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24 言い訳と反論

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 王太子セオドア。その青年を見た瞬間、ヴァルブルガは端正な眉間にしわを寄せ、ギルベルトはほんの一瞬だけ不可解そうに目を細めた。
 王太子は普段、さまざまな計略をローズに差し向けてはくるが、基本的に自身は彼女を避けている。
 彼は自分の王族という身分には、ローズと違う見解を持っていて、その貴い身分に見合った振る舞いをしたいと考えている。それは誰よりも自分が尊ばれ、自由気ままに過ごすことが許されるべきということで、それに意を唱えてくるローズは彼にとってはとても煙たい。
 そんな彼女よりも、甘やかしてくれて、甘えてくれる娘たちのほうを好み、ローズのことは自分の後始末をしてくれる便利な存在くらいに考えているのだろうと、王宮に務めるものならば誰でも知っていることであった。
 だが、もちろんそんな王太子を快く思っていない者も多い。近衛騎士の長を務めるギルベルトも、ローズを抱えたまますぐに身体の向きを変えて王太子に向かって頭を下げたものの、心の中は複雑な思いであった。

「殿下」

 できれば、疲れ果てたローズを王太子の目からは遠ざけてやりたかったが、わざわざ話しかけてきた王太子がそれを許すわけがないし──……。何より。
 男の腕の中にいた王女は、つい今の今までぐったりしょんぼりと彼の懐で丸まっていたが──。

「殿下」

 凛とした声が腕の中から聞こえ、ギルベルトとヴァルブルガが、「ああ~やっぱり~」という顔をして天を仰ぐ。
 王太子の声が耳に届いた瞬間、ギルベルトの腕の中にいたローズの青白い顔からは疲労が消滅した。
 もう眉の一つですら持ち上げるのもつらいと言いたげだった瞳はカッと見開かれ緊張感に引き締まり、まるで空気の抜けた風船のようだった身体には急に針金でも通ったかのように背筋が伸びた。
 ギルベルトがあっと思った時には、ローズはするりと近衛騎士の腕から抜け降りていた。

「お、王女……大丈夫ですか……?」
「ローズ様……」
「大丈夫よ」

 気遣わし気な二人にそっと不敵に頷いて、ローズはその場で王太子に向かって膝を折り、頭を垂れた。しかし──あの笑みは虚勢なのである。根性で抑えられているが……王女の足が若干プルプルしているのを見て──。近衛騎士隊長と侍女は心の中でため息をついた。

「王太子殿下、ご機嫌麗しゅう」

 二人の不安を置いて、ローズはそつなく膝折礼を捧げる。そんな王女の姿を上から下まで眺め、セオドアはまた鼻を鳴らした。

「麗しいわけがあるか。なんだその汚らしい格好は。お前、その格好で私の婚約者を名乗っているのか? 図々しいにも程がある」
「申し訳ありません」

 煩わしそうな王太子にも、目線を下げたままのローズは素直に謝意を述べた。
 こういう時、ローズは王太子に言い訳をしない。
 傍で二人のやりとりを聞いていたヴァルブルガとギルベルトは悔しさを感じたが、それ以上の共通した見解は、今この場にキャスリンがいなくて本当に良かったということである。
 もし彼の侍女がここにいたとしたら、王太子に対する彼女の邪悪な呪いがまた一つ増えてしまうところ。
 そのようなことなどつゆ知らず。王太子はどこか含みのある顔で顎を上げ、ローズを嘲笑った。

「お前、いつも私に王宮にいる使用人たちも我らが民なのだから、感謝を忘れるなだの、情けない姿は見せるなだのと言っていなかったか? ではその有り様は? 汗臭そうななりをして、ギルベルトに随分面倒をかけているように見えるが?」
「面目ありません。弁解のしようもございません」

 深々と頭を垂れるローズの姿に、見ていた二人は居た堪れない。ギルベルトが前へ出た。

「殿下……ローズ様は鍛錬に打ち込んでいらっしゃったのです」

 ギルベルトは、自分は少しも面倒には感じていないと申し出るが、王太子はそれを無視した。ローズの肌に滴る汗と、汗で頬に張り付く髪を見て、いかにも汚らしいと言いたげに顔を歪めて大袈裟に笑う。

「何が鍛錬だ。女は淑やかであってこそだろう。そんな汚らしい姿を見せられて、これを妃にしたいと思う男がいると思うか? 私は心底がっかりしたぞ。こんな女が私の婚約者とは。やはり女は美しく楚々としていて、花のような香りがしていなくてはな。……私のクラリスのように」

 得意げに最後に出された名に、ギルベルトがハラハラした顔でローズを見た。
 すると、神妙な顔で頭を下げていたローズの、揃えて重ねられていた指先がピクリと震えるのが目に入る。
 ギルベルトは慌てた。さすがのローズもきっと傷ついてしまっただろう。彼は咎めるような目を王太子に向けた。

「殿下、お言葉が過ぎます。女性を並べて比べるなどという行為は男として恥ずべき行為です」

 すると、王太子はムッとした顔で近衛騎士を睨め付ける。

「なんだギルベルト、そなた私の言葉に異を唱えるのか? ただの近衛騎士の長如きが……」
「殿下を正しくお導きするのも臣下の務めにございます。懸命に励んでいるお方を貶めるようなお言葉はいかがなものでしょうか」

 ギルベルトとて、リオンたち同様に幼い頃から見てきた主君の息子を嫌いなわけではない。ローズ同様、彼も王太子に国を導くためにふさわしい人格と品格を備えてほしいと真心からそう思っている。
 しかし臣下の訴えにも、王太子セオドアはといえば、それが心に響いている気配はかけらもない。

「私は今までこいつに散々小言を言われてきた。こいつとて、過ちを犯せば私に同じことを言われても当然だろう。おいローズ、そうであろう?」
「左様でございますね」

 ニヤニヤした王太子に話を振られたローズは、真顔のままさらりと頷く。そんな彼女に、ギルベルトは眉間にしわを寄せた。明らかに意義があるという顔で、尚も彼が前に出ようとすると。それを──細い腕と静かな声が制する。

「先生」
「……ローズ様?」

 腕を上げた王女を騎士が見下ろすと、ローズはにこりと微笑んでいた。

「ありがとうございます先生。でも、私は、大丈夫」

 ローズは、もどかし気なギルベルトを宥めるように笑みを深めた。

 ──不思議なことだ、と、ローズは静かに思う。
 あんなに疲れ果てていたというのに、たった今目の前で尊大な顔をしている己の婚約者を見ると、消えかけていた力がかろうじて絞り出せるのだから。
 だが、それは彼が愛しい故ではない。彼の前では毅然としていなければという責任と──ある種の意地でもある。
 ただし、おそらくこの力は、ことが終われば何十倍もの重さとなってローズの身体にのしかかるに違いない。いつでもそうだった。王太子と対峙したあとは、気力も擦り切れ、げっそりと疲れ果てる。
 あとがとても怖いが、しかしここで大人しくギルベルトに庇っていてもらっているわけにはいかない。
 近衛騎士の長であるとはいえ、ギルベルトは臣下である。あまり王太子と対立させたくはなかった。
 そのためには、ここは己が発言することが一番望ましい。王太子に疎まれていようとも、自分にはその権利が約束されている。
 ローズは腹に力を込めて、王太子にもう一度、恭しく頭を下げた。亜麻色の髪がローズの肩からしとりと落ちる。少しだけ湿っているのは汗のせいだった。

「……殿下、このような無様な有り様になったのは、私の鍛錬不足であり、このような姿を殿下にご披露してしまったのは、私の不徳の致すところです」
「──ふん」

 頭を下げて見せると、王太子は鼻を鳴らして上からローズを見る──が。

「、ですが」
「!」

 その高慢な顔を再び見上げた時、彼女の顔は汚れてはいても堂々としていた。

「私は、私のこの汗も努力も、己の恥とは思いません」

 その口調はキッパリとしていて、何者の異論をも撥ね付けるような力に満ちていた。強い意志の輝く瞳に、ヴァルブルガやギルベルトと共に一瞬目を奪われてしまったセオドアは、そんな己にハッと気がついて歯噛みする。悔し気に目を吊り上げ、己の婚約者を睨みつけた。

「……恥だと思わぬと? そのような見苦しい姿をか⁉︎」

 何かを誤魔化すように笑い飛ばそうとする男を、ローズは静かに眺めている。
 どんなに嵐のように笑われようとも、自分の意思がそれに吹き飛ばされることはないと確信した表情であった。
 真っ直ぐに持ち上げた顔で、そっと深呼吸し、ローズは唇を開く。……可能性は限りなくゼロに近いとは分かっていたが。願わくは、王太子に自分の気持ちが通じるといいと思いながら。

「……懸命になれば、誰しも汗を流すものです。奮起すれば息も荒れます。それが女性らしくないとおっしゃるのでしたら、それで結構です」
「……なんだと……?」

 肩を揺すってその言葉を聞いていた王太子は、笑いを収め、ローズの顔を見る。

「私は、民のために汗も流せぬ王族ではありたくありません」

 はっきり言ったが、王太子は一瞬怪訝そうな顔をする。

「貴様はいったい何を言っているんだ? 貴様は私の妃を目指していたのでは⁉︎ そのためには私に愛されねばならぬのだろう⁉︎ 妃とは、夫を支え、立てるための存在だろうが! そうでなければ価値がない! わたしの意に沿って女らしく淑やかにするのがおまえの務めで……」

 そう指を突きつけられた瞬間、さっとローズの顔色が青ざめた。
 それを見た王太子は、ローズの鼻っ柱を折ってやれたのだと喜色を浮かべた。が──そう思ったのは一瞬だけだった。
 見る見るうちにローズの柔和な顔に並ぶ双眸が険しくなった。前髪の隙間に覗く額に浮かぶくっきりした青筋。冷気を纏った王女の瞳を見て──王太子はうっと怯み、ギルベルトとヴァルブルガは密かにほっこりした。
 そうこれこれ。この、王太子と対峙した時の、普段大人しいローズの冷静なキレっぷりは、一度発動するとそれはそれは美しいほどに冴え冴えとしていて、何度見ても痛快で、惚れ惚れする、と。

「……恐れながら……」
「ぅ……」

 ローズは低い声で淡々と言った。

「殿下、そのお言葉を……もし殿下の意中のお方がお聞きになったら、きっとお相手はとても失望なさると思います」
「な、何……?」

 思わぬところでクラリスを引き合いに出されて、王太子がたじろぐ。
 ローズの瞳は冷え冷えと輝いている。

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