偏愛侍女は黒の人狼隊長を洗いたい

あきのみどり

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三章

6 ギズルフはいつもより辺境伯の部屋までが遠い様な気がした

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「……なんだ貴様、眠らなかったのか?」

 そう言われたミリヤムは思った。眠れるかい、と。呑気なお坊ちゃん(巨体の人狼)だな、とも。
 そんな呑気な坊ちゃんは、傍のテーブルの上を見て怪訝な顔をした。

「食事にも手をつけなかったのか? おい、気持ちは分からんでもないが強情ばかりを張ると病に臥すぞ」
「……あのですね……」

 昨晩この人狼に、ここ、辺境伯領に連れて来られてから、ミリヤムは一睡もしていない。ギズルフが言う通り、出された食事にも手をつける事が出来なかった。食事は昨日の昼を食べたきり。腹は減っている。しかし。

 ミリヤムは、カッと目を見開いた。

「肉て! 肉オンリーって!……えーと……ギズルフ様? 卿?」
「どっちでもよい」
「ではギズルフ様! 私め昨日ギズルフ様の肩に数時間担がれたまま崖を飛び降り、谷を飛び越え、大変スリリングな恐怖体験に身を投じ、大変乗り物酔い状態で……肉なんか! 良い感じにこんがり焼かれても無理でございますよ!」

 ミリヤムは顔を赤くして地団駄を踏んでいる。昨夜、落ち込んでしまったミリヤムは仕方ないやけ食いでもするか、と提供された軽食に手を伸ばした。しかし、良く見るとその軽食は肉だらけだったのである。パンに肉をサンドしたもの、肉サラダ、そしてそれらの傍にそっ……と添えられた……炙り肉……

 それを見た時のミリヤムの顔といったらなかった。
 申し分け程度の野菜やパンだけをかじろうかとも思ったが、滴る肉汁がそのどちらにもたっぷり絡んでいてそのニンニク臭だけで、うっと来た。
 そうしてうっと来たミリヤムは朝になったら絶対誰かに文句を言ってやると思っていた。変な話だがそれでむかむかして気力だけは元気になった。

「こちとら肉食獣じゃありませんから。どちらかと言えば粥が欲しい所に肉が来て吃驚しました。ギズルフ様のせいで一瞬誘拐の不安を胸焼けが凌駕してしまいましたよ……むかむかしてとても眠るどころではありませんでした」
「……そうなのか……」

 ギズルフは耳をぺたんと後ろに倒してそう言った。ただし、その耳はミリヤムの相手をするのが面倒だなあという気持ちの表れのようだ。ミリヤムにもそれは分った。
 ギズルフは上からミリヤムを見下ろしながら、ふんと鼻を鳴らす。

「……では粥を用意させる……」
「っ!?」

 その言葉にミリヤムはハッとした。
 ギズルフの背後の開きかけの扉から、人狼が一人こちらを複雑そうな顔で見ている。扉の隙間からちらりとその彼?が手にした盆の端が見えていた。辺りにはそこはかとなく香ばしい匂いが……。ミリヤムは仰け反った。

「…………肉ですか……」
「…………ああ」
「……朝からですか」
「…………」

 ギズルフは真顔をふいっと逸らせた。



「はあ、それで結局私めにどうしろと?」

 新たに与えられた粥を啜りながらミリヤムが問うと、ギズルフは耳を倒しきったまま言う。(どうやらかなり嫌われたようだ、とミリヤムは思った)

「俺はもう貴様の説得は面倒だ」
「……物凄いはっきり言いますねえ」

 さすがご嫡男様だなあ、とミリヤム。

「ゆえに、父に任せる。どちらにせよ、父はお前を連れてくるように仰せだ。食事が終わったら父の仕事の合間をみて引き合わせる。あまり粗相をするなよ」

 まあ無理だろうがな、と言ったギズルフは、それを聞いた途端ミリヤムが真っ青になってスプーンを取り落としたのを見てギョッとする。

「……なんだ、今度は何だ!?」
「……辺境伯様の事忘れてた……うっ……ヒキガエル……」
「……まあ、せいぜい道すがら覚悟しておくといい……食事が済んだら……っておい!?」
「うっ、また緊張で気分が……」

 青い顔でよろめいたミリヤムは、傍に居たギズルフの豊かな毛並みをがしりと掴む。

「お、おえっ」
「な、やめっ……!!」

 ギズルフはぎゃー!! と叫んだ。




「……」
「大丈夫でございますか? ギズルフ様?」

 ミリヤムは自身もげっそりしながら、前を歩く自分に負けぬくらいげっそりとしたギズルフを見上げた。
 幸いな事(?)に、昨日の昼から食事を取っていなかったミリヤムは、胃の中に吐くものが殆どなかった。二匙ほど口にした粥分は、辛うじてなんとか堪えることが出来たのだった。

 しかし正直ミリヤムも、もう粥を食べるような気にもなれず。食事は後回しにして、そのまま辺境伯の元へ連れて行かれることとなった。
 時刻はおそらく朝と昼の丁度境目といったところ。連れられて歩く廊下は石造りで所々に名のありそうな剣や甲冑、絵画などが飾られている。
 それはとても重厚で重苦しい雰囲気だったが……ミリヤムは目の前を歩くギズルフがあまりにげんなりしているので、束の間ヒキガエルの恐怖を忘れていた。

「ちょっと椅子にでも座られます? 水をお持ちしましょうか?」

 そう問いかけると、じろりと睨まれた。

「……俺に吐こうとした女は初めてだ……ヴォルデマーの女で無ければ食いちぎるところだぞ……」
「あらまあ、ではヴォルデマー様に感謝ですねえ」
「……貴様、分っているのか……? 俺様はこの領の嫡男だぞ、無礼にも程がある……」

 睨まれたミリヤムは、ほう、と言う。

「跪けとおっしゃるのなら幾らでも致す所存ですが」
「ぁあ!?」
「嘔吐事件は未遂ですが、謝れと言うのならば。私め、生粋の使用人ですもの」

 全然出来ます。と、ミリヤムは力強くドンと胸を叩いた。そうして「土下座コースもあるんですよ」……などと言いながら躊躇無く床に膝を突くもので……
 それを見たギズルフが思い切り顔を顰める。

「やめよ……! 貴様……ヴォルデマーの寵愛を受けているのではないのか!? 簡単に膝をつくな!」
「ちょうあい……」

 その言葉にミリヤムが床の上でぽっと赤らむ。

「寵愛? ヴォルデマー様から? 私めが……? ちょ、ちょっと、ちょ寵愛なんて……寵愛なんて……ひぃ! なんてときめく響き……もう、やだ! ちょうあ、ちょ、う……ぁ…………」

 そこまでにやにや悶えてミリヤムはハッとした。
 目の前で、ギズルフが変なものを見るような眼つきで己を見下ろしている。
 それに気がついた途端、ミリヤムの顔面からは大量の汗が噴出した。顔は茹でたように赤くなっている。

「……」
「……」

 ギズルフは無言でミリヤムを凝視している。
 ミリヤムは無言で汗を流している。
 無言の圧に居たたまれなくなったミリヤムは、思わず傍の大きな丸い犬の石像の後ろに頭を突っ込んでしゃがみ込んだ。
 
「……で? 何をしている……?」
「……別に……何でも……?」
「貴様は……意味が分からん……本当に……騒ぎすぎなのではないか? 青くなったり勇ましくなったり、赤くなったり……昨日も言ったが、その感情の起伏が恐ろしい……」
「ギズルフ様が! ギズルフ様が寵愛とか言うからでしょ!! どうしてくれるんですか!? ときめき過剰でめまいがします!!」
「……それは俺のせいなのか?」
「思いっきり貴方様のせいですが!? 申し上げましたよね!? そもそも昨日から私め、誘拐され、ギズルフ様に輸送されて酔い気味で、そこに肉とニンニク臭を叩き込まれて胃に打撃。そこからの不眠……誘拐だけでも緊急事態で精神に来るというのに……」
「まあ……そうか……」
「あ、思い出したらどっと疲れが……」

 昨日から己に降りかかった出来事を反芻したミリヤムは、途端ひどいめまいによろめく。思わず目を閉じると、まぶたの裏に星がチカチカ光った気がした。

「おい!?」

 そうして目の前で、行き成りばったりと引っくり返ったミリヤムに、ギズルフが驚きの声を上げた。

「おい女! どうした!?」

 慌ててその傍に駆け寄って。ギズルフはぐったりしたミリヤムを膝に抱き上げ、その顔を覗き込む、と、ミリヤムは────

 ……すうすう寝息を立てていた。

「…………。…………。…………寝……?」

 気絶するように寝入ったミリヤムに、ギズルフは形容しがたい顔をした。

「これは……大丈夫なのか……? 本当に寝ているのか? 寝ているだけなのか!?」

 巨体の人狼が、背の低い娘を膝に抱いてうろたえている。
 そんな寝入り方をする者は初めてだった。なんだか怖くなってきたギズルフだった。



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