偏愛侍女は黒の人狼隊長を洗いたい

あきのみどり

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三章

12 辺境伯

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「入れ」

 と、低い美声が飴色の扉の向こうから聞こえて、ミリヤムは身体を緊張させると共に、ああ、ヴォルデマー様の声に似ているな、と思った。

「……いいか?」

 前に立つギズルフが神妙な顔でミリヤムに言い募る。

「絶対に粗相をするな! いいか? 絶対に! だぞ!?」
「……」

 彼は先程から怖い顔で何度もこう言うのだが、言う度ミリヤムにプレッシャーが掛かっていることを分かっていない。

「お相手は我等が父だ! 此処が貴様の正念場だ!! 生きるか死ぬかだ!!」
「……若様ついて来て下さるんですよね……」

 青ざめた顔で見上げるとギズルフが怯えたような顔をした。

「き、貴様、何だその顔の色!?」
「ふふふ……初見ですか若様……これが人族の顔面蒼白というやつです……で? ついて来てくれるんですよね!!?」

 ギズルフの服をミリヤムががっしり掴むと、ギズルフが慌てて首を縦に振った。
 ギズルフはミリヤムの顔色を見て、やばい、こいつ絶対死ぬ、と思った。

「あ、ああ勿論だ! 骨は拾ってやる!」
「いえ、まず生存を考えていただけますか……」




 開かれた扉を潜ると、まず、高い天井が目に入った。
 正面には大きな金の格子窓の向こうに青い空。右手には豪勢な応接用のテーブルと椅子が。左手奥には五段ほど上がった上に辺境伯の物らしい執務机が。その壁面は全て天井まで圧倒される量の書物が収められている。
 城の其処此処に狼の紋様があしらわれているのと同様に、この執務室の至る所にも凛々しい狼の紋が掘り込まれていた。
 壁紙や垂れ幕の一つをとっても、一目で良い品だと分る。

「入りますぞ、父上」
「……失礼、致します……」

 ずかずか入っていくギズルフの服を掴んだまま、ミリヤムは半ば引っ張られるようにしてその室内に足を踏み入れた。
 客間を出たところから散々ギズルフに脅され(励まされ)て、もう動悸が凄い事になっている。
 そもそも昼食で再び肉オンリーの膳を出されたミリヤムは、その匂いと油で胸焼けに。
 
(……やはし、やめておくべきだった……う……緊張で吐きそう……)

 脂汗をかきながらミリヤムは後悔した。
 本当はそうしようと思っていたのだが、ギズルフに「貴様は非力なくせに食事もとらずに決戦に挑むのか!?」と叱咤されて……つい乗せられてしまった。
 しかも辺境伯の嫡男が用意した肉はとても良い肉らしかった。普段そんなものを食べつけないミリヤムには正直きつい。ミリヤムは思った。ギズルフには是非、人狼族の貴方様とは違い、筋肉以上に胃も非力だと理解して欲しいと……


「父上、例の娘を連れてまいりました」
「ああ……座っておれ」
「はい」

 ギズルフが畏まった様子で言うと、部屋の奥から辺境伯らしき声が帰ってくる。しかし、その姿が見えない。

(あ、あれ? 辺境伯様は……?)

 吐き気と緊張の二重苦に密かに呻いてたミリヤムは、どこから辺境伯の声がするのか分らなくて戸惑った。しかし室内を見渡そうとすると、ギズルフはミリヤムをくっつけたまま応接用の椅子の方へ。

「おい、あまりきょろきょろするな。挙動が不審だぞ!? 一つの粗相が命取りなのだぞ!?」
「う、うぅううぅ……」

 思い切り睨み下ろされてたミリヤムは、半分は若様のせいですよ、と是非言いたかった。
 と、そこに、くつくつと低く笑う声が。

「ギズルフ……あまり脅かすでない。娘、気を楽にせよ」
「は! ……はぃ……」

 声はどうやら執務机の方からするようだった。短い階段の上のその空間には垂れ幕や衝立が複数あって、ミリヤムは、辺境伯がその後ろで喋っているのだろうと当たりをつける。
 その後ろから、いつ噂の巨体の大人狼が出て来るかと思うとミリヤムの胃はムカムカするだけでなく、きりきりした。

(……い、胃が……死、……ん? あ、あれ……?)

 ふと、ミリヤムは恐る恐る見やった先に、こんもり丸い黒犬がいるのに気が付いた。

(わんこ……?)

 そのふっかり丸まるした犬は、ぴょこりと執務机の向こう側から顔を出し、ミリヤムの方を愛らしい顔で見ている。
 大きさとしては階段下から見上げるミリヤムからも机の上に顔が出て見えるくらいだから、犬としては結構大きいと言える。
 しかし……普段ヴォルデマーやギズルフといった大柄な獣人達に囲まれて、それに見慣れてしまったミリヤムには、それが相当に小さい犬のように思えた。

(辺境伯様の飼い犬……? ふかふか……あれ? あの犬……何処かで……?)

 ミリヤムはその犬を、城の何処かで見かけたことがあるよう気がして首を傾げる。

 犬は目を逸らす事無くミリヤムにじっとつぶらな瞳を向けている。ミリヤムはその丸いフォルムに何となくほのぼのしてしまって。なんとなくぽっちゃりローラントを思い出した。そして、あの毛並みを撫でたら緊張が和らぎそうだなと思うと触りたくて堪らなくなった。
 ミリヤムは犬を手招く。

「おいでー」
「!?」

 ──途端、隣のギズルフがギョッとした。

「き、さま!! 阿呆か!!!」
「ぅ……」

 べしっと頭を叩かれて、ミリヤムが犬を手招いた恰好のまま頭を沈める。と、つい手が出てしまったらしいギズルフが、再びギョッと己の手を見て戦慄いている。

「!? し、しま……た、叩いてしま……っ!? お、おいぃっ!! 首は……首は大丈夫かっ!!?」

 慌てたギズルフはミリヤムの襟首を両手で掴んで前後に揺さぶった。
 
「ぅをえぇえええ!? ちょ、ゆ、揺らさないでくださぃよおおお!!!!」

 首が折れたかと心配しているくせに良く揺らせるな、とミリヤムはぶんぶん振られながら薄っすら思う。

「死ぬなあああああ!!!!」
「わかさ……や、やめ……」

 涙を流しながら己をぐわんぐわん揺らし続けるギズルフにミリヤムは、死ぬより先に吐く、と思った。

「ギズルフ」

 そこへ低い美声がギズルフを制止する。

「やめよ。娘が目を回しておる」
「は!? 死にましたか!?」
「死んでおらぬ。娘……大丈夫か?」

(!? へ、へ、へん辺境伯様……!?)

 その声の主の気配を直ぐ間近に感じたミリヤムは、くらくらする頭の中で一層動揺する。
 回る目でなんとか己を覗き込んでいる辺境伯らしい影に焦点を合わせ、慌ててその問いに答えた。

「は、はぃ!! ……だ! だいじょうぶで──……」

 ────次の瞬間ミリヤムの目が点になる。

「…………す……?」
「少し横になっているといい。此処を使って構わぬ。ギズルフ、お前の責任だ。お前が面倒を見なさい」
「畏まりました。では膝を貸しましょう」
「!?……や、それはいいです……!」

 生真面目な顔でミリヤムの頭を己の膝に乗せようとするギズルフに……思わずミリヤムは我に帰る。
 そして、目の前で当たり前のように話している二人の顔を見比べて……問うた。

「あ──……の、…………辺境伯、閣下……ですか……?」

 恐る恐る言うと、其処にいた人物は──ああ、と頷く。すると、もふん、とその首周りの艶やかな黒毛が波打った。薄氷のような灰の瞳がミリヤムの目を見ている。

「私がヴェルデブルク辺境伯領領主アタウルフ。……ヴォルデマーの父だ」
「…………」

 その驚愕に、ミリヤムは一瞬だけ言葉を失って────しかし人生の大部分で口を野放しにして生きて来たミリヤムは──とても我慢が出来ずに──……

 叫んだ。


「……っち、っ……ちっちゃっ!!!!????」
「!? な、こ、こらああああああ!!?? き、貴様あああ!!!!」
「あいてっ!!」

 再びギョッとしたギズルフが大慌てで椅子を立ち、ミリヤムのおでこをぺしーんといい音で叩いた。

「だ、だって……っ」

 叩かれたミリヤムはおでこを押さえ────恐る恐る、アタウルフと名乗ったその人物を──見下ろした。

「ギズルフ、やめよ。ヴォルデマーに殺されるぞ」

 ミリヤムが息を呑む前で、その──先程ミリヤムが「おいで」と手招いた犬──いや、ふんわり小丸い人狼は、呆れたようにギズルフを見ている。

「!????」

 ミリヤムは脂汗を大量に流しながら混乱した。目がぐるぐるしている。

「あ、おい貴様!? 怖い!! どうした気持ちが悪いほど汗をかいているぞ!? 死ぬ間際なのか!?」
「わ、わわわ若様……だ、だだだ……だって!! も、もふ、も、もっふもふ……ま、丸いっ!! ローラント坊ちゃまもかくや、という……ああ!!? ……お、思い出した……!!!」

 ミリヤムは青い顔で戦慄きながら、そのこんもり丸い彼を何処で見たのか思い出した。

 それは城内のあちらこちらに。何故か置いてある──丸い犬の像……
 ミリヤムが此処に到着当初取りすがったのも、ギズルフに「ヴォルデマーに寵愛」などと言われて隠れたのも確か──

「……そうだ……あの犬の石像……服着てた……!! あ!? そういえば肖像画もあったような……!??」

 ミリヤムは青い顔を一層青ざめさせて、それでかー!!! と、泣き叫んでいる。

 何せ──この大柄なギズルフとヴォルデマー兄弟の父親である。あの厳格なアデリナの夫なのである。
 ミリヤムもまさか──辺境伯がこんなふうだとは思わなかった。

「お前……父上に向かって無礼だぞ!!」
「だ、だ、だ、だって……私達の領では、辺境伯様は怖くて牙と爪が鋭くて、眼光も凄まじく、睨まれるとヒキガエルになるって!!!」

 ギズルフの背に縋ってそう訴えると、ギズルフは眉間に皺を寄せる。

「それはお爺様だ!!」
「へぇ!?」

 思わずミリヤムの声が裏返った。辺境伯が、うむ、と頷く。

「先代領主、我が父は確かにそのような風体であった。大層強く、厳しいお方だったのでその様な噂が」
「!? で、では本当に……あ……あ、貴方様が……」
「ああ」

 辺境伯は、すっかり恐れおののいているミリヤムに向かって頷いてみせた。

「私が、真に、ヴォルデマーの父である」

 辺境伯は、黒い毛並みが一緒だろう? と、もっふりな顔に似合わぬ美声で微笑む。

「………………」

 ミリヤムはもう一度絶句して──それから目を見開き、壮絶な表情でギズルフを見上げた。

「……んで……」
「ん?」
「何で言って下さらなかった!! この、若様め!!!!」
「!?!?」

 ミリヤムは──

「辺境伯様に……ヴォルデマー様のお父様に……! “おいでー”とか言っちゃったじゃありませんかぁああああ!!!」

 と、泣いていた。








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