偏愛侍女は黒の人狼隊長を洗いたい

あきのみどり

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二章

18 フロリアンの切望

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「……お前は本当に人族か? 獣みたいにいつでも叫びやがって……」

 と、顰め顔でミリヤム達を迎えたのは、医務室のヴォルフガングである。駆け込んだ医務室で唸っていたらそう言われた。

「すみません溜め込めない性格で……」
「そりゃいい。まあサラを運んでくれてありがとよ。汗すげえぞ、お前もちょっと休んでけ」

 ヴォルフガングはミリヤムの背からサラを取り上げると、ミリヤムに壁際の椅子を指差して、そのまま奥の診察室の方へ消えていった。去り際にサラが「ミリーちゃん有難うね」と手を振った。

「はー……」

 ミリヤムは這うようにして勧められた長椅子に近づくと、崩れ落ちるようにその上に伏せた。
 確かにその身体は汗だくだ。老婆とは言えサラはミリヤムよりも長身で、背負って走るには結構な力を要した。いや、何も走らなくても良かったのだが、恥ずかしすぎて走り出さずにはいられなかった。
 ミリヤムは先日の出来事を思い出しながら呻く。

「……私……ときめき悶えて変な事してなかった!? ……なんかやった気がする!!!」

 ひぃい、と長椅子の上で羞恥に身を捩って足をバタつかせていると、そこへ誰かがやって来た。

「あれ……? ミリヤム?」
「!? ほわああああああ!!!」

 ミリヤムは長椅子の上で猫のように飛び上がった。その声が誰のものなのか、すぐに分かったからだった。

「あ、あわわ、あわ……ぼ、坊ちゃま……」
「どうしたの? こんな所に……また怪我したの? まさか具合が悪い?」

 涼やかな声の主は心配そうにミリヤムの傍へやって来た。ミリヤムは一瞬思わぬ人の登場に泡を食ったのだが……その腕に滴るものを見てさっと顔色を変える。

「ぼっ……血!?」

 血相を変えて立ち上がった娘にフロリアンは気がついたように「ああ」と呟いて己の腕を見下ろした。

「訓練中にちょっと。大した事ないよ」

 見れば袖をめくったフロリアンの利き手の前腕辺りに、一筋の傷が走っていた。一応布で傷口を押さえて来たようだったが、血はまだ止まっていない。

「ひいいいい!!! ぼ、ぼぼぼ坊ちゃまの美麗な腕に傷が……ヴォ、ヴォルフガング様……っ!!!! は、サラさんの診察中だ!!! うわあああああ!!!」
「ミリー……大丈夫だから……これくらい自分で治療出きるし……」

 と、いうフロリアンの声はミリヤムの耳に届かず。
 ミリヤムは転がるように診察室の方へ飛び込んでいくと、中にいたヴォルフガングに怒鳴られながら、風のように薬箱を持って戻ってきた。

「坊ちゃま! 腕をお出し下さい!!!」
「……」

 鬼気迫る表情の娘に、フロリアンはやれやれと腕を差し出すのだった。




「坊ちゃまが、痛い、うぅ、なんとおいたわしい……傷が……傷が残ったら、どうしよう……痛いですか? 坊ちゃま痛いですか?」
「……ミリー大丈夫だから。よく見てご覧、他にも傷跡くらいあるだろう? 剣の稽古をしたらこれくらい普通だから」

 べそべそ泣きながら己の腕に手当てを施していく娘に、フロリアンは椅子に座ったまま困ったように笑った。

「くそぉ……坊ちゃまを傷つけた剣は後でへし折ってやる!!! だから剣のお稽古はお止めくださいって言ったのに……! 身を守るのは護衛にやらせればいいではありませんか……何も坊ちゃま自ら……はっ! ルカスは!? ルカスは何処です!? お傍にいながらむざむざ坊ちゃまを怪我させて!!」

 その姿を探しながら憤って周囲を睨む娘にフロリアンは苦笑する。負傷していない方の手でミリヤムの涙を拭いながら首を振った。

「こらこら……これはルキのせいじゃないだろう? 私だって男なんだから我が身くらい守れなければ。そういった力は訓練あってこそ身につく。必要な事だよ」

 フロリアンの言葉にミリヤムはため息をついた。昔からよく聞いた言葉だ。侯爵家の男子として確かにそれは必要な事なのだろう。
 だが、いくら本人が平気そうにしていても、怪我を負った姿を見るとミリヤムは痛烈に苦しかった。やっと主が捉まったかと思えばこんな状況で。ヴォルデマーに恋をしたからといって、フロリアンに対する愛情が消えたわけではない。その口からは思わずぼやきが洩れる。

「……ああ……坊ちゃまがお嬢様ならよかったのに……」
「……ぇえ?」

 その言葉にフロリアンが目を瞬かせている。栗色の髪の娘は口を尖らせて拗ねたようにいい募った。

「坊ちゃまがお嬢様なら、武芸もしなくていいでしょう? 護衛ももっともっとたくさんつけて、きっと危ない事もしなくてよくて、綺麗なところだけで過ごしていただけたのに……」
「ああ……、そういう事……?」

 フロリアンは美しい絹糸のような髪を揺らしながらくつくつと笑う。

「まったく……ミリは相変わらずなんだから……」

(……あれ?)

 ミリヤムは笑う主を見上げ、内心で首をかしげた。一瞬彼が苦し気に見えたのだ。

「ん……? どうかした?」

 だがそれは瞬きする内にかき消えて。そこにあるのはいつもの柔和な笑顔だけだった。

(……見、間違い……?)

 フロリアンはいつも通り穏やかな顔でミリヤムの頭を撫でていく。

「女性だなんて……ミリは……私が功を立てたり、立派な武人になるのを喜んではくれないの?」
「……そりゃ坊っちゃまの輝かしい未来を誰よりも応援したいですよ。それが坊ちゃまの願いなら尚の事……私だって坊ちゃまが立派になられていくのは誇らしいです。でも……坊ちゃまの血を見ると……」

 ミリヤムは青くなった。その身体を蝕む痛みを想像しただけで泣ける、と思った。

「正気でいられない……自分が怪我したほうが幾らかマシです……坊ちゃまに血を流させるなんて……きっといつか地に天罰が下る……」
「天罰か……」

 そんなミリヤムにフロリアンは細いため息をつく。

「ミリはいつもそうだよね……私はごく普通に生きている人間なんだけど。それとも──君の中で、私はいつまでも天使のような赤子のままなのかな……」
「だって……坊ちゃまは天から授かった……」

 領地の宝──と、ミリヤムが言った途端、フロリアンが噴出した。ただ──普通の笑い方ではなかった。まるで彼の中で何かの感情が弾けたような。
 ミリヤムがどうしたのだろうと怪訝に思った瞬間、彼女は強い力で引き寄せられる。

「……っ!?」

 ミリヤムは、主が怪我した手を使っていることに驚いて。慌ててそれを止めさせようとした。が、逆に自分が自由を奪われて──戸惑う。主は薄く笑んだまま、もう片方の腕をミリヤムの腰に回していて──引き寄せられたのか──と、気がついた時、

「ぼ……」

 ──目にした主の表情に、ミリヤムは息を呑んで身体を硬直させる。

「私は、そんなものにはなりたくはない」

 強い口調だった。
 青緑の瞳は、それまで見た彼の瞳のどれよりもぎりぎりで、力があった。それはミリヤムの心の奥底に真っ直ぐ刺さり、不思議な感覚を彼女に与えた。まるで──今まで絵画の中にいた人が、そこから抜けいでて現実のものとなったような。
 抱き寄せられた身体に感じる温度は、波だ立たないはずの水面を揺らし、激しい動悸となってミリヤムに驚きを与えた。主とこんな風に触れ合ったのは初めての事だった。
 フロリアンは驚愕に見上げられる瞳を見下ろして、呟くように言った。

「好きだよミリー……もう私を君と違うものにしないで……」
「……っ……」

 吸い込まれそうな青緑の瞳から伝わってくる苦しさが見えたような気がして、ミリヤムも思わず喘ぐ。もうはぐらかすのは許さないと言うような視線に囚われると、胸が締め付けられた。
 
「そんなことばかり言ってると……私は自分が君が思うような天の御使いではないと証明したくなってしまう……酷いことをしてしまうかもしれないよ……?」

 極上の笑みのまま、フロリアンはミリヤムの頬を撫でた。それはいつもと同じ笑みの筈なのに、普段の爽やかさは微塵も感じられない。伏せ目がちの瞳から放たれる色香にミリヤムは言葉を失う。

「……あんまり、私を追い詰めないでミリ……」

 息のかかりそうな距離で漏らされた声は、いかにも切実な色を含んでいて、ミリヤムは思わずごくりと喉を鳴らし俯いた。

「……」
「私にも、影は出来るんだ」

 嫉妬も、怒りも、邪さも、醜い感情の全てを持っている、と、フロリアンは天使のような顔で囁いて。無言になって下げられた娘の顔を見下ろした。表情は見えずとも、その腰に添えた手の平には、口よりも明確に物語る彼女の激しい動悸が伝わっていて、フロリアンはくすりと微笑んだ。

「……ごめんねミリ。君の天使のままでいてあげたかったけど、私はそんな、君から遠い存在のまま終わりたくないんだ」

 フロリアンはそっと栗毛に口づけを落とし、静かにミリヤムから身体を離した。
 それでも微動だに出来ない娘から、僅かな怯えを感じ取ったフロリアンは小さく苦笑を漏らす。フロリアンはそのまま医務室の戸口まで歩いて行くと、去り際に、一度だけミリヤムの方を振り返った。

「だから言ったのに。私は男だよって」
「……」

 手当て有難う。と微笑んで。フロリアンは名残惜しげな視線を残し、医務室を立ち去っていった。



「………………」

 その後姿が消えた後も、ミリヤムの身体の硬直は解けなかった。
 幾らかの時間が過ぎた頃、立ち尽くしたままだったミリヤムに、不意に声がかけられる。

「お、なんだお前まだいたのか?」
「あらミリーちゃん、どうかしたの?」

 戻って来たのはヴォルフガングとサラだ。
 声を掛けても反応が無いミリヤムに、首を傾げたヴォルフガングが、ばふっとその頭に白い手を乗せる、と──……
 その途端ミリヤムは真後ろに綺麗な放物線を描いて引っくり返る。
 ヴォルフガングは叫んだ。

「!? またか!? またなのか!? おい!!!」

 引っくり返ったミリヤムの顔は、熟れた果実のように真っ赤だった。


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