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35 クラリス・レガーレ ③
しおりを挟む何事かと思い目を凝らすと、立派な葦毛の馬に跨った男が必死に彼女の名を呼んでいる。それが、先ほど王城で別れたばかりの王太子セオドアだと判別したクラリスは、驚いて御者に馬車を止めさせた。
お付きの娘も不安そうな顔をする。
「え……王太子殿下ですか? いったい何事でしょうか……?」
王太子が自ら追いかけてくるなんて、こんなことは初めてだった。娘は緊張した顔でクラリスに尋ねるが、彼女は少し煩わしそうに「さあ」と肩をすくめる。
「知らないわ。また私に会いたくなったのでは? あの方は直情的なところがおありだから本当に困ったものね。ご機嫌を取るこちらの身にもなってほしいわ。──ま、これも将来のためと思って我慢するけれど」
言いながらクラリスは、娘に鏡を取り出させて身だしなみを整える。口では面倒だと言いつつも、鏡に映る瞳には愉悦が滲んでいる。王太子は自分に夢中なのだとはっきり確信したという目であった。
しかしクラリスは、彼に好かれはしても、振り回されるのはごめんだと思っている。
目的のために王太子に媚はしても、いつでも自分が優位に立っていたかった。
そうであってこそ、思いのままに利益を得られるのだから。
そうしている間にクラリスたちに追いついてきた王太子は、馬車の横に馬を止め、すぐに馬上を降りる。
そんな彼を迎えようと、クラリスも馬車を降りようとしたが……。王太子は、クラリスの女中が馬車の扉を開けた瞬間にその中に押し入ってきた。
その強引さに、さすがのクラリスもギョッと目を瞠る。
「クラリス!」
「殿下? 何事ですか?」
王太子は、礼儀知らずにもレガーレ家の馬車の中に断りもなく乗り込んできたばかりか、そこにいた女中を乱暴に外に追い出してしまった。
二人きりになった車内で満足げな顔をする王太子に、クラリスは内心では舌打ちせんばかりに苛立った。いくら相手が王太子という身分でも、女性の乗る馬車にいきなり押し入るなど無礼極まりない。
だがクラリスは、心の中では辟易しながらも、ここで自分がどのように振る舞えば一番得なのかを考えることは忘れなかった。ここはまず相手の出方を伺うことにして。しおらしく戸惑ったような表情を作る。
「どうなさったのですか殿下。先ほどお別れしたばかりですのに……もう私に会いたくなってしまわれたの?」
小鹿のような瞳で上目遣いをして見せると、王太子は彼女をいきなり抱きしめた。
「!」
「よかった……クラリス会いたかった……」
「あらあら……」
一瞬セオドアの強引さにムッとしていたクラリス嬢ではあったが、耳元で囁かれた甘い言葉には悪い気はしない。そこまで自分に会いたかったのかと自尊心をくすぐられた令嬢は、一転(仕方のない人だわ)と、うっすら唇の端を持ち上げる。
婚約者のある男をここまで夢中にさせるなんて、自分はなんて罪な女だろうと大いに気分が良くなった。
ふと気がつくと、馬車の窓越しに、先ほど王太子に追い出された娘が不安そうにクラリスを見ていた。
クラリスは、王太子の腕に身を委ねたまま、その娘に薔薇のような顔をほころばせた。
──ほらね、言ったでしょ、王太子はこんなにも私に夢中よ。
私はね、その辺にいる娘たちとは格が違うの。王女にだって、負けやしない。
まるで──そこで見ている女中が、王女ローズであるかのように、クラリスは勝ち誇った顔を浮かべている。
自分の前途がいっそう輝かしく思えて、そんな未来を勝ち得る自分が誇らしくてたまらない。
──と、セオドアはクラリスの艶やかな赤毛の髪に頬擦りしながら、安堵したように息を吐く。
「間に合ってよかった……ああクラリス、やっぱり私が愛しているのは君だ!」
「殿下……」
つぶやかれた熱心な台詞に、クラリスも表情をうっとり輝かせる。この男はもう私のもの。そう思った。──が。
次のセオドアの言葉で、クラリスの薔薇色の頬は一気に色を失った。
「──そうだ、当たり前だ。君を愛している私がローズなんかを相手に嫉妬なんかするわけがない」
ホッとしたように洩らされた名を聞いて。途端、クラリスの顔が凍る。
「──は?」
「ははは、おかしいだろう? 一瞬でもあんな口喧しい女を惜しく思うなんて──まったくどうかしていたよ!」
つい冷えた声を出してしまったクラリスの変化に。王太子はのんきにも気がついていないのか、愉快そうな笑い声を立てている。
クラリスは……とてもではないが、笑う気になどなれなかった。
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