偏愛侍女は黒の人狼隊長を洗いたい

あきのみどり

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三章

34 悲嘆にくれる

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「なんだって!?」

 ────と、城内で、座っていた大きな長椅子を跳ね飛ばし、声を上げた黒い人狼は──ヴォルデマー……ではない。ギズルフだった。
 
 
 ギズルフはすっかり綺麗になった私室で、目の前に立っている己の母に目を丸くして呆然と言った。

「俺の……保護対象が……いない!? だと!?」

 何故か、ががーん……と、音がしそうに動揺している己の長子に、アデリナは怪訝に眉をしかめる。
 
「保護……対象……?」





 あの後──

 アデリナは侯爵家の三男坊と共に、己の夫の執務室へ帰還の報せを入れに向かった。
 激しい抵抗を見せたヴォルデマーは兵士の大量投入で既に取り押さえてある。フロリアンは──アデリナと共に辺境伯に挨拶をし終えると、すぐに城を辞して行った──


 そうして──体調を崩したという長男の顔を見にその部屋を訪れたアデリナは、そこでげっそりした様子で長椅子に座っている息子の姿を見つける。傍にはヘンリック医師の姿もあった。
 まずはその容態を確かめて──それがただの菓子の食べすぎだと聞いて呆れてから──あの娘が領都を離れたことを彼に告げたのだった。
 けれども、アデリナが砦から娘を連れて来たギズルフの労をねぎらおうとすると、息子は驚愕に目を見開いていた。そしてアデリナの言葉を遮り彼の口から飛び出して来たのが、先程の叫びだったのだ──

 アデリナはその叫びに首を傾げる。

「……貴方は……何を言っているの? 保護対象とは……? なんですかそれは……」

 戸惑う母の前で、ギズルフは呆然と「俺の保護対象が……」と繰り返し呟いている。

「…………母上! 何故先に言って下さらなかった!! この領都であの者を保護していたのは俺ですよ!? 一言あって然るべきでしょう!! 俺がどれだけ苦心してあいつの骨と首の保護に努めた事か……明確に別れの時を報せておくべきでしょう!?」
「………………」

 ギズルフの責め口調にアデリナはすっかり耳を倒してしまっている。

「……貴方の言っていることがさっぱり分からないわ……もともと侯爵領に送るつもりだと言っておいたでしょう? 何故貴方が怒るのです……? あれはヴォルデマーの……」
「ヴォルデマーがどうとかではないのです! 俺はあいつの手首を二倍に鍛えるつもりで……身体を鍛えるのには時間が掛かるのですよ!?」
「……だからどうして貴方があの娘を鍛える必要があるというの? 意味の分からない事を……」

 そう言うアデリナをギズルフは睨んだ。その息子の顔にアデリナが驚いている。

「な、何なのですかその目は……!?」
「……母上はご存じなくても当然ですが……あの娘はここへ無理に連れてきたせいか、始めにベアエールデであの者を担いだ時よりも、大分目方が減っていたのです!! 俺は毎日あの者を担いで重さを確かめていたから良く分かっております! ……日々少しずつじわじわと背に感じる重さが減っていくのを俺がどれだけ恐ろしかった事か……おおお……ヘンリック……心配でまた気分が悪くなってきた!! 全ては母上のせいですよ!? あいつ……俺が吐き気に襲われている間に、どごぞで絶滅しているのではないだろうな……!?」
「……な、なんですって……?」
「おやおや若様、しっかりなさいませ。流石にそこまでは」

 息子の反乱に目を見張っているアデリナの前で、ギズルフは再び長椅子に沈んだ。
 ずーんと影を背負って項垂れるギズルフの背をヘンリックがやれやれと摩っている。人狼医師は困ったような顔で、驚いているアデリナに薄く笑いかけた。

「若様もすっかりあのお嬢さんがお気に召してしまいましてなあ。まあ、なんと言いますか……肩乗りの子猿的に、とでも申しましょうか……」
「…………」
「気に入ってなどおらぬ!!」
「左様ですか左様ですか」

 まるで負け惜しみのような様相で叫ぶギズルフを、ヘンリックがはいはいはいと宥めている。
 
 アデリナは暫しそんな息子の様子を耳を倒したまま見ていたが、不意にふいっと視線を逸らし室内を見渡した。どうやらもう訳が分からぬと、付き合ってられぬと思ったらしい。

「………………それよりも、ギズルフ部屋の模様替えをしたの? 調度品がまた殆ど入れ代わってるじゃない……まさかまた壊したの?」
「!?」

 アデリナとしては話題を変えるつもりの言葉だった。しかし。
 その言葉にギズルフが耳をびくりと動かして固まった。

「………………」
「え……なんなの……? 何事ですか!?」

 余計に暗雲を背負い込んで肩を落としてしまったギズルフに、アデリナがぎょっと顔を強張らせた。

「…………そう言えば……この部屋の片付けと繕い物の礼もまだしていなかった……」

 ギズルフは終いには頭を抱えて落ち込んでいる。

「折角……あいつを元気にする方法(労働)も判明したのに……こんなことならもっと上等な雑巾を与えてやればよかった……」
「!? 、!?」

 アデリナは不可解なものを見る目で息子を見ている。

「ど、どういう意味なの!? この子は一体どうしてしまったの!?」
「はははは」

 助けを求めるようにヘンリックに問うと、医師はため息混じりの半笑いで言う。

「お帰りになったヴォルデマー様とまた大喧嘩をなさいましてな。閣下にいつものように自分で片付けろと言いつけられたそうなのです。その時に、あの娘さんに相当お手伝い頂いたそうですよ。奥方様から贈られた衣服も背中が大きく裂けておりましたが、彼女が上手に繕って下さって」
「……あの娘に……?」

 その言葉にアデリナが解せぬ様子で眉間に皺をよせる。その顔に、ヘンリックは好々爺然とした表情で宥めるような調子で語りかけた。
 
「アデリナ様……奥方様は私めの意見などは必要となさらないかもしれませんが、幼少期より若様を見てきた私めの目から見て申し上げますと、あの娘さんは……実に若様に良い影響を与えてくれたと思います」
「良い、影響……?」
「若様は娘さんを背負い始めてからというもの……」
「……ちょっと待って、さっきから何なのその背負うとか背負わないとか……」
「ああ、まあそこは大した問題では。」
「!???」

 ヘンリックの言葉にアデリナは引っかかりを覚えたが、彼はそれをさらりと流す。

「それで若様は、最近随分丁寧に生活されるようになりました。ここ数日ではお嬢さんを背負って気をつけて歩いておられたせいか、硝子も廊下のつぼの類も、若様は一つも割られていないそうなのですよ」
「っ!? ……この子が……!?」

 ヘンリックの言葉にアデリナは目を見張る。
 それは、小さい事柄ながら、彼女にとってはとても大きな驚きだった。
 他人からしたら些細な事と言われるかもしれないが、彼女の長子が生まれてこの方割った陶器や硝子製品の数は相当な数に登る。それはもう星の数ほどに。
 彼は皿を割り、銀器を使わせればすぐに傷を入れる。酒瓶は握りつぶし、茶を共に……と誘えばすぐに茶器を割る。以前、彼の婚約者の令嬢と、茶会の席を設けたことがあったのだが、その席でもやはりギズルフは茶を楽しむ前に茶器を割り、相手の令嬢のドレスを汚し大いに呆れさせた。
 その後も彼女の前で存分にそのガサツさを発揮したギズルフは、その高慢さも手伝って彼女に少々嫌煙されていた。政略的な婚約関係であった為、流石にそれで婚約解消とはならなかったが、未だにあまりあちらの令嬢は乗り気では無いらしい。
 もともとギズルフも政略結婚の相手など誰でもかまわないという態度を取り続けていることもあり、話は一行に進まないのだった……

 それ故に、ヘンリック医師のその言葉はアデリナにとって朗報であると共に、とても信じられないものであった。

「……それは本当なの? ヘンリック……俄かには信じがたいわ。貴方私を謀ろうとしているのではなくて……?」

 アデリナが疑いの目をヘンリックに向けると、彼はいいえと首を振る。
 
「いえいえいまさか。その様な恐ろしい事は私は致しません。短い期間ではありましたが、此度若様は、弱き者と接せられて、手加減や思いやりを学ばれたと思います……もしかしたら……今の若様ならお相手のお嬢様にも受け入れて頂けるかもしれませんよ」
「…………」

 ヘンリックの穏やかな顔つきにアデリナは黙り込み、そして息子の横顔を見た。もしそれが本当ならば、それはこのシェリダン家にとって大いに歓迎すべき出来事である。しかしアデリナはそれがあの、出会った当初汚らしい恰好をして現れた人族の娘によってもたらされたという事にとても戸惑いを感じた。

 そんなアデリナに、ヘンリックは「ですが、その前に」と言葉を続ける。

「え……?」
「まずはこの泥沼にはまった様な落ち込みようの若様を先に何とかしなければ。他の女性のせいでこの様な有様になっておられるとお相手に知られるのは些か不味うございましょう?」

 アデリナ様の御威光を持ってしても、今度こそお相手に三行半を突きつけられてしまわれるかもしれませんぞ、と真顔で言う老医師に、アデリナは言葉を呑む。その前で、当のギズルフは、今にも涙を落すのではないかというくらいに、めそめそし始めている。

「……俺の、俺の保護対象が……」
 
 その有様に──アデリナは一層困惑の渦に飲み込まれるのであった……






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