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二章
26 朝食の行方
しおりを挟むその日のまだ日も昇らぬ早朝。
ミリヤムは私室の己の寝台を早々と抜け出していた。寝ているカーヤを起こさぬように衝立の陰で小さな明かりを点けて、いつもより少しだけ丁寧に身支度を整えた。
それから暗い廊下に出た彼女が向かった先は、フーゴ(料理長)の所だった。
調理場では既に仕込みを始めた料理人達が働いていて、忙しそうに厨房の中を行きかっていた。
「おう、来たか……」
ミリヤムに気がついたフーゴが顔を上げて彼女に声を掛けた。
フーゴは最近食事時にやって来るミリヤムを見ると、少しだけ複雑そうに強面を崩す。相変わらず衛生面でのチェックは厳しいが。
「……手は洗って来たか?」
「は! ばっちりでございます帝王様!」
さっと両手を掲げて見せると、フーゴが「よし」という。もう「豚帝王」という渾名には諦めがついたようだった。
帝王のチェックを潜り抜けたミリヤムは、厨房の端を借りてヴォルデマーに簡単な朝食の準備を急ぐ。パンにチーズに木の実、簡単な野菜料理を一つ。
昨日まではそれに短い手紙を添えて、イグナーツかカーヤ達に届けてもらった。
しかし、今日こそは自分で届けに行こうと──ミリヤムは決心していた。
ミリヤムがヴォルデマーのところに行かなくなって今日で三日目。思わぬ客人や不測の事態も相まって、思考がなかなか纏まらなかった。
しかしそれももう三日目だ。ヴォルデマーにはきちんとその理由も話していない。ミリヤムは一度それを話してみようと思った。はっきりいって思考が纏まったかと言われれば纏まってはいない。
だが、それでも、己の戸惑いや行き詰まりもヴォルデマーに打ち明けたかった。あの懐の大きな人狼は、きっとそれを受け止めてくれる様な気がして。
「は─……」
ミリヤムがため息をつくと、それを耳にしたフーゴがギラリとミリヤムを睨む。
「生意気に大きなため息つきやがって……ため息つきたいのはこっちなんだがな」
「はあ……如何なさいましたか。帝王様」
ミリヤムが問い返すと、フーゴが芋の皮を剥きながら大きな鼻でため息をつく。
「……昨晩の晩餐ではヴォルデマー様は料理に殆ど手をつけなかった。まったく……料理人泣かせだよあのお方は……」
「そうでございましたか……」
「奥方達にせっつかれて少しはお召し上がりになったが……そういう食べられ方は料理人としては寂しいもんだ。何をこじらせたのか知らんが……さっさとヴォルデマー様のところに戻ってやってくれ。もう俺が作ったもんでなくてもなんでもいい。あの方が食事をしないとこっちの胃が痛くなっちまう……」
「……すみません」
眉間に皺を寄せてぶつぶつ言っているフーゴにミリヤムは頭を下げる。
ミリヤムだって本当はこんなに長引かせるつもりはなかったのだ。昨日も色々あったが、晩にはヴォルデマーのところに行こうと思っていた。
しかし、アデリナの来訪で砦の使用人達は皆急激に忙しくなってしまった。特に昨晩は彼女達を向かえる特別な晩餐が開かれて、使用人という身分のミリヤムはその準備や後片付けに奔走せざるを得なかったのだ。
勿論ヴォルデマーの方でも、当然己の母親の為の晩餐に出席しないわけにはいかなかっただろう。とても会いに行って共に食事などという状況ではなかった。
「……晩餐か……」
昨晩の様子を思い出して、ミリヤムが呟く。
ミリヤムも、給仕の為に会場となった食堂には何度か足を運んだ。
ヴォルデマーは仕事の為にぎりぎりまで会場には訪れなかったようで、結局その姿を見ることは出来なかったが。その代わりにミリヤムが目にしたのは、その彼の空席の隣に座る、着飾ったウラだった。
ああ、あの人の隣に彼が座るのだな、と思うと、やけに胸が痛かった。
ウラは傍に座っているアデリナとにこやかに会話していて。自分にはそれにのんびりため息をついている暇もなくて。
そうしたウラと自分との差にもミリヤムは小さな落胆を感じた。自分はあの煌びやかな席に座る側ではなく、その席を用意する側なのだ。
「……あー沈むな沈むな……!」
ミリヤムは思い出した憂鬱を振り払うように頭を振った。
「……こんなこと、気にした事もなかったんだけどなあ……」
これまでだって侯爵邸で、多くの貴族貴人の祝いの席や宴の準備世話を担ってきた。それは当たり前のことで、こんなに己にがっかりした事はなかった。
でもミリヤムにはその理由は分っている。
きっと自分はヴォルデマーの隣に当たり前に座れるウラが羨ましいのだ。彼の母に喜んで受け入れられる立場を持ったあの美しい人狼が。
「……はー……無意味な事を言いたくなる……」
ミリヤムは今日一番の深いため息をついて、そして手に持った包みを軽く睨んだ。
兎に角、今は夕食をろくにとらなかったというヴォルデマーが心配だ。
ミリヤムはフーゴに頭を下げると、出来上がった包みを手に、調理場を後にした。
進む廊下はまだ薄暗い。だが、きっとあの勤勉な砦長はこの時間でも執務室で仕事をしているのだろう。
もしかしたら──急に来なくなったミリヤムの事を怒っているかもしれない。フロリアンとの間にあった事も、聞けばとても怒るかもしれない。昨日入浴場で宣言したように、ミリヤムはフロリアンに対する自分の愛情も、隠すつもりはこれっぽっちもない。もしかしたら本当に、放り出されるかもしれなかった。いくら懐の深い人でも限界はあるはずだ。
(……でも……)
それでも今はとても会いたかった。
「怒られてもいい、また一緒に……ご飯食べたい……」
そう言葉にすると、いよいよ堪らなくなって。締め付ける胸の痛みをこらえる様に、ミリヤムは息を吐いた。
「……え?」
もう少しでその扉が見えるという所で──ミリヤムは戸惑って立ち止まる。
ヴォルデマーの執務室のある階へ辿り着くと、そこにいた数人の兵に行く手を阻まれた。驚いた彼女が立ち止まると、そこで見張りをしていたらしい彼等は、「これより先へは通せない」と首を振る。彼等は隊士達とは違う服装で、皆、人狼だった。それがアデリナが連れて来た彼女の手勢であることは明白である。
困惑したミリヤムは、ならばとせめてこれをヴォルデマーに届けて欲しい、と持参した包みを差し出した。しかし、彼等は首を横に振る。人狼兵達は、砦長は奥方達と食事をするからそれは不要だと断じた。彼等は明らかにミリヤムを認識していて、拒絶していた。それが誰の命によるものなのかもまた明白だった。
「……」
ミリヤムは包みを持ったまましょんぼりしていた。
何とか持ち前の小回りの良さとすばしっこさで此処を突破できないかとも思ったが、人狼兵達はじっとミリヤムを注視していて隙が無い。これまで幾度も風呂場で隊士達を追い回したミリヤムも、流石に帯剣した彼等を相手に侵入行為は危険を伴なう。
ミリヤムは考えた。例えば今此処で、ミリヤムが大声でヴォルデマーを呼べば、きっと彼は気がついてくれるだろう。執務室は目と鼻の先だ。ヴォルデマーが空腹になるくらいならやってみようか、と思ったのだが──
「……それは……やっぱり駄目、か……」
そんな事をしてしまえば騒ぎが大きくなるのは目に見えていた。こんな早朝にはまだ其処に夫人達はいないだろうが、あの兵達の様子では、報せはすぐに客間にいる彼女達のところまで届くだろう。
少し顔を合わせただけのミリヤムにも、アデリナが厳しい人物であることは良く分った。その騒ぎのせいでヴォルデマーの気を煩わせるのはとても嫌だった。
「……どうしよう……」
だが確かに、人狼兵達の言う通り、ヴォルデマーはアデリナ滞在中は彼女と食事を共にするだろう。それで彼があまりにも食事をとらなければ、彼女達は黙っていない気がした。フーゴも昨夜の晩餐で奥方にそうするように言われ、ヴォルデマーが食事をしたと言っていた。
「ヴォルデマー様も……お母上の言う事ならお聞きになる、のかな……?」
しかし今日こそは会いに行きたいと思っていたミリヤムは、酷くがっかりした。
けれど、考えてみたら、あの奥方が今の状況でミリヤムをヴォルデマーに会わせようとするわけが無かった。
「え……それではもしかして──アデリナ様がいらっしゃる間はあの鉄壁包囲網が解除されない……?」
ミリヤムは愕然とした。
これではいつ彼に会うことが出来るかも分からない。
「………………どうしよう……今ならやけ食いが出来る……」
ミリヤムは手の中の、贈り先を失った朝食の包みを見下ろして呟いた。しかし、食欲は沸かなかった。
「……仕方ない……ローラント坊ちゃんでも肥やしに行こう……はー……」
ため息をついて、ミリヤムは身を翻し、重い足取りで階段を下りていくのだった……
「……ふぅん、それで……僕の所に来たの?」
ふっかりした白豹は、談話室の椅子の上でミリヤムが手渡した包みの中身を順調に平らげながらそう首を傾げた。
ミリヤムはその目の前で洗濯物を畳みながらどこか上の空で頷く。
「ええ、まあ……今、私めは非常に寂しくてですね……坊ちゃんは恰好の餌食……いえ、癒しだったわけです……そのふっかりした毛並みの下につまったぽよぽよの三段腹を思うと気持ちの棘がやわらいで行く様な気がします。はー……」
「そりゃ僕は可愛いけど。そんな元気無さそうに言われてもなー……僕は食べ物を貰えて嬉しいよ? でもミリー、僕との愛を深めている場合なの? あの怖そうなお姉さんヴォルデマー様にびったりだったよ? あれがいわゆる……女豹てやつだよね?」
「いえ、狼ですってば。豹はご自分でしょう……仕方ないじゃありませんか、ヴォルデマー様には近寄らせてもらえないし……フロリアン坊ちゃまの所には行きづらいし、ルカスはぴりぴりして直ぐ怒るし、イグナーツ様はアデリナ様に顎で使われておられるし……ローラント坊ちゃん達くらいしかお話聞いてもらえないんです」
「おばあちゃん達は?」
「……それが何故か傍にいるとすぐ、お茶いれたり、老眼鏡をとりに行く事になったり、足つぼのマッサージになってしまって……」
「ああ、おばあちゃん達ちゃっかりしてるからね」
「ローラント坊ちゃん……もう、どうしたらいいんでしょうか。もやもやします! ヴォルデマー様にもうこのまま会えなくなったらどうしたらいいんですか!?」
自分は主に冬季が明ければ邸に戻すと言い渡されている身だった。もし奥方達が春まで砦に滞在していたら、それも無いとは言い切れない。
「あ、私めなんか嫌な予感がしてきました……! 奥方様達と、坊ちゃまはまだしもルカスの奴が結託でもしたら、なんか本当にそうなりそうな気が……」
「あー……怖い組み合わせだねえ。凄く強そう。ミリー太刀打ちできるの?」
「現実的に考えて、兵力、財力、影響力、あと美貌では絶望的です……あと身体能力でも無理ですね……」
相手は人狼族である。それを聞いたローラントはけろりと言った。
「吃驚するくらい勝ち目が無いね」
「う、」
言われたミリヤムは洗濯物につっぷした。
「……泣ける!! ローラント坊ちゃんがはっきり言う……!!」
ローラントはよしよしとミリヤムの頭を撫でる。
「どうしよう! 坊ちゃんと話していると不安が掻き立てられて来ました……! ぽっちゃりもふに癒されにきたのに!!」
「ごめんね、僕、正直者だから。うーん、でも……そうだなあ…………あ、」
その時ローラントが何かを思いついたように手を叩く。其処に持っていたはずのパンはもう既にない。
「そうだ……」
「……? なんでございますか……?」
半べそかいた顔を洗濯物から上げると、少年はミリヤムの頭から足先までをじろじろと眺めている。
「……うーん……このまっ平らさ。いける……」
「……坊ちゃん……? 失礼千万という言葉をご存知ですか……?」
拳を握って何かを確信している少年にミリヤムは真顔になった。しかしローラントはにやりと笑う。
「ぐふふふふ」
その笑い声にミリヤムはぎくりとした。
「……怖、ローラント坊ちゃんが何かまた良からぬことを考えている……」
「ふふふ……良かったねえミリー、まっ平らで。ぐふふ、ぐふふふ」
「怖……怖い……」
白ぽちゃの悪そうな顔に、嫌な予感しかしないミリヤムだった……
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