偏愛侍女は黒の人狼隊長を洗いたい

あきのみどり

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三章

13 辺境伯 ②

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 辺境伯は使用人階級のミリヤムからすると相当に雲の上の存在である。
 であるからして──ミリヤムが己の粗相に対して床に平伏するのも仕方の無い話であった。

「……」
「申し訳ありません申し訳ありません、可愛いわんことか思って申し訳ありません」
「……おい、もうやめろ。念仏のようで耳障りだ。立て」

 顰め面でミリヤムの手を引いたのはギズルフだ。辺境伯はミリヤムに静かな視線を送り続けている。
 しかし、ミリヤムは起き上がらなかった。いや、起き上がれなかった。

「おい、聞いているのか?」

 ギズルフが強い調子で問うと、ミリヤムがゆっくりと横に顔を上げる。それを見た途端ギズルフの耳が最大限に倒される。
 ミリヤムの顔面は酷い湿地帯のようになっていた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
 ミリヤムは細い声で訴えた。

「……若様……足が震えて立てません……」
「!? お前……そんなに泣くことが何処にあった!? 相手は我が父だぞ!?」
「若様さっき、同じ台詞で粗相するなと私を脅してましたよね……」
「? 脅してなどおらぬ」
「ええまあ……兎に角、足と言わず身体がぶるぶるして立てないんです……無理に立つと引っくり返ります……」

 成程、娘の身体は本人が言う通りがくがくしている。辺境伯はその様を見て苦笑した。ならば無理をせずとも良い、と、口を開きかけた。
 だが、その前にギズルフが娘の顔を覗き込み、その背に手を置いた。

「なんだと……お前の足は何処まで貧弱なのだ……、っ!? おいやめろ! こんなに身体を揺らし続けるなど……今にどこぞの骨が折れるぞ!!?」
「!」

 辺境伯の眺める前で彼の息子は、床に這い蹲る娘をおもむろに両脇から抱え拾い上げた。それからまるで荷物でも背負うかのように娘を背中に放る。

「……」
「立てるようになるまで其処に張り付いていろ。まったく……人族とはなんと手のかかる生き物なのだ……」
「うぅううぅうう……」

 ギズルフは眉間に皺を寄せているものの、何故かそうするのが当然とでも言わんばかりの様子である。
 娘は、その背で青い顔で呻いている。口元を押さえているからきっと気分も悪いのだろう。

「……ギズルフ」
「は! 父上、何でしょうか」

 呼びかけるといつも通りの顔で己を見る息子に、アタウルフは一瞬沈黙する。
 
 ギズルフは──嫡男としてこの領に生まれ、誰もに敬われる事を当然として生きて来た。
 小柄な父とは違い、体格の良かった祖父に似たらしい彼は、肉体にも恵まれていて他者を圧倒する力も備えている。人狼社会では昔から身体能力の高い者が力をもつ傾向にあって、高い身分をも併せ持つ彼は、まさにこの領内では怖い物なしの状態だ。
 そのせいなのか……彼は他者に対して少々高慢な所がある。厳しい跡取り教育で少しはましになったが、生来気性も荒く、あまり他人に気遣いを見せるような息子ではない。

 それが──何をどうなって、こうなったのかは分らなかったが、辺境伯の目にはギズルフが、その彼の弟の想い人であるという娘に──気遣いを見せているように見えた。
 それが優しそうなのか、と言われるとそうでもないが、兎に角息子は自分の背に張り付いて青い顔をしている娘を気にかけている。
 それは──その倒れきった黒い耳と同様に、とても珍しい光景であった。


「……」
「父上?」
「うむ……お前、何故その娘を背負う?」
「ああ、これでございますか? 父上、こやつ信じられぬ程に貧弱なのでございます。床に転がしておいてはいつ誰に蹴られて死ぬやも分りません。人族は我々のように毛並みも無いゆえ寒さにも弱いと聞いております。床の冷気にやられるやも……」

 そう言って床を不安そうに睨む息子の耳は、やはりぺったりと折れたまま。
 その背から弱々しく「そんなわけあるか……」と言ったのは勿論娘の声だろう。アタウルフも同様に、そんな訳無いだろうなとは思ったが、とりあえず息子には頷いて見せた。

「……そうか。まあ、お前が人族の事をもう少し学んだ方が良いのは確かのようだな……兎に角そのままでよい。席に座りなおしなさい。その娘と話さねばならぬ」
「は」

 促されたギズルフはミリヤムを背負ったまま長椅子に座った。途端、ギズルフが、ギョッと身体を強張らせる。

「おい!? やめろ、また震えが酷くなっているぞ!?」
「だ、だって……さっきの今で……辺境伯様とお話するかと思うと緊張して……」
「落ち着け!! とりあえず話すだけでは死なぬ!」
「うぅううう……」
「大丈夫だ!! 父上は慈悲深いお方だ! 後で良い肉を焼いてやる! だから死ぬな!!」
「……お慈悲があるのなら……是非其処は……粥に……」
「なんだと!?」

「……」

 辺境伯は──その己の息子の今一歩足りない気遣いに再び沈黙して、そして考えた。
 
(……これはいい機会かもしれぬ)

 辺境伯もまた、ヘンリック医師と同様の考えに行き着いた。即ち、怖れ知らずで高慢なギズルフに、領民を思いやれるような優しさを学ばせる良い機会かもしれない、と。
 
 どちらにせよ、娘は顔色が悪すぎる。
 確かに出会いがしらの辺境伯に「おいでー」は無い。大失態だと言える。もし此処にアデリナがいたら、間違いなく彼女は何か刑罰を与えらたことだろう。娘は元侯爵家の使用人だということだから、その辺りは重々承知しているのだろうと辺境伯は思ったし、実際そうであった。
 アタウルフは娘の顔面が涙と汗と鼻水で洪水を起こしているのを見て、仕方ない、と口を開く。

「ギズルフ、もうよい。娘を休ませなさい。話はまた落ち着いてからとする」
「は……しかし……よろしいのですか?」
「ああ」

 辺境伯はギズルフへ頷いて見せる。

「アデリナは事を急いでいるが……私はあのヴォルデマーの心がどうしてこの娘に動いたのかに興味がある。この状態で慌しく問うても、しっかりとした答えが得られるとは……到底思えぬ」
「まあ、確かに……」

 ギズルフは、徐々にミリヤムの滝のような汗に侵食されつつある己の背を感じ、神妙な顔で頷いた。是非、汗、いやせめて涙であってくれ、と。
 
「分りました。では……下がらせます」
「ああ、また落ち着いたら知らせよ」

 そう言いながら、辺境伯は青い顔の娘をぶら下げたままの息子の顔をちらりと見た。

「……出来るだけお前が面倒を見るように」
「え? はあ……まあ……目を離すのは恐ろしいですから……そう致します」

 少しだけ怪訝そうにギズルフが頷く。
 嫡男が使用人階級の者の面倒を見るなどということは普通ありえないことだ。しかし──自身の発言通り、ミリヤムの死が家の破滅に繋がると本気で思っているギズルフは、素直にそれを了承する。
 おそらくアデリナの目論見通り、隣領から娘の迎えが来るとしても──それは旅道の完全な雪解けを待ってからとなるだろう。ではその間に出来るだけミリヤムを鍛えよう、と、思うギズルフだった。

 息子の了承を確認した辺境伯は頷いて、それから、よいしょと長椅子の上にのぼり(そのままでは届かない。背が低いから)、そこから息子の背でガクガクしている娘を覗き込んだ。

「娘よ、では改めて話をしよう。それまでは、悪いが息子に付き合ってやってくれ」
「??? ぅ、は、はいぃ!? ほ、ほん……ほんじつはっ、本当にっ、申し訳ありませんでした!!!」

 ミリヤムは舌を噛み噛み慌てて頭を下げるのだった……





 そうして──辺境伯の執務室を辞したミリヤムは、ギズルフに背負われたまま戻った客間の床の上で、四つん這いで項垂れていた。

「…………」
「……どうした!? 死にそうなのか!?」

 静か過ぎるミリヤムにギズルフが怖々と尻尾を巻いている。

「…………完敗です……面白いくらいに……何も出来なかった……辺境伯様を説得するどころか……辺境伯様を犬と勘違いするなんて……」
「……すまん」

 その声の暗さにギズルフが思わず謝る。余談だが、彼が他人に謝るのもかなり珍しい事だ。

「お前が父上の事を何か勘違いしているのは分っていたが、あの時はお前があまりに面倒くさくて放置した。その後は忘れていた」
「いえ……若様のせいでは……ちょっと実際の辺境伯様のインパクトと、噂の辺境伯様とのギャップとにやられてしまいました……しかし、お陰で免疫はつきました……次こそは、次こそは!! きちんと落ち着いてお話して見せます!! ヴォルデマー様の為に!!!」

 四つん這いのまま床に向かって高らかに宣言する娘(震えすぎた足がまだ上手く動かせない)の言葉に、ギズルフが目を見開く。

「!? そうか! よし、では俺もお前の為にもうちょっと軽い剣を用意させよう! 待っていろ!!」

 そう言い残してギズルフは客間を飛び出して行った。

「そう、私も鍛えて腕を二倍に──って、!? そっち方面も頑張らねばならぬのですか!?」

 ミリヤムが顔を上げた時には既にギズルフの姿はない。

 
 かくして──その日の夕食後、ミリヤムは再び剣が持てぬと言って、ギズルフを泣かせることになるのだった。



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