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21 ローズの抵抗
しおりを挟むさて、リオンがそんな状態である頃。同じように危機的状況であったのがローズである。
こちらはさらに深刻だ。
「………………私……」
部屋に戻って以来、重苦しい顔で私室の窓際の肘掛け椅子に座って外を見つめていたローズが、やっと口を開いたかと思えば。その声もまた表情に負けないくらいずしりと重い。
彼女の手もとには、編み棒と、いつものように編み目も無惨な編みかけのドイリー。
部屋に帰ってきてから、何かに取り憑かれたように猛烈な勢いでレース編みを始めたかと思ったら……いつの間にかこちりと手が止まった。
純白の刺繍糸玉はもう一刻も減らずに、テーブルの上に所在なさげに転がっている。
そんな王女を部屋の端から見守っていたキャスリンとヴァルブルガは、当然心配そうな顔。
けれども二人とも、このレース編みが、ローズの数少ないストレス解消法だと知っているので、耐えて声はかけなかった。
そんな二人に見つめられていることに気がついているのか、いないのか。ローズは寂しげな声で続ける。瞳は夕日に染まる街並みをぼんやり眺めていた。
「……やっぱり一度王宮を離れようかしら……」
「え⁉︎」
そのつぶやきに、キャスリンは驚いて声を張り上げ。ヴァルブルガはおやと瞠目し、そつがない彼女らしく、王女と彼女を心から大切にする侍女を観察するような目をした。
キャスリンはすぐに王女の傍に身を投げ出すようにして駆け寄る。
「ロ、ローズ様⁉︎」
どうしたのだと自分の傍に傅いた侍女に顔を見上げられると。黄昏ていたローズの顔が、くっと歪み、唇からは気持ちが怒涛のように溢れ出た。
「もう……私は一度リオンと物理的に距離をおくべきだと思うの! 王宮広しとはいえども、同じ屋根の下にいるのかと思うとドキドキして気が気ではないというか……だってね、リオンの青い瞳はサファイアみたいに綺麗だった! 透き通っていて、きらきらしていて……それでいて色合いが深いの!」
「は⁉︎ え? 騎士リオン……?」
キャスリンは、またそいつかと思ったが。唐突に始まった賞賛の熱量に、ついていけず、圧倒されて目を白黒させている。そんな侍女を追い打つように、ローズは「っもう……!」と、ありったけの陶酔を絞り出すような声で訴えるのだ。
「リオンが可愛くて! たまらなくって! 気持ちが擦り切れそうなのよ……っ! 私はあれに耐えると決めたわけだけれど……ちょっと無謀だったかも……。リオンの誘惑に耐えるって、まるで拷問みたい。胸が締め付けられるってこういうことなのね……リオンの前だとすぐに頭に血が昇るし、心臓は激しく脈打つし。でもこの先走りそうな気持ちに身を委ねられない切なさを感じると、胸は張り裂けそうに痛くなる。おまけに今日の私のひどかったことといったら……彼がどんなふうに私を見て呆れただろうって考えると……ぁ……くらっと来る……。私……多分このままだと短命だわ……ある日ときめき過ぎと欲求不満とでなんらかの病に倒れるのではないかしら⁉︎」
ド真剣に悩ましく締めくくられて、キャスリンはもう心配すぎて青ざめている。
「姫様! またそんな不吉なことを! わたくしめが……わたくしめがこれまで食の細い姫様の健康にどれだけ苦心してきたと思っておいでなのです⁉︎ そんな……そんなぽっと出の騎士なんかに姫様の健康を害されるなんて……! あ、あの金髪美形め! 許さない!」
「キャスリンさん落ち着いて……多分論点がズレてます……」
泣いて怒る侍女を、ヴァルブルガが冷静に宥めている。が、ローズのため息は止まらない。
憤る己の侍女を申し訳なさそうに見つめながらも、どうにもやりようのない自分の気持ちに戸惑っていた。常に王太子妃になる夢を追い、ハニートラップや男性に警戒していた自分が、まさかこんなにもリオンへの気持ちを膨らませてしまうなんて驚きで。
とてもではないが、思いの丈を吐きださねば胸が圧迫されて爆発しそうなのである。
「ごめんね二人とも……」
ローズがしおしおと謝ると、キャスリンの背中を撫でていたヴァルブルガがにこりと顔を上げる。
「いいんですよ、ローズ様。キャスリンさんはローズ様が大事すぎて驚いておいでなだけです。もっと聞かせてください」
「うん……」
キャスリンさんも心配なだけで、聞きたくないわけではないんですよと、優しく促され。しゅんとした顔のローズも素直に頷く。
永らくハニートラップに怯え、恋なんかしてこなかったのだから、こんな重大な感情は一人で抱えるときっと迷走する。二人に聞いてもらって、指導してもらわねばと真面目なローズは考えていた。
「……今日、リオンを改めて間近で見たの……」
赤くなりながら一生懸命に話そうとするローズの顔を、ヴァルブルガは可愛らしくて仕方ない。その気持ちはキャスリンも同じだったが、こちらは些か悔しげな顔をしている。手塩にかけた王女の初恋には複雑な想いがあるようだ。
「そしたら……あの人肩幅が思っていたより広くてすごくドキッとしたわ。それに肌がとても綺麗なの。それで、指先はさらりと乾いてた……」
その指先に頬を優しく触れられたことを思い出すと、思わず熱いため息が溢れた。彼の大きな手のひらと、自分の頬が、わずかでも繋がった瞬間があったのだと改めて実感すると、触れられた頬が焦げてしまいそうに熱くなった。
「リオンの手……硬そうなたこがいくつもあったわ。きっとあれは剣の鍛錬の時に作られたものなのよね……」
彼の勤勉な人柄が見えるようで、とても好ましかった。つい思い出して微笑んでいると──。
しかしここで、王女の傍らで小姑のような顔で話を聞いていたキャスリンが聞き捨てならないという顔をした。ヴァルブルガが笑ったまま、あららと漏らす。
「……ちょっと待ってください……? 間近って何ですか⁉︎ 指先の感触がどうしてわかるんです⁉︎ ま、まさか姫様……騎士リオンに触れられた⁉︎」
「え? あ……」
目を剥いたキャスリンに顔を迫らせられて。リオンのことを考えていて、すっかり夢心地でいたローズは、つい口走った己の言葉にしまったと思った。慌てたように瞳が数回瞬きしていると、そこへさらにキャスリンの顔が迫ってくる。
「ローズ様⁉︎ 騎士リオンに迫られたんですか⁉︎」
「せ⁉︎ せ、せま、迫られた……⁉︎」
詰問されたローズの声は裏返り、動揺した手からは編みかけのドイリーと糸玉がころりと落ちる。(※ヴァルブルガ、そつなく拾う)
「せ──迫られただなんて! 迫られただなんて! そ、そんな……そ、そりゃハニートラップの一部だったらそうとも言えるかもしれないけれど……ち、違うの、そうではなくて──彼はきっと、ただ私を落ち着かせようとしてくれただけで……」
説明しながらも、しかし結局のところ、実際どうなのだろうと困ってしまった王女の説明はしどろもどろ。そんな王女の様子を見て、ハニートラップの件には心配過剰で潔癖なキャスリンは、今にもリオンに触れられた場所を消毒すると言い出しかねない形相である。
「姫様どこ⁉︎ どこを触られたんですか⁉︎ ま、まさか抱き寄せられたとか……ヒィ! そ、そんなんじゃないでしょうね⁉︎ あ、わ……お、お風呂! ヴァルブルガ! 今すぐ湯浴みの用意をしてちょうだい!」
「キャスリンさん……ローズ様なら先ほどお風呂に入られたじゃありませんか……」
「何言ってるの! も、もう一回念入りに洗うのよ!」
すっかり気が動転したキャスリンは大慌てである。そんな心配性の侍女を、ローズも慌てて止める。
「ほ、本当に違うったら! リオンは親切だったの! だ、抱き寄せられただなんて……そ、そんな……違うったら! と、とにかく!」
恥ずかしくてたまらなくなったローズは、無理矢理に話題を戻す。
「だからね、私、リオンから離れたほうがいいと思うのよ! もう、心の中がずっとこんな感じに荒れ狂っているの!」
ローズの必死の訴えに、ヴァルブルガが「荒れ狂う……」と生温かい顔をする。
「ね? 一度冷静になるためにも、会おうと思っても会えぬ距離を取るべきでは? ほら、時がさまざまなものを解決してくれると言うじゃない? 王太子様だって、半年後には前の恋人のことなんかすっかり忘れておいでよ? だったら私だって、少なくともこの気持ちにケリをつけられるくらいには落ち着くかも……」
その主張を聞いて。ヴァルブルガは、うーんと唸る。王太子の極めて薄情な様は、はっきり言って他の者が参考にできるようなものではない。とは、思ったが……。キャスリンを宥めながら、彼女は別の問題点を指摘する。
「しかし……ローズ様はそう簡単に王宮を離れられませんよね……?」
ヴァルブルガも、それに今は気が動転しているキャスリンだって、ローズがそうしたいと言うのならぜひそうさせてやりたいと思った。
だが、彼女が王都を離れるとなると、隣国王女という立場上、彼女の移動には祖国の父王や、この国の王、そして議会の許可がいる。おまけに警備やなんやの用意もあって、行きたいからヒョイっと行けるというものでもない。非常にややこしい手順が不可欠なのである。
侍女の言葉を聞いて、ローズはさめざめと大きなため息を吐いた。もちろんローズにだって、その辺りの事情は分かっている。が……それでもなんとか手がないかという、複雑そうな表情だ。
「そうよね……でも……」
ローズは苦悩した。きっと、ここでたびたび顔を合わせていたら、ローズは何度もあの瞳に囚われてしまうだろう。そう悩んでいるうちに、ローズは不意にある種の気づきに瞳を上げる。
その唇が、ぽつりとつぶやいた。
「……恋って──……こんなにすごいものだったのね……」
こんなに抗い難く心を捉え、手放し難いものだとは。
責任感も将来の王太子妃としての自覚もしっかりあるつもりだった。それなのに、そんな自分がここまで身を持ち崩すとは。
「……私、初めて王太子殿下に深く共感しているわ」
王女のこぼした言葉には、キャスリンがありえないとギョッとした。
「殿下が躍起になって私を攻撃してくるはずよ……」
こんなに理性を揺さぶる魅力を持つものならば、あの生来なんでも思い通りにしてきた王の息子がこれを諦めようなどと思うはずがない。
そんな彼を傲慢とばかり思っていたが、どうやら人という性として仕方のないところもあるような、そんな気もした。
そう思ってしまうと、なんだか、苦しいのに、虚しいのに。心に少し風が吹き込んだような気がした。それがいいものなのか悪いものなのかは、まだ分からない。
ただ、王太子のことを、どうしようもない人だとは思うが……それでも夫と定められた人である。嫌いになるよりは、好感があるほうがいい。ならばこうして彼の気持ちの、ほんのわずかな一端でも理解ができたことは幸いだと、ローズは受け止めた。
凪いだ瞳で窓の外を眺める王女に、キャスリンが焦ったように前へ出る。
永く彼女を見守ってきた彼女からすると、だからと言って、立場も責任も、人としての道理すら忘れ、筋も通さず王女に横暴に当たってきた男の行動を許してはならない。
「姫様でも!」
「──ええ、でも」
反論しようとした瞬間、主人の声がそれに重なって。凛とした声にキャスリンが瞳を瞬いた。振り返った時、ローズの瞳は知性を湛えていた。
「私は王太子殿下の思うままにも、恋のしもべになる訳にはいかない。私には忘れてはならない責務があるのだから」
そうよ、とローズは心の中で独り言つ。
(冷静になる、手立てを考えましょう……)
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