子供に対しても厳しく貴族としての振る舞いを求め、笑った顔など見たこともない。
だが、いつでも嫌になるほど力強い姿だった。
(それが今は……)
グステルは父の姿を頭の先から布団に隠れた足元までを眺めて、悲しく絶句。
艶のない髪。痩せた顔。薄い肩。下半身は布団の下だが、きっと同じく衰えてしまっているのだろう。
そして、この独特の匂いだ。
グステルがこの匂いを初めて嗅いだのは、前世で祖父が倒れた時だった。
高齢だった祖父は自宅で倒れて骨折し、そのまま入院。慌てて見舞いに訪れた病室が、こんな匂いだった。
自身で自分の身を清める術を失った人の、けして芳しいとは言い難い、匂い。
結局、祖父は、そのまま身体が弱り、いくつも季節をまたがぬうちに逝ってしまって。その時の悲しさを思い出し、グステルは泣きたい気持ちで、父の手を取った。
「……もう長く……寝付いていらっしゃるのですか……?」
そっと訊ねると、その瞬間、シワの多くなった父の顔が驚きに満ちた。ここでやっと父は目を開き、そばで自分の手を握る娘の顔を見た。
「……? ス、テラ……?」
パチパチと瞬くその表情を見て、グステルは、(ああ、夢だと思われていたのだな)と分かった。
「……まさか……本物、か……?」
呆然とした父は、グステルの手を強く握り返し、彼女をよく見ようと頭をもたげる。身が重そうにもがく父を見て、グステルは慌てて彼の背に腕を入れて父が起き上がるのを手伝った。父の背の後ろに、そばにあったクッションを二つほど入れて支え、やっとほっと父の顔を見る。
痩せ細ってはいるが、昔祖父を抱き起こした時よりは身を起こす力を感じた。
そうしてグステルがわずかに安堵していた間、父は目を見開き、ずっと彼女を食い入るように見つめていたようだった。
久しぶりにその顔を真正面から見たグステルは、なんとも感慨深い。
これまでずっと、この目に見つからぬようにと生きてきた。
連れ戻されぬよう、自分が生きるために飛び出た運命に引き戻されぬよう。この父が己の人生の最大の敵であるかのように考えて。
──だが、真実は違ったのかもしれない。
グステルは深く息を吸い、覚悟を決めて父にうっすらと微笑んで見せた。
「……お久しゅうございますお父様。……グステルにございます」
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