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③フローレンス・ブラーフ
6.三か月目(後半)<完結>
しおりを挟む最近、フローレンスは憂鬱だ。仕事に向かう足取りが重い。
「はあ、またか……」
カギをかけていたはずの机の引き出しが、開いている。ビクビクしながら中をのぞくと、大事なガラスペンが粉々になっている。
フローレンスは思わず顔を手で覆った。すぐ、何事もなかったように顔を上げると、遠巻きに見ていたアラベラとクロエと目が合った。痛ましそうな表情を見せるふたり。
でも、誰も何も言わない。フローレンスは数少ない仕事を丁寧にこなした。仕事はすぐに終わってしまう。何もすることがなくて、字の練習をする。虚しい。
フローレンスは今、絶賛干されているのだ。
ジュード部長の目に留まってしまったからだ。彼は、フローレンスをイジメることに、全集中をしているらしい。部長は表立って何かしてくることはない。ただ、じっとフローレンスを観察している。
誰かがフローレンスと会話をしていると、その相手を呼び出してやんわりと嫌味を言う。皆、すまなそうな顔をしながらも、フローレンスとは話さなくなった。
エマ主任からは、一度だけ走り書きをもらった。
『もう少しだけ耐えて』
その紙をフローレンスは注意深く細切れにし、家に持ち帰ってから捨てた。フローレンスには全く理解ができない。部長ともあろう者が、なぜ。
最初はまさかと思った。万年筆がなくなったのだ。次に、フローレンスに回される仕事が徐々に少なくなった。わずかな仕事も、何度も何度も部長から修正指示が入る。結果、締め切りギリギリに提出するハメになった。
仕事のできない新人、そんなウワサを流された。内情を知っている祐筆部の女性たちからは、同情の目で見られている。でも、他部署の人はそうではない。廊下ですれ違ったとき、今までなら少し会話したような人たちが、スーッとフローレンスを避けるようになった。
フローレンスの物がなくったり、壊されたり。インク瓶に妙な混ぜ物をされたこともあった。フローレンスの提出した書類に、不要な文言を入れられたりもした。これでは、仕事にならない。
もう辞めてしまいたい、毎日そう思うが、歯を食いしばって出勤する。どうせ辞めるなら、最後に部長を殴ってからだ。そう思って耐えた。
何度かジョシュアに会いに行ったが、文房具屋は閉まっている。
『ありったけの万年筆を仕入れに行くことになった。しばらく留守にする』
短い手紙がジョシュアから届いた。フローレンスは毎日毎日、その手紙を眺める。
ヘレナ女史からは、しばらく来なくてよい、と伝言をもらった。
「もう、終わりにしよう」
ある朝、フローレンスは決意した。今日、部長を殴って、辞職する。人を殴ったことはないけれど、やってやる。毎晩、枕を殴って練習してきた。私の拳を炸裂させてやる。
鼻息荒く部署に入ると、既に全員が揃っていた。
「フローレンス、今までごめんなさいね」
エマ主任が駆け寄り、フローレンスの手を握る。アラベラやクロエ、他の女性たちもクロエを取り囲んだ。
「今朝、ジュード部長が窃盗の疑いで捕まりました。ヘレナ女史が祐筆部に貸してくださった、特注の万年筆を盗み、質屋に売ったのです」
「セコイ男」
アラベラが吐き捨てる。
「あなたには事情を話せなかった。囮にしてしまって、ごめんなさい」
エマ主任が何度も謝る。フローレンスには訳が分からない。皆が順番に説明してくれる。
「いつもね、仕事のできる真面目な新人が標的になるの」
「私たちも最初は気づかなかった。どうしてか、期待の新人が次々と心を病んで辞めていったわ」
「部長って、人当たりいいじゃない。みんな、まさかと思ってたのよ」
エマ主任が長いため息を吐いた。
「辞めた人に会いに行ってね、少しずつ話を聞いたの。私も初めは信じられなかった。でも、アラベラと相談して、次の新人は守ろうって決めたのよ。それがあなただったの。きっと次はあなたが狙われると思って」
フローレンスはうつむいた。
「派閥争いをしてる風を装って、あなたを目立たせないようにしたのよ。部長は、仕事のできる新人をイビルのが好きみたいだったから」
「私が印刷のことを言い出したからですよね」
フローレンスはポツリとこぼす。
「そうなの、あれで、あなたを獲物に定めたのだと思う。ずっとイジメの証拠を得ようとしてたの。それであなたに辛い思いをさせた。ごめんなさい」
エマ主任がまた謝る。
「いえ、いいんです。だって、私ひとりが言ったところで、誰も信じないでしょうし」
「ごめんね。話しかけると余計にひどいことになるから、孤立させてしまった」
アラベラが今にも泣きそうな顔で言った。フローレンスはとっさに首を横に振る。
「いえ、皆さんの気持ちには気づいていました。でも、よかった。実は、今日辞めるつもりだったんです。最後に一発殴ろうと思って」
フローレンスが拳を握ると、皆が辛そうに顔をしかめる。
「無理しなくていいの。間に合ってよかった」
アラベラがフローレンスの肩を叩いた。エマ主任がフローレンスの背中をそっと押す。
「今日はもう仕事はいいから。ヘレナ様のところに行ってから帰りなさい。明日からまたしっかり働いてもらうわ」
「はい」
フローレンスはゆっくりと部屋を出て、ヘレナ女史のところに向かう。部屋にはヘレナ女史と、ジョシュアがいた。
「フローレンス、大丈夫だった? 俺も今、事情を聞いたところ」
ジョシュアは一瞬、フローレンスを抱きしめてから、顔をのぞきこむ。フローレンスは思わず、涙をこぼしてしまう。ジョシュアはフローレンスをまた抱きしめた。
「ジュードから守れなくて悪かったわ。なかなか証拠がつかめなくてね。これからの祐筆部は、エマ主任が部長に、アラベラが主任に昇格です。ふたりのこと、しっかり支えてあげて」
「はい」
フローレンスは涙をごしごし手で拭いて、震える声で返事をした。ジョシュアがそっとハンカチを渡してくれる。
「あなたのおかげで、次の犠牲者を出さないで済みました。ありがとう。それに、招待状の印刷の件も見事でした。お詫びとお礼よ、何かお願いごとをしてみなさい。棒は使わなくていいわ」
フローレンスは一瞬言葉に詰まった。
「ヘレナ様の清書のお仕事、続けさせてください」
「もちろんよ。それはお願いごとにならないわ。他には?」
フローレンスはグルグル考える。
「母の病気を治せる医者をご紹介いただけないでしょうか」
「分かりました。後ほど、紹介状を渡すわ」
「ありがとうございます!」
フローレンスはもう何も出てこない。ヘレナ女史は苦笑した。
「無欲だこと。では、こうしましょう。あなたたちふたりの結婚、私が後ろ盾になるわ。子どもが産まれたら、名付け親になりましょう。もし、望むならば、だけど」
「ぜひお願いします」
ジョシュアが即座に答えて、フローレンスは呆気に取られる。
「ジョシュア・レヴィット、あなたの文房具屋を、王家御用達にします」
「ありがとうございます」
今度はフローレンスがお礼を言った。
「他に困ったことがあったら、また言いなさい。結婚式の招待状は忘れずに持ってくるのよ」
「はい、ありがとうございます」
フローレンスとジョシュアは、何度もお礼を言って、部屋を出た。
ジョシュアはフローレンスの手を取って走り出す。フローレンスはぜいぜい言いながら、必死で走った。王宮を出ると、ジョシュアがひざまづいた。
「順番が逆になったけど。フローレンス、好きです。結婚してくれる?」
ジョシュアはポケットから指輪を取り出した。
「俺、フローレンスの字に一目惚れしたんだ。誠実で、媚びなくて、まっすぐな字。それに、オドオドしてるのに、実は意思が強いところもいい。嘘のつけない、大きな目も素敵だ」
フローレンスは口を開けて、固まった。ジョシュアの指輪を持つ手が震えている。フローレンスは指輪を受け取り、指にはめた。
「はい、よろしくお願いします」
ジョシュアは飛び上がると、フローレンスを抱きしめる。
「さあ、フローレンスの家族に結婚のこと報告に行こう。そのあと、俺の家族だ」
ふたりは手をつないで、歩き出した。フローレンスはふと立ち止まる。
「結婚式の招待状、私が書くね」
「俺も書く。フローレンスほど字はキレイじゃないけど」
「大丈夫、心をこめればきっと伝わる」
ふたりはどんな招待状にするか、話し合いながらゆっくり歩いた。フローレンスは胸が高まった。こんなに心躍る手紙、他にはない。
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