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89 素早い出立
しおりを挟むヘルムートは、なんとその日のうちに領都を発っていった。
もう日の傾く時間のことである。
いくらなんでも危ないと、グステルもヴィムも引き留めたのだが……。
ヘルムートは、「いえ、少しでも早くこちらに戻りたいですから」と頑なで。あれよあれよという間に、彼は慌ただしく護衛を連れてグートルーンを去っていった。
「…………い……っちゃいましたね……」
「……いっちゃいました、ね…………」
城門の内側で、芦毛の馬に颯爽と跨り遠ざかっていく青年の後ろ姿を見送って。グステルとヴィムは、やや呆然とした思いでそこに立っていた。
グステルは悔やんだ。
「……帰宅を勧めるの……明日にしたらよかった……」
グステルは責任を感じて青い顔。
隣のヴィムはもっと青い顔である。
「いえ、多分……日が暮れるまでには王都との境にある宿場にたどり着かれるでしょうけど……」
さすがにヘルムートも夜間の移動は避けるはず……と、そう言って。ヴィムはわっとグステルの肩にすがった。
「ぼ、僕でいいんですか⁉︎ おそばに残るの本当に僕で大丈夫なんですか⁉︎」
どうやらヴィムは、主人に彼が異常に大事にするグステルを託されたプレッシャーに、押し潰されそうになっている。
ヴィムは震えた。正直彼は、あまり自分の強さには自信がない。
なにせ、普段付き添う主人ヘルムートがとても強い。彼は護衛を必要とせず、従者が屈強である必要もない。
ヴィムは不安のあまり、べそっかき顔でグステルに申告。
「い、一応体術と剣術はヘルムート様に習ってますが……あんまり期待なさらないでくださいぃっ」
「あ、あら、大丈夫ですよヴィムさん、私たちまだ何も事を起こしてはいませんから。誰かに攻撃されることなどないはずです。まだ。ね?」
「………………」
慌てて慰めてくる娘の言葉を聞いて、ヴィムは思った。
──その、『まだ』がとても怖い。
最近彼女に付き添っている彼は、グステルがこの領都でずっと何かを調べている事を知っている。
もちろん主人は彼女たちのそばを離れるにあたって、護衛を手配していったのだが……ヴィムとしては不安で仕方なかった。
ヴィムは思わず主人が去っていった城門に向かって嘆く。
「ヘルムート様ぁあああ! 早く帰って来てくださいぃっ!」
……と、そんな主人を恋しがるヴィムを、誰かが横からカラカラと笑った。
青年の肩にはのしっと何者かの腕が回され、ヴィムがうっという顔でその人物を見た。
「おいおい泣くなヴィム。俺もいるだろ? な? いざとなったら俺が助けてやるから。その代わり、街で麗しい女性を見つけたらすぐ報告するんだぞ? ははは」
「…………」
軽い調子でヴィムに絡む男を見て、途端グステルが不安を滲ませる。
いかにも胡散臭い調子で青年を慰めているのは、エドガー。
ヴィムはそんな男を嫌そうに見て、「最悪だっ」という悲壮な表情。
青年に潤んだ目で助けを求められたグステルは、ヴィムをエドガーからひっぺがして自分の後ろに匿った。
「あの……なぜ……。……エドガー様? どうしてヘルムート様と一緒にラーラ様のところに行かないんですか……?」
どう考えてもおかしかった。
彼だって親しくもない自分より、ラーラやヘルムートのそばにいたいはず。
さっきだって、あれほどグステルを批判的な目で見て、ヘルムートに帰宅を促していたのに。
そんなに心配ならば、彼自身もラーラのそばに戻って手助けしたらいいのに、どのような思惑でこちらに残ったのだろうかと、グステルは居心地が悪くて仕方ない。
と、当然そんな彼女の不審な気持ちはわかっているだろう男は、わざとらしい笑顔で両手のひらをひらりと上にむけ、肩をすくめて見せる。
「いやぁ、俺はごめんですよ。こんな時間から、あの暑苦しいヘルムートに付き合って危険な街道で馬を走らせるなんて。絶対あいつ、強行軍で行って戻る気でしょう?」
そんな疲れることはしたくない、と、エドガーは笑う。
「それに、せっかくグートルーンまで来たのに、こちらの美しい女性たちをまだ口説き終わっていませんしね」
「……」
そのヘラヘラした様子に、グステルは沈黙。
ヴィムはそんな彼女の後ろからガルガルとエドガーを睨んでいる。
(……ま……つまり……ヘルムート様不在の間、自分を監視しておこうとか……そんなとこかしら)
グステルにはそれくらいしか彼がこちらに残る理由に心当たりはない。
だが、まあいいかとグステル。それでも構わないと思った。
非協力的な彼がいることで、多少は動きづらくなりそうだが、ラーラの物語を読んだことのある彼女は、エドガーが別に悪い人間ではないとわかっている。ただ彼は、グステルがヘルムートとラーラに害を及ばさぬよう動くつもりなのだろう。
グステルとしても、ヒロインたち兄妹に迷惑をかけるつもりはないので、ここは放っておこうと思った。
それにもし彼に何か邪魔をされるとしても、それはきっとヘルムートとの仲を裂くためとか、ラーラへの不利益を防ぐため。
別にグステルはラーラがヒロインとして幸せになることには文句はないし、
(……それに……私は別に……ヘルムート様と結ばれるつもりもないし……)
悪役令嬢の星のもとに生まれた身としては、それは望んではいけないと思っている。
そもそもここに来たのは、父の行いを正すため。
いずれエドガーも、それが結局はラーラのためにもなるとわかってくれるかも知れない。そう自分に言い聞かせて……。
(……あら……?)
ふと、グステルは己の胸を押さえる。
思いがけず、気持ちが重たかった。
なんだか、自分の中に、反発する気持ちがしっかりあるのである。
自分から、ヘルムートを遠ざけようとするエドガーに対して。
「…………」
そんな自分の不満に気がついて、グステルはまずい兆候だなぁと苦悩のため息。
と、そのため息をどう受け取ったのか、目を細めたエドガーは、口元だけで笑いながら言った。
「……心配せずとも、ヘルムートのやつには当家の者をつけていますから大丈夫ですよ。護衛もきっちりいたしますし、侯爵家の嫡男として、重々慎重に動くことを説得するよう言いつけてありますから、そう無理な移動はできぬはずです」
そう微笑むエドガーの口調には、大いに含みがあった。
それもそのはず。彼はもちろん友人を、妹ラーラのところからグステルのもとへとんぼ返りさせる気がないのである。
護衛には、ヘルムートに、自身の身がいかに侯爵一家や領民たちにとって大切かを切々と訴え、できるだけ帰路に時間をかけるよう言ってある。
加えてラーラの窮状についても、多少大袈裟に伝えて不安を煽るように命じた。
そうすれば、きっとあの情に脆い兄は、妹心配のあまり、王都についてすぐこちらに戻ることはないだろうとエドガーは踏んだ。
そしておそらくラーラも、ようやく自分のもとへ戻ってきた兄をそう簡単には離しはしない。ヘルムートは、ラーラにとって一番頼りにできる存在。絶対に、引き留めようとするはず。
(ヘルムートに甘える手管については、ラーラに敵うものなどいないからな……)
ヘルムートは善良だ。そしてラーラは兄の情を引くコツを熟知している。
いくらヘルムートが恋に惑っても、実際にこれまでずっと愛しんできた妹が悲しむ様を目の前にしてしまえば、それをあの男が無下にできるとは考え難い。
エドガーは心の中で、ラーラと会わせてしまえばこっちのものと勝ちを確信し、グステルを敗者を見る目で眺めた。
ただ、一つ意外だったのは、この得体の知れない娘が、友にラーラのそばに帰るよう勧めたこと。
エドガーとしてはまさに渡りに船だったが、彼女を敵視している彼にはその気持ちがわからなかった。
(……まぁ、おそらくヘルムートに聞き分けのいいところを見せて気を引くつもりだったのだろうが……失敗したな。ラーラの顔を見ればヘルムートも我に返る)
エドガーの目から見たラーラは、まさに天に愛されたような娘だった。
容姿は清楚で愛らしく、微笑みは天使のよう。身はほっそりとたおやかで、天真爛漫な気質も人を惹きつけた。
そんな彼女の意中の王太子は、今でこそ“グステル・メントライン嬢”に惑わされているが、それはあの娘の悲劇的な背景のせいと見て間違いがない。
普通に勝負すれば、ラーラが負けるはずがないとエドガーは信じている。
ましてや、今彼の前にいる娘は。
彼女もけして美しくないというわけではなかったが、ラーラとは格が違うと思った。
ふっとエドガーは、陽気を装い微笑する。
「さて、ではこちらは、ゆっくりヘルムートが戻ってくるのを待ちましょうか!」
……もしかしたら、そんな時は来ないかも知れないが、とエドガーは。心の中で、娘を憐れんだ。
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