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二章

30 笑む

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 馬場から一番近い外部への出入口は、良かったのか悪かったのか……正門だった。
 ミリヤムを抱えたままのヴォルデマーが馬で其処へやってくると、門番達がおやという顔をした。

「ヴォルデマー様お出掛けで……あれ? ミリヤムじゃねえか?」
「ん? どこだ?」

 熊の門番達に見つけられたミリヤムは思わず、びくりと身体を震わせた。いや、別に何も悪い事している訳ではないが、ヴォルデマーと共に騎乗している姿を見られたミリヤムの顔からは滝のような汗が流れ落ちる。ミリヤムはまだ隊服を着たままで……無性に恥ずかしかった。
 しかし指差す熊とは別の門番は首を傾げた。

「はあー? 違うだろ。だって、隊服着てる……見習い隊士だろ?」
「ん? そうか……? でも……」
「匂いも……違う。草っぱらの匂いがする……あれは草食系獣人だ。草食う奴」
「そうかなあ……あんなドングリみたいな目だった気がするけど……あいつこないだ壁の掃除の途中でいなくなったきりなんだよなー」

 壁の染みどうすんだよあいつー、などと言いながら、熊の門番達は門を開いていく。
 ミリヤムは一瞬あんたら全然人の顔覚えとらんやんけ、と言いたくなった。顔をあんなにまじまじ見ていながら分らぬとは、ローラントの“僕達そんなに人間の顔識別して無いよ”発言がいよいよ真実味を増す。
 
(……まあ、いいか)

 今は熊達の薄情さは後回しだった。

(………………えへ)

 ミリヤムは心の中でこっそりニヤけた。
 何せ、今自分はヴォルデマーに寄り添っているのだ。恥ずかしさも絶大だが、その久々のぬくもりは幸福感も絶大であった。ついさっきまで鬱々としていた気分が嘘のようだった。

(ヴォルデマー様ふかふか……ヴォルデマー様いい匂い……ヴォルデマー様凛々しい……ああっ! 死ぬ!!! ヴォルデマー様ふかふか……ふ……)

 ……というようなことをミリヤムが心の中でエンドレスで繰り返していると、不意に頭上でヴォルデマーがくすりと笑った。ぱちんと夢から覚めたように我に帰ったミリヤムは、ヴォルデマーの顔を見上げる。心の中を見透かされた様な気がして、どっと汗が出た。
 いつの間にか二人が乗る馬は砦の門を抜けて、うっすらと雪の残る道をゆっくり進んでいる。
 笑われて身の置き所がなさそうな顔をしているミリヤムに、ヴォルデマーはもう一度笑った。

「いや、面白い恰好をしていると思ってな」
「あ……ああ、う、はあ……」

 なんだそっちか、とミリヤムは安堵したが、そっちはそっちで恥ずかしかった。ヴォルデマーは愉快そう「似合っているぞ」と微笑む。

「ぅ、そ、うですか……」

 褒められて単純にも嬉しかった。少年隊士の隊服が似合って、さて女としてそれでいいのだろうかとも思ったが。

「ええと……エメリヒ坊ちゃんのを貸して頂きまして……その……今朝、朝ごはんをお届けに上がったら通してもらえなくて。それで腐っていたらローラント坊ちゃんが」

 するとヴォルデマーが、そうか、と呟く。

「では、顔を見せてくれる気になったのだな?」
「……」

 それが数日間顔を見せに行かなかった事に対する言葉だと理解して、ミリヤムは「ごめんなさい」と呟いた。

「……とてもお会い出来るような気分じゃなくて……」
「かまわない」
「え、でも……」

 ミリヤムは戸惑って顔を上げた。ヴォルデマーの「かまわぬ」という言葉の意味がよく分らなかった。
 ヴォルデマーを好きだと言っておきながら、フロリアンの事で悩む己は酷いやつだと思った。しかし酷いとは思っても、でも結局フロリアンの世話を焼かずにはいられないのだ。そんな自分はきっとヴォルデマーを苦しめている。
 けれど、ヴォルデマーは首を振って、もう一度、かまわないのだと言う。とても静かな言葉だった。

「悩みを強いているのは自分だと、分っている。私が、お前達の間に入り込んだのだからな」

 その言葉にミリヤムが瞬いた。

「別に強いられている訳では……」
「そうか? しかし、お前とフロリアン殿の関係はもう殆ど築かれていた。お前は彼を支え、そしてフロリアン殿はお前の心を支えていた」
 
 そうだろう、と言われミリヤムは考え込む。
 確かに、そうだった。少なくとも自分はフロリアンを支える事を使命として生きてきた。自分はいつでも彼という侯爵家の天使に夢中で、それが生きがいだったから。

「もし、お前がこの砦に来なかったとしたら、お前はそのまま侯爵邸で彼に添い続けただろう?」
「……そう、だと思います……」

 そう答えていいものか迷って、でもそれが真実の様な気がしてミリヤムは頷いた。婚姻を結ぶ結ばないを別にしても、おそらく自分はずっと彼の元を離れなかっただろう。
 しかし頷いてしまってから、ミリヤムはヴォルデマーの反応が心配になった。
 だが、彼は小さく笑っていた。彼にとって、それはもう分かりきった答えだった。

「だとしたら、やはり割り込んだのは私だな」

 彼は己によりかかっているミリヤムの栗毛の頭に、後ろからそっと頬を寄せて、少しだけ陰のある目をした。

「……お前がもし私と出会わずに侯爵邸で彼に婚姻を乞われていれば……お前はきっと彼を受け入れていただろう。たとえそこに気持ちの齟齬があったとしても、あの思いやり深い青年だ。きっとお前はいずれ彼を夫として愛するようになっただろうし、きっとお前を幸せにした」
「……」
「だから、かまわない。私が無理を乞うている。無理を通そうとする私がもがくのは当たり前だ」
「そ……、……、……」

 ミリヤムはヴォルデマーの言葉に何かを言おうとした。しかし、結局言葉は見つからなかった。
 もどかしそうに開いたり閉じたりする口に、ヴォルデマーはくすりと小さく微笑むのだった。


 ヴォルデマーはミリヤムを横抱きにしたまま、馬を緩やかな斜面を山脈の方へと歩かせていた。周りには葉の無い木々が立ち並んでいるだけで、馬の土を踏む音だけが響いている。
 この道をずっと行けば、国境線を抱く山々に繋がる。二人が騎乗したまま進むと、馬は少し木々の開けた場所に出た。
 二人は馬を下りると、暫しその景色に見入った。そこから見上げる純白の連峰の壮大な眺めにミリヤムはため息をつく。その頂きにはいまだ多くの雪が残っているが、それでも真冬に比べるとそれは徐々に薄くなっていっているようだった。

「この辺りから眺める山は美しいだろう? 春になれば……緑も芽吹きまた違った趣きがある」
「……はい」

 ヴォルデマーの言葉に頷きながらも、その春を自分は何処でどう過ごすのだろうかと考えるとミリヤムは少し不安だった。それを察したのか、ヴォルデマーが、そういえば、と話を変える。

「先程は……見事な啖呵であったな」
「? ……啖呵……?」
「ローラントに、」
「あ……ああ、あれでございますか……」

 指摘されたミリヤムはきまりが悪そうな顔になる。そういえばまた、ヴォルデマーの前で喚き散らかしてしまったのだと思い出して、自分にがっくりした。
 もっとしおらしく、優雅に出来ないものだろうかと思った。あの──ウラのように。
 そうは思うのに自分と来たら、臭くて、女らしくも無い恰好で。しかもあんな騒ぎを起こしてしまって。ミリヤムはため息をつく。
 
「申し訳ありません……坊ちゃん達にあんな……しかもローラント坊ちゃんは私の為にやったことで……坊ちゃん無邪気だから……奥方様のドレスも台無しさせてしまいました……」

 項垂れるミリヤムにヴォルデマーは軽快に笑う。

「謝る必要は無い。あれは怒って当然だ。母の服が少し痛んだくらいのことは何でもないが、それが美しくある事、清潔であることの下に、お前達ような働き手の存在があるということはローラント達も知っておく必要がある」
「……」
「あの叱咤には胸がすく思いだった」

 そう言う横顔を見上げながら、ミリヤムはため息をついた。

「ヴォルデマー様は……なんでも受け入れてくださるんですねえ……」

 寛大すぎる。と神妙な顔でそう言うと、ヴォルデマーが不思議そうな顔をした。

「奥方様のドレスの件は、はっきり言って懲罰ものの筈です。私自身は貧乏人もいいところですが、フロリアン様達のお召し物をずっと用意してきた立場ですから、あの奥方様のドレスが貴重な品で高額であることくらい分ります。それを何でもないなんて……最初の頃の雑巾の絞り汁混入未遂事件だって……もしそれが毒だったらどうするんですか? ヴォルデマー様はちょっと寛大すぎです。甘すぎです。調子が狂います」
「そんなつもりはないが……」
「……心配なんです。私はつっぱしる性質ですから……そのせいで無理をさせているのではないかって……何でもかんでも受け入れて下さる必要は無いんですよ。そりゃ、嬉しいんですけど。無理の上に成り立つ優しさは、結局悲しいんです」
「……そうか」

 ミリヤムが再びため息をつくと、ヴォルデマーはその頭を撫でる。

「だが、私は無理はしていない。寛大なつもりも無い。事実、お前の言った事は正しかった」

 ヴォルデマーはそう言い切った。

「本当に、痛快だった。私は──あの様に女人の発言に対して笑ったことは今だかつて一度も無かった。雑巾の件も、あまりに間が悪い上に、真剣なものだから笑えて……」

 ヴォルデマーは思い出しながら、そう笑う。するとその告白にミリヤムが驚いたように彼を見上げる。

「……え? 女性に笑った事が? 一度も、ですか?」

 ミリヤムは以前、イグナーツからヴォルデマーはとても女性に人気があるというような事を聞いていた。それだけに──女性に笑い掛けた事が無いという彼の言葉は俄かには信じがたかった。人気があるという事は近寄ってくる女性が多かったという事である。それに何せ、ミリヤムの前で彼は良く微笑むから──

「あ、爆笑という意味でございますか?」

 真顔で問い返すと、いや違う、と、また笑われる。その笑みにミリヤムは首を傾げた。こんなに笑うのに? と。
 ヴォルデマーは苦笑しながら答える。

「愛想笑い程度なら幾度もあるが、堪える程となると、まず無いな。愛想の無い性質ゆえ……それに、言ってしまえば、申し訳ないことに興味もなかった」
「……なる、ほど……?」
「……ゆえに、」
「わっ!?」

 言いながら、ヴォルデマーは唐突にミリヤムを抱き上げた。己より少し高くなった娘の驚いた顔を見上げながら、ヴォルデマーは嬉しそうに微笑む。

「お前は手放したくない」
「お、おおぉう……」

 見つめられたミリヤムは一気に顔を上気させる。

「お前には興味がある」
「!?」

 とても、と、ヴォルデマーは囁くように付け加える。

「何故お前を見ると笑えるのか、食事が美味くなるのか、姿が見えなくなると辛くなるのか……もう答えは分かっているのにそれでも飽く事無く、私はお前に興味を引かれる。……ゆえに、私はお前を悩ませる」

 ヴォルデマーは、はっきりと言った。
 その表情にミリヤムは息を呑む。ヴォルデマーは幸せそうだった。自分を見上げながら、とても幸せそうに笑っていた。
 勿論未だ、問題の多くは解決されていない。けれども、その黒い毛並みの人狼は、今目の前にミリヤムが居る事を、心から喜んでいた。それが、ミリヤムにもはっきりと分った。
 ヴォルデマーは微笑む。それは人とは違ったが、そこに浮かぶ幸福な感情はミリヤムとなんら違わなかった。

「私はお前をフロリアン殿にも、もしそれ以上にお前に相応しい男が現れたとしても、その誰にもお前を渡したくない。私は必ずその者の前に割り込むだろう。寛大に身を引くなどということもなく、そしてお前を困らせるのだな」
「ヴォルデマー様……」
「寛大でなくて、すまぬ」

 ヴォルデマーはそう笑って、
 
 そっと、ミリヤムにくちづけた。


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