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22 王太子の歓喜
しおりを挟むその白い一枚の紙を受け取ったとき、彼は興奮のあまり顔は青ざめてさえいた。
息を殺して薄い紙の両端を握りしめ、神経質そうな眉間にしわを寄せ、爛々とした緑色の瞳でそこに書かれた文を何度も何度も繰り返し読む。
そして、確かにそこに書かれた丁寧な文字が、己の婚約者の筆跡だと分かると──……彼の口からは、ひび割れるような笑い声が漏れ出た。歪な笑い声は、滑稽さと気味の悪さを孕んでいたが、そんなことはお構いなしだった。
王太子という身分にある彼には、誰も口やかましく言ったりはしない。父である国王と──そして、この手紙を書いた娘以外は。
「は、はは! いいぞ! これだ! やったぞ!」
男の喜びが弾けるように爆発した。今にも手を叩いて小躍りしそうな勢いだ。
その便箋は、上のほうのほんの数行だけが書かれ、そこで文章は途切れている。しかし。
濃紺の髪の青年は、少ししわの寄った白い便箋を、まるで至宝か何かのようにうっとり見つめ、胸に広がる歓喜を味わった。そしてそれを自分にもたらした配下を称賛の眼差しで見つめる。
「よくやった! ははは! ローズのやつめ! いつも私に王族らしくしろだの、身を慎めだの。国民のためにこうしろああしろと偉そうなことばかり言っておきながら、自分だってこのざまだ! “あなたのことが好きすぎて、お傍にいると我を失います”……だと⁉︎ ははは! なんなんだ、このクソ真面目な文体は! これでも恋文を書いているつもりか⁉︎ これだからあいつは可愛げがないんだ! ……おい見てみろ! どうやら書き損じのようだが、しっかり相手の男の名も書いてある!」
王太子セオドアは便箋を指差して見せて、それから腹を抱えて大笑いした。
嬉しくてたまらなかった。憎らしいほどに王女としても王族の婚約者としても完璧で、国王からも多大な期待を受け、国民からも信頼されるローズが。自分と比較され、父王に褒められてばかりいる娘が。いくら足を引っ張ろうとしても倒れなかったその娘が、こうしてやっとボロを出してくれた。これが愉快でなくてなんだろう。
しかもと彼は、便箋の一番上に書かれた名前を指で叩く。
「これまで俺が送った男達を散々無下にしておいて、まさか相手があの“リオン嬢”だと……⁉︎ はははは!」
王太子は小馬鹿にした表情で失笑。
騎士リオンは、見た目はいいが、堅物すぎて面白みのない男である。
「いったいローズはあいつのどこがいいんだ? 家柄だって王家にはつり合わないし、愚直なばかりで女を笑わせることも、喜ばせることもかけらも出来なさそうなやつだぞ!」
……そう笑う王太子は、その騎士リオンが、王女ローズを日々悶絶させ、激しく喜ばせていたことを知らない……。
つまり彼はリオンを完全にあなどっていた。……まあ、この男は、その生まれ付きの身分の高さにより、自分以外の者のほとんどをあなどっているも同然ではあるが……。
王太子は形のいい鼻を天井に向けてふんと鳴らす。
「まあ、面白みがないのはローズも同じか。似合いの相手だな……!」
彼は肩を揺らしてにやにやと嘲笑ったあと。再び配下を見る。
「これを入手したものには存分に褒美をくれてやれ! なんでもいいぞ、この上ない手柄だからな!」
「──はい、それがどうやら望みがあるようです。今の配属から、殿下の側仕えに引き上げてもらいたいと……」
配下の言葉に、王太子はそうかそうかと機嫌よく応じる。
「まあ当然だろう、私の傍ほど将来が明るい場所はない。いいだろう好きなようにさせてやれ」
そう誇ったような顔をする王太子は、しかし周りの配下たちが密かに「……その代わり、ここほど大変な場所もない」と、心の中で嘆息したことにはまったく気が付かなかった。
その配下が出て行ったあとも、セオドアは上機嫌である。──と、そこへ甘い声。
「殿下……」
「ああクラリス! 待たせてすまない!」
囁きかけるような、鈴を転がすような声に呼ばれた王太子は、途端破顔して声がしたほうへ飛んで行った。
その先には、部屋の奥のソファにゆったり腰を下ろす、赤毛の可憐な娘が微笑んで彼を待っていた。
「クラリス! 聞いていたか⁉︎ ローズのやつがついにボロを出したぞ! この手紙があれば、あいつを国から追い出せる! 君を王太子妃にできるんだ!」
興奮して隣に座った王太子に、しかしクラリス・レガーレは調子を合わせず、少し意地の悪そうな艶のある顔で笑う。
「あら殿下。でもわたくし、まだ殿下とお付き合いすると決めたわけではありませんわ」
色香の滲む視線をするりと逸らされて。王太子は慌てたように彼女に言葉ですがる。
「またそんな……クラリス! 私をいじめないでくれ!」
「まあいじめるだなんて人聞きの悪い。……だって殿下、わたくしエリス卿にも侯爵家のご長男からも求婚されているのです。他にもわたくしを必要とおっしゃってくださる方は大勢いらっしゃって、皆様いつもたくさん贈り物をしてくださるのですもの……。そのお気持ちを無下にするのは申し訳ないでしょう?」
殊勝な、悩ましげな顔でそう可愛らしく小首を傾けられると、王太子はもう魅了されたように蕩けた顔になる。そんな王太子に、令嬢クラリスは、それに、と続けながら、己のほうへ迫ってくる王太子の鼻の先をチョンと指で制する。その顔は、愛らしい小悪魔そのものである。
「殿下が妃にしてくださるとおっしゃっても、ローズ王女がいらっしゃる限りそれは確実ではないのですもの。わたくし、側室なんて絶対にいやですわ」
見目に恵まれていて、将来良い嫁ぎ先を見つけるために親から男あしらいを叩き込まれているクラリスは、いつでも異性に囲まれている自分に相当な自信を持っていた。
その彼女からすれば、自分が誰かの妾などになることは論外であり、それはたとえ相手が国王であったとしても同じであった。
今は王太子に狙いを定めてはいるが、他にもっと良い条件の相手がいればもちろんそちらに乗り換える。
王太子セオドアは見た目もいいし、権力もあり羽振りもいいが、なにせ仕事ができない。その公務のほとんどが、現在の婚約者ローズに影で支えられているということを、彼女は承知している。
(まあ、それでも王太子妃になれるっていうのだったら考えもなくもないわ)
そのためには隣国王女ローズがたいへん邪魔である。ただ──王族であるローズと喧嘩するのは得策ではない。ローズと仲良くしておけば、もしかしたら隣国の王室への嫁入りも可能かもしれないのだ。そのような打算もあって、これまで彼女はあまり大っぴらにローズに攻撃はしてこなかった。
しかし、と、クラリスの視線が王太子の持つ便箋にチラリと移る。
(確かに……あの手紙があれば、この国の女性の頂点に登り詰めるのも確実かも……)
王女の恋文とは、随分そそられる代物である。
愛らしい令嬢は、一層の愛想の良さで王太子に甘い微笑みを向けた。
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