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18 うろたえと至福
しおりを挟む現れた青年は、唐突に上げられた悲鳴に一瞬怯んだものの、すぐにローズの前面に回り込む。ざっと見て怪我はないと判断したが、何か見落としがあったのかと少し焦っている様子だった。
「やはりお怪我を⁉︎ ──失礼致します」
彼はすっかり慄いているローズの顔を覗き込み、首筋を確かめ、両手両足と。それから髪や服が焦げていないかどうか。上から下まで全身を真剣にチェックする。……その間。ローズは、小刻みに身を震わせながら彼を見ていた。……言葉もない。
「………………」
リオンは一生懸命に自分を気遣ってくれている。その姿に、ローズは。思わず、ヨロロ……と、身体がよろめいて。傍にあった作業台に手を突き、なんとか身を支える。
──なんという……地獄だろうか……。
いや、気遣ってくれている彼は本当にありがたい。
しかし……視界に共演する、己に瀕死のダメージを与えそうな恋文まがいの手紙と、その宛先の麗しき騎士様。
まさに、羞恥地獄一歩手前の危機である。ローズは……めまいがした。人生で、こんなに肝が冷えたことなどない。
(──あ……ど──……どうしたら……⁉︎)
一刻も早く床に撒き散らしてしまった手紙を回収したいが、あまりに驚いたせいか凍りついた身体が震えて動かない。
「リ……リ……リオンさ……な、なぜここに……っ⁉︎」
それでもなんとか掠れる声で尋ねると、リオンはハッとしたようにローズの目を見る。どこか気まずそうな顔であった。
「……申し訳ありません……先ほど廊下で殿下をお見かけしたのですが……その、お供もつけず、いきなり使用人用通路に入っておしまいになられたので驚きまして……それでその、ご無礼かとも思ったのですが、後をついてまいりました……」
リオンは恥ずかしそうなに顔を歪めている。王女のあとをつけるような真似をして恥じているようだ。が、無理もなかった。
「い、いいのよ……そ、そうよね、私が使用人通路を使ったりするから……わ、悪いのは私だわ……」
普通、身分のあるものは使用人通路に入ったりしない。
けれどもまさか、とローズ。よりによって、その一瞬をリオンに目撃されているとは思いもよらなかった。
──しかし実はそれは。リオンが使用人通路の入り口よりももっとずっと手前の通路でローズを見かけ、『この間のお返事はまだいただけないのだろうか……』と、気になって、話しかけようか逡巡しながら彼女のあとをついて来ていた……というのが真相だが。驚いて使用人通路の先まで追いかけて来たのは事実だが、それもあって、リオンは恥ずかしいのである。
だがそんなこととは知らないローズは、青くなったり赤くなったりの顔色で悔やむ。
もう少し──背後に気をつけるべきだった……!
後悔していると、リオンが心配そうな顔で尋ねてくる。
「それでローズ様、どこかにお痛みが? お怪我はなさっておいでではないようですが……」
「っう……」
見つめられたローズは、こんな危機にも関わらずたじろぐ。
激しく時と場合を考えろと己を叱咤したいが──心配してくれるリオンの顔は光輝いて見えた。端正な顔がこちらに対する思いやりで満ちている。(私を心配してくれているの……?)と思うと。ぐっと来すぎて喉が詰まったように苦しくなった。しかしそれが逆に、今にも擦り切れそうなローズの正気をかろうじて保たせる。
(お、愚か者! な、何を惚けているの! 今はそんな場合ではないのよ! わ、分かっているの⁉︎ リオンの周りに、あ、ああああれがばら撒かれているのよ⁉︎)
ローズは自分の胸ぐらを掴むような気持ちで己を叱咤した。
そして青ざめたまま、吐血するような気持ちで、リオンに向かってにこりと精一杯微笑んだ。──微笑んでいるのに……目が死んでいる。そんな王女を見たリオンは困惑の眼差し。
「ローズ様……お顔色が……」
「え? ふふふ、だ、大丈夫です」
ローズは笑いで誤魔化しながら、声を喉から絞り出した。
「心配してくださってありがとう。わ、私なら大丈夫です。急に薪が爆ぜたもので驚いてしまっただけです」
そう言ってやると、少し安心したのか、リオンはホッと表情を和らげた。嬉しそうな顔には血の気が戻り、朗らかになった。冷静そうに見えて、実は彼もとても緊張していたらしい。その、職務中に見かける生真面目な顔つきとはまるで違う、冷たさがかけらもない安堵した表情には、それが自分に向けられたものなだけに、ローズは嬉しすぎて情動がおかしくなりそうだった。──はっきり言って、今はそのような場合ではないのに。
(あ──……やめてリオン……愛らしすぎる……)
魅了されすぎのローズには、もはや彼のこの行為がハニートラップだなんだと考える余裕はなかった。──と。
ローズがリオンの可愛らしさに打ち震えて感動している間に、彼が身をかがめて床にしゃがみ込んだ。そして彼の手が、二人の足元に落ちている無数の便箋へ伸びる。
「それで殿下、この紙たちはいったい──」
「⁉︎」
リオンが便箋の一枚を拾って自分を見上げた瞬間、ローズは心底慄いた。
「リ──ッリオン! 待って! 見ないでっ!」
悲鳴のように言って、彼女はリオンに跳びつく。
「え……っ!?」
今度はリオンが絶句する番だった。
手紙を手にしたリオンの手を、ローズがしっかり両手でつかんでいる。
リオンは目をまるくして、唐突に王女と繋がれた己の手を凝視して、それから王女をぽかんと見つめた。
王女は必死な顔で彼の手を強く握りしめている。女性の力ゆえ痛くはなかった。──だが、呆然としたリオンは、己の中のどこか遠くから、ドッドッ……と。何やら激しい感情の波が迫り来るのを感じた。
(……、……、……ローズ様が……私の手を………………)
その現実を理解した瞬間、リオンの顔が一気に朱色に染まった。
「っ⁉︎ ⁉︎」
その拍子に彼の手からは便箋がはらりと落ちる。
青年の顔は髪の生え際、耳の先まで真っ赤だった、が……。それに負けないくらい真っ赤なのがローズである。
彼女は吃りながら力一杯言った。
「あの、あの、こここ、これは、これらは、あなたにお見せするわけにはいかない恥の塊なのです!」
「⁉︎ は、恥、の……で、ございますか……?」
狼狽えながらも応じるリオンに、ローズは力一杯断言する。
「そうです! 私のエゴであり、傲慢な望みであり、愚かにも制御出来ておらぬ邪心で……しかしそれゆえに私の中から溢れ出した、真の心であるといいますか……っ!」
早口でまくし立てながら……ローズはだんだん自分が何を言っているのかわからなくなってきた。
そんな王女の言葉を聞いていたリオンは、まだ重ねられたままの王女の手が気になって仕方がなかったが……。王女があまりにも慌てていて、とにかくそれが気の毒になった。ローズの目は周囲に泳ぎまくっている。その瞳は揺れていて、今にも潤んでしまいそうである。騎士はとてもハラハラした。
リオンのほうでも恥ずかしすぎて額にはほとほと汗が滲んでいたが……。ひとまず、王女を宥めなければと思った。
ほんの一瞬触れていいものかとためらったが……彼は、ローズに掴まれている手とは反対の手で、彼女の強張った腕をゆっくりさすった。労りの思いを込めて、声を掛ける。
「本当にあのお恥ずかしい限りです……! このようなものを大量に作成してしまった自分が本当に、本当に煩悩まみれで……は、恥ずかしい!」
「ローズ様。どうか落ち着いてください。大丈夫です、私は殿下がするなと言うことはいたしません」
声をかけるとともに、また宥めるように、慰めるように腕をよしよしと撫でる。すると、泳ぎまくっていたローズの視線がやっとリオンに定まる。
「あ……も、申し訳ありませ……私……うろたえてしまって……」
「大丈夫です。ゆっくり息をしてください。もう床のものは見ませんから」
彼女を落ち着かせようと、リオンは精一杯微笑んで。
正直恥ずかしくてたまらなかったが、なんとかこらえた。
「私はローズ様のお顔だけ見ています。ですから、どうか殿下」
懇願を込めて見つめると、ローズが一瞬瞳を見開いて、わずかに唇を開いた。
こちらを見上げる透き通った琥珀のような瞳がとてもきれいだなと思った。
そしてついリオンは──……。後々このことを思い出すと、自分がなぜあんな振る舞いをしてしまったのかと疑問に思い、深く悔やむことになるのだが──。
彼はこの瞬間は、目の前にある愛しい存在のこと以外は、何も考えられていなかった。
彼女の瞳を見ていると、世界がそれだけになった。魅入られ、自分たちを取り巻くさまざまなことを失念し。ただ、その瞳をよく見たいと思ってしまった青年は、つい無意識に、ローズの頬に指先をふっと落とす。
指先にふんわりした感触が触れた瞬間、思わずため息が溢れる。なんという至福の柔らかさだろうか。そのぬくもりに指先から魅了されて。リオンはうっとりローズの瞳に見入っていた。
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