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しおりを挟む夕暮れ時。グステルは広場の一角にある花壇の隅に座っていた。
赤毛を収めたローブのフードを目深にかぶり、その下からじっと眺めているのは、通りの先に立つ壮麗な門の、はるか向こうにそびえる公爵邸。
白亜の城館は、遠目に見てもやはり優美で立派。その周りを彩る前庭園も、緑が美しく剪定されている。
やはり、感慨深かった。
彼女があの場所で暮らしたのは、九年あまり。それなりに思い出もある。
ただ、そんななかでも一番鮮明なのは、あそこから抜け出すため奔走したあれこれである。
あんなに苦労したのに、まさか……という思いにため息が出る。
まさかまた、自分があの邸に戻ろうとすることがあるとは思わなかった。
「……人生ってどうなるか分からないわね……」
ついそう漏らしたとき、そばに近づいてくる気配があった。
「……ここにいらっしゃいましたか。──ヴィムはどこです? できればあまりお一人で行動なさらないでください」
心配そうにやってきたのはヘルムートである。
──あれ以降、グステルとヴィムがあまりに仲がいいもので。何かを諦めたヘルムートは、ヴィムにグステルに付き添うことを命じた。ヘルムートには、代わりにここまで御者を務めた男が付き添っていた。
しかし、今はなぜかグステルのそばにヴィムがいない。
怪訝そうにあたりを見回す青年に、グステルは内心で(心配性だなぁ)と苦笑しつつ、広場の先を指さした。
「ヴィムさんはあそこです」
グステルが示したのは、広場の向かい側にある大きな商店。店表には、“ロイヒリン商店”と書かれていて、ガラス張りの店の中には雑貨が並んでいる。
よく見ると、その店内でヴィムが店員らしい男と話していた。
グステルは、彼に使いを頼んだのだと言った。
その言葉になるほどと頷いたヘルムートは、少しためらったようにグステルを見てから。控えめな様子で彼女に隣に座ってもいいだろうかと訊ねた。
グステルがそれを了承すると、ヘルムートは嬉しそうに彼女の隣にそっと腰を下ろした。
そんな青年にグステルは薄く微笑んでから、再び公爵邸のほうへ目をやる。──なんとなく、今は彼の接近に照れるような気分ではなかった。
ヘルムートは沈黙しているグステルの横顔を見つめた。彼女の目は、真っ直ぐに公爵邸を見ている。何かを深く考え込んでいるようだった。
ヘルムートは、そんな彼女の強い眼差しに惚れ惚れとした。
と、グステルの唇が静かに開く。
「……ヘルムート様は、この都をご覧になってどう思われますか」
予想していた通りの問いだった。
ヘルムートは、周囲を慎重に見回して。通行人たちからは距離があることを確かめてから、低く答える。
「そうですね……率直に言わせていただけるなら、少々荒れていると思います」
「……ですよね……」
グステルは、真顔で重く頷いた。
一見すると、グートルーンは大きな街で、歴史ある街並みは美しい。人々も賑わっているし、商店もたくさんあり、物流も活発なようだ。
しかし、今日彼女が見てまわった限りでは、街の端には物乞いや、明らかにたちの悪そうな目つきの者たちが潜んでいる。
こんなに物の溢れた商店街があるのに、市場にもたくさん物が並んでいるのに。
大通りから一本裏手に回ると、頬のこけた者たちがぐったりと壁際に座り込んでいたりする。
広場の向こうの教会には救済を求める者たちが群がっていて、修道女たちが必死に奔走していた。あの光景は、いったいどういうことなのか。
(昔の領都はこんなふうではなかったわ……)
少なくとも彼女がこの領都を出た時は、もっと治安の良い街だったのだ。
グステルの父は強欲だが、領地の経営に関してはしっかり統治していた記憶がある。
正直グステルは少し混乱していた。と、ヘルムートが言う。
「どうやら、あの者たちは被災民のようです」
「被災民……?」
ヘルムートの話によると、一昨年の夏、領都付近の河が氾濫し、まわりの集落がいくつか被害にあった。
その説明にグステルが眉間にしわを寄せた。
「一昨年の夏……? そんなに前に災害に遭われた方々なんですか?」
グステルは驚愕して青年に問い返す。
しかしそういえばと思い出すことがあった。
数日前母と話したときに、数年前の出来事として聞いた話だ。
以前、領地の民が災害に見舞われた際、母は一度領都へ駆けつけたが、叔母のグリゼルダに『あなたを駆り出しては公爵に叱られる』などと言われ、ていよく追い払われたという。
それでも当時は、母の別邸にも助けを求める領民が集まり、母も救済に追われて大変だったらしいが……。
つまり、その時の話なのかとグステルは言葉を失った。
そんなに前に起こった災害の被災民が、今でもまだ街に溢れているとは。
「お父様は……いったい何をなさっているの……?」
グステルの唖然とした気持ちが分かったのだろう。ヘルムートも神妙な顔で彼女を見る。
だが、ひとまず詳しい話は他人の耳目がないところでということで。二人はヴィムが戻るのを待ち、宿屋に帰る事にした。
するとそこにちょうど知人宅に出向いていたエドガーも合流し、四人はヘルムートの客室に集まった。
一人掛けのソファに疲れたように身を沈めたエドガーは、呆れを滲ませてグステルを横目に見る。棘のある視線だった。
「この領地の主はいったいどうなっているんです? 領民を守る気があるとは到底思えないが」
「おいエドガー!」
ヘルムートがグステルを気遣って友人を睨むが、エドガーは肩をすくめて続ける。
どうやら訪問した知人に、よほど不愉快な話を聞かされてきたらしい。エドガーの口調は、出かける前に軽口を叩きまくっていたものとはガラリと変わっている。
「なんだよ、本当のことだろう? お前たちだって見たはずだ、街には家を流され居場所を失った者たちが溢れている。それなのに、公爵は満足な救済措置を取らず、支援は微々たるもの。被災地に視察にも来ず、はっきりした指針も出さない。おかげで生活に困った者たちが盗みや悪事に手を染めて、領都の治安は悪化するばかりだと」
「……」
エドガーはそう言って、一度友に移していた視線を再びグステルに戻す。その目は、まるで彼女を公爵本人と同一視しているかのように冷たい。
ヴィムがそれに気がついて文句を言いかけたが、グステルが手で制して止めた。
──この話は、聞かねばならない。
グステルのその気持ちがわかったのか。ヘルムートはエドガーを険しい瞳で見たが話は止めず、代わりにグステルの隣に座り、エドガーを圧っするように睨んだ。
そんな友にエドガーは肩をすくめ、話を続けた。
「知人の奥方は公の妹君グリゼルダ殿とも親しくしているらしく、そちらからも話を聞いたのだが、グリゼルダ殿も相当お困りのようだ。『兄は気難しくて貧しい者たちのことなど何も考えていない、貧乏人には金など出さんと言い張っていてどうにもならない』と」
エドガーはここで苦々しい顔で鼻白む。
「だが……そのグリゼルダ殿と例のグステル・メントライン嬢のお恵みで教会への支援だけはなんとかなっているんだとさ!」
エドガーが忌々しそうに出した名に、グステルの顔がピクリと反応し、ヘルムートの眉間が険しく歪む。
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