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5 つらい罠

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「………………」
「…………姫様……もうお休みになられませ?」

 黙々──といより、もく……もく……と覇気のない手つきでかぎ針を動かすローズに、困り果てたという声がかけられた。
 寝室の大きな天蓋付きの寝台の真ん中で、しょんぼりしている白い寝巻き姿のローズ。手にはレース編み用のかぎ針と白い糸と編みかけのドイリー(※卓上用の敷物)。
 彼女はずっと無言でレースを編んでいた。肩は落ち、背中は丸められて、もそもそと動く手先はいかにも気力がない。
 ローズのレース編みの腕前は祖国の母仕込み。それはもう見事なものなのだが……現在沈んだ様子で増やされていく編み目は、面白いくらいにガタガタ。彼女の不調をよく物語っていた。
 帰ってきてから彼女はずっとこの調子。
 悲しげにして、食事もろくに食べないものだから、侍女のキャスリンはすっかりご立腹である。

「姫様……ショックなのは分かりましたが、そろそろお休みになられませんと、身体を壊してしまわれます!」

 あまり良い出来とは言い難いドイリーはすで四枚目。10センチのドイリーでも繊細なレースを編むためには二時間は掛かるもの。……にもかかわらず、彼女はもう帰ってからぶっ通しでそれを編み続け、窓の外はすっかり闇が深まり、もうすでに日を跨いでしまった。
 いい加減にしてくださいと侍女が叱ると、ローズはやはり気力の薄い顔でしょんぼり「……分かったわ」と答える。その萎れた表情があまりに暗くて、キャスリンはまた腹立たしそうに口をひん曲げた。……もちろん、これはローズに対して怒っているというわけではない。
 と、侍女のそんな顔に気がついたローズがやっと表情を変え、苦笑いした。

「ごめんねキャスリン……でももう少しだけ……こうしているとちょっとだけ気が楽になるの。もう少しだけやってから眠るから。あなたは先に休んでちょうだい。私なら大丈夫だから……」
「……そんなことをおっしゃって……」

 付き合いの長いキャスリンにはわかっていた。この落ち込みようでは、ここで彼女が部屋を辞しても、ローズはきっと眠らない。というか、きっと“眠れない”が正しいのだろう。それで結局彼女は寝台に起き上がってしまい、レース編みを再開するか、ぼんやりしてそのまま朝を迎えてしまうのだ。
 キャスリンは本当に困っていた。
 夕食だって、なんとか侍女たちが彼女の口に突っ込んでやっと食べさせたのである。
 ここまで王女が落ち込んだところを見るのはキャスリンも久々だったが、このような時、決まってローズは不眠になり、食も細くなる。そのくせ朝はきちんといつも通りに床を降りて、政務をこなすのだから──彼女の世話をするキャスリンからすると余計にタチが悪い。
 落ち込んでいるのなら、いっそしっかりだらけてくれたほうが王女の身体にはいいとキャスリンは思っている。普段から真面目すぎる王女には、それくらいでちょどいいはずと。そこに文句を言うのは、キャスリンの宿敵・王太子くらいのものである。
 そうして退出を促された侍女は、上半身を逸らし、気合の入った顔で反論する。

「申し訳ありませんが! 私めは姫様が眠るまで絶対にここを動きませんからね! さ、私に下がって欲しいのでしたら早く布団の中に入ってください! それとも私めに放り込んで欲しいんですか⁉︎」
「ぇえ……?」

 侍女の堂々たる宣言に、ローズは叱られた子供そのものという顔をした。
 キャスリンは、少しふっくらとした体格の女性。母性の強そうな顔をした、美しい赤毛の侍女である。彼女はローズと共にこの国にやってきた実の姉のような存在で、こう見えてなかなかの力持ち。細っこい体型のローズとでは腕力にかなりの差がある。
 もちろんローズには、これがすべて自分のことを思ってのこととはわかっているが……。
 どうしても、落胆が強くてじっと目を閉じる気持ちになれないローズは、べショりと消沈する。

「……キャスリン……厳しい……」

 すると侍女は怒りに満ちた顔で吐き捨てる。

「当然でございます。ふん、あのクソ王太子のせいで、うちの姫が体調を壊すなんて、は! 冗談じゃございませんもの!」
「キャスリン……クソはダメよクソは……」
「クソはクソでございます」

 嗜める主人にも、キャスリンはキッパリと言い捨てた。侍女の身も蓋もない言い方には、ローズはなんとも言えない表情で「あらぁ……」と言うに留めた。ここが私室で本当に何よりである。
 ──ただ、キャスリンのこのキレっぷりには訳がある。
 実はこのキャスリンも、過去には王太子に言い寄られたことのある一人。
 王太子は、とにかく赤毛のグラマラスな女性が好みで、いつも相手はそんなタイプ。その好みにキャスリンもバッチリ合致するとあって、王太子は以前からローズの見ているところでもあからさまに彼女に態度を変える。
 ゆえに、忠義なキャスリンはそんな王太子を毛嫌いしているのだ。
 当たり前だ。キャスリンだって、自分を姉のように慕ってくれるローズを心から大切に思っていて、そんな彼女をぞんざいに扱う王太子に好感など持てるはずがなかった。
 そのトゲトゲしさを見て、最近では王太子のほうでもさすがにもうキャスリンにちょっかいを出さないが……。キャスリンのほうでは、もう王太子の印象は最悪なのである。

 ……この侍女は密かに企んでいる。
 いつかなんとかしてあの性悪王太子を廃位に追い込んで、大事な王女にはもっといい殿方を見つけてやりたいと。
 まあ……真面目な主人のために、彼女は決してそんなことは口には出したりしないのだが。

 さて。そして今回の件にもとても憤慨しているらしい侍女を見て、どうやらローズはやっと観念したらしい。

 ……これ以上彼女を怒らせてはいけない。
 
 冴え冴えとした顔のキャスリンは、どこか不穏な気配。
 彼女の考えていることはローズにはわからなかったが……何やら恐ろしいことを考えていそうでちょっと怖かった。
 キャスリンは、祖国の父と母に重々『ローズを頼む』と頼み込まれていて。頼もしいことに、彼女は親以上にローズに厳しいのである。怒らせたら大変なことになる。
 ローズは泣く泣くかぎ針と糸を彼女に手渡し、するとそれはキャスリンにすぐさま戸棚の奥深くに仕舞われてしまった。その素早さに、ローズは名残惜しげな顔をしている。

「……はぁ……」

 ため息混じりにノソノソと布団の中に潜っていくローズを見ながら、戻ってきたキャスリンは不安げな顔をする。

「そんなに悲しまないでくださいませ姫様……そこまで騎士リオンにご執心だったのですか?」

 これまで王太子から密命を受けた男たちがローズのところへやってくることは幾度となくあったが、それだけに、最近では彼女が動じることは減っていたし、ましてや落ち込むまで心乱されることはなかった。
 どうやら王女が大人しく寝台に入る素振りを見せたことで、キャスリンはほんの少し王太子に対する怒りがおさまって、今度は心配になってきたらしい。
 布団の中に収まったローズは、そんな侍女に苦笑して見せる。

「ううん、大丈夫よ……そう、こんなのいつものことだもの。いつもみたいに、毅然としていればいいだけのことよ……」

 ローズはそう自分に言い聞かせるように言った。──しかし、心の中には割り切れないものがあった。
 ずっと、高潔なリオンを頼りにしてきた。
 そっけなくても、笑ってくれなくても、彼の傍は、今そこにいるキャスリンと同じで、この王宮の中でも数少ないホッとできる場所だったのだが。
 でもねとローズは諦めの顔で微笑む。

「……がっかりしたのは本当だけど、そんなの私の勝手な期待だもの。リオンにだって、立場や都合ってものがあるわ。彼は王家の近衛騎士。殿下の命令には従って当然よ」

 だがキャスリンはまだ不満そうだ。

「でも……いくらなんでも人道というものがあります。臣下なら、主が道を間違えた時はお諌めするのが真の忠義だと思います」
「……そうだけど……。リオンとはあんまり会話が続いたことはないけれど、対応を見てればわかるわ。あの人きっと誠実な人よ。……きっと、何か理由があるのよ」

 ローズは落胆しているが、リオンを嫌いにはなれなかった。それに責めるのもまた違うような気がして。
 彼女は布団の中で少し考えて……それから小さくつぶやいた。

「私……彼が私を罠にかけようとしていても、遠ざけたりはしたくないわ」

 そう言うと、寝台の傍からこちらを見守っている侍女は困ったように眉尻と肩を落とす。姉のような彼女に、ローズは微笑んだ。

「一国の王太子妃になるんだもの、いろいろ大変でも仕方ないのよきっと。大丈夫よキャスリン。私はこれまで通り、何も知らないふりして、色仕掛けは華麗にスルーして頑張るわ」

 そう少しいたずらっ子のように笑って見せると、キャスリンはまだ不憫だという顔をしていたが。それでも寝台のそばに跪いて、『ずっと傍にいますよ』と言うように彼女の手をそっと握ってくれた。
 そんな侍女に励まされたローズは、彼女に心配かけないためにも、もっともっと頑張ろう。──そう、決意した、の……だが……。

 騎士リオンの前で実行する“知らないふり”は……これまでローズが王太子の傍でやってきたそれよりも、なぜか非常に困難なものとなる。

 ゆえに。
 ローズは今後、たった数日でキャスリンにすがり泣きすることとなる。

「……っ! リオンが異次元的にかわいすぎて──つらいっっっ‼︎」

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