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三章

39 開け放たれた窓

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 その書簡の中身を知った時のヴォルデマーの胸の内には、大きな杭が打たれたようだった。
 穿たれたその先端は、彼の中で己とこの城とを繋ぐ何かをぷっつりと切ってしまって。

 彼は窓を開け放つ。






「よくお出で下さった」

 謁見の間に辺境伯アタウルフの声が低く響くと、声を掛けられた金の髪の夫人と同じ色の髪の青年が優雅に頭を垂れる。フロリアンによく似た面立ちをした夫人はふわりと表情を和らげた。 

「お久しゅうございます、閣下、アデリナ様」
「……」
 
 侯爵夫人は線の細い女性だった。深窓の令嬢がそのまま年齢を重ねたような風貌の彼女は、若くして侯爵家に嫁いだせいか、フロリアンと並ぶと親子というよりは少し年の離れた姉弟といった印象である。
 夫人は息子よりも少し緑の強い瞳を和らげて、久々に顔を合わせた伯とアデリナに微笑みかけている。
 
 アデリナの表情は複雑さに溢れていた。
 夫人達への挨拶の口上を述べている間も、今にも口から多くの問いが出て行きそうになった。

──娘はどうしていますか
──もう一度、話をする機会を頂けませんでしょうか?

 けれど……それを先方に今更と言われるのは目に見えていた。何せ、全てを始めたのは自分なのだ。
 既にそこに立つ青年の妻となっただろう娘を、今更アデリナが連れてきて欲しいと懇願する事は、幾らなんでも道理に適わない。
 しかし──暗い部屋に閉じ込めたままの我が子の事を思うと、道理だなんだと言っていられない様な気がして。

「……侯爵夫人」

 アデリナはついにその金の髪の夫人に呼びかける。伯はそれを無言で見守っていた。
 夫人は晴れやかな顔をアデリナに向ける。

「はい、なんでしょうかアデリナ様」

 その夫人とは対称的に思い詰めたような表情で、「じつは──」と、アデリナが口を開いた時──
 その彼女の視線の先の──侯爵夫人の姿越しの後ろに見えていた謁見の間の扉が、ゆっくりと開かれた。
 
「っ!?」

 途端にアデリナが大きく目を瞠る。

「? アデリナ様? どうかなさいましたか?」
「い、え……なんでも……」

 不思議そうに自分を見つめる夫人へ首を振って、アデリナは喉まででかかった言葉を呑み込んだ。その戸惑ったような視線は、そこに現れた二人──

 ギズルフと、ヴォルデマーに送られていた。


(ヴォルデマー……何故此処に……)
 
 アデリナはそこに幽閉状態の息子が現れた事に焦りを感じた。辛うじて平静さは装ったが、侯爵夫人の傍ににこやかに立っている夫人の息子、フロリアン・リヒターに焦燥に満ちた視線を送る。
 そもそも彼女が息子を城へ留めおいたのは、この青年の下へ息子が乗り込んでいかないようにという措置でもある。
 一月という時が流れたとはいえ──それは二人を再会させるには早過ぎる。

 だが、アデリナの懸念を他所に、ギズルフは弟を半ば強引に謁見の間に引き入れた。ヴォルデマーは表情の無い顔で、己を急かす兄にため息をつきながらもそれに従っている。その身なりはこざっぱりとしていたが、足取りにはまるで覇気が無い。

 しかし──
 その機械的に動かされていた足が、伯の前に立つ青年に気がつくと、凍りついたように立ち止まる。
 その瞳が瞠られるのと同時にアデリナは拳を強く握り締めた。アデリナは彼を連れて来たギズルフを睨む。何故此処へヴォルデマーを連れてきたのだと無言のまま視線を刺すが、長男は素知らぬ顔で目を逸らすのだった……


 何も知らされずに其処に連れてこられたヴォルデマーは──その再会に呆然としていた。
 
 すると、背に視線を感じたらしい青年が振り返った。フロリアンは背後から己を凝視しているヴォルデマーに気がつくと破顔して、戸惑った顔をしている男に向かって会釈を贈る。

 それを目にした瞬間、ヴォルデマーの金の瞳に炎が燃え上がった。今の今まで輝きを失ったように沈んでいた表情に、鋭利な刃物のような鋭さが戻る。
 だが、その腕を取るものがあった。ギズルフである。
 彼はヴォルデマーの腕を強く握り、弟に怒りを抑えるように叱咤する。

「ヴォルデマー! 今は駄目だ、侯爵夫人が父上とお話中なのだぞ……後にしろ!」
「……っ」
 
 ギズルフはヴォルデマーを制すると、そのまま部屋の隅へその腕を引いていった。
 ヴォルデマーの殺気のような憤りは収まる様子を見せなかったが、普段から礼節を重んじる彼は奥歯を噛んでそれに従う。
 ギズルフはその弟の苦渋に満ちた顔を静かに見ていた。

 ギズルフが侯爵夫人の来訪を知らされたのはつい今しがたの事だった。
 嫡男として、賓客に挨拶に来るようにと父に命じられて──ギズルフは己が今何をすべきなのかを考えた。この滞留するような家族らの現状に思いを馳せた時──多少強引なやり方でも、それを打開したいと彼は強く願ったのだった。
 

 ギズルフはヴォルデマーを睨む。

「……俺はもう、部屋の中で岩の様にまんじりともせず暗い顔ばかりのお前には見飽きたのだ!!」
「…………」
「あいつらが何をしに来たのかは俺は知らぬ。だが……もう此処で潔く決着を着けよ」
「兄上……?」

 厳しい声でそう言うと、弟の金の目が怒りを薄め、兄に向く。
 ギズルフは、これはいい機会だと思っていた。
 再び弟の前に現れたフロリアン・リヒター。彼の口からミリヤム・ミュラーその人の現況が知らされるのは間違いが無い。それはきっと弟にとって辛い決定打になることだろう。
 だがひとつの区切りにはなるはずだった。そこできっぱりと諦められるのならば良し。諦められぬと確認したとしても、きっと何かは動くはずだ。両親に軟禁された狭い部屋の中で、弟にじっと泥のような時間を過ごさせたままにするくらいなら何らかの諍いが起きたとしても何倍もましだと彼は思った。
 ギズルフは、弟に痛みを与えるとしても、事態に一石を投じる道を選んだ。
 たとえ──それが弟との決別を招く事になろうとも。

 ギズルフは真剣な顔を弟に向ける。

「──此処で想いを断ち切るも、気のすむまで追うも好きにせよ。ただし……死んだように生きるな。それくらいなら俺達と縁を切ってでも、どこかで活き活きと生きろ。俺はそんなつまらぬ男を弟に持った覚えは無い」

 それは、厳しいが、愛情に満ちた言葉だった。

 



 侯爵夫人と話していたアタウルフは入室して来た息子達を一瞥したが、すぐに客人へと視線を戻した。彼はギズルフの感情を察し、彼と同じ様に、そろそろ事態を動かすべきだと考えた。案じている様子のアデリナにも今は成り行きを見守るようにと視線で命じる。
 その前で、侯爵夫人は如何にも嬉しげに伯を見上げていた。

「この度は我が息子とミリヤムがお世話になったそうで。お陰さまですっかり話が纏まって私も長年の胸のつかえが取れた思いです」
「ほう、胸のつかえと仰いますと……」

 アタウルフが問うと、夫人は少し憂い気な笑みを浮かべ、ミリヤムの母が息子の乳母であり息子の看病が原因で命を落としたことを彼に告白する。

「ずっと気になっておりました。私達のせいで家族を失くしたあの子をどうにか良家に養子に入れたいと思っていたのですが……でもあの子はどうしても当家から離れたがらなくて。ですからいっそ当家に養女に迎え入れようかとも私は考えていたのです……でも息子はどうしても彼女を妻に娶る気でいたようで」
「……」

 その処遇が纏まらずに少し困っていた、と夫人が苦笑すると、辺境伯領の面々は一斉に複雑な表情を見せた。当のフロリアンは母の後ろでにこやかに微笑んでいる。ヴォルデマーは、それを表情を消して聞いていた。

「……」
「おかげ様で……やっとあの子を当家に迎え入れる事が出来てほっとしております。有難うございました」

 そう言って侯爵夫人が晴れ晴れと頭を下げるのを、兄の横で静かに見ていたヴォルデマーは……その瞬間、ぽとりと胸の中から何かが零れ落ちていった様な気がした。

(そうか……ついに、嫁いだか……)

 今の今まで感じていた憤りが沈んで行き、周囲が暗くなった様な気がした。だが、兄が隣で、母が少し離れた場所から、案じるような視線を己に送ってきていることはなんとなく理解していた。
 
 分かっていた事だ。彼女はそうする為に連れて行かれたのだ。分かっていた。
 けれども、実際に当事者達からそれを知らされると、その苦痛はより鮮明になった。
 ヴォルデマーはじっとフロリアンを見た。
 彼のたった一人の愛しい者を連れ去った、その男。姿も良く、立ち振る舞いも完璧で、完全なる人族の、ミリヤムと同じ人族の青年。

「…………」

 見ているだけで、ヴォルデマーの胸のうちの傷は抉られるように強烈に痛んだ。その痛みはいつまでも忘れられない様な気がして──ヴォルデマーは、もう此処から離れるべきなのかもしれないと思った。
 この城に留まり続ければ、こうして領と領の繋がりで、今後もあの男と付き合う事になるだろう。此処で取り押さえられ、ミリヤムと引き離された記憶もきっとずっと消えることがないに違いない。

 ヴォルデマーは、ふと、重厚な謁見の間の壁面に並び、そこに光を差し入れている窓の外を見た。

(…………青……)

 この胸の内の暗さに比べ、その先に見える晴天の空の、なんと清々しいことだろう、と、ヴォルデマーはポツリと思う。
 もう、苦しい胸の内から抜け出でたかった。その枠を抜け、その空の下に飛び出て行きたい衝動に、ヴォルデマーは拳を握る。

 

 謁見の間の一番上座に立っていたアタウルフは、そんな息子の表情の変化に気がついていた。伯はため息をつき、その賓客に向かって「それで、」と続ける。

「此度はその報告だけで此処まで?」

 伯がそう問うと、彼女は「いいえ」と金の巻き毛を揺らしながら首を振った。そうして夫人が傍に立つ息子へ視線を送ると、フロリアンがアタウルフの前に進み出ていった。その手には筒状に巻かれた書簡が乗せられている。

「これは……?」

 差し出された書簡をアタウルフが手に取ると、侯爵夫人が「当領主から閣下宛の御依頼書です」と言葉を添える。
 
「……」

 伯はそれを無言で開き、目を通していく。と、その途中で彼のふわふわの眉間にそれでもくっきりと分かる程の皺が寄る。

「……あなた?」
「……」

 アデリナが心配そうに声を掛けると、伯はそれを彼女に渡し読むように促した。
 そして、それを読んだアデリナの顔にも同様に戸惑いの表情が浮かぶ。

「……ヴォルデマーと……侯爵家そちらのご息女を……」

 アデリナの戸惑い上ずった声に侯爵夫人が頷く。夫人はきっぱりと告げた。

「当家より──ご次男ヴォルデマー様に縁組を申し込ませていただきます」

 その言葉に室内がどよめいた。警護をしていた衛兵達ですら声を漏らし、目を見交わしている。
 ギズルフはぎょっとして目を剥き、名指しされたヴォルデマーが擦れるように、馬鹿な、と、呟いた。

「…………」

 アタウルフも厳しい顔つきで侯爵夫人の顔を見ている。

「これはこれは……随分と驚きに満ちたご提案だ……」

 伯は呆れと失笑を混ぜたような顔で侯爵夫人に向き合う。この夫人は少し前にこの領で起こった一連の騒動を知らぬのかと怪しんだ。そこには紛れもなく彼女の息子も関わっていて、それを知った上で傷心のヴォルデマーにフロリアンの姉ないし妹をあてがおうと言うのなら性質が悪い、と伯は苦々しく思う。
 しかし夫人は薄く微笑んで伯の言葉を訂正した。

「いいえ、これは提案ではありません。御依頼書だと申し上げたはずです。これは、当家の主人からの正式な依頼となります」
「……一体、どういう事でしょうかな?」
 
 少々の警戒心を持ってアタウルフは夫人を見た。わざわざ夫人がそれを訂正したという事は、それは命令とまでは言わないものの、有無を言わせないという意思を匂わせている。
 伯とその家族達の厳しい視線を受けた夫人は、それでも優しげな微笑のまま「書簡にある通りです」と静かに答えるのだった。

「当家の主は、この辺境伯領とのより良く深い繋がりを求めております。こちらでも既に情報は入手されていることと思いますが──最近、力を失っていた隣国が、頻繁に周辺の力ある豪族達と頻繁にやり取りをしているようなのです。当家はこれに懸念を抱いております。両家が、国王陛下に領を預かる者同士として連携を深めるべき時かと」
「……成程。確かに……そういった情報は此方にも入っております……しかし……」

 夫人の言葉にアタウルフが唸る。

「しかし……前例のないことです」
「勿論わたくし共も、こちらが人狼同士の婚姻を重視しておられるのは知っております。ですが、御嫡男様は既にご婚約済みですし、先々血統が失われるわけではございませんでしょう?」
「…………」

 険しい顔つきのアタウルフの胸中には、勿論ヴォルデマーへの配慮がある。しかし夫人は続ける。

「もし国境が破られることになり、領が危ぶまれることになれば、純血血統などと言っている場合では無くなってしまうのではありませんか? 隣国が動きを活発化している以上、それに対し、こちらが何も動きを見せないことは非常に危険であると感じます。こう言ってはなんですが……隣国が衰退したのを受けて、現在我が国も少々脇が甘くなっている感が否めません。あちらが婚姻等で豪族を取り込もうというのと同様に、こちらでも国境付近の領の間で繋がりが深め、一筋縄で行かぬという事を示しておくことは、決して、無駄にはならないはず。血統以前に国が傾いては意味がありません。これまでは実現しませんでしたが……是非この機会にお考え下さい」
「……」

 それは尤もな話だった。
 国防は何も、ただ単に強い兵力を持てば適うというものではない。そうした細かな幾つもの策謀の積み重ねで成っていくもので、時にそれが数千という兵力を崩す事もある。

 伯もアデリナも、そしてギズルフですらその返答に窮した。
 奥方を通した正式な侯爵からの書簡は、無下に出来る代物ではない。しかし、当然彼等はその申し入れを受け入れることは出来ないと思った。
 そんな事を受け入れれば、つまり、ヴォルデマーはミリヤムと望まない形で繋がりを持ち続けなければならないという事になる。

「いや──申し訳ないが──」
「おや」

 伯が断りを述べようとした時、それまで黙って成り行きを見守っていたフロリアンが口を開く。

「お言葉を遮ってしまい申し訳ありません。ですが、まさかお断りに? 御身の為をお思いになるのなら、それは是非お止めになったほうが宜しいかと思いますよ」

 その言葉は、はっきりとヴォルデマーに向けられていた。視線を送られたヴォルデマーがすっと瞳を細めフロリアンを睨む。だがそれで怯むような男ではなかった。フロリアンは心の底からというふうの微笑みを消す事なくヴォルデマーに向かって続ける。

「私もヴォルデマー様がいつまでもお独り身でいらっしゃると心配なのです。色々と」
「……」
「お黙りなさい! フロリアン・リヒター!!」

 耐え切れなくなったアデリナが鋭い声を上げる。が、それに対しても、フロリアンは何処か愉快そうに微笑んで見せた。

「おや、奥方様。どうなさったのですか? 一月前のミリヤムの一件のご依頼は、確かに奥方様からのお申し入れだったと思いますが……お心変わりを?」

 そう言われたアデリナは言葉に詰まる。

「あのご依頼で我等は一兵団を動かし、人と旅費を使い、此方に出向いて奥方様のご希望を叶えました。こちら側からの依頼にもそれを加味し下さるべきでは?」
「そ、れは……」

 フロリアンは口ごもったアデリナから視線を外し、ヴォルデマーの顔を見る。

「ヴォルデマー様……我等はこれからもお互いの領の為にも友好関係を保つ必要があります」

 柔らかな視線で微笑みかけられたヴォルデマーは、暫しじっとそのフロリアンの青とも緑とも見える瞳を見つめていた。この、底の知れない男の下にミリヤムが居るのだと思うと、胸の奥を強い酸が焼いていくような苦痛を覚えた。
 だが、ヴォルデマーはそれを表には出さなかった。

「……そうですね」

 と、呟くと同時に、彼はその決心を胸の中で固める。ずっと己の事を黙って見守っていた隣の兄に視線をやると、彼と対のような兄は、小さく頷いて見せるのだった。
 それを見るや否や、彼は身を翻しその場に居るすべての者達に背を向けた。

「ヴォルデマー!?」

 アデリナが名を呼ぶが、彼は一番近くの窓に駆け寄ると、そのまま一思いに窓を開け放つ。強風がそこから謁見の間に吹き込み、ヴォルデマーの毛並みを撫でて行った。眼下には遠い先に地面が見えるが、彼は窓枠に足をかけた。衛兵だらけの通路を行くよりは、近かった。彼が望む、外の世界へは。
 アデリナや侯爵夫人が驚いたような顔をする中で、ヴォルデマーは落ち着き払った声で己の家族らに申し訳ありません、と目礼する。

「孝行者でない私をお許し下さい。ですが、たとえ領の為だとしても……私は他の誰のものになる気はありません。どうかもう、私は初めから居なかったものと思い勘当なさって下さい。フロリアン殿──母がそちらにご負担頂いた先の費用は、残していく我が財からお支払いいたします」
「ヴォルデマー、待って!!」

 淡々と話す息子に、アデリナが慌てて駆け寄ろうとするが、ギズルフがそれを無言で止める。

「ギズルフ!? 何を……」
「……」

 ギズルフは振りほどこうとするアデリナを離さなかった。アタウルフも同様に無言で息子の様子を見守っているだけで、それを見た衛兵達は戸惑って、どう手出しをしていいものか判断出来ないようだった。

 アデリナは愕然として己の次男を見る。目が合うと、息子は小さく笑んで、「お元気で」と呟いた。

「!? っヴォルデマー!!!」

 アデリナが渾身の力でギズルフを振り払った時──ヴォルデマーが足をバネのように使って窓枠から跳ぼうと力を込めた。


──その一瞬、


 その場に居たヴォルデマーを見つめる全員の視界の中を──深緑色がさっと横切って行った。
 それは、その裾を翻しながら、真っ直ぐにヴォルデマーに突進していく。

 窓枠を蹴ろうとしていたヴォルデマーは、その一瞬、足を引き止められる。

 何かが香った気が、した


 




──ヴォルデマー様!!







 そう聞こえた声を──彼は一瞬、本当に耳にしているのか、己の中に今もなお濃く残る記憶の中からの呼び声なのかを判別できなかった。呆然と振り返ろうとした時、腰に何かが取り付くのを感じて────目を丸くしてそれを見下ろす。

「ヴォルデマー様!」
「…………」

 身体を硬直させて見下ろす先で、弾ける様な満面の笑みを見て、ヴォルデマーは息を呑む。

 腰の後ろに抱きついて来た娘は、深い草原色のドレスを着て肩には同じ色の羽織りをかけている。その編み上げられた髪は柔らかな大地の色で──

 貴族の娘然として着飾ったその者は、一瞬愛しげにヴォルデマーに擦り寄るように目を閉じて、それからもう一度栗色の瞳を開き、薄い色の紅に彩られた唇を開く。

「此処から飛び降りられたら追っかけられないのでやめて下さい」
「…………」

 その途端、謁見の間の中がしんとした。
 娘の真顔に室内の多くの者が微妙そうに神妙な表情を見せた。ヴォルデマーはひたすらに無言だった。

「もしや今……私めからお逃げになろうとなさいましたか。もしや」

 目を見開いた真顔でヴォルデマーに詰め寄る娘に、フロリアンが遠くであの顔怖いからやめなさいって言ってるのになーところころ笑っている。

 だがその笑声はヴォルデマーには届いていなかった。彼はそこで拗ねたような顔で己の腰にかじり付いている娘を穴が開きそうなほどに凝視している。 

「……………………ミ…………リ、ヤム……?」

 ヴォルデマーが擦れ擦れにその名を呼ぶ。黒い毛に覆われた手が恐る恐るその丸みを帯びた頬に触れると、その顔がぱっと薔薇色に輝いた。

「ええ。私めです、ヴォルデマー様」
「!?」

 その瞬間ヴォルデマーの頭の中が真っ白になった。

(遠くでギズルフが「俺の保護対象……」と、同じ様な顔をしている)




「ミリー」

 その時、侯爵夫人が娘を呼んだ。娘は未だ驚愕の渦の中に居るヴォルデマーを一度案じるように見てから、己を手招く夫人の傍に並ぶ。夫人は「よく止めたわね」とその栗毛をよしよしと撫でている。

 そして促された彼女は皆が呆然と見守っている中で、辺境伯とアデリナに向かってお辞儀を一つ。周囲はまだ、驚きで微動だに出来ない。ヴォルデマーも、開け放たれた窓の傍で、息も止まったかのように身動きしない。ミリヤムを追う瞳だけが、ぎこちなく動いていた。
 そんな彼等に、侯爵夫人が微笑みながら告げる。

「当家の人間としては初のお目見えですね」
「侯爵夫人……この者は……何故…………まさか……」

 アタウルフは先程彼女の息子から手渡された書簡に思わず目を落す。伯のそのうろたえた声に、夫人はにこやかなままで頷いた。

「はい閣下」

 それをヴォルデマーも呆然と聞いた。

「この者が、書簡にあった娘。リヒター家の養女、ミリヤム・リヒターにございます」






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