偏愛侍女は黒の人狼隊長を洗いたい

あきのみどり

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二章

15 浴槽の動悸、脱衣所にて瀕死

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 透き通った湯に浸かりながら、ヴォルデマーはほっとため息をついていた。今だ動悸はおさまらなかったが一先ずここまで無事に辿り着けて良かったと安堵する。
 泡まみれにされた小一時間。本当に浴場には他には誰も入って来ず、結局ヴォルデマーとミリヤムは二人だけで過ごす事となった。
 その二人の入浴タイムは今小休止に入っていた。すっかり身奇麗になったヴォルデマーは広い浴槽に一人浸かっている。ミリヤムはといえば、使用した洗い場周辺をせっせと掃除している。
 ヴォルデマーは洗いあがった時点で(気力を消耗した様子で)「もう後は一人で出来るゆえ」と、断りを入れたのだが、ミリヤムはそれを受け入れなかった。ミリヤムに言わせれば、入浴後の乾燥とブラッシングもとても重要で、彼女に引き下がる気配は微塵も無かった。


「……よし、こんなものかな……」

 ミリヤムは汗を拭いながら綺麗になった周囲のタイルの上を見渡した。傍にある木桶の中にはミリヤムがヴォルデマーの身体からせっせと採取?し、タイルの上から掻き集めた毛玉の塊が入っている。乾かしたらふわふわのボールになりそうだ、とミリヤムはちょっと和む。
 一息ついたミリヤムは洗い場を点検するように見渡して、それから並ぶ石鹸が以前よりは減っていることに安堵する。

「…うん、生き生きしてる。適度な湿り気、潤い感、柔らかそうな白い丸み。うんうん、これでこそ」

 大小様々な大きさの石鹸達に向かってミリヤムは満足げに頷く。
 以前のここの石鹸達は、悲しいほどに使われた形跡も無く乾燥して硬くなっていた。それに比べると今は大分その待遇は改善されている。

「戦友よ! 良かったね!!」

 己が「痴女」呼ばわりされた事も無駄ではなかった、とミリヤムはその小さな存在に賛辞を送る。
 ミリヤムは軽い足取りでヴォルデマーのいる浴槽の方へ歩いて行った。傍へ行くと湯煙の中に腕を組んでじっと目を閉じている人狼の姿を見つけた。ミリヤムはうっとりした。濡れてなんだかいつもよりほっそりして見える姿もなんだか堪らないと思った。
 
 本当は、もうとうに正気に戻っている。
 毛並みに手を差し入れて泡立てていた時、その冷静沈着な砦長の普段見せぬ表情を目撃したミリヤムは、再びはたと我に帰った。恥ずかしげに落とされた視線、緊張したように倒された耳、そしてその肉体にじかに触れ濡れた彼の毛が己の手に絡み付いている様を目にしたミリヤムは、一瞬気が遠のきかけた。
 しかし、そこでヴォルデマーから逃げ出す、もしくは世話を放り出すなどということは使用人としての名折れだと思った。あってはならない事だ。ヴォルデマーにも迷惑を掛けてしまう。

(……半端に洗って毛根に石鹸カスなんか残したらヴォルデマー様の背中が雑菌の温床に……綺麗な背中が荒れてしまわれる……!!)

 と、思ったらなんとか踏みとどまることが出来た。手は震えたし、内心では何度も悲鳴を上げた。冷や汗なのか羞恥の汗か、全身自分でも笑えるくらい汗をかいた。顔は引き攣り真っ赤だったが、幸い「足と腹は自分でする」というヴォルデマーのお陰で主に背中を担当していたミリヤムはヴォルデマーにその気配を悟らせる事はなかった。(ヴォルデマーもそれどころではなかった)

(徹せよ使用人、やり遂げろミリヤム・ミュラー!!)

 心の中でそう繰り返し……どうにかこうにか今に至る。

 ミリヤムは改めて湯の中のヴォルデマーを見た。静かに湯に身を沈めている様を見るとほっとした。あの綺麗な黒の毛並みを清潔に出来たかと思うと逃げ出さなかった自分を褒めてやりたい気分だった。
 だが、ふと、どうしてかヴォルデマーの顔色がおかしい様な気がした。実際には顔“色”などというものは、その毛むくじゃらの顔では判別しようがないのだが、どこか彼が此処に来る前よりも疲れている様な気がしてミリヤムは怪訝に思う。いつもに増して丁重に扱ったつもりであったが、もしや何か失態を犯したか。
 心配になったミリヤムはじりじりとヴォルデマーの浸かる湯の方へ足を近づけていった。本当は少し離れている方が精神安定的には良かったのだが。

「……あ、あの……ヴォルデマー様……」
「……どうした?」

 呼びかけるとそっとその目が開かれて、湯煙の向こうから金の瞳がミリヤムの方を見た。しかし──それは直ぐに逸らされて。たったそれだけの事にミリヤムは衝撃を受ける。失態確定か、と思われたが──直ぐにヴォルデマーの声がそれに続く。

「ミリヤム……スカートを戻しなさい」
「え」

 指摘されたミリヤムは己を見下ろし、ペロンとむき出しの自身の足に気がついた。そういえば洗い場のタイルを軽く磨いた際に、エプロンとスカートをたくし上げてウエストのところに挟んであった。足は太ももの中間くらいまでは露わである。「すみません」と言って慌ててそれを正すと、やっとヴォルデマーの視線が己に向いてミリヤムはほっと胸を撫で下ろした。

「あの……ヴォルデマー様……お疲れになったんですか? 私何か粗相しましたでしょうか……」

 恐る恐る訊ねると、ヴォルデマーは一瞬間を置いて、首を振った。

「……いや、これは私の問題だ。私もまだまだだという事だな……」
「ヴォルデマー様が……?」

 首を捻っていると手招きされて、ミリヤムは浴槽の端まで傍に寄った。何とかあまりその身体が目に入らぬように角度に気をつけながら。そうすると自然、身を低くして浴槽の淵に手と顔を添える形になって、ミリヤムはそこからヴォルデマーの顔を覗いた。浴室の床は濡れていたがかまわず膝をついた。今ヴォルデマーの裸体を目にしてしまうくらいなら服が濡れた方がマシだと思った。(今更)
 ヴォルデマーの側からはミリヤムの顔が半分だけ見えて。浴槽の淵を挟んでいるから実際には彼にそれは見えないが、その必死の体勢が想像出来て、ヴォルデマーは小さく笑う。

「……ヴォルデマー様……お笑いですか。お笑いですね、必死な私めを……」
「いや、すまん」

 愛らしくて、と頭を撫でられたミリヤムは一瞬びくりと身体を震わせる。

「……なんという衝撃……」
「……」

 少し頭に触れただけで、浴槽の縁に手だけ残して撃沈したミリヤムに、ヴォルデマーは苦笑した。さっき散々自分を洗い倒した張本人なだけに。
 そうして身悶えしていたミリヤムは、一頻りその感覚に呻いていたが、不意に勢いよくむくりと立ち上がり「脱衣所にてお待ちしております!」と短く叫び、そそくさと浴場を後にしようとした。顔は真っ赤だった。
 だが浴槽を離れようとした瞬間──黒く長い腕がそれを引き止めた。
 ミリヤムは反射的に振り返り、引き寄せられて思わず浴槽の淵に手をついた。と──同時に、水音と、後頭部にそっと添えられる手の感触、そして──唇にさらりとした感触を感じ、栗色の瞳が大きく見開かれた。
 そうしていつの間にか傍に迫っていた金色にぽかんとしていると、その主は甘い吐息に苦笑を混ぜて囁いた。

「……このくらいは、許して欲しい……」
「………………ゆ!? め……めっ……めぇっ!! ……うわあああああっ!!!」

 ミリヤムは走り去って行った。(ヴォルデマーの毛の詰まった木桶は忘れなかった)
 残されたヴォルデマーは、「ゆ」(許す)、「め」滅相も無い……なんだろうな、と、浴槽の淵に座して微笑んでいる。胸も頭も焦げ付くように熱かったが、それが湯の熱さのせいでない事は勿論分っていた。
 ヴォルデマーは湯の中に再び身を沈めると、やれやれと濡れた手で顔を上から下へ拭い、再び苦笑する。
 「私もまだまだだ」……とは言ったものの、どんな修行を積んでそれが消えるというのだ、とおかしかった。

「……消えてもらっては困る」

 それは苦しいが、愛おしい苦しさだった。修行を積むというのなら、それは、

「せいぜい暴走せぬように、ということだな……」

 ヴォルデマーはもう一度やれやれとため息をつき、じりついた感情を治めようと目を閉じた……所にバタンと大きな音が響いた。

「?」

 不思議に思ったヴォルデマーが其方に顔を向けると、出て行った筈のミリヤムが脱衣所前の扉に真っ赤な顔で仁王立っていた。

「ミリヤム……?」
「あ…………有難き、しわわ……っっ! 違う! ああああ有難きしわあ、幸せにございますっ!!」
「……、……!?」

 そう舌を噛み噛み言われたヴォルデマーは、寸の間目を見張って固まった。
 その隙にミリヤムはもう一度転がるように脱衣所の方へ駆け戻って行った。色んなところにぶつかったり物を取り落としたらしい騒々しい物音が浴場の方にまで響いてくる。最後にびたんと音がした。

「……」

 再び一人残されたヴォルデマーは……暫しの沈黙の後、湯気の狭間で呟いた。

「………………ミリヤム……お前は……なんと言う娘だ……」

 ヴォルデマーは今まで感じたことの無いほどに我が身が熱い事に危険を感じた。それは色々な意味合いで。

「……いかん……茹で上がりそうだが出るに出られん……」





 そうして脱衣所へ駆け込んで行ったミリヤムは──

「死、ぬ、る……っ、ヴォルデマー様に……ときめき死させられる……っ!!!!!」

 床にへばりついて瀕死だった。





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