80 / 94
三章
36 悲しませる決断
しおりを挟むミリヤムは窓の外を見ていた。
窓の傍に椅子を置いて、窓枠に片肘を突き身をもたれさせる様にしてじっと。
その視線の先には見慣れた庭が広がり、ずっと先の長閑な外庭園の草原までが良く見えた。草原には、綺麗に手入れされた池もあり、その傍に見える転々とした白いものは野鳥か何かだろう。もう少し季節が進んだら、彼等の卵が一斉に孵って愛らしい雛達がその後をついて回るようになる。
ミリヤムはふと漏らす。
「……これをこんな形で見に戻ることになるとは……」
何処かぼんやりとした娘は、彼女が今まで着た事のないような美しいドレスを身につけている。乳白色のそれは殆ど飾りは無かったが、彼女が立ち上がると薄いひなげしの花弁のような裾が豪華に広がって、華奢で可憐な印象を見る者に与える。
着心地はとても良かった。でも、落ち着かないな、とミリヤムはため息をついた。
そこへ木を叩く軽い音が響く。
「はい」と声を返すと、扉のドアノブをまわす軋んだ音がした。それに合わせるように振り返ると、その隙間から現れた人物と目があって、その彼はミリヤムを見て柔らかく微笑んだ。
「用意できた? ミリー」
「……坊ちゃま……」
ミリヤムは椅子から立ち上がったが、その傍に歩み寄って行って良いのか分からず、戸惑った顔でその場に留まった。フロリアンは柔和な顔のままそんなミリヤムの傍までやって来た。
そして嬉しそうに微笑んで、ミリヤムの手を取る。
「綺麗だね。とっても似合ってるよ」
「……坊ちゃま、本当に……これでよろしいんですか?」
手を取られたミリヤムは不安げにため息をついている。
「うん?」
「私、坊ちゃまの為にならなんでもしようと思って生きてきました。でも……これで本当に坊ちゃまはお幸せになれるんですか? それに……私を侯爵家に迎え入れれば、色んな所から反発を受けるはずです……私、自分の信念に逆行するような行いをしている様な気がして……」
「大丈夫だよ」
その肩を優しく撫で摩り、フロリアンはいつものように微笑んだ。
「大丈夫。これまでずっとこの為に準備を進めていたんだよ? 母上も味方してくれたし、父上だって。家の者達も皆いつかはこうなるって思ってたみたいだよ。まあ私がそう思われるように動いていたんだけど」
フロリアンは肩口で金糸の髪をさらさら言わせながら軽やかに笑っている。それを見たミリヤムは困りきった顔をしている。
そんなミリヤムの顔をフロリアンは優しく見つめる。慈愛に満ちた、唯一の者を見る目だった。
「ミリー……私はずっと、君の事を愛してきたんだよ? 君はずっと私の事を天使などと呼んでいたけれど、私からしてみれば、私の周りでころころ転げまわって一生懸命な君の方がよっぽど可愛らしい天使みたいだった」
そう微笑む青年の心の中には昔のミリヤムの様子が思い出されていた。
大きめの制服を着て、これまた大きめの白いエプロンを後ろで不恰好に結び、あれやこれやと減らず口を叩きながら侯爵邸中を走り回っていた娘。彼女はこうるさいと評判だったが、不思議に周囲に嫌われる事はなかった。それは、「騒々しい」と言われながらも、誰よりも邸を駆け回って職務に打ち込んでいた事を誰もが知っているからだった。また、彼女は誰に対しても敬意を払った。母の同僚達にも、そして母亡き後も自分を変わらず邸においてくれる侯爵邸の主人達にも。
フロリアンは己の言葉を居心地悪そうにして聞いている娘にもう一度微笑みかけ、その栗色の髪をそっと撫でた。
「アリーナを失わせ君を一人きりにしてしまってから……私はずっと、いつかきっと君の家族になるのだと決めていた。──失くしてしまったのは、君のたった一人の母の命だよ? 多少私が無茶をしたとしても……それは可笑しな事なのかな……?」
「……」
当然の様な気がする、それでも足りないくらいだ、と、寂しげな顔で微笑むフロリアンにミリヤムは目を少し伏せる。主がずっとそれを気にしている事は、勿論ミリヤムにも良く分かっていた。
ミリヤムは胸を押さえ、主の瞳を見上げた。
「……フロリアン様、それがもし──償いの気持ちであるならば……私にはもう不要です。充分施して頂いたと思っております。ずっとお傍に置いて頂いて、私は十二分に幸せでございましたから」
その真っ直ぐな言葉に、フロリアンは「そう?」と笑む。
「では懺悔の気持ちはもういいってことだよね? それならこれからは純粋に愛しいという気持ちだけでいられるね」
「……ほう……そうきましたか……」
その主のカラリとした笑いにミリヤムは一気に殊勝な表情を崩し、眉間に縦皺の浮かぶ呆れたような顔を作った。その表情に、フロリアンが「なんて顔してるの」と小さく噴出す。
「ミリーのそういうところ好きだよ。私に心底入れ込んでいても決して良い顔ばかりしないところ。熱烈に賛辞を贈ってくるくせに、叱る所はちゃんと叱ってくれる所、とかね」
「……それはそれ、これはこれの精神でございますからして」
にこにこしたフロリアンに頬を突かれながらも、ミリヤムはしかつべらしい顔で頷く。
そんな娘の真面目くさった顔に、フロリアンは、ふむ、と考え込むような顔をした。
「……どんな感情が途中にあったとしても……私の気持ちが愛である事には変わりが無いと思うんだけどな」
「……」
「君が大切だよ、ミリー。君がこの手を取ってくれたら、私は君が誰よりも幸せな花嫁になれると確信しているよ」
その主の瞳に浮かぶ真摯な感情に、ミリヤムはため息をついて、
「……そうでしょうか……」と、小さく呟いた。
その言葉に、フロリアンは明るい顔で頷く。それを見たミリヤムはもう一度ため息をついた。胸の中には、暗雲のような戸惑いがもうもうと渦巻いていた。
「……坊ちゃま、これは私めにとってはとても困難な決断です……」
「……」
「この決断は、私のこの上なく大切な人に辛い思いをさせる……それで本当に良いと……? 幸せな私になれると? 坊ちゃまは本当にそう思われるのですか?」
泣きそうに表情を歪めた娘に、フロリアンは金の睫毛を少し伏せて瞳に美しい陰りを作った。
「……なってよミリー、それが……唯一の慰めになるんじゃないかな……?」
「……」
主は“誰の”とは言わなかった。彼は微笑んで。凪いだ海のような瞳で続ける。
「ミリ、今君が其処に飛び出せば、君は満足だろう。でも、きっと其処には苦しみもあるはずだよ……このまま行けば、ヴォルデマー様は正妻を娶るか、たとえそこが空席になったとしても、それはまた別の問題を生むんだ」
それに、と主は微笑みに小さな苦しさを混ぜた。
「……側女だとか、事実婚の妻などといった立場に君を送り出すなんて……私は嫌だ。亡くなったアリーナにも申し訳が立たな過ぎる。彼女の為にも、君には必ず幸せになってもらわないとならない」
「…………母さん……」
フロリアンの言葉にミリヤムが呟く。ミリヤムは──母アリーナの遺言を思い出した。
『坊ちゃまの事をよろしくね……』
そう静かに言って、この世から消えていった母。彼女には、目的の為なら手段を選ばないような所があって、そのせいで親子はよく衝突もしていた。けれど、父亡き後、一人でミリヤムを育てていた母の苦労はミリヤムが誰よりも分かっていた。職務に勤しむ母の姿は、尊敬に値するものだった。
その母の、この世から去り行く人の、無念に満ちた悲しげな細い声は、今でもミリヤムの耳の奥に残っている。思い出すと──涙が出た。
その涙をそっと指で拭いながら、フロリアンは静かで──強い視線でミリヤムを見た。
「私は、アリーナに命を貰ったと思っている。……ヴォルデマー様がその座を君に用意出来ないのなら、私が用意するしかない。違う……?」
「…………母が……」
母の声を反芻するように目を閉じていたミリヤムは、フロリアンの言葉に顔を上げ、呟いた。
「……母が亡なった時、母が最後に私に坊ちゃまのこと言い残していった事を知ると、皆、哀れむような顔をしました。死に際に娘よりも主なのかって……」
「……」
「でも、私は……私には、母が……“お前は坊ちゃまの傍に居れば幸せだからね”と、言った様な気がしたんです……“お前は坊ちゃまの傍に居さえすれば機嫌がいいね”って、母はよく言っていたから……」
「……ミリー……」
ミリヤムは涙を零しながら──堪えるような顔をして、そして──喉の奥からその言葉を、搾り出す。
「……………………分かり、ました……」
ミリヤムはその手を取る。
「……坊ちゃまの……仰る通りに、します……最後まで、きっと親孝行してご覧に入れます」
「ミリー……」
ミリヤムは少し震える手で彼の手を強く握り、顔を歪め俯いた。
涙の滲むまぶたの裏に、その人の姿を思い浮かべると一層涙が溢れた。
約束を守れなくて、ごめんなさい
きっと償いますから、だから、
だから、許して下さいと。
ミリヤムは泣き暮れるのだった
10
お読み頂き有難うございます(*^^*)後日談、「偏愛侍女は黒の人狼隊長を洗いたい。後日談」も現在更新中です。よろしくお願いいたします♪
お気に入りに追加
2,126
あなたにおすすめの小説
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。


【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。
五月ふう
恋愛
リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。
「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」
今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。
「そう……。」
マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。
明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」
【完結】家族にサヨナラ。皆様ゴキゲンヨウ。
くま
恋愛
「すまない、アデライトを愛してしまった」
「ソフィア、私の事許してくれるわよね?」
いきなり婚約破棄をする婚約者と、それが当たり前だと言い張る姉。そしてその事を家族は姉達を責めない。
「病弱なアデライトに譲ってあげなさい」と……
私は昔から家族からは二番目扱いをされていた。いや、二番目どころでもなかった。私だって、兄や姉、妹達のように愛されたかった……だけど、いつも優先されるのは他のキョウダイばかり……我慢ばかりの毎日。
「マカロン家の長男であり次期当主のジェイコブをきちんと、敬い立てなさい」
「はい、お父様、お母様」
「長女のアデライトは体が弱いのですよ。ソフィア、貴女がきちんと長女の代わりに動くのですよ」
「……はい」
「妹のアメリーはまだ幼い。お前は我慢しなさい。下の子を面倒見るのは当然なのだから」
「はい、わかりました」
パーティー、私の誕生日、どれも私だけのなんてなかった。親はいつも私以外のキョウダイばかり、
兄も姉や妹ばかり構ってばかり。姉は病弱だからと言い私に八つ当たりするばかり。妹は我儘放題。
誰も私の言葉を聞いてくれない。
誰も私を見てくれない。
そして婚約者だったオスカー様もその一人だ。病弱な姉を守ってあげたいと婚約破棄してすぐに姉と婚約をした。家族は姉を祝福していた。私に一言も…慰めもせず。
ある日、熱にうなされ誰もお見舞いにきてくれなかった時、前世を思い出す。前世の私は家族と仲良くもしており、色々と明るい性格の持ち主さん。
「……なんか、馬鹿みたいだわ!」
もう、我慢もやめよう!家族の前で良い子になるのはもうやめる!
ふるゆわ設定です。
※家族という呪縛から解き放たれ自分自身を見つめ、好きな事を見つけだすソフィアを応援して下さい!
※ざまあ話とか読むのは好きだけど書くとなると難しいので…読者様が望むような結末に納得いかないかもしれません。🙇♀️でも頑張るます。それでもよければ、どうぞ!
追加文
番外編も現在進行中です。こちらはまた別な主人公です。

彼女にも愛する人がいた
まるまる⭐️
恋愛
既に冷たくなった王妃を見つけたのは、彼女に食事を運んで来た侍女だった。
「宮廷医の見立てでは、王妃様の死因は餓死。然も彼が言うには、王妃様は亡くなってから既に2、3日は経過しているだろうとの事でした」
そう宰相から報告を受けた俺は、自分の耳を疑った。
餓死だと? この王宮で?
彼女は俺の従兄妹で隣国ジルハイムの王女だ。
俺の背中を嫌な汗が流れた。
では、亡くなってから今日まで、彼女がいない事に誰も気付きもしなかったと言うのか…?
そんな馬鹿な…。信じられなかった。
だがそんな俺を他所に宰相は更に告げる。
「亡くなった王妃様は陛下の子を懐妊されておりました」と…。
彼女がこの国へ嫁いで来て2年。漸く子が出来た事をこんな形で知るなんて…。
俺はその報告に愕然とした。
【完結】お飾りの妻からの挑戦状
おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。
「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」
しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ……
◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています
◇全18話で完結予定


婚約破棄された令嬢が記憶を消され、それを望んだ王子は後悔することになりました
kieiku
恋愛
「では、記憶消去の魔法を執行します」
王子に婚約破棄された公爵令嬢は、王子妃教育の知識を消し去るため、10歳以降の記憶を奪われることになった。そして記憶を失い、退行した令嬢の言葉が王子を後悔に突き落とす。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。