偏愛侍女は黒の人狼隊長を洗いたい

あきのみどり

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二章

25 フロリアンとミリヤムの攻防

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「はい此処まで」
「へ……?」

 制止されたミリヤムはきょとんとした。もう其処に入浴場の入り口が、という時である。
 振り返った娘の間の抜けた顔に、フロリアンは内心で噴出しつつも、にこりと穏やかに微笑んで己の手を握る娘の手をほどかせた。

「ミリーは此処まで」
「え? 何故にございますか?」

 ミリヤムはぽかんとフロリアンを見上げている。
 その言葉に主は突っ込まなかったが、そのやり取りを見ていた通りかかりの隊士達は皆、内心で突っ込んでいた。そこが男性用の浴場である限り、何故にございますかもくそもない。皆、一様に生暖かい目でミリヤムを見ていく。

「あいつまたやってる……今日のターゲットはフロリアン殿か……」
「聞いたか? あいつ、熊連中を落としたらしいぞ。一緒になって正門で好き勝手やってたらしい……」
「え? なんだそれ、痴女と熊って……どういう組み合わせだよ……」

 怖……と、遠巻きに怯えられていることにも気づかずに、ミリヤムはフロリアンに食い下がった。

「坊ちゃま、あの、だって坊っちゃま泥だらけで……片腕も負傷されておりますし、お一人では大変ですよね……?」

 確かにミリヤムが言うとおり、土砂崩れの後処理をして来たという主は手足に留まらずあちこちが泥だらけだった。金の髪や顔にもあちこちに泥が跳ね飛んでいる。正直ミリヤムは主のその姿だけでも血の気の引く思いだが、彼の利き腕の傷はまだ痛む筈だった。
 此処がもし邸なら、周りの使用人達は大慌てで彼の世話を焼き、彼の身を清めることに奔走したはずだ。それをこのベアエールデでミリヤムが同じ様にしたとしても、なんらおかしな事だとは思えなかった。むしろ当然と言える。
 しかし、フロリアンは首を横に振る。

「一人で出来るよ」
「え、でも……」

 戸惑っているミリヤムに、フロリアンは微笑む。

「あのね。何故君が此処までかって言うと、私が男であり、ミリが女性だからだね」

 その一見当たり前で単純な解答にミリヤムが怯む。昨日、同じ様に彼から聞いた言葉の数々がそこに重なったからだ。
 しかし今はそれどころではない、と、ミリヤムは激しくなってきた動悸を押し殺し、フロリアンを見上げる。今その主は泥という何の雑菌が潜むかも分らぬものに汚染されかけている。

「……いいえ、私達はその前に主と使用人です。使用人が主をお世話するのは当たり前でございます! 私はその為にいるのですから!」

 反論は猛々しかったが、その顔からは汗が大量に流れていた。フロリアンは心の中で「頑張るなあ」と思った。しかし、彼は微笑み頷きながらも、それを斬る。

「そうだね。そして私は求婚者で、君はそれを乞われたひとだ」
「!?」

 ミリヤムは目を瞠って仰け反った。

「それなのに無防備にも相手の背を流そうと言うのはちょっと迂闊すぎるんじゃないかな」
「……う……」
「今ミリに素肌に触れられたら、私は君に何もしないとは約束出来ない」
「お、おおぉ!?」
「それとも私に我慢しなくていいとでも?」
「が、我慢……? 我慢を必要とするようなものが何処に!?」

 うろたえたミリヤムはそう言って己を見下ろした。自慢じゃないがこれまで男湯に乗り込み続けて無事だった自分は伊達じゃない、とミリヤムは思っている。要するに凹凸に乏しくて、色気に乏しい。
 そう言ってやると今度はフロリアンが不思議そうな顔をした。

「そう? 私にとっては誰よりも魅惑的だよ。だから今困ってる」
「!?」

 あっさりと言われたミリヤムは一瞬後ずさりそうになった。が……使命感という重りにそれを何とかぎりぎり堪える。

「……いや……やっぱり駄目です! 坊ちゃまは腕を負傷しておいでなんですよ!?」
「怪我くらい……」

 大丈夫だと、首を振ろうとするフロリアンを、ミリヤムは真剣な顔で見た。

「いいえ。怪我をして、それでも泥も厭わずに労働に励んでお帰りになった主人を放っておくなんて……私には無理です。それはしてはいけないと思います!」

 ミリヤムは己のエプロンを握りしめる。それを見たフロリアンは僅かにため息をついた。
 
「……ではヴォルデマー様は?」
「!?」

 静かに出された名を聞いて、ミリヤムが分かりやすく動揺した。

「ミリヤム、君ヴォルデマー様に求婚されたのではないの? きっとミリが私の世話をするのヴォルデマー様はお嫌なんじゃないかな」
「……それは……」
「私だったら嫌だな。きっととても心配だし、嫉妬してしまう」
「……」

 フロリアンが見つめる前でミリヤムは押し黙り、俯いた。フロリアンはその娘の素直な反応に、一瞬寂しげに微笑する。
 そうしてミリヤムも、そのまま大人しくなる。かと思われたが……
 ミリヤムはぐわっと顔を上げ、カッと目を見開いた。

「……申し訳ありませんもうそれやってしまいました!!!」
「……え?」

 一瞬鎮火しかけたミリヤムの瞳の勢いが再び増したのを見てフロリアンが瞬いた。

「ヴォルデマー様のお背中流し済みです! というかもう、とうの昔に丸洗いにしておりましてですね……!! いえ、もうそれはもうやってしまった事は仕方ないのです。懺悔です。申し訳ありません!!」
「……」
「しかしですね、迂闊なんて心外です! 聖君や天使でなくても、坊ちゃまは私にとって大切なお方なんです。それは……誰の求婚を受けるかで消えてしまうものですか!?」
「……」
「……正直言えば、今は坊ちゃまのお顔を見るのは大変気まずいです。とっても複雑です。……でも……それでも、それと坊ちゃまの健康や快適さを天秤に掛けるとやっぱり其方が重いです!!」

 ミリヤムは、今度は頭を抱えしゃがみ込んでキレている。
 葛藤はあった。主の気持ちを知ってから、まだ一日程度しか時間が経っていない。
 また昨日のように思いを語られたらどうしていいのかもわからないし、無論──ヴォルデマーのことも考えている。自分のこのこだわりのせいで悲しませるのも勿論嫌だ。
 しかし、物心ついてからこのかたずっと、この只一人の青年の一挙手一投足に気を配って生きてきた。健やかであるか、不快なことはないか、不便に思っていることはないか。
 邸から遠いこの砦まで全財産を賭し、雪道かき分けてやって来たのだって全ては彼の為だった。
 それら全てフロリアンが大切だからだ。

「ミリヤム……」
「ヴォルデマー様には誠心誠意謝ります! 許していただけなければ許してもらえるまで! でも、坊ちゃまの為に多くの羞恥や弱音を乗り越えて生きてきたのが私です。目の前で坊ちゃまが泥だらけだったり怪我していたら放っては置けないのが私なんです! そんな事を考えると今にも酸欠でぶっ倒れそうなのが私めという奴なんです!! それでもそれが駄目だと言われるのなら……仕方ありません。謹んで放り出されます」
「…………」

 ミリヤムはいつの間にか正座していて。そしておもむろに立ち上がりフロリアンの腕をがっしりと掴む。

「坊ちゃまお願いです! 出来るだけ気配を無にします! 私の事は風呂場の海綿か空気とでも思って頂ければ……いやっ、もういっそ触りたければお触り下さい!! 海綿ですから平気です!!」
「……」

 ミリヤムがそう言い切った途端、周囲で「おお……」と賞賛の声が沸き起こる。いつの間にか見物人化していた通りがかりの隊士達がミリヤムの啖呵に手を叩いている。

「漢らしい……」
「何か分らんが、雄雄しいな……」

 そんな不可解な喝采の中、無言で己の侍女を見つめているフロリアンは──非常に困っていた。

「…………参ったな……」


 触りたければ触れとは、なんて事言うのだこの娘はと、フロリアンは心の中で苦悶に呻く。
 何もしないと約束出来ないという発言は、決して脅しではなかった。ミリヤムを可愛いと思うし、愛おしいと思う。フロリアンも、普通の男性が好いた相手に抱くような感情を普通に持ち合わせていた。ただ、彼は少しそれを隠すのが上手いのだ。
 フロリアンはため息をつく。どうしてこうも自分を激しく慈しむ娘と、己の持つ彼女を愛おしむ感情とが上手く合致しないのだろう、と。
 お互い想い合っている筈なのに、それはどこか行き違う。行き違っているのに、それでも「天使でなくとも大切だ」などと言われると、どうしても嬉しくて。そして尚の事困り果てるのだった。
 正直なところ恋敵たるヴォルデマーのことは敬愛しているが、今は二の次だ。ただ、自分の想う娘が、自分の怪我のせいで想い人から不興を買うのは心が痛む。

(……困ったな……)

 そうしている間にもミリヤムはフロリアンの負傷していない方の手を取り、入浴場の中へ引っ張っていこうとしている。

「さ! 坊ちゃま!! ばい菌に殺られる前に綺麗にしましょう!!」
「……」
「さあさあ!」
「……では、一緒に入ろうか」
「はい! 一緒に──…………ん……?」

 その微妙な言い回しにミリヤムが首を傾げた瞬間、フロリアンは彼女の手から自分の腕を抜き去った。

「え? ぼ……」

 っちゃま、とミリヤムが口にしようとした瞬間──彼女は膝裏から足をすくわれて、身体が傾くのを感じた。その視界の端に、金糸が煌びやかに空を翻るのを見て──……いつの間にか天井を見上げている自分に気づく。

「……へ?」

 ミリヤムは口を開けてぽかんとした。直前まで彼女を満たしていた怒りにも似た使命感を忘れミリヤムは思った。
 
 今、己の耳と頬、いやそれどころか身体の片面全てが触れているものは──何だろう……? 
 
 以前、死ぬほど好きだわ! と、自ら豪語した馴染みある香りが自分を包んでいる。ミリヤムは──強張った顔をそのままに、軋む音がしそうな動きで目だけを動かした。
 
「……」

 そこで己を見おろす香りの主は、青緑の瞳を少し細めて微笑んでいた。ミリヤムの視線が自分に向いたのを見ると、彼は笑みを一層深める。泥に汚れていても消せない美貌だった……

「…………目の細胞が根絶させられそう……」

 眩すぎて、とミリヤム。ミリヤムは、この穏やかな青年が、自分の想像を遥かに超えて素早いのだという事を昨日に引き続き再び思い知った。
 そんな彼女にフロリアンは提案する。

「どうしても一緒に来るって言うんだったら二人で入ろう」
「……な……な、んで……」

 ぎしぎしと硬い動きで気の遠のきそうな顔をしている娘に、フロリアンは首を傾げてみせる。

「忘れたのミリ、君も人のこと言えないくらいに真っ黒なんだよ」
「ぉ、おおお……」

 指摘された娘は、はたと我に返り己の恰好を見た。そういえば熊隊士達との清掃活動で自分も人の事を言えない位に汚れていたのだと思い出す。
 フロリアンは清らかな笑顔のまま事も無げに言った。

「今日も仕事を頑張ったんだね。私が綺麗にしてあげる」
「は、き!!?」

 ぽかんとしていたミリヤムは時間差で目を剥いた。が、その間にフロリアンは娘を横抱きにしたまま入浴場の脱衣所へと足を踏み入れていた。

「ぼ、ちょ、ぉええ!?」
「おや、何を動揺しているの? さっき触るなら触れと言わなかった?」
「かかか、海綿としてでございますよ!?」
「うん。じゃあ私もそれで」
「!?」

 フロリアンは金の髪を揺らし、さらりと言う。
 聞いたミリヤムは愕然としてる。
 自分で言っておきながら、それが如何に無理難題だったのかを突きつけられた形だ。ミリヤムの頭の中はぐるぐる渦巻いていた。ここは信念を貫きその無理難題に海綿として挑むべきか、或いは信念を曲げて逃げ出すべきか。
 しかしそうしている間にも主は脱衣所の中を進んで行く。
 ミリヤムは若干現実逃避的に思った。あーこれいつもと反対だぁ……と。いつも自分が隊士達に襲い掛かっているのことと殆ど同じことだなと。その頭には露出に対する抵抗感の男女差やらは取り合えず思い浮かばなかった。
 
「さてと……ではまずその汚れた服を脱いでもらおうかな」
「!?」

 フロリアンは脱衣所の隅まで歩いていくと、其処に据えられている椅子の上にミリヤムをそっと下ろした。
 そうして微笑んだまま、口に出して「あわあわ」している娘の頬に、つと指を添えた。

「!?」 

 その瞳と指先がゆっくりと下がって行き──ミリヤムの襟元のボタンに掛けられて、それが容易く外された──
 時がミリヤムの限界だった。その途端、ミリヤムが猫のように飛び上がる。

「っっっ!!! 魔王がっ! 羞恥の魔王が降臨するっ!!」

 ミリヤムは真っ赤な顔で叫び、そのまま椅子から転げ落ちた。そうして床に足がつくと一目散に脱衣所から飛び出して行く。途中、幾人もの隊士達を跳ね飛ばしたような音がした。
 
「……」

 残されたフロリアンは、しばしその方向を見つめていたが──

「…………ふ」

 不意に小さく噴出した。

「……やれやれ、まったく……危なかった……ふふふ」

 苦笑と共に頭を振って、そして少し熱の篭ったため息を落す。と──

 おおお、と、そこに賞賛の歓声と拍手が沸きあがる。

「……すげぇ、フロリアン殿が……ミリヤムを追い払った……!」
「流石だな……おい! 成程、色気で退散させるのか……」
「いや、お前には無理だぞ、絶対。ぬいぐるみふざけるなと言われるのが落ちだ」

 やめとけ、と野次馬達。
 そんな彼等に囲まれて。ベアエールデ隊士間で、フロリアンの株が鰻上りだった。






 そうして幾らか時間が経った後──
 ミリヤムはフロリアンの代えの衣服を持って、おずおずと入浴場まで戻って来た。逃げ出したものの彼が怪我した腕でちゃんと入浴できたのか心配だったのだ。
 決まりの悪そうな顔で廊下からその出入り口を伺い、行ったり来たりを繰り返している。

「……どうしよう……」

 心配で見に行きたいが、さっきの事を思い出すとどうしても二の足を踏んでしまう。あんな風に啖呵を切っておきながら、逃げ出した事も壮絶に情けない。しかし、自分が脱がすことは想定していても、脱がされるなんてことは全くの想定外だったのだ。

「……うぅ……海綿になりきれなかった……でも……清潔なお洋服もお届けしたいし……ぐっ……どうしてこんな時にルカスは居ないのよ!?」

 入浴場の入り口前で地団駄を踏む。
 しかしずっとそうしていても埒が明かない。フロリアンが中で着替えがないと困っていたらどうしようと思った。そうなれば彼はもう一度あの泥まみれの服を着てしまうかもしれない。

「ひっ、ゾッとする! ……ええい!! 侍女魂!!! 羞恥の限界を超えろ!!!」

 雄雄しく叫んだミリヤムは、勢い込んで入浴場へ突進した。ひしめきギョッとしている獣人隊士達の間をすり抜けて、其処に主を見つけられなかった娘は、勢いのまま脱衣所を抜け洗い場の方へ乱入し──……

「ひっ……!!??」

 ミリヤムはそこで見た光景に短い悲鳴を上げた。

「あれ? ミリ?」

 その視線の先で、ミリヤムに気がついたフロリアンが困ったような顔で笑っている。

「あんなに言ったのに……結局来ちゃったの?」

 困った子だなあ、と苦笑する主の姿に、ミリヤムは血の気が引いて気絶しそうになっていた。
 フロリアンは──浴槽の中にいた。広さのある浴槽で、他の獣人隊士達と共にほのぼのほかほかと湯に浸かっている。
 
 ただし──
 
 湯は、

 茶色だった……
 
 ミリヤムはくらっと来た。

 それは沢山の毛が浮いて、普段どおりの濁りっぷりで……
 そこにフロリアンが「大勢でお風呂って案外楽しいね」と言いながら、普通に、楽しそうに入っているのを見たミリヤムは──……完全にノックアウトされた。
 海綿になりきり共に風呂場に行かなかったことを壮絶に後悔し、怒った亡き母に激烈に叱咤される夢を見た。




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