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三章
48 幸せの為に祈る者、洗う者
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我は嫉妬の権化である──
と、ミリヤムが言い切って、おんおん泣き出した後──
またいつもの様に意識が飛んでいた……かというとそうでもない。
流石に四度目ともなると多少は慣れてきたのか、今回はべそべそしながらも一応正気のまま彼を浴場へ連れて行った。
その後をびくびくしたギズルフと、ほのぼのしたロルフがついて歩いて行くもので、一行は道すがら否応無しに人々の視線を集めることとなった。
すると、ミリヤムに気がついた小姓達がどんどん、どんどん周囲に群がって来て。彼等はヴォルデマーの腕にぶら下がって遊んだり、ミリヤムの服装が以前より立派になっていることに首を傾げたりしながらも、口々に彼女が戻った事を喜んだ。
そうして年少の小姓達が群れになって歩いていると、それを不思議に思った年上の小姓達もつられたように集まってきて……
結局──ミリヤム達が浴場へ辿り着いた時には、彼女等の一行は膨れ上がり、四十人は居ようかという一団となっていた。
ミリヤムは、興味津々に詰め掛けたちびっ子+少年達に眉間の縦皺を作りながらも「よろしいですか、小姓の坊ちゃん達」と、教師のような顔をして口を切る。ただし半べそで。
「本日はヴォルデマー様のお背中は私めのものでございますよ。お手出し無用、邪魔した坊ちゃんは我が嫉妬の業火に焼かれ毛並みがちりちりになりますからね!! こんがりされたくなければ大人しくしていて下さい!」
「ちりちり?」
「こんがり?」
「しっと……て?」
7歳児組が揃って首を傾げる。ミリヤムは「平たく言うとやきもちです」と、きっぱり答えた。ミリヤムは周囲を威圧しているつもりであったが、鼻水も出てるからちっとも怖くないな、と小姓達は皆思っていた。
だがミリヤムは脅す気満々だ。今日はどんな手を使ってでも、と鼻息が荒い。
「本日の私めは大人気ないですよ!? 如何に坊ちゃん達にとってヴォルデマー様がレアキャラであろうとも! 坊ちゃん達が僕らがやりたいと可愛らしくしっぽをぶんぶん振り回したとしても! 全部却下! 私め本日はお譲り致しません!!」
ぽかんとする小姓っ子達に対し、ミリヤムはいたって真剣、必死である。
不意に一人の仔人狼が試しに……と、そっと小さな手をヴォルデマーに伸ばしてみると、ミリヤムは「駄目!」と叫び、ヴォルデマーと仔人狼の間に割り込んで諸手を挙げ仔人狼を威嚇した。だが仔人狼は、威嚇された事よりも、涙でべとべとのミリヤムの猫のような必死の形相が面白かったらしい。仔人狼達は面白がって、きゃっ、きゃっ言いながら、そこで無言で立っているヴォルデマーに手を伸ばす。色んな毛並みの幼い手が次々にヴォルデマーに伸びてきて、ミリヤムは半ばパニックに陥る。
「や、やめっ……、わ、私の、あ、あ……坊ちゃん達め!!」
きー!!! と、叫ぶミリヤムの横で、ヴォルデマーは何とも言えない顔つきでそれを見ていた。
ヴォルデマーにとっては、己の黒く大きいばかりの背など、大した値打ちがあるとは思えなかったが、それをこうも独占しようとする娘が可愛くて仕方が無い。
「……」
仔人狼とミリヤム達の中央に立ちつくしたまま、ヴォルデマーは照れくさそうに頬を掻いている。
そんな騒ぎを見てしきりに笑っているのはロルフである。
その大爆笑を聞きながら、ミリヤムは必死で小姓達との攻防戦(?)に立ち向かっていた。ミリヤムにも己が面白がられからかわれているのだとは分かってはいたが、今日だけはどうしても譲りたくなかった。
だが、仔人狼達は人数が多く、兎に角動きが機敏だ。
──このままでは負ける(?)──と、思ったその時、ミリヤムはふと、笑っているロルフを目の端で捕らえて、はっとした。そして唐突に彼をびしっと指差した。何かもう、揉みくちゃにされてミリヤムは毛だらけだ。
「ぼ、坊ちゃん達!!!」
「ん?」
「ご覧下さい!! ほら! あの御方は!? あの御方がどなたなのかお分かりになられますか!?」
「え?」
途端、面白がってヴォルデマーをつついていた小姓達が、ざっと音を立ててミリヤムの指差すロルフの方を振り返った。注目されたロルフは組んでいた腕を僅かに崩し、目を見張る。
「お……なんじゃ?」
「……あ、れ……? あ……っ!? もしかして……ロルフ様!!!???」
「え? ロルフ様!!?? ロルフ様って……前の領主様の……!?」
少し年長の小姓がロルフを見て目を丸くすると、一気に小姓達が「どれどれ」「見たい」とざわめき始めた。何せ──ロルフはサラを追って隠居した後、殆んど城に戻っては来ない。噂は耳にしたことはあれど、まだその姿を目にした事も無いという小姓も実は多かった。豪快な武勇の噂の多いロルフは、特に戦士を目指す男児達には憧れの的だった。
その珍しい人物の登場に──小姓っ子達の目がぴかぴかっと光った。
「ふ、ふ、ふ……どうです坊ちゃん達、あのレアい御方は! 希少価値でいうとヴォルデマー様を軽くしのぐ大物ですよ!? さあさあさあ! 坊っちゃん達、本日はヴォルデマー様をつついている場合ではありません! 坊ちゃん達は是非大旦那様のお背中を流して差し上げて下さい!」
「……成程、そう来たか……」
ミリヤムの企みを理解したロルフはくつくつと笑い……それを見たミリヤムもにやりと笑った。鼻垂れ顔で。
「ロルフさんも……あれだけ若様とお戯れだったのです……今更腰が痛いは通用致しませんよ!」
「確かにのう」
ロルフは自らが指差されているにも関わらず、軽快に笑い出す。
その前で小姓達は、まるで狩りの最中のような顔をして目を爛々と光らせていた。くりくりの瞳達は好奇心で今にもはち切れそうで、それを見たロルフは流石に苦笑いして頬を掻く。
「やれ愉快愉快。……しかし……爺には流石にあの人数のおちび達を相手にするのは骨が折れそうじゃ。……ギズルフ、逃げるな」
「!?」
騒ぎに乗じてこっそり退散しようとしていた(巨体過ぎてちっともこっそり出来ていなかった)ギズルフが、御主も付き合え、と後ろ首をつかまれてぎくりと身体を震わせた──その時、ついに我慢の限界が来た小姓達が、満面の笑みで、わーロルフ様ー! と、二人に向かって突進して行った。
「ぎゃー!!」と叫んでいるのは、ロルフに盾にされたギズルフである。勿論、流石の破壊魔ギズルフも、仔人狼達相手に手荒い真似はしない。(というか、ロルフに暴れられないように押さえ込まれている)
そうして──
ギズルフは小姓っ子達に飛び掛られて、あっという間にもふもふの団子状態となり────ロルフはやれやれ仕方ないのう、と小姓達に両手を引っ張られながら──二人は楽しそうな小姓達に、よいしょよいしょと、浴場の中に引っ張り込まれて行ったのだった。
「壊れもの(ミリ)め! 覚えていろよ!!!」と叫んだのは勿論ギズルフだ。
それを凶悪な顔で見送る娘が一人。
「……ふふふ……邪魔者は──去った……!!」
「…………」
何か良く分からない勝利を掴んだ気になっているらしいミリヤムが、両手を上げて勝ち鬨を上げている。
それを見ながらヴォルデマーはやれやれと小さく笑う。
此処に引っ張って来られた時はどうしようかと思っていたヴォルデマーではあったが、流石の彼もすっかり毒気を抜かれていた。
婚約も未だ済まぬ二人が共に浴場に足を運ぶのは如何なものか──という問題も、これだけ浴場の中に仔人狼達が溢れかえっていれば、何とか言い訳もたつだろう。
ミリヤムにとって不名誉な噂を立てられることだけは回避できたか、とヴォルデマーは一先ず安堵した。(いや、勿論高笑いするおかしな娘が男性用浴場に侵入しようとしている件については変な噂は立つだろう)
そして、その当のおかしな娘はというと。
更におかしな調子で、連れ去られて行ったギズルフ達の消えた先を見つめ、ほくそ笑んでいた。おそらく此処にルカスかイグナーツが居たら「不気味」と称しただろう。
「ふふふ……ロルフさんと若様に着いて来て頂いて本当に正解だった……ふ……これでのんびりヴォルデマー様のお手入れが出来る……」
それを聞いたヴォルデマーは思わず内心で噴出した。
人の毛並みの心配よりも先に、その涙と鼻水だらけの顔面をどうにかした方がいいだろう、と。ヴォルデマーはミリヤムの傍に進みよると、自らの服の内から手ぬぐいを取り出して、その頬に手を添えた。
「……! あ、有難うございます……」
「……じっとしていなさい」
ヴォルデマーがその顔をぬぐってやると、ミリヤムの顔の悪人面がぱっと消えて、照れ照れとした嬉しそうな顔に変わる。そして──……
もぞもぞしていたミリヤムが、唐突にばっと上を向く。
「っヴォルデマー様!!」
「ん?」
ヴォルデマーが一瞬不思議そうな顔をした──その瞬間。ミリヤムは、その勝利(?)の愉悦に浸ったままの勢いで、びよんとヴォルデマーに飛びかかった。(先程の小姓達につられた感も否めない)
「!?」
驚いたヴォルデマーはミリヤムを受け止め、その拍子に、彼が手にしていた手ぬぐいはひらりと床へ落ちていった。
ヴォルデマーは目を丸くしたまま己の首元に顔を埋める娘を見た。
「ミ……」
「ヴォルデマー様!! 大好きっ!!!」
「っ!!!???」
「私のふかふか様!!!」
ミリヤムはにやけた顔のままヴォルデマーの襟元で叫ぶ。堪らんと。
……補足しておくと、ギズルフに背負われすぎたミリヤムは、人狼にくっつくという行為に対し抵抗感がかなり薄れきっていた。
だが──不意打ちで飛びつかれた方の驚きようといったら無かった。
「……………………」
その時の──ヴォルデマーの瞬間的な驚きは、ミリヤムがその手元に戻った時の驚きと軽く肩を並べた、と彼は後に語る。
ヴォルデマーは息を呑んだままの表情でミリヤムを凝視している。
なんせ、出会った当初は食事に誘っても警戒する猫のように己を疑わしそうに睨んでいた娘である。近寄ろうとすると、びくっと飛び上がって後ろずさっていた。
この──変わりようには目を見張るものがあった。
ヴォルデマーは身体を硬直させたまま、己の身体にムササビのように取り付いて、猫のように身体をすり寄せてくる娘を感慨深く見つめた。
その間にミリヤムはぐりぐりぐいぐいとヴォルデマーの首元の毛並みを堪能している。そのあまりに幸せそうな顔に──ヴォルデマーの中には、再び治まった筈のミリヤムに対する堪らない愛しさが沸き上がった。
しっかりとその小さな身体を抱きすくめると、思い切りその香りを鼻に吸い込む。そして幸福そうな弓なりの唇に引き寄せられるようにその頬に手を伸ばした──……
……が。
ヴォルデマーの指が頬に添えられた瞬間、ミリヤムの顔がカッと真顔に戻る。
「いやまだふかふかじゃなかった!」
ミリヤムはビタリ、とヴォルデマーをもふもふしていた手を止めると、眼に力を込めてその黒い毛並みを睨む。
「……………………」
「やはしゴワゴワ感……要ブラッシング。二度がけ必須……三度目検討」
手触りセンサーにそのゴワゴワ感が引っかかったか。ミリヤムの頭の中はすっかりヴォルデマーの背を流す手順の事で一杯になっていた。
「………………」
ヴォルデマーは再び沈黙する。
そうして激しい動悸を感じながらも、ヴォルデマーがガックリしている間に……ミリヤムはヴォルデマーの身体から滑り降り、何事も無かったかのように彼の腕を引いた。その表情はすっかり働き者の侍女(羞恥心消去機能付き)の顔に戻っている。
「さ!! ヴォルデマー様!!! 私め達も参りましょう!!!」
「…………」
ミリヤムは、さあさあとヴォルデマーの腕を引いて浴場の中へ連れ込もうとする。
ヴォルデマーはやれやれとため息をついた。
「…………」
男が呆れて見つめる前で、娘はしゃかりきで彼を引っ張っている。
「…………」
「ヴォルデマー様っ、早く……!」と、ミリヤムが足を踏ん張った、時、ヴォルデマーがさっと動いた。
「ぅおっとぉおっ!?」
急に引き寄せられたミリヤムは、つんのめって目を回しかけ──しかし一瞬で解放されて。
ヴォルデマーがパッと己の腕から手を離すところを目撃したミリヤムは瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「あれ? 今……」
ミリヤムは思った。
何かが己の唇に触れて行ったような──
ぽかんと見上げると、ヴォルデマーはとても優しげにそれを見返していた。
「………………」
「さて、行くか」
「……」
しかしそうは言われたものの、ミリヤムの足は固まったままだ。
ヴォルデマーは浴場のトンネル状の入り口の下まで進み、そして振り返る。その穏やかな笑みを見た瞬間、己の身に起きた事を理解したミリヤムの顔が真っ赤に茹り上がった。
「どうした。来ぬのか?」と、笑うヴォルデマーにミリヤムが赤い顔で引き攣る。
「……ヴォルデマー様がっ、新手の結界を……やばい! あ、足がっ」
羞恥心消去機能が切れたらしいミリヤムは、床に吸い付いたように動かなくなった己の足を愕然と見下ろした。恥ずかしくて、傍に行きたくてもなかなか足が動かないらしい。「さっきは自分から飛びついて来たのになあ」と、ヴォルデマーは少し思った。「ミリヤムの羞恥心の構造が分からん」とも。
ミリヤムは呻き続けている。
「うぅううう……ヴォルデマー様のお背中流し権をやっと手にしたと言うのに……!!」
早く足を動かさなければ、坊ちゃん達に奪われる! と、ミリヤムは顔色を赤くしたり青くしたりしながら壮絶に汗を掻いている。
と、不意に、ミリヤムを待っていたヴォルデマーが、伏せ目がちに、低い声で呟いた。
「……心配せずとも……我が背はお前のものだ」
「!?」
「何でも差し出そう」
だから、と、ヴォルデマーはゆっくりミリヤムの傍に戻り、その身体を抱え上げた。
「だから──お前の全てを私にくれ」
「……」
その表情は、ひたすら、ひたすらに、幸福そうだった。
その笑顔を見たミリヤムは──
「…………死ぬ」
ときめき過ぎて。……と、言ったきり、ヴォルデマーの腕の中で、真っ赤な顔を両手で覆いぶるぶるし始めた。
ぶるぶるしているその手には、いつの間にか先程ヴォルデマーが取り落とした手ぬぐい(ミリの鼻水つき)が拾われしっかりと握られていて。
流石だなあ、と思うヴォルデマーであった。
「え?」
と、その金の髪の青年は、扉の前で目を瞬いた。
その視線の先には、慌てた様子の配下の姿が見られる。
「……ミリヤムがヴォルデマー様を浴場へ……?」
フロリアンが繰り返すと、配下は困ったような顔で激しく頷く。
辺境伯夫妻と彼の母と、応接室でミリヤム達の婚約式について話し合っていた彼は──突然やって来たその配下に大変な事になったという耳打ちを受ける。何事だろうかと思いながらも、フロリアンが伯らに部屋を辞する許可を得て廊下に出ると、配下は勢い込んでそれを告げてきたのだった。
聞けば、ミリヤムが泣き喚いて癇癪を起こし、この城の浴場へヴォルデマー達を引っ張って行ったという。
「…………」
「如何なさいますかフロリアン様!? や、やはり止めるべきでしたか!? ミリの奴ちょっと正気を失っているような顔をしていたので、気味が悪くて手を出しあぐねてしまい……ああっ、こんな時にルカス殿が居てくれれば……!!」
と、言われているそのルカスは、新しいミリヤムの住いの視察に行っていて不在だ。
ミリヤムとも旧知の仲のその配下は、泡を食ってうろたえている。勿論──彼もミリヤムに対するフロリアンの気持ちを知っている。
フロリアンは一瞬沈黙して、ふむ、と小首を傾げる。
「…………ま、放っておこうか」
「!? え!? し、しかし……」
「ロルフ様もギズルフ様も着いていて下さるんでしょう? お二人が一緒なら大丈夫だよ」
にっこりとフロリアンは笑う。と、配下は困惑したような顔で彼を見る。
「……よろしいのですか? 本当に……?」
それが己を気遣う言葉だと分かったフロリアンは「有難う」と、彼に柔らかく微笑みかけたが、配下の目には、それがとても寂しげな微笑のように見えた。
「……やはり止めに行きます! 婚約もまだ成っておらぬというのに共に浴場など……!!」
と、配下の青年が身を翻そうとすると、フロリアンがそれを止める。
「フロリアン様……?」
彼は苦笑して首を振る。
「いいんだ、本当に。私なら大丈夫。ミリは随分寂しい思いをしながら頑張っていたから、今日はちょっと目を瞑ってあげて欲しい」
アデリナ様達にも黙っていてね、とフロリアン。
「しかし……」
それでも主人を気遣うような様子を見せる青年に、フロリアンは微笑みながら安心させるようにその肩を軽く叩く。
「大丈夫。……たとえ今がどんなに辛いとしても、私には信じられるから」
フロリアンは傍の窓の傍に立つと、その外へと視線をやる。どこか、遠くを見るような瞳で。
「……どんな形であれ、ミリヤムと共にあることさえできたら未来は明るく楽しいと私には分かっている」
フロリアンは、胸に抱えた暖かいものをふと想うように一度瞳を閉じて──そして振り返り、今一度配下の青年に微笑みかけた。
それは──確信に満ちた美しい笑みだった。
「フロリアン様……」
「だから私は大丈夫。嫉妬しても、苦しくても、その先にはきっとミリの挙動に笑い転げられる日が来ると分かっている。だから、私は絶望しないんだ。これまでも、これからも」
君にも分かるだろう? と微笑まれた青年がため息をつく。
「……そう、ですね、あいつが傍に居ては、絶望するほうが難しいかもしれません……」
「うん……そう……あの子は本当に凄い子なんだよ」
フロリアンは優しい瞳で、いずこかに居るだろうその栗色の髪の娘を想った。
「傍に居てくれるだけで、あんなに私の心を救ってくれる女はいなかったかな……」
平穏に見える彼のこれまでの人生にも、他者と同じ様に、多くの困難があった。貴族の息子としての責任や重圧、親愛を寄せる乳母の死……。だが、いつでもその傍には熱烈に己に尽くさんとする娘の存在があった。その大切さは、言葉では言い尽くすことが出来ない。
フロリアンは少し表情を陰らせて、だが彼はそれを配下に気取られる前に直ぐに笑みに変えてしまう。
「……まあ、だから嬉しくもあるよ。尊敬するヴォルデマー様にミリが見初められたのは。流石ミリと思うし、流石ヴォルデマー様とも思う。ふふふ……ルカスの事といい、生真面目な御仁に好まれるのかな、うちの子は」
「はあ……」
と、困ったような顔をする配下の顔に、フロリアンは軽やかに笑うのだった。
そうして──心配だから様子を見てくると言い慌てて戻って行く配下を和やかに見送ると、フロリアンはやれやれと息をついて、傍の壁に背を預け、もう一度正面の窓の外を見た。
視線の先には雲一つない空が広がっている。
それは清々しく青く、目に染みるほどに澄み渡っていた。
「………………おや」
見上げていると、ふと頬に流れていくものを感じた。
フロリアンは苦笑してそれを指の先で散らす。
「……幸せになってもらわないとね。」
明るい日差しに照らされながら彼は穏やかに微笑むと、もう一度伯らの待つ部屋の中へ戻って行くのだった。
と、ミリヤムが言い切って、おんおん泣き出した後──
またいつもの様に意識が飛んでいた……かというとそうでもない。
流石に四度目ともなると多少は慣れてきたのか、今回はべそべそしながらも一応正気のまま彼を浴場へ連れて行った。
その後をびくびくしたギズルフと、ほのぼのしたロルフがついて歩いて行くもので、一行は道すがら否応無しに人々の視線を集めることとなった。
すると、ミリヤムに気がついた小姓達がどんどん、どんどん周囲に群がって来て。彼等はヴォルデマーの腕にぶら下がって遊んだり、ミリヤムの服装が以前より立派になっていることに首を傾げたりしながらも、口々に彼女が戻った事を喜んだ。
そうして年少の小姓達が群れになって歩いていると、それを不思議に思った年上の小姓達もつられたように集まってきて……
結局──ミリヤム達が浴場へ辿り着いた時には、彼女等の一行は膨れ上がり、四十人は居ようかという一団となっていた。
ミリヤムは、興味津々に詰め掛けたちびっ子+少年達に眉間の縦皺を作りながらも「よろしいですか、小姓の坊ちゃん達」と、教師のような顔をして口を切る。ただし半べそで。
「本日はヴォルデマー様のお背中は私めのものでございますよ。お手出し無用、邪魔した坊ちゃんは我が嫉妬の業火に焼かれ毛並みがちりちりになりますからね!! こんがりされたくなければ大人しくしていて下さい!」
「ちりちり?」
「こんがり?」
「しっと……て?」
7歳児組が揃って首を傾げる。ミリヤムは「平たく言うとやきもちです」と、きっぱり答えた。ミリヤムは周囲を威圧しているつもりであったが、鼻水も出てるからちっとも怖くないな、と小姓達は皆思っていた。
だがミリヤムは脅す気満々だ。今日はどんな手を使ってでも、と鼻息が荒い。
「本日の私めは大人気ないですよ!? 如何に坊ちゃん達にとってヴォルデマー様がレアキャラであろうとも! 坊ちゃん達が僕らがやりたいと可愛らしくしっぽをぶんぶん振り回したとしても! 全部却下! 私め本日はお譲り致しません!!」
ぽかんとする小姓っ子達に対し、ミリヤムはいたって真剣、必死である。
不意に一人の仔人狼が試しに……と、そっと小さな手をヴォルデマーに伸ばしてみると、ミリヤムは「駄目!」と叫び、ヴォルデマーと仔人狼の間に割り込んで諸手を挙げ仔人狼を威嚇した。だが仔人狼は、威嚇された事よりも、涙でべとべとのミリヤムの猫のような必死の形相が面白かったらしい。仔人狼達は面白がって、きゃっ、きゃっ言いながら、そこで無言で立っているヴォルデマーに手を伸ばす。色んな毛並みの幼い手が次々にヴォルデマーに伸びてきて、ミリヤムは半ばパニックに陥る。
「や、やめっ……、わ、私の、あ、あ……坊ちゃん達め!!」
きー!!! と、叫ぶミリヤムの横で、ヴォルデマーは何とも言えない顔つきでそれを見ていた。
ヴォルデマーにとっては、己の黒く大きいばかりの背など、大した値打ちがあるとは思えなかったが、それをこうも独占しようとする娘が可愛くて仕方が無い。
「……」
仔人狼とミリヤム達の中央に立ちつくしたまま、ヴォルデマーは照れくさそうに頬を掻いている。
そんな騒ぎを見てしきりに笑っているのはロルフである。
その大爆笑を聞きながら、ミリヤムは必死で小姓達との攻防戦(?)に立ち向かっていた。ミリヤムにも己が面白がられからかわれているのだとは分かってはいたが、今日だけはどうしても譲りたくなかった。
だが、仔人狼達は人数が多く、兎に角動きが機敏だ。
──このままでは負ける(?)──と、思ったその時、ミリヤムはふと、笑っているロルフを目の端で捕らえて、はっとした。そして唐突に彼をびしっと指差した。何かもう、揉みくちゃにされてミリヤムは毛だらけだ。
「ぼ、坊ちゃん達!!!」
「ん?」
「ご覧下さい!! ほら! あの御方は!? あの御方がどなたなのかお分かりになられますか!?」
「え?」
途端、面白がってヴォルデマーをつついていた小姓達が、ざっと音を立ててミリヤムの指差すロルフの方を振り返った。注目されたロルフは組んでいた腕を僅かに崩し、目を見張る。
「お……なんじゃ?」
「……あ、れ……? あ……っ!? もしかして……ロルフ様!!!???」
「え? ロルフ様!!?? ロルフ様って……前の領主様の……!?」
少し年長の小姓がロルフを見て目を丸くすると、一気に小姓達が「どれどれ」「見たい」とざわめき始めた。何せ──ロルフはサラを追って隠居した後、殆んど城に戻っては来ない。噂は耳にしたことはあれど、まだその姿を目にした事も無いという小姓も実は多かった。豪快な武勇の噂の多いロルフは、特に戦士を目指す男児達には憧れの的だった。
その珍しい人物の登場に──小姓っ子達の目がぴかぴかっと光った。
「ふ、ふ、ふ……どうです坊ちゃん達、あのレアい御方は! 希少価値でいうとヴォルデマー様を軽くしのぐ大物ですよ!? さあさあさあ! 坊っちゃん達、本日はヴォルデマー様をつついている場合ではありません! 坊ちゃん達は是非大旦那様のお背中を流して差し上げて下さい!」
「……成程、そう来たか……」
ミリヤムの企みを理解したロルフはくつくつと笑い……それを見たミリヤムもにやりと笑った。鼻垂れ顔で。
「ロルフさんも……あれだけ若様とお戯れだったのです……今更腰が痛いは通用致しませんよ!」
「確かにのう」
ロルフは自らが指差されているにも関わらず、軽快に笑い出す。
その前で小姓達は、まるで狩りの最中のような顔をして目を爛々と光らせていた。くりくりの瞳達は好奇心で今にもはち切れそうで、それを見たロルフは流石に苦笑いして頬を掻く。
「やれ愉快愉快。……しかし……爺には流石にあの人数のおちび達を相手にするのは骨が折れそうじゃ。……ギズルフ、逃げるな」
「!?」
騒ぎに乗じてこっそり退散しようとしていた(巨体過ぎてちっともこっそり出来ていなかった)ギズルフが、御主も付き合え、と後ろ首をつかまれてぎくりと身体を震わせた──その時、ついに我慢の限界が来た小姓達が、満面の笑みで、わーロルフ様ー! と、二人に向かって突進して行った。
「ぎゃー!!」と叫んでいるのは、ロルフに盾にされたギズルフである。勿論、流石の破壊魔ギズルフも、仔人狼達相手に手荒い真似はしない。(というか、ロルフに暴れられないように押さえ込まれている)
そうして──
ギズルフは小姓っ子達に飛び掛られて、あっという間にもふもふの団子状態となり────ロルフはやれやれ仕方ないのう、と小姓達に両手を引っ張られながら──二人は楽しそうな小姓達に、よいしょよいしょと、浴場の中に引っ張り込まれて行ったのだった。
「壊れもの(ミリ)め! 覚えていろよ!!!」と叫んだのは勿論ギズルフだ。
それを凶悪な顔で見送る娘が一人。
「……ふふふ……邪魔者は──去った……!!」
「…………」
何か良く分からない勝利を掴んだ気になっているらしいミリヤムが、両手を上げて勝ち鬨を上げている。
それを見ながらヴォルデマーはやれやれと小さく笑う。
此処に引っ張って来られた時はどうしようかと思っていたヴォルデマーではあったが、流石の彼もすっかり毒気を抜かれていた。
婚約も未だ済まぬ二人が共に浴場に足を運ぶのは如何なものか──という問題も、これだけ浴場の中に仔人狼達が溢れかえっていれば、何とか言い訳もたつだろう。
ミリヤムにとって不名誉な噂を立てられることだけは回避できたか、とヴォルデマーは一先ず安堵した。(いや、勿論高笑いするおかしな娘が男性用浴場に侵入しようとしている件については変な噂は立つだろう)
そして、その当のおかしな娘はというと。
更におかしな調子で、連れ去られて行ったギズルフ達の消えた先を見つめ、ほくそ笑んでいた。おそらく此処にルカスかイグナーツが居たら「不気味」と称しただろう。
「ふふふ……ロルフさんと若様に着いて来て頂いて本当に正解だった……ふ……これでのんびりヴォルデマー様のお手入れが出来る……」
それを聞いたヴォルデマーは思わず内心で噴出した。
人の毛並みの心配よりも先に、その涙と鼻水だらけの顔面をどうにかした方がいいだろう、と。ヴォルデマーはミリヤムの傍に進みよると、自らの服の内から手ぬぐいを取り出して、その頬に手を添えた。
「……! あ、有難うございます……」
「……じっとしていなさい」
ヴォルデマーがその顔をぬぐってやると、ミリヤムの顔の悪人面がぱっと消えて、照れ照れとした嬉しそうな顔に変わる。そして──……
もぞもぞしていたミリヤムが、唐突にばっと上を向く。
「っヴォルデマー様!!」
「ん?」
ヴォルデマーが一瞬不思議そうな顔をした──その瞬間。ミリヤムは、その勝利(?)の愉悦に浸ったままの勢いで、びよんとヴォルデマーに飛びかかった。(先程の小姓達につられた感も否めない)
「!?」
驚いたヴォルデマーはミリヤムを受け止め、その拍子に、彼が手にしていた手ぬぐいはひらりと床へ落ちていった。
ヴォルデマーは目を丸くしたまま己の首元に顔を埋める娘を見た。
「ミ……」
「ヴォルデマー様!! 大好きっ!!!」
「っ!!!???」
「私のふかふか様!!!」
ミリヤムはにやけた顔のままヴォルデマーの襟元で叫ぶ。堪らんと。
……補足しておくと、ギズルフに背負われすぎたミリヤムは、人狼にくっつくという行為に対し抵抗感がかなり薄れきっていた。
だが──不意打ちで飛びつかれた方の驚きようといったら無かった。
「……………………」
その時の──ヴォルデマーの瞬間的な驚きは、ミリヤムがその手元に戻った時の驚きと軽く肩を並べた、と彼は後に語る。
ヴォルデマーは息を呑んだままの表情でミリヤムを凝視している。
なんせ、出会った当初は食事に誘っても警戒する猫のように己を疑わしそうに睨んでいた娘である。近寄ろうとすると、びくっと飛び上がって後ろずさっていた。
この──変わりようには目を見張るものがあった。
ヴォルデマーは身体を硬直させたまま、己の身体にムササビのように取り付いて、猫のように身体をすり寄せてくる娘を感慨深く見つめた。
その間にミリヤムはぐりぐりぐいぐいとヴォルデマーの首元の毛並みを堪能している。そのあまりに幸せそうな顔に──ヴォルデマーの中には、再び治まった筈のミリヤムに対する堪らない愛しさが沸き上がった。
しっかりとその小さな身体を抱きすくめると、思い切りその香りを鼻に吸い込む。そして幸福そうな弓なりの唇に引き寄せられるようにその頬に手を伸ばした──……
……が。
ヴォルデマーの指が頬に添えられた瞬間、ミリヤムの顔がカッと真顔に戻る。
「いやまだふかふかじゃなかった!」
ミリヤムはビタリ、とヴォルデマーをもふもふしていた手を止めると、眼に力を込めてその黒い毛並みを睨む。
「……………………」
「やはしゴワゴワ感……要ブラッシング。二度がけ必須……三度目検討」
手触りセンサーにそのゴワゴワ感が引っかかったか。ミリヤムの頭の中はすっかりヴォルデマーの背を流す手順の事で一杯になっていた。
「………………」
ヴォルデマーは再び沈黙する。
そうして激しい動悸を感じながらも、ヴォルデマーがガックリしている間に……ミリヤムはヴォルデマーの身体から滑り降り、何事も無かったかのように彼の腕を引いた。その表情はすっかり働き者の侍女(羞恥心消去機能付き)の顔に戻っている。
「さ!! ヴォルデマー様!!! 私め達も参りましょう!!!」
「…………」
ミリヤムは、さあさあとヴォルデマーの腕を引いて浴場の中へ連れ込もうとする。
ヴォルデマーはやれやれとため息をついた。
「…………」
男が呆れて見つめる前で、娘はしゃかりきで彼を引っ張っている。
「…………」
「ヴォルデマー様っ、早く……!」と、ミリヤムが足を踏ん張った、時、ヴォルデマーがさっと動いた。
「ぅおっとぉおっ!?」
急に引き寄せられたミリヤムは、つんのめって目を回しかけ──しかし一瞬で解放されて。
ヴォルデマーがパッと己の腕から手を離すところを目撃したミリヤムは瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「あれ? 今……」
ミリヤムは思った。
何かが己の唇に触れて行ったような──
ぽかんと見上げると、ヴォルデマーはとても優しげにそれを見返していた。
「………………」
「さて、行くか」
「……」
しかしそうは言われたものの、ミリヤムの足は固まったままだ。
ヴォルデマーは浴場のトンネル状の入り口の下まで進み、そして振り返る。その穏やかな笑みを見た瞬間、己の身に起きた事を理解したミリヤムの顔が真っ赤に茹り上がった。
「どうした。来ぬのか?」と、笑うヴォルデマーにミリヤムが赤い顔で引き攣る。
「……ヴォルデマー様がっ、新手の結界を……やばい! あ、足がっ」
羞恥心消去機能が切れたらしいミリヤムは、床に吸い付いたように動かなくなった己の足を愕然と見下ろした。恥ずかしくて、傍に行きたくてもなかなか足が動かないらしい。「さっきは自分から飛びついて来たのになあ」と、ヴォルデマーは少し思った。「ミリヤムの羞恥心の構造が分からん」とも。
ミリヤムは呻き続けている。
「うぅううう……ヴォルデマー様のお背中流し権をやっと手にしたと言うのに……!!」
早く足を動かさなければ、坊ちゃん達に奪われる! と、ミリヤムは顔色を赤くしたり青くしたりしながら壮絶に汗を掻いている。
と、不意に、ミリヤムを待っていたヴォルデマーが、伏せ目がちに、低い声で呟いた。
「……心配せずとも……我が背はお前のものだ」
「!?」
「何でも差し出そう」
だから、と、ヴォルデマーはゆっくりミリヤムの傍に戻り、その身体を抱え上げた。
「だから──お前の全てを私にくれ」
「……」
その表情は、ひたすら、ひたすらに、幸福そうだった。
その笑顔を見たミリヤムは──
「…………死ぬ」
ときめき過ぎて。……と、言ったきり、ヴォルデマーの腕の中で、真っ赤な顔を両手で覆いぶるぶるし始めた。
ぶるぶるしているその手には、いつの間にか先程ヴォルデマーが取り落とした手ぬぐい(ミリの鼻水つき)が拾われしっかりと握られていて。
流石だなあ、と思うヴォルデマーであった。
「え?」
と、その金の髪の青年は、扉の前で目を瞬いた。
その視線の先には、慌てた様子の配下の姿が見られる。
「……ミリヤムがヴォルデマー様を浴場へ……?」
フロリアンが繰り返すと、配下は困ったような顔で激しく頷く。
辺境伯夫妻と彼の母と、応接室でミリヤム達の婚約式について話し合っていた彼は──突然やって来たその配下に大変な事になったという耳打ちを受ける。何事だろうかと思いながらも、フロリアンが伯らに部屋を辞する許可を得て廊下に出ると、配下は勢い込んでそれを告げてきたのだった。
聞けば、ミリヤムが泣き喚いて癇癪を起こし、この城の浴場へヴォルデマー達を引っ張って行ったという。
「…………」
「如何なさいますかフロリアン様!? や、やはり止めるべきでしたか!? ミリの奴ちょっと正気を失っているような顔をしていたので、気味が悪くて手を出しあぐねてしまい……ああっ、こんな時にルカス殿が居てくれれば……!!」
と、言われているそのルカスは、新しいミリヤムの住いの視察に行っていて不在だ。
ミリヤムとも旧知の仲のその配下は、泡を食ってうろたえている。勿論──彼もミリヤムに対するフロリアンの気持ちを知っている。
フロリアンは一瞬沈黙して、ふむ、と小首を傾げる。
「…………ま、放っておこうか」
「!? え!? し、しかし……」
「ロルフ様もギズルフ様も着いていて下さるんでしょう? お二人が一緒なら大丈夫だよ」
にっこりとフロリアンは笑う。と、配下は困惑したような顔で彼を見る。
「……よろしいのですか? 本当に……?」
それが己を気遣う言葉だと分かったフロリアンは「有難う」と、彼に柔らかく微笑みかけたが、配下の目には、それがとても寂しげな微笑のように見えた。
「……やはり止めに行きます! 婚約もまだ成っておらぬというのに共に浴場など……!!」
と、配下の青年が身を翻そうとすると、フロリアンがそれを止める。
「フロリアン様……?」
彼は苦笑して首を振る。
「いいんだ、本当に。私なら大丈夫。ミリは随分寂しい思いをしながら頑張っていたから、今日はちょっと目を瞑ってあげて欲しい」
アデリナ様達にも黙っていてね、とフロリアン。
「しかし……」
それでも主人を気遣うような様子を見せる青年に、フロリアンは微笑みながら安心させるようにその肩を軽く叩く。
「大丈夫。……たとえ今がどんなに辛いとしても、私には信じられるから」
フロリアンは傍の窓の傍に立つと、その外へと視線をやる。どこか、遠くを見るような瞳で。
「……どんな形であれ、ミリヤムと共にあることさえできたら未来は明るく楽しいと私には分かっている」
フロリアンは、胸に抱えた暖かいものをふと想うように一度瞳を閉じて──そして振り返り、今一度配下の青年に微笑みかけた。
それは──確信に満ちた美しい笑みだった。
「フロリアン様……」
「だから私は大丈夫。嫉妬しても、苦しくても、その先にはきっとミリの挙動に笑い転げられる日が来ると分かっている。だから、私は絶望しないんだ。これまでも、これからも」
君にも分かるだろう? と微笑まれた青年がため息をつく。
「……そう、ですね、あいつが傍に居ては、絶望するほうが難しいかもしれません……」
「うん……そう……あの子は本当に凄い子なんだよ」
フロリアンは優しい瞳で、いずこかに居るだろうその栗色の髪の娘を想った。
「傍に居てくれるだけで、あんなに私の心を救ってくれる女はいなかったかな……」
平穏に見える彼のこれまでの人生にも、他者と同じ様に、多くの困難があった。貴族の息子としての責任や重圧、親愛を寄せる乳母の死……。だが、いつでもその傍には熱烈に己に尽くさんとする娘の存在があった。その大切さは、言葉では言い尽くすことが出来ない。
フロリアンは少し表情を陰らせて、だが彼はそれを配下に気取られる前に直ぐに笑みに変えてしまう。
「……まあ、だから嬉しくもあるよ。尊敬するヴォルデマー様にミリが見初められたのは。流石ミリと思うし、流石ヴォルデマー様とも思う。ふふふ……ルカスの事といい、生真面目な御仁に好まれるのかな、うちの子は」
「はあ……」
と、困ったような顔をする配下の顔に、フロリアンは軽やかに笑うのだった。
そうして──心配だから様子を見てくると言い慌てて戻って行く配下を和やかに見送ると、フロリアンはやれやれと息をついて、傍の壁に背を預け、もう一度正面の窓の外を見た。
視線の先には雲一つない空が広がっている。
それは清々しく青く、目に染みるほどに澄み渡っていた。
「………………おや」
見上げていると、ふと頬に流れていくものを感じた。
フロリアンは苦笑してそれを指の先で散らす。
「……幸せになってもらわないとね。」
明るい日差しに照らされながら彼は穏やかに微笑むと、もう一度伯らの待つ部屋の中へ戻って行くのだった。
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