偏愛侍女は黒の人狼隊長を洗いたい

あきのみどり

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三章

42 城下に芽吹く

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 ウラと別れた後、城を辞したイグナーツは、今現在城で起こっている出来事は何も知らず、とぼとぼと城下町を歩いていた。領都の外へ通じる市壁の門を目指しながら、ついつい城を振り返ってしまう。

「ヴォルデマー様……」

 暗く気落ちした様子の彼を見て、イグナーツもすっかり落胆していた。あんな様子の上官を置いて行って良いのだろうかと、帰宅の途につく足取りは酷く重かった。しかし、敬愛する彼がずっと守って来た砦を、今己が放り出すわけには行かなかった。

「……くそぉお! ミリヤムめ!!」

 イグナーツは通りの真ん中で人目もはばからず地団駄を踏んだ。そして涙ぐむ。

「ヴォルデマー様を悲しませやがって!! 馬鹿野郎! 帰って来い!」

 終いにはそこで「馬鹿め!」と言いながら泣き叫ぶ始末で。
 イグナーツは、ベアエールデでずっと、物静かだが強く頼りがいのあるヴォルデマーの側近としてその後姿を追って歩んで来た。その上官のやつれた姿を見ることは、彼にとってもとても辛いことだった。

 そうして泣き虫の白豹青年がしくしく泣いていると、其処に子供の「みてー」と言う声が。

「……おっきいお兄さんが泣いてるー」
「し! 駄目ですよ坊ちゃん! 見ちゃ駄目!!」

 イグナーツが潤んだ目を声の方へ向けると、少し離れた場所でどこかの貴族の子息らしい仔人狼が、己の事を興味津々という目で眺めていた。その隣では使用人風の犬人の中年女性が、何でなの? と、指差すその子供を止めている。

「……」

 イグナーツはどっと疲れて、通りの真ん中でがっくりと項垂れた。

「……ミリヤムめ……」

 思わず、その名を呼びながらぼやいていると……ててて……と足音が近づいて来た。
 途端に「あ! 坊ちゃん!」と、慌てたような女の声がする。

「ねえねえ」
「……ん……?」

 石敷きの地面から視線を上げると、先程の仔人狼が傍で不思議そうな顔で己を見上げていた。犬人の使用人の女も慌ててそれに続いて駆けて来る。
 仔人狼はこてん、と首を傾げた。

「今、ミリヤムって言った?」
「? 何だ……?」

 まさか話しかけられるとは思っていなかったイグナーツは、鼻を啜りながら怪訝そうな顔をする。と、犬人の婦人が言った。

「坊ちゃん! 駄目ですよ! こんな往来でお嘆き中の方に声を掛けたら!! きっと大っ失恋でもなさったんですから!! そっとして差し上げなければ!!!」

 犬人の婦人は大きな声で決め付ける。と、往来を歩いていた人々も興味を惹かれたように立ち止まり、哀れむような視線や苦笑するような視線をイグナーツに送ってくる。
 
「…………」

 イグナーツは黙り込む。全身には疲労感が漂っていた。
 しかし、そんなイグナーツを仔人狼は好奇心に満ちた瞳でじっと見つめたままだ。イグナーツはこの子供は一体何がそんなに気になるのだ、と心の中でぼやいた。
 そんなに俺は挙動不審だったか、と半ば反省するような気持ちで彼がため息をついた時、其処で見上げていた仔人狼が口を開いた。

「ねえお兄さん……今言ってたミリヤムって、お城にいた人族のミリヤムさん?」
「……ん?」

 仔人狼の言葉にイグナーツがキョトンと青い目を丸くする。が、すぐに気がつく。
 
「……あ、ああ、なるほど……」

 良く良く見ると、仔人狼は城の小姓の制服を身につけていた。

「辺境伯様の城の小姓なのか? ミリヤムと──会った事があるのか?」

 イグナーツが問うと、仔人狼はにっこりと笑う。

「うん。みんなといっしょにおフロにいれてもらったよー」
「……」

 イグナーツは思った。あいつは何処でもあいつだな……と。

「……どこでも人を風呂に叩き込む奴だ……」

 趣味なのか? とイグナーツは、己も風呂に入れられた苦い思い出を思い出しながらため息をついている。──と、そんな彼の前で、仔人狼が得意げに犬人の婦人を振り返っていた。

「ほらー! やっぱりそうだよ。あのお姉さんの事だった」
「? ほら? とは?」

 イグナーツは怪訝そうな表情を強めたが、それをどう受け取ったのか、言われた犬人の婦人は、まあ! と、呆れたように眉間に皺を寄せイグナーツを睨んだ。

「駄目じゃないのお兄さん!! 横恋慕しちゃ!!」
「あ゛!?」

 唐突な言いがかりにイグナーツが壮絶に目を吊り上げる。が、犬人の婦人は欠片も気にしなかった。彼女はぐいぐいとイグナーツに詰め寄ると少し牙を剥き気味に彼を怒る。

「お兄さん知らないの? あの子はヴォルデマー様の奥方になられる方なのよ。手を出したら承知しないわよ!!」
「……は?」

 その婦人の言葉にイグナーツが再びキョトンとする。そうしている内に周囲で見ていた人々も何だ何だと近づいて来て、そこにはすっかり人だかりが出来上がる。

「このお方、ミリヤム嬢に横恋慕ですって」
「ええ!? それはまた無謀な……相手がヴォルデマー様だって分かっていて……?」
「でも失恋したらしいわ」
「ああそうなの、そりゃあそうよねえ。でも安心したわ。馬鹿ねえ適わぬ恋をするなんて……」
「良かったわねお兄さん。その恋実っていたら、きっと皆にぼこぼこにされてたわ……」

 犬人の婦人にポンッと肩を叩かれて、イグナーツは激しく心外だ、と思った。が、しかし彼はそれよりも、その名が人々に知られていることの方に驚いた。

「な、なんでヴォルデマー様とミリヤムの事を領都の人間が知ってるんだ……?」

 と、下から仔人狼が「今、街ではその噂で持ちきりなんだよー」とイグナーツの服の裾を引く。

「噂……?」
「まあ、私達が言いふらしたんですけどね。おほほほほ。だって、吉報ですもの。ほほほほほ」
「…………いや、しかし……領都でそんな噂が……?」

 イグナーツが怪訝に問うと、仔人狼も人垣もこっくりと頷く。

「みんな言ってるよ」
「ええ皆早く御成婚なさらないかなって。私も楽しみで楽しみで……だから駄目ですよ!? その恋はきっぱりお諦めなさい!!」
「…………」

 カッと人々に睨まれて、イグナーツの耳がぺったりと倒れた。しかし──と、イグナーツは戸惑った。

「だ、だが、確か……辺境伯様はご家族には同族婚しか……それに人狼社会が受け入れるかどうか……」

 だがイグナーツは言葉の途中で気がついた。彼を取り囲み睨む群衆の中には、幾らかの人狼も混じっている。

(……これは……)

 イグナーツの心に戸惑いが生まれる。そんな彼を余所に人々は実に楽しそうに浮かれていた。

「まあ確かにアデリナ様が反対なさっているとかいう話もあるし、人狼じゃないとと言う人もいますけどねえ。私達みたいな人狼以外の領民は皆本当に楽しみにしているんですよ」
「人狼の中にだって賛成してる人も増えていますよ。だって共に暮してるんだもの。どうして他の種族を愛してはいけないの? これからは此処も他の領みたいに他種族とも手を取り合うべきよ。これはいい機会だわ」
「…………」

(……これは……)

 徐々に声高に口を開いていく人々を、イグナーツが戸惑って見ている。と、不意に──仔人狼が彼の服を引っ張った。少年はイグナーツが視線を自分に落すのを見ると、にっこりと微笑む。

「?」
「僕らもね、みんな楽しみにしているの」

 そう言う仔人狼の傍に、イグナーツは片膝をついてその幼い顔を覗き込んだ。

「……同じ、人狼の娘でなくてもか?」
「うん」

 仔人狼はこっくりと頷き、僕あのお姉さん好きだなと、無邪気に笑う。

「お姉さんはギズルフ様のおへやのおそうじの時も、おフロでも、僕んちにきた時もとっても優しかった。だから、僕らもたのしみだよ」
「…………」
 

────この……辺境伯家の次男が、人族の娘を妻に娶るという噂は──ミリヤムが領都を離れた一月の間に、瞬く間に城下町に広がっていた。

 多くは、人狼以外の種族達の中で。それと、それが広まり始めた子爵邸の末の息子と同世代の子供達とその家族の間で。

 それがここまで広がりを見せたのには訳がある。

 一つは、情報元となった仔人狼の小姓達が、皆、城の嫡男ギズルフが、その娘を背中に乗せている姿を何度も目撃していた事だ。ギズルフは娘を恐れるようにビクビクと終始気を使っていて、その普段は偉そうな嫡男の挙動のおかしさは、子供達の目にはとても奇異で、とても面白いものとして映ったようだった。

 そしてもう一つ。彼等が見聞きした娘の武勇伝──領内で一、二を争う程の強さと名高い城の兄弟の、領主ですら止められないという喧嘩を鎮め、それを顎で使い掃除をまでさせて、その後風呂場にまで追い立てて行った──という話は──すぐに他の子供達の間でも面白おかしく広まった。

 そうしてその驚きに満ちた話題を添えられた伯の次男の婚姻話は、自然と小姓達の家族たる貴族の父母達にも伝わって。
 それは時に賛否両論を巻き起こしながら──あっという間に領都に知れ渡る事となる。
 今では、ミリヤムはこの城下町ですっかり有名人となり、知らぬものは居ないまでになっていた。
 
 領都をギズルフがのしのしと偉そうに歩く度に、人々は彼が威風堂々としているだけに──心の中で「あのギズルフ様を──人の娘が……?」と、そのまだ見ぬ人族の“ミリヤム嬢”への畏敬の念を深めて行く。
 まだミリヤムを見た事の無い子供達は勿論、市井の大人達までが、皆、実際に彼女を見たことがある小姓達を羨み、早くその人物を見たくてわくわくしていた。


 その話を聞いたイグナーツはまず──頬に己の手を押し当てて悲鳴を上げた。 

「あいつ……がっ、ギズルフ様に!?? 乗った!???」
「うん」
「ひっ!!!」

 イグナーツは、なんて事を、と恐れ慄いた。
 だがその前で、仔人狼は可愛らしい黒い鼻をふかふか言わせ勇ましげな顔つきをする。

「もちろん人族がヴォルデマー様のお嫁さんなんてとか言う人狼の大人もいるけど、僕ら早くお姉さんにお嫁さんにきてほしいんだ。僕らが嘘を言ってないってしょうめいもしないと!! ヴォルデマー様はたしかに! お姉さんが世界一可愛いっていったんだから!!! ギズルフ様はたしかにお姉さんを背中に乗せていたんだから!!!!」

 仔人狼が猛々しく言うと、周囲の群衆がわーっと盛り上がる。

「……」

 その盛り上がりを見ながら、イグナーツは言葉を失っていた。(←ちょっと期待値が高まりすぎてやしないかとも思った。主に可愛さ世界一という件について)

 事は思わぬ広がりを見せている。イグナーツにとっても、この城下町でミリヤムの存在がこんなにも好意的に受け止められているということは、まったく予想外なことだった。
 だがしかし、事実彼の目の前で、人々は諸手を挙げて喜んでいる。それもコソコソとではなく、往来の真ん中で堂々と。もしこれが少し前の事だったら、彼等は異端として人狼達に睨まれていた筈だ。しかし、今は、誰もそんな事はしなかった。それどころか喜ぶ人々の中にも人狼が含まれているのだから驚きだ。それを見てイグナーツは思った。きっと──その想いは皆の中で燻っていたのだろう、と。

(ヴォルデマーとミリヤムの婚姻の噂で、それが皆の中から噴出してきたのか……)

 イグナーツには何となく分かった。皆、何かが変わる予感に沸き立っているのだ。
 


「ミリヤム……」
 
 イグナーツは呆然と呟いて城下の町並みを見渡した。領の頂点に立つ家はミリヤムを拒んだが、その下を支える人々の、決して少なくない人達が、それを喜び受け入れようとしている。

 なんてやつだ、とイグナーツは微かな声で言った。

「……ミリヤムお前…………町の皆を……世論を動かした、のか……?」

 イグナーツが言葉を失くす前で喜び湧く人々は、やっと声を上げられたというような、力強いエネルギーに満ち溢れていた。

 
 この動きはきっと──




 辺境伯も無視が出来ないに違いない。

 イグナーツはそう強く感じるのだった……







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