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③フローレンス・ブラーフ

5.三か月目(前半)

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 招待状の嵐が祐筆部を襲った。いつも柔和な笑顔を浮かべるジュード部長が、珍しく剣呑な顔をしている。

「来月、王家主催の夜会が開催される。アレックス第三王子殿下の帰国祝賀会です」

 皆の顔がこわばった。痛いほどの沈黙が部屋を包み込む。

「少なくとも、二千枚の招待状を今週中に出さなければならない」

 無理でしょう。誰も口には出さないが、思いはひとつだ。

「急ぎではない仕事は全て後回しにするように。失敗も遅れも許されません」
「あ、あのっ」

 思わず声を上げてしまい、フローレンスは手を口でふさぐ。ジュード部長が無表情にフローレンスを見た。

「なんですか、フローレンス」

 フローレンスは震える手でスカートを握りしめ、意を決して口を開く。

「最低限の文言以外は、印刷に回しませんか」

 ヒュッ 誰かが息を呑む。ジュード部長の目が氷のように冷たくなった。フローレンスの背中を冷や汗が伝う。

「格式高い王家の夜会。その招待状を、伝統ある祐筆部が印刷で対応すると? まさか本気で思っているのか、フローレンス・ブラーフ」

 部屋の温度が一気に下がったように感じる。フローレンスは、息を深く吸った。

「間に合わない方が、祐筆部の伝統を汚すと思います。封筒の宛名や、招待状の主題である第三王子殿下の帰国祝賀会などの文言は、手書きがいいと思います。ですが、日時など、定型文は印刷に回してもいいのではないでしょうか」


 ジュード部長がツカツカとフローレンスのところへ歩いてくる。殴られる、咄嗟にフローレンスは目をつぶった。

「ジュード部長、申し訳ございません。私の教育が至りませんでした」

 静かな声が聞こえて、フローレンスは恐る恐る目を開けた。フローレンスをかばうように、エマ主任が前に立っている。

「ジュード部長、この子、まだ新人なのです。祐筆部のしきたりを理解できていないんですわ」

 アラベラが高飛車な口調で言った。小バカにしたような表情で、フローレンスを見下げる。

「でも、一理あるかもしれませんわ。本来なら王家主催の夜会は、前年に決められているもの。それをねじまげたのは……。ですので、祐筆部としても、できること、できないことは分ければよろしいのでは?」

 アラベラの言葉に、ジュード部長が腕をおろした。

「ジュード部長、ぜひ印刷で対応させてください。失敗したり、王家からお怒りを受けた場合は、私が責任を取ります」

 エマ主任が頭を下げる。ジュード部長は静かに返した。

「では、この件はあなたに任せます、エマ主任」

 ジュード部長はきびすを返して奥の部屋に入って行く。


「出過ぎた真似をいたしました。申し訳ございません」

 フローレンスは涙目になりながらお詫びをする。エマ主任は首を横に振った。

「いえ、この場合はあなたの判断が正しいわ。手書きで一週間、不可能です。さあ、一刻も無駄にできません。印刷会社に当たってください。アラベラさん、あなたは手書き文言の見本を仕上げて。さあ、やるわよ」

「はいっ」

 皆が一斉に動き出した。アラベラはポンっとフローレンスの背中を叩く。

「よくやったわ。でも、ヒヤヒヤさせないでよね」

 小声で言うと席につき、下書きをサラサラと仕上げる。アラベラは下書きをフローレンスに渡すと、スクっと立ち上がった。

「あとは任せたわ。私、備品部に行って、根回ししてくる。印刷するにも、最高級の用紙を持ち込まないと」

 早足で出て行くアラベラを見送ると、フローレンスは自分の席に座った。定型文言を漏れなく書かなければならない。フローレンスは万年筆を手に取った。

「私はどこに送るのか、宛先一覧はあるのかを確認してきます。前回の夜会と同じにしてもらえるか、お願いしてくるわ。時間がないもの。とりあえず、絶対送るであろう高位貴族の当主の宛名書きを始めてちょうだい」

 エマ主任は、部屋の奥の黒板に主要貴族の名前を書いて行く。クロエが倉庫から王家専用の封筒を持ってきた。エマ主任が出て行くと、皆で手分けして宛名を書く。

 カリカリと筆を走らせる音だけが響く。


 崖っぷちの小さな道を、目隠しで歩いているような日々が続いた。エマ主任の根回しで、王家からは印刷で問題なしとの言質を取れた。

 複数の印刷会社に持ち込み、できた分から王宮に持ち帰り、仕上げて封筒に入れる。途中でエマ主任が大量の万年筆を持ってきた。

「さるお方からの差し入れです。インクをつける時間が減る分、効率的なはずです。何枚か試し書きをして、クセをつかんでから本番に入ってください」

 万年筆、きっとヘレナ女史からの差し入れだ。ジョシュアが手配してくれたんだわ。フローレンスは根拠はないが、確信した。今はとてもじゃないが、ジョシュアに会いに行く時間はない。招待状を全て出し終わったら、会いに行こう。

 ジュード部長は個室にこもったっきり出てこない。誰も気にすることなく、ひたすら書いて、走って、紙を折った。夢中で働いた。


 無事、最後のひと山を郵便部に出し終わったとき、誰からともなく歓声が起こった。

「やったわ」
「信じられない、終わった」
「もう手が痛くて……」
「私もよ、寝る時は冷やしてる」
「もうしばらく、文字は見たくない」
「あのお方のお名前も」

 誰かが不敬この上ない発言をし、忍び笑いが起こる。

「フローレンス、ありがとうね」

 エマ主任が小さく言った。フローレンスは思わず笑顔になり、次の瞬間、凍りついた。

 奥の部屋からのぞいている、ジュード部長と目が合ったのだ。昔、納屋の奥で蛇を見つけたときに感じた、ヒヤリとした感覚。フローレンスは思わず腕をさすった。

 皆に褒められながらも、フローレンスの寒気はおさまらなかった。

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