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偽装の心理 1

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その日は雪の舞う、とても寒い日だった。

街行く人々は皆、コートの襟を立てたり、マフラーを目深に締めている。

それでいて、その視線は時折、その「現場」に向けられていた。

中には立ち止まり、数瞬の間、好奇の顔色を浮かべる者もいた。



その「現場」とは、東京都千代田区神田北乗物町 の一角にある、

古びた4階建てのマンションだった。エレベーターは無い。

1階はくたびれた感じのするラーメン屋が入っていた。

その脇に階上へと登る細い階段が延びていた。

3階のベランダはブルーシートで覆われ、

面した通りからは完全に隠されていた。

周辺には赤色ランプを回転させながら

照らしている数台のパトカーと、

紺色のワンボックスカーが停まっていた。

マンションの1階の玄関周りは、

黄色い立ち入り禁止の規制線が張り巡らされている。

それを取り囲むように、野次馬の人だかりもできていた。



「見立てはどうなんだ?」

臨場を行っている鑑識の責任者、長谷川悟郎に声を掛けたのは、

着古した黒いスーツに藍色のネクタイ、

その上から赤いダウンジャケットを羽織った、

がっしりした体格の長身の40がらみの男だった。

彼の名は鳴海徹也なるみてつや。真代橋警察署の刑事だ。



「まだ、はっきりとはわかりませんが、

 自殺のセンが濃いとは思うんですが・・・」

鳴海の問いに、長谷川鑑識官は

フローリングの床に倒れている遺体に目線を向けながら答えた。



その部屋は5平米に満たないほどの

こじんまりとしたワンルームだった。

家具は事務机と椅子、それにたたまれた布団が一組。

そして雑誌や本が所狭しと有床に散らばっている状態だ。

衣類や雑多なものは、狭いクローゼットに押し込まれていた。

数人の鑑識官たちが、いたるところで指紋採取や検分を行っている。



部屋の様子を巡らしていた鳴海の目は、事務机に止まった。

机の上には、ペンやインク、羽ぼうき、

鉛筆が何本も散らばっていた。

それに漫画のような絵の描かれたB4サイズの厚手の紙が、

うずたかく積まれている。



遺体は胸に刃物が深々と一突きされていた。

辺りには大量の血痕が、水溜りのように広がっている。

血痕は布団や床以外にも、遺体の両手にもこびりついていた。



「お前にしては珍しく曖昧な言い方だな。

 コロシなのかもしれないってのか?」

鳴海は憮然として言った。



「いえ、凶器からはガイシャの指紋しか出ていません。ただ・・・」



「ただ、何だ?」



「もし自殺ならば、刃物の柄をしっかりと握っているはずなんです。

 何しろ自分の胸を刺すんですからね。

 それも自殺にありがちな、ためらい傷も無しに、

 何の迷いも無く一突きですよ。

 それにしては、指紋がはっきりと出て無いんです。

 つまり、握力がともなっていないんです」

長谷川鑑識官は、ため息混じりに言った。



「つまり、こういうことか?

 自分で自分を刺したのだとしたら、

 刃物の柄をしっかりと握っていないと

 おかしいということだな?」



長谷川鑑識官は無言でうなづいた。

鳴海は無精ひげを撫でながら、現場を見渡して言った。



「遺書はあったのか?」



「それもありません。今のところは・・・」



「わかった。とにかく、拾えるものは

 何でも拾っておいてくれ」



「当たり前ですよ。我々を何だと思ってるんです?」

長谷川鑑識官は苦笑を浮かべた。

後は鑑識に任せて、鳴海は部屋を出た。



共有廊下には横殴りの雪が舞っていた。猛烈に寒かった。

鳴海徹也は両手を口に当てて、擦り合わせた。



「鳴海さん!」

鳴海の背後から、若い男が呼び止めた。



「大きな声を出すな。お前はいつも声がでかいんだよ」



「すみません」

と謝ったその男の名は、河合聡史かわいさとし

鳴海の部下で、真代橋署捜査一課の刑事だ。

といっても、彼はまだ刑事見習いだった。

年齢は、鳴海よりふたまわり近く歳下だ。



「鳴海さん、ガイシャの身元がわかりました。

 名前は衣澤康佑きぬさわこうすけ34歳。職業はフリーター。

 九州の福岡県出身です。5年前に上京してきたようですね」



「それは本当のことか?」



「え?」

鳴海に訊き返されて、河井はしどろもどろになった。



「ガイシャの職業は、フリーターで確かなのか?

 絵描きとか・・・漫画家じゃなくて」



「あ・・・」河井は唖然とした顔をすると、

手にしていたメモ帳を慌ててめくりだした。



「衣澤康祐・・・さんは、漫画家志望だったそうです。

 それが目的で上京してきたって話です。

 でも、実際の生計はアルバイトが主だったようですね」



「その話は誰から聞いた?」



「1階にある、ラーメン屋の主人からです。

 衣澤さんは、その店によく食べに来ていたそうです。

 それでいろいろと事情を聞いていたらしいです」



「そうか。なるほどな。今はとにかく鑑識の結果を待たないと、動けん。

 とにかく署に戻るぞ。ここは寒くてたまらん」

鳴海徹也は寒さで歯を鳴らしながらそう言うと、

背を丸めて階下へと続く階段を降りていった。
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