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99 ラーラの絶望
しおりを挟むゼルマから話を聞き終えたヘルムートは、すぐに妹の部屋に向かった。
ラーラは明らかに計られた。
単に恋敵に難癖をつけられただけならば、ただの嫌がらせ、恋の鞘当て程度のことかもしれないが……。
相手がわざわざラーラが一人きりの時に追いかけてきたこと。
無人だったはずの部屋に、複数の目撃者が都合よく現れたことを考えると……。
相手には、最初からラーラを罠にかける意図があったとしか思えなかった。
相手の娘の狙いはもちろん、恋敵の評判を貶め、王太子妃の座から遠ざけることなのだろう。
(……卑劣な……)
ヘルムートは怒りを感じたが、その相手の娘、偽のグステル・メントラインの領地──正確には、その偽物を立てただろう公爵の治める地に、本物のグステルを残してきたことを考えると、大きな不安が彼を襲った。
ことを解決したらすぐにでも……と思っていた。今となっては、彼女と離れていること自体が彼にとっては大きな苦痛。
……しかし。
こうして実際に妹の置かれた状況を見聞きすると、ラーラが置かれている現状も、彼が予想していたよりも深刻に思えた。
部屋に行くと、ラーラはやはり暗い顔で兄を見る。
ふっくらとしていた頬は少し痩せたようだった。
誰よりも明るかった妹の沈んだ様子を見ると……兄はたまらない。
「ラーラ……」
名を呼ぶと、その口調で兄が自分の事情を知ったのだと分かったのだろう。ラーラは、薄く微笑んで兄を見た。
「……大丈夫よお兄様。だって、きっとあんなのはまだ挨拶程度のことよ。これくらいのことでめげていたら……王太子殿下の隣になんて、未来永劫立てやしないわ……」
その言葉は気丈だったが、声に力は感じられなかった。兄が窓辺に立つラーラのそばまで歩いていくと、妹はすぐに彼に抱きつく。ヘルムートは押し当てられる頭をそっとなでてやる。
「……戻りが遅くなってすまない」
謝ると、屈託のない笑顔が上を向いた。
「いいわ、だってこれからはずっとそばにいてくれるのでしょう?」
信頼の眼差しで微笑まれて、ヘルムートは一瞬返事に躊躇した。
脳裏にはグステルの顔。
口籠もった兄に、ラーラが不思議そうな顔をする。と、ヘルムートは、妹の両方の肩に手を添えて、すまないと言った。
「……ラーラ、私はずっとはいられないんだ」
「──え?」
ラーラは、咄嗟には兄が何を言っているのかわからないという顔をした。
「……お兄様……?」
ぽかんと自分を見上げる妹に。ヘルムートは心苦しくなりながらも、もう一度「すまない」と言った。
「もちろんお前が落ち着くまではここにいる。──ただ、ずっとはそばにいられない。私は、あるとても大切な問題を途中で放り出してきた。問題を……解決しに戻らなくてはならない」
グステルの勧めに従い、ひとまずラーラのもとへ帰ってきたが。それは妹が心配だっただけではなく、彼女の状況を把握できなかったからという理由もある。
だが状況さえつかめれば、彼は適切に対処ができると思った。手の者に指示して、自分の代わりにラーラを守らせることもできるだろう。場合によっては、王太子に謁見を申し出て、話をつけてもいい。
「あらかたのケリはつけて、信頼のおけるものにお前を任せる。それならば……」
「──待って」
「……?」
言葉を遮られ、ヘルムートは言葉を飲み込んで妹を見る。と、
「それって……」
ラーラは、低く言う。うつむくようにして、探るように兄を見る目は思いがけず鋭かった。
「もしかして……例の女の人のところに戻りたいから……?」
妹の問いに、ヘルムートは少々めんくらったが……しかし彼は正直に頷いた。元来妹に甘い彼は、彼女に嘘をつくという発想がない。
「ああそうだ」
頷く兄を見た途端、ラーラの瞳には大きな失望が浮かんだ。
奥歯を噛み、うつむいた妹の手が硬く握り締められているのを見て、ヘルムートは驚くと共に大いに戸惑った。
この兄にはわからなかったのだ。
彼はずっと妹の望みを叶えて支えていたが、その妹はずっと王太子ばかりを見ていた。ヘルムートはラーラの黒子のような気持ちでいて、自分自身の行動がラーラに何か影響を及ぼすとはあまり考えてはいなかった。
しかし今、どうやら妹は、自分の口にした言葉に傷ついたらしい。ヘルムートは慌てて取り繕う。
「勘違いしないでほしい。お前のことも大切だ。だからできる限りのことはしていく。ただ……私はあの方を放り出してここにきてしまった。だから……」
今彼がグステルと取り組んでいるものは、ラーラが直面している問題とも密接につながっている。
解決することで、妹の問題の根を断つことにもつながるはず。
その思いでヘルムートは妹をなだめようとしたが──……。
ラーラの気持ちは別のところにあったらしい。
「私より、大事なのね、その人が」
ラーラの突き放すような物言いに、ヘルムートは再び戸惑う。
妹が、こんなに冷たい口調を兄に向けるのは初めてだった。
「ラーラ、そうじゃない。言っただろう? お前のことも大切だ。それは比べられるものではない」
「違わないわ! だって、私がこんなに辛い思いをしているのに……人任せにするんでしょう⁉︎」
ヘルムートは驚いてしまって口ごもる。
彼は妹と言い争ったことがない。
一方的に責められることはあっても、大抵それはラーラの甘えで、こんなに強く責め立てられたことなどなかった。
戸惑ったヘルムートはどうやって妹をなだめようかと困り果てるが……。
兄が困惑しているのを見たラーラは、感情を溢れさせる。ラーラは、兄に『やっぱりそばにいる』『お前が一番だ』と言ってくれることを期待した。
ここのところのあれこれで、ラーラはすっかり自己肯定感が下がりきっている。
王太子も友も離れていき、自分には価値がないように思えて。その失望は、ラーラの心を深く傷つけていた。
それでも。
この兄さえ自分を肯定してくれれば、自信を取り戻せると思っていた。
愛する王太子に代わり、自分を一番愛していると言って欲しかった。
だってこの家に来てからずっとそうだったのだ。母を亡くし、引き取られたこの家で、父と義理の母は冷たかったけれど、兄だけは自分を一番大事にしてくれていたはずだ。……それなのに……。
その兄は今、困ったような顔をするばかりで彼女が欲しい言葉をくれなかった。
ラーラは絶望を感じた。
──兄の一番が、別の女に奪われている。
それを悟ったラーラは、いろんな悲しみが重なってもう我慢できなかった。
「っお兄様だけは味方だと思ってたわ! たとえ友人や……愛する人が私から離れていっても!」
責めるように怒鳴られたヘルムートは唖然としたが……咄嗟に、これは聞いてやらねばと思った。
珍しいことだが、普段穏和なラーラが怒りをあらわにしている。
これは止めるより、聞いてやり発散させるほうがいい。ヘルムートは穏やかに返す。
「……私はいつだってお前の味方だ。そうだろう?」
「じゃあどうして他の人のところへ行こうとするの! これからだって、あの令嬢は絶対に何か仕掛けてくるはずよ! それなのに、お兄様は私を置いていこうっていうの⁉︎」
「もちろん一定の解決を見るまではここにいる。そして私の目となり手足となる者を置いておく」
「違うのよお兄様!」
なだめようとする兄に、ラーラは叫ぶように言って激しく首を振った。
「……ラーラ?」
「解決とかじゃないの! 私は、私を選んで欲しいの! グステル・メントラインでもなく、お兄様の想い人でもなく……私を!」
ラーラは瞳に涙を浮かべて兄に縋り付いてきた。
その怒りに震える細い肩を見下ろして、ヘルムートは言葉を失くす。
まさか妹が、ここまで思い詰めているとは思わなかった。──いや、と、ヘルムート。
ここまで思い詰めた妹に、気がつかなかった自分、放っておいた自分に対して彼は深く責任を感じた。
今までグステルのそばにいたことは、後悔したくない。
だが、自分は妹の親代わりといってもいい存在。自分がもっと早く戻っていれば、妹はこんなにも不安定な様子には陥らなかっただろう……。
そう痛感したヘルムートは──……。
とてもではないが、今はこの妹を放っておくことはできないと思った。
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