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37 キャスリンの天秤
しおりを挟む自分を抱きしめながらぶつぶつと続けられる男の言葉は、どこか言い訳めいて聞こえた。
クラリスには、まったくもって意味がわからない。
先ほどまで、王城で二人はかなり親密に過ごしていたはずなのに。その時感じた王太子の熱心さが、今はどこか薄らいでいるように思えた。
どうやら今の彼は、自分を抱きしめていながらも、心の中では別の女の──王女ローズのことを考えているらしいと察して。クラリスはとてもとても気分が悪かった。
「…………」
そうして、終始どこか気もそぞろで愛をささやき、帰っていったセオドアの後ろ姿を往来で見送ったクラリスは。王太子らの一団が見えなくなると、すぐさま笑顔を消し、馬車の中に駆け込んでいら立ちを露わにした。
それは王太子の前で我慢した分、余計につのってしまって。馬車の中の座席に置いてあったクッションの上に乱暴に腰を下ろした時には、クラリスの愛らしい頬はすっかり強張り、瞳にもふつふつとした怒りが煮えたぎっていた。
そこへ、王太子に馬車の中から追い出されていた女中が戻ってくる。娘は、令嬢の血の気の引いた顔を見て、怯えた様子で彼女に声をかけた。
「お、お嬢様……?」
「…………っなんなのあれは……!」
呼ばれた途端クラリスの怒りが爆発して、怒鳴られた娘が首をすくめた。
クラリスは察した。あれはきっと王太子と王女ローズとの間に何かがあったのだ。
それが何かはわからない。だが、『嫉妬』という言葉が出てきたからには、彼はローズに惹かれたということになる。
そんな自身に戸惑って、己の気持ちを確かめるためにわざわざクラリスを追いかけてきたに違いない。
王太子の行動をある程度正確に推測したクラリスは、歯噛みする。ショックだった。今の今まで美しい楽園にいたのに、いきなり戦場に叩き落とされたような、そんな心地である。
自分にすっかり夢中だと思っていた王太子が、自分ではない女に……しかも『君の足元にも及ばぬ女だ』と、彼自身が常々軽んじていた女に、いまさらよそ見をするなんて。
クラリスは、これまで自分が他の女を出し抜くことはあっても、出し抜かれたことは一度としてない。そんな素晴らしい自分を抱きしめておいて、頭の中には別の女がいるなんて。とてもではないがこの令嬢には許せない扱いだった。
彼はクラリスのことを『愛している』と言っていたが、わざわざ城下まできたことが王太子の動揺を表しているようで心底腹が立つ。
自分への気持ちはそんなことをしなければ確信が持てない程度のものだったのか。
「あの女……私の王太子にいったい何をしたの⁉︎」
怒って吐き捨てる令嬢に、付き添いの娘は困惑していたが、またしても彼女は口出しは控えた。
娘からすれば、確かに王太子は強引だったが、あんなに熱心に愛をささやかれて、令嬢はいったい何を怒っているのだろうと不思議でならない。
だが、このプライドがそびえ立つ山のように高い令嬢は、普段から些細なことでよく怒る。もちろんそれは外面には現れないが……機嫌が悪いと、『そこに埃がある』だの、『お前の顔が気に入らない』だのと言って、下の者によく当たるのだ。
特に、彼女の実家が、男爵家という社交界では下に見られがちな身分とあって、他の高位な女性がことに関係してくると、彼女のイライラはひどくなる。どうやら今回のイライラには、王女ローズが関わっているらしい。ならば余計に口出しはまずい。こういう時は、調子を合わせるか、刺激しないように努めるに限る。
娘は令嬢をこれ以上怒らせないよう気をつけながら、静かに御者台にいる男に、馬車を発車させるよう命じた。
その間もクラリスは、けして外の男たちには見せぬ顔で憤慨しながら窓の外を睨んでいた。今、誰かが少しでも粗相をすれば、激しく叱咤し始めそうな顔つきだった。その刺すような眼差しの先には、遠くなりゆく王城が。
「……気に入らないわっ! 王太子も、あの女も……!」
いったいあの二人の間に何があったのだろう。
クラリスはドレスの上で拳を強く握りしめた。
(きっと王女ローズが王太子殿下に何か計略を仕掛けたんだわ……だって殿下はずっとあの女のことを嫌っていたのに……嫉妬なんておかしいじゃない!)
もしや先刻王太子に見せられたあの恋文も関係しているのだろうか。
クラリスはもしやと邪推する。自分もよく狙いの異性にやる手口だが……王女は騎士リオンと仲の良いところを王太子に見せて、わざと嫉妬させるように仕向けたのではないか。だったらあの恋文も、わざと王太子に手に入れさせたのかもしれない。
そんな考えに囚われると、クラリスの心の中には、王女ローズに対する憎しみが浮かぶ。
「許せない……」
自分の恋人になろうという男は、必ず自分のことを深く深く愛してくれなくてはならない。別の女に惑わされるなどもってのほかある。奪われるなんてことも、絶対に、あってはならない。
クラリスはさらに奥歯を強く噛み締め、瞳には涙を滲ませた。
「……王女ローズ……見てなさいよ! 思い通りにはさせないわ!」
──その時。王女の侍女キャスリンは、ある結論に達し、ふっと微笑みを浮かべた。
天秤にかけたのだ。
騎士リオンへの警戒と、王女ローズの健康とを。
その結果はすぐに出る。考えるべくもない。
いかに王太子のハニートラップがうっとうしかろうとも、まずは王女の健康第一。
ローズ自身は、王女としての大義が一番大切と考えているようだが……キャスリンは違う。王女のすこやかさ以上に大切なものなど、この世にありはしない(断言)。
……ハニートラップ? は! あの浅はかなクソ王太子の考える謀なんか、あとでどうとでも対処したらいい。
今は、とにかく。可愛い王女に元気になってもらわなければ、キャスリンもおちおち王太子を呪ってもいられないではないか。
ま……王女に気に入られた騎士のことは、正直少し気に食わないが、日頃から疲労とストレスを溜めがちなローズを癒してくれるというのならば──愛想くらいいくらでも振りまくというもの。
昔から、病は気からと言う。せいぜい彼には役に立ってもらおうではないか。
と、いうことで。
キャスリンは、今世紀一腹黒い笑顔でリオンにロックオンした。
「さぁさぁ♡ 騎士リオン様♡ とっととローズ様のところへ参りましょうか♡」
「…………」
その薄気味悪さはどうやらリオンにもなんとなく伝わったらしい。愛想笑いで自分を連れて行こうとするキャスリンに、リオンはすっかり人見知りを発揮し、表情を強張らせている。
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