1 / 7
1.君を愛することはない
しおりを挟む「君を愛することはない」
これから起こるあれやこれやを期待して、胸をとどろかせていたアンヌ。夫の言葉に目を瞬かせる。
「君には手を出さない。好きなように暮らしなさい。どこに入ってもいい。でも廊下の奥の小さな部屋にだけは入ってはいけないよ」
夫は事務的にそう言うと、カギ束をアンヌに押しつけて、寝室を出て行った。
「手強いわ。このスケスケ夜着は、やりすぎだったかしら」
アンヌはピラッピラの夜着を見下ろした。絶妙に、大事なところは見えないようになっている。姉と一緒に作ったのだが。祖母の古臭いドレスのレースを切り取り、つぎはぎした。
「やっぱり、おばあさまのドレスってのがダメだった? カビくさかった?」
でも、何度も洗ったのだ。男の心を手玉に取るのが天才的にうまい姉だもの。間違えるはずがない。
「てことは、私に女としての魅力がないってことね。薄々、そうじゃないかとは思ってたけど」
アンヌは鏡の前に立ってみる。きわどい夜着をまとった、頑丈そうな女。若くて、強そうだ。
「若さは全てを補う。ケーキの上の飾り砂糖みたいなもんだって。姉さんはそう言ってたけど。そうは言ってもね、私、父さんにそっくりだもんね。母さんに似てたら、姉さんみたいにモテモテだったのに」
アンヌの顔はどこもかしこも丸っこい。目が丸いのはいい、かわいいと思う。唇が丸いのもなかなかだ。ポッテリしていておいしそう、なはず。問題は鼻だ。なぜ丸い。とがってスッとした鼻なら、よかったのに。母さんの鼻と父さんの目と唇。それなら完璧だった、姉さんみたいに。
鼻に洗濯バサミを挟んでみたこともあったっけ。姉さんに大笑いされ、兄さんは目を閉じて見なかったことにし、父さんと母さんに泣かれた。それで、諦めた。アンヌ・モルナールは一生、丸い鼻だ。
街一番の大金持ち、黒ヒゲことジェラルド・デュカスと結婚し、アンヌ・デュカスとなった今も、丸い鼻は健在だ。
「丸鼻の女王、アンヌ・デュカス。どうぞ、以後、お見知りおきを」
踊り子がやるように、華やかに鏡の前でお辞儀をしてみる。フワリと破廉恥な夜着が揺れる。あいにく、見せるべき相手も、賞賛と欲望の目で見てくれるはずの旦那さまも、ここにはいない。
アンヌは、ひとしきり鏡の前で、色っぽいであろう仕草を研究した。
そんなくだらないことをやってる間に、寝てしまったようだ。朝日に照らされ、チュンチュン鳴く鳥の声に起こされた。
「とんだ朝チュンだわ。汚れなき、まっさらなアンヌ・デュカスの二日目。始まり始まり」
アンヌは元気いっぱいでベッドから飛び降りた。手早く着替え、髪を結い上げると、意気揚々と部屋に入っていった。大きな机の端に、ジェラルドが座って紅茶を飲んでいる。
「おはようございます、あなた」
アンヌはそそっと近づくと、夫の頬にチュッとキスをする。
ギャッ ジェラルドは飛び上がった。
ガチャン 使用人がお皿を落としそうになって、慌てて受け止めている。
「昨日はよく眠れまして? 私はひとりで寂しかったですわ。あら、このパン、フワッとサクッとモチっと。最高ね」
部屋の隅にいるネズミを見つけたときみたいな顔をしているわね。アンヌは冷静に夫と召使いたちの表情を見つめる。
仕方ないわ、まだ二日目。金目当てのごうつくばりと思われているんだわ。もしくは、行き遅れの行かず後家か。でも待って、私、まだ二十二歳よ。行き遅れの行かず後家ではないわ。
「待って、私、ジェラルドと結婚したんじゃない。行き遅れの行かず後家じゃなかった」
嬉しくて、両手を上げて立ち上がった。ポカーンと口を開けているジェラルドを見て、心の声が出ていることに気づく。しまった。
コホン 咳払いして座り直す。優雅に紅茶を飲み、口の中のパンクズを洗い流す。
「それで、今日は何をしましょうか? 海辺に散歩にでも行きませんか? かわいい貝殻を拾って、暖炉の上に飾るのはどうかしら」
ジェラルドは驚いたようにアンヌを見る。
「私は仕事があるから。好きなように過ごしなさい。ただし、」
「廊下の奥の小部屋には入りませんわ」
アンヌは胸を張る。モゴモゴ言いながら、仕事に出かけるジェラルドを見送ると、アンヌは召使いに声をかける。
「ねえ、板とクギと金づちを貸してもらえないかしら?」
「あ、はい、奥様。お待ちください」
不審そうな顔をしながらも、使用人は必要なものを運んでくる。
「あの、どちらにお運びしましょうか」
「ええ、例の小部屋の扉の前にお願い。間違っても開けてしまわないように、板で打ちつけてしまいましょう」
アンヌの言葉に、部屋にいた使用人たちが真っ青になる。
「それは、奥様、いけません。旦那さまに怒られてしまいます。旦那さまが入れなくなってしまいます」
「あら、確かにそうね。私は入らなくても、ジェラルドは入るわよね。ではこうしましょう」
アンヌは扉の取っ手にヒモをグルグル巻きつけ、隣の部屋の扉の取っ手につなげた。ヒモにはたくさん鈴もつけた。
「これで、開けられないわ。開けようとしたら、鈴が鳴ってうるさいから、みんなすぐ気づくわね。お願いよ、もし私が扉を開けようとしていたら、止めに来てよね」
「あの、奥様。あちらの部屋に入る時はどうすれば」
「あ……」
本当よ。あっちの部屋にも入れなくなってしまったわ。
「あちらの部屋は、しばらく誰も入らないことにしましょう。幸い、使っていない部屋ですし」
心配そうに見守っていた執事が、言ってくれた。優しい、なんていい人なのかしら。
「ありがとう。これで安心ね。さて、私は何をすればいいかしら。縫い物も掃除も料理もできるわよ。なんでも言ってね」
「滅相もございません。のんびりとお過ごしください。屋敷の中にはたくさんの美術品や書籍がございます」
こうして、アンヌは優雅に美術品や書籍を楽しむことになった。主要な部屋のカギを教えてもらい、印をつけた。美術品を見てまわり、フカフカのソファーに座って分厚い本をめくる。なんて優雅な一日。
一週間、穏やかにのんびり過ごして、アンヌはハタと気づいた。
「美術品と本とは仲良くなれたわ。使用人たちともそれなりに。でもジェラルドとの距離はちっとも縮まらない。どうしよう。ねえ、どうすればいいかしら?」
ちょうどよく、お茶を運んできたネリーの腕をガシッとつかみ、隣に座らせる。
「スケスケ夜着、全く効果がないのよ。というか、ジェラルドは寝室に来ないから、見せることもできないのよ。ジェラルドはどこで寝ているの?」
頼み込み、泣き落とし、ジェラルドの寝ている部屋の方角だけは聞き出せた。
「今夜こそ、ジェラルドを、落としてみせるわー」
勇ましくいつもの鏡の前で宣言してから、こっそりと部屋を出た。
「どこかしら。とにかく、私の部屋から一番遠いところってのは確かなのよ」
ロウソクを片手に、スケスケの夜着でさまようアンヌ。若い使用人が見たら失神するかもしれない。誰にも見つかりませんように。アンヌは気配を消し、幽霊のようにユラユラと歩く。
じゃらじゃらじゃら アンヌが歩くたび、カギ束が音を立てた。
「そろそろだと思うのだけど」
アンヌは扉に耳をつけて中の気配を探る。ひときわ豪華な扉。きっとここだわ。
「何も聞こえないわ。開けてみようかしら」
ガチャ 適当なカギを差し込むが、回らない。
ガチャ、ガチャ、ガチャ どれもダメ。
「あー、どれがダメなカギだったか印つけるの忘れてた。バカバカ、バカアンヌ」
ポカポカと頭を叩いていると、急に扉が開いた。扉の向こうにはロウソクに照らされたヒゲもじゃの男。
ギャー 男が叫んだ。
「しっ、静かに。私です、アンヌです、あなたの妻です」
アンヌはジェラルドの口を手でふさぐと、部屋に押し入った。アンヌはジェラルドを優しくベッドに座らせると、ロウソクを取り上げ、机の上に置く。
「さあ、今日こそは」
アンヌはバーンと両手を広げ、ジェラルドの前に立つ。ジェラルドはすぐさま目をつぶる。
「君は、なんという淫らなものを着ているのだ」
「よしっ、効いた」
アンヌは拳を握りしめる。よしっと思ったのもつかの間、アンヌはシーツでグルグル巻きにされ、部屋の外に出されてしまった。
部屋の外には、なんとも言い難い表情をした執事。
「彼女を部屋に送り届けてやってくれ。体が冷えているだろうから、暖かい牛乳を。酒でもいい」
「かしこまりました」
執事はうやうやしく言うと、手際よくアンヌを追い立てる。アンヌはうつむきながらトボトボと歩いた。
「暖かい牛乳とお酒、どちらがよろしいですか?」
アンヌを部屋に送り届けて、執事は静かに聞いた。
「お酒を。カーッとなって、スコーンと寝れるような、強いのを」
「かしこまりました」
すみやかに、琥珀色のお酒が運ばれる。アンヌはキュッと飲んで、泥のように眠った。
1
お気に入りに追加
86
あなたにおすすめの小説
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
白い結婚は無理でした(涙)
詩森さよ(さよ吉)
恋愛
わたくし、フィリシアは没落しかけの伯爵家の娘でございます。
明らかに邪な結婚話しかない中で、公爵令息の愛人から契約結婚の話を持ち掛けられました。
白い結婚が認められるまでの3年間、お世話になるのでよい妻であろうと頑張ります。
小説家になろう様、カクヨム様にも掲載しております。
現在、筆者は時間的かつ体力的にコメントなどの返信ができないため受け付けない設定にしています。
どうぞよろしくお願いいたします。
【完結】消された第二王女は隣国の王妃に熱望される
風子
恋愛
ブルボマーナ国の第二王女アリアンは絶世の美女だった。
しかし側妃の娘だと嫌われて、正妃とその娘の第一王女から虐げられていた。
そんな時、隣国から王太子がやって来た。
王太子ヴィルドルフは、アリアンの美しさに一目惚れをしてしまう。
すぐに婚約を結び、結婚の準備を進める為に帰国したヴィルドルフに、突然の婚約解消の連絡が入る。
アリアンが王宮を追放され、修道院に送られたと知らされた。
そして、新しい婚約者に第一王女のローズが決まったと聞かされるのである。
アリアンを諦めきれないヴィルドルフは、お忍びでアリアンを探しにブルボマーナに乗り込んだ。
そしてある夜、2人は運命の再会を果たすのである。
王太子殿下が好きすぎてつきまとっていたら嫌われてしまったようなので、聖女もいることだし悪役令嬢の私は退散することにしました。
みゅー
恋愛
王太子殿下が好きすぎるキャロライン。好きだけど嫌われたくはない。そんな彼女の日課は、王太子殿下を見つめること。
いつも王太子殿下の行く先々に出没して王太子殿下を見つめていたが、ついにそんな生活が終わるときが来る。
聖女が現れたのだ。そして、さらにショックなことに、自分が乙女ゲームの世界に転生していてそこで悪役令嬢だったことを思い出す。
王太子殿下に嫌われたくはないキャロラインは、王太子殿下の前から姿を消すことにした。そんなお話です。
ちょっと切ないお話です。
幼妻は、白い結婚を解消して国王陛下に溺愛される。
秋月乃衣
恋愛
旧題:幼妻の白い結婚
13歳のエリーゼは、侯爵家嫡男のアランの元へ嫁ぐが、幼いエリーゼに夫は見向きもせずに初夜すら愛人と過ごす。
歩み寄りは一切なく月日が流れ、夫婦仲は冷え切ったまま、相変わらず夫は愛人に夢中だった。
そしてエリーゼは大人へと成長していく。
※近いうちに婚約期間の様子や、結婚後の事も書く予定です。
小説家になろう様にも掲載しています。
命を狙われたお飾り妃の最後の願い
幌あきら
恋愛
【異世界恋愛・ざまぁ系・ハピエン】
重要な式典の真っ最中、いきなりシャンデリアが落ちた――。狙われたのは王妃イベリナ。
イベリナ妃の命を狙ったのは、国王の愛人ジャスミンだった。
短め連載・完結まで予約済みです。設定ゆるいです。
『ベビ待ち』の女性の心情がでてきます。『逆マタハラ』などの表現もあります。苦手な方はお控えください、すみません。
勇者パーティーのハーレム要員ハーフエルフに転生したんだけど、もう辞めさせてくれないか
みねバイヤーン
恋愛
勇者パーティーの接待ハーレム要員として転生した、ハーフエルフのエリカ。陰キャの日本男子を勇者として持ち上げて、だまくらかすのはイヤになった。そんなとき、また陰キャの日本男子が勇者召喚されたのだが──。
(異世界ハーレム好きな方は読まない方がいいです)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる